5-4 「誤解120%」
朝の清々しい空気が、ルミーナ王国の城下町を包み込んでいた。
石畳の道には既に人々が行き交い始め、パンを焼く香ばしい匂いや、市場へ向かう荷馬車の音が活気を添えている。
港町行きの乗り合い馬車が出る広場には、朝露に濡れた草の匂いが微かに漂っていた。
「いやぁ、王城の客室ってのは、さすがに寝心地が違うね!昨夜は久しぶりにぐっすり眠れたよ」
クラリスが陽光を浴びる猫のように優雅に伸びをすると、しなやかな体からは、旅の疲れがすっかり抜け落ちたような軽やかさが感じられた。彼の表情は晴れやかで、朝の光を受けて金の髪がきらめいている。
「俺ぁ、逆になんかだだっ広すぎて、落ち着かなかったけどな!やっぱ、狭くても仲間と一緒の部屋の方が性に合ってるぜ」
対照的にナックは大きなあくびを一つして、まだ少し眠たげな目を無造作に擦った。
彼の屈強な体躯には、王城の豪奢な客室も持て余し気味だったのかもしれない。
「嘘つけ、ナック。お前の轟々たるいびきが、隣の俺の部屋までしっかり響いてたぞ。おかげでこっちは寝不足だ」
王城の一室で夜を明かしたジークが、面白がるように片眉を上げて、ナックの巨体を軽く小突く。声にはいつものように揶揄の色が濃い。
「へ!?マジかよ、ジーク!俺っていびきかくタイプだったのか……全然知らなかった……」
まさかの指摘に、ナックは一瞬鳩が豆鉄砲でも食らったかのような間の抜けた顔になり、大きな肩をがっくりしょんぼりと落とした。自分の知られざる一面に、少なからずショックを受けたようだ。
「ふふ、ナックのいびきは、大地の奥底から響いてくるような、とても壮大でダイナミックなものだったよ。ある意味、聞く者を圧倒する芸術と言えるかもしれないね」
クラリスが慰めているのかさらに追い打ちをかけているのか判然としない、どこか詩的な言葉をかける。
しかし、言葉の持つ不思議な響きに、ナックの単純な思考回路は、あっという間にポジティブな方向へとフル回転を始めた。
「なんだそれ!つまり、俺のいびきは強くてカッコイイってことだな!それならよかったぜ、ガハハハハ!」
次の瞬間には、ナックはもう腹の底から豪快に笑い飛ばしていた。なんとまぁ、単純明快なことか。クラリスのフォローとも言えない絶妙なフォローで、彼の心はすっかり晴れやかな青空模様へと塗り替えられたのだった。
変わり身の早さに、ジークはやれやれといった表情で肩をすくめるしかない。
そこへ、城下町の屋敷街の方から、少しばかり不機嫌そうなオーラを纏ったクロエと、後ろをいつも通りの涼やかな顔でついてくるナナミが姿を現した。
「物置同然の部屋だったけれど、存外楽しかったわ。足の踏み場もないほど物が散らかっている部屋で眠るのなんて、初めての経験だったもの」
ナナミはいつも通りの涼やかな、瞳の奥には微かな満足感を滲ませてそう言った。
彼女にとっては整然としすぎた王城の客室よりも、クロエの生活感溢れる(というよりは散らかった)部屋の方がよほど新鮮な刺激となったらしい。
隣では、
「ちょっとあんたねぇ!人の部屋に転がり込んできた上に、それを物置扱いってどういう了見よ!おかげでこっちは一睡もできなかったんだから!」
クロエが目の下にうっすらと隈を作りながら、ナナミに鋭いツッコミを入れる。
どうやらナナミの「楽しかった」部屋での一夜は、クロエにとっては悪夢のようなものだったようだ。
「しかし、いつもは同じ馬車で揺られ、同じ野営地で眠るのが常だったからな。こうしてそれぞれ別の場所で夜を明かして、朝に集合するなんてのはなんだか不思議な気分だな。まあ、たまには悪くないか」
ジークが頭の後ろで両手を組みながら、しみじみと新鮮な気分を味わっているかのように呟く。
確かに旅の仲間たちがそれぞれの時間を過ごした後で、こうして再び顔を合わせるという光景は、どこか長閑で、この城下町の穏やかな朝の空気を一層心地よいものにしていた。
「そういやあいつら、ちと遅くねぇか?」
ふと、ナックがポツリとそんなことを言い出した。馬車の出発時刻も近づいているが、まだ姿が見えない者たちがいる。
「昨日の夜は何時まであのお魚亭にいたんだろうね?まさか、本当に朝まで飲み明かしてしまったとか……」
クラリスが少し心配そうに、首を傾げる。
昨夜、ロイとシルリア、ロイの肩にいつもいるはずのピィは、あれからどうなったのか、誰も知らない。
ゴクリ、と誰かが息を呑む音がやけに大きく広場に響いた。
ナックとジーク、クラリスまでも、脳裏には何やら良からぬ、期待に満ちた想像が渦巻いているようだ。
下世話な好奇心と、ほんの少しの羨望が、ないまぜになっている。
「すまん!待たせたな、お前ら!」
少しばかり掠れた、聞き覚えのある声と共に、噂の主たちがようやく広場に姿を現した。
ロイと、肩にちょこんと乗るピィ、隣にはなぜか顔に白い布をぐるぐると何重にも巻き付け、怪我人かツクヨの国の国の忍者のような出で立ちの、おそらくはシルリアと思われる人物。
異様な出で立ちは、どう考えても「昨夜、何か大変なことがあった」ことを雄弁に物語っていた。
だが、不思議なことにいかがわしい気配は全くと言っていいほど感じられない。
むしろ、どこかの人里離れた秘境の奥深くで、三千年くらい厳しい血の滲むような修行を積んで、ようやく下山してきたかのような、ある種の悟りを開いたような……いや、もう少し正確に言うならば、彼女の纏う画風そのものが、一夜にして少しだけ変わってしまったかのような、異様で、神々しい雰囲気すら醸し出していた。
「な、ななな、何があったのよ、シルリア!?っていうか、その頭!一体全体、どうしちゃったわけ!?」
クロエが顔をひくひくと引き攣らせながら、持ち前の気の強さを発揮して鋭く問いかける。
普段の彼女からは考えられないほど、声がわなわなと震えていた。
「……拙者はシルリアなどという名の者ではござらぬ。我が名は、シルマル。以後、お見知りおきを」
顔を覆う布の奥から、くぐもったわざとらしく低く作られたような、時代劇がかった声が響く。
本人はいつもとは全く違う、わざと古風な口調を使ったりして、必死に正体を誤魔化そうとしているつもりのようだが、涙ぐましい努力は、悲しいほどに空回りしており、全く、微塵も誤魔化しきれていない。
(いや、どう見たって、お前はシルリアだろ……ってか、シルマルって誰だよ……)
全員の心の中で寸分違わぬ完璧なタイミングで、一斉にツッコミを入れた。
「えーっと、まあ、なんだ。色々あってな……。結局、あの後俺んちで……な!まあ、寝ちゃってさ……」
観念したようにロイが事の顛末の一部を、ひどく歯切れ悪く顔を赤らめながら告げた瞬間。
「「「きゃーーーーーーーーっ!!!!やっぱりぃぃぃ!!」」」
黄色くて野太い悲鳴が、城下町の広場に木霊した。
ただし、歓喜の悲鳴をあげたのは、ナナミやクロエといった女性陣ではなく、何をどう勘違いしたのか、ナックやジークといった、普段は屈強な男性陣の方であった。
彼らは口々に「マジかよ!」「やるじゃねえか勇者!」「くそー!男として先を越された気分だぜ!」「いや、相手はシルリアだぞ!?」などと、意味不明な言葉を叫びながら、自分のことのように囃し立てる。
女性陣はといえば、ただただ冷めきった道端の石ころでも見るかのような目で、狂喜乱舞する男たちと、顔を真っ赤にして気まずそうにしているロイ、顔を布で覆ったまま、ぴくりとも微動だにしないシルマル(仮)の姿を、静かに見つめるだけであった。
「ふ、不潔よーっ!勇者様ったら、大胆なんだからー!シルリアも隅に置けないわねー!」
ナックがふざけてか、あるいは本気で羨ましいのか、巨体をくねくねとさせながら、面白おかしくゴシップを囃し立てる。
ジークもまたニヤニヤとその口元を歪め、何やら楽しそうにしている。
「んなわけねーだろ!何言ってんだお前ら!ただ泊めただけだって!」
ロイが顔をトマトのように真っ赤にして、必死に大声で否定する。
「……すべては、拙者の不徳の致すところである。ロイ殿には一点の曇りも、何の咎もござらぬ故、ご安心めされよ」
シルマル(仮)もまた、布の奥から、か細く、やはり時代劇がかった声できっぱりと弁明した。
「まあ、事情は大体分かったわよ。確かに、あんたのお父上にこんなこと知られたら、磔じゃ済まなさそうね。……十中八九、ロイが」
察しのいいクロエが、ふむ、と納得したように美しい顎にそっと手を添えた。
彼女の頭の中ではすでにシルリアの父親である、あの厳格極まりない騎士団長の、怒り狂う鬼のような形相が鮮明に再生されているのだろう。
とばっちりで、間違いなく悲惨な目に遭うであろう哀れなロイの姿も。
一連の出来事と昨夜のシルリアの壮絶な泥酔ぶり、そしてロイがやむを得ず彼女を自分の家に泊めたという経緯を、ロイが冷や汗をかきながら説明し、ようやくあらぬ誤解は解け、一行はすっかりいつもの調子を取り戻した。
シルリアも内心では(いつまでこの格好を続けねばならんのだ…)と後悔しつつも、父の目や街の噂を気にして、まだ顔の布を取る勇気は出ず、気まずそうに頬のあたりをポリポリと掻いている。
「まぁ、おおよそ、そんなこったろうとは思ってたけどな。シルリアに限って、そんなことはねえだろうってよ。からかいすぎたのは悪かったな、ロイ」
ナックが大きなあくびを一つしながら、先程までの大騒ぎはただ単にふざけていただけだったことを、少しも悪びれずに白状する。
「ったく、最初から揶揄うんじゃねーよ、お前ら……。朝からどっと疲れたぜ……」
ロイが心の底から疲れたように、がっくりと肩を落とす。
本当に朝からとんでもない騒動に巻き込まれてしまったものだ。
どこか騒がしくもいつもの彼ららしい和やかなやり取りの中、ナナミはふと、ロイの灰色の瞳を、誰にも気づかれないようにじっと、何かを探るように深く見つめた。
鋭い視線に気づいたロイが、何か言いたげに彼女の方を振り返ると、ナナミは何も見ていなかったかのようにふいっと顔をそむけ、広場の向こう、これから向かう港町の方角の空に、美しいライラック色の瞳を向けた。
(え、な、なに、今の……?俺、何か変なこと言ったか……?)
意図の読めない意味深な行動に、ロイは完全にドギマギしてしまう。
も、もしかして、昨日のシルリアとの一件で、嫉妬とか、そういうことなのか……?
普段の彼女からは到底ありえないはずの考えが、一瞬だけ彼の頭をよぎり、なんの気なしに恐る恐るナナミの様子を探ってみようとしても、彼女はいつものように、感情の起伏を一切見せない、涼やかな、磨かれた氷のような、完璧な無表情を保っているだけだった。
(……だめだ、やっぱり全然わからん……。ナナミの考えてることだけは、本当に、全く、これっぽっちもわからん……)
掴みどころのない、春先の気まぐれな霧のようなナナミの不可解な態度に、ロイはすっかり調子を狂わされてしまうのだった。
***
一行は、クロエがもたらした情報を元に、一路、問題の港町を目指した。
王都の城下町から乗り合いの馬車に揺られること数時間、とっくにお昼の時間は過ぎ、太陽がゆっくりと西の空へと傾き始め、そろそろ夕暮れ時に差し掛かろうかという、そんな時刻になってようやく目的地である活気ある港町へと到着した。
シルリアは結局馬車の中でも顔の布を外せず、他の乗客から奇異の目で見られ続けたが、本人は「これも修行でござる」と、意味不明な供述を繰り返していた。
馬車を降りると、むわりと濃厚な潮の香りが鼻腔をくすぐり、どこか遠くでカモメの甲高い鳴き声が、物悲しくもどこか陽気に響いている。
内洋で漁を終えた漁船が次々と港に戻ってくる、水揚げされたばかりの魚を威勢よく競りにかける商人たちの呼び声が、活気ある町の喧騒と心地よく混ざり合い、港町全体がまるで巨大な生き物のように、生き生きとしたエネルギーに満ち溢れていた。
太陽の光を反射してきらめく石畳の道には、様々な国から来たのであろう、人種の違う多くの人々が皆一様に忙しそうに行き交い、道の両脇にずらりと並ぶ露店にはピチピチと勢いよく跳ねる新鮮な魚介類や、南国特有の色とりどりの鮮やかな果物、どこの国から運ばれてきたのかも分からないような珍しい異国の品々が所狭しと並べられ、見ているだけでも心が躍るようだった。
「うーん、別にここに着いた時から思ったけど、特にこれといった異変はなさそうなんだよなぁ……。本当にこの町で何か良くないことが起きてるのか?クロエの情報、確かだったのか?」
ロイが腕を組み、活気に満ちた周囲の様子を注意深く見渡しながら、少し訝しげに呟く。
魔王の魂がこの地の何かに根付いているかもしれないというクロエの情報とは裏腹に、町はどこまでも平和で、人々の顔にも不安の色は見られない。
むしろ皆どこか楽しげですらある。
「海流の様子が、私たちが到着した北側の港と、町の向こうに見える南側の海とでは、全く違うのかもしれないわね。見て、あちらの波の色」
ナナミが、ふと、細く白い指を町の向こう側へと差し示した。
ロイたちが到着したのは、比較的内湾に近く、波も穏やかな北側の港。
彼女が指差すその先には、この港町を大きな岬で挟んだ、直接外洋に面している南側の海が見えた。確かにそちらの海は、どことなく波の色が黒ずんでおり、不気味なほどに荒々しく不穏な気配を濃厚に漂わせているようにも見える。
その時だった。
ザバッという、大きな水音がすぐ近くで響き、一行の目の前の海から一人の人物が、水面を滑る人魚のように軽やかに上がってきた。
頭にはぴったりとした水中ゴーグルとシュノーケルをつけ、引き締まった体に吸い付くようにフィットした、動きやすそうな黒い海女姿の女性だ。濡れて重くなった長い長い鮮やかな赤毛を、うなじのあたりで無造作に一つにきつく結び、片手には鋭く尖った三又のモリを、もう一方の傍らには、何やら蠢くものがたくさん入った目の細かい丈夫そうな網を抱えている。
女性は陸に上がると、慣れた手つきで頭のゴーグルを外し、ふと、こちらを興味深そうに見ているロイたち一行の存在に気付くと、太陽のように屈託のない人懐っこい笑顔を浮かべて、ずんずんと近づいてきた。
あまりにも眩しい笑顔と、どこか野性的で不思議な魅力を放つ姿を見た瞬間、シルリアが、先程までの「シルマル」としての奇妙な口調も、顔に布をぐるぐる巻きにしていたという事実さえも完全に忘れ、素の、心の底からの驚きと、隠しきれない懐かしさが入り混じった声で、ぽろりと、その名を口から漏らしてしまう。
「アリア様……!」
「やっぱりシルだ!久しぶりね!こんなところで何しているの?ところで、その妙ちきりんな格好はなに?都で流行ってるの?」
太陽のように明るく、どこまでも快活な弾けるような声で、その女性ーーアリアは、あっという間にシルリアに駆け寄ってきた。
大きなどこまでも澄んだ海の青さを映したかのような瞳は、隠しようもない親愛の情に満ち、再会を喜ぶようにキラキラと輝いている。
「え?シルリア?お前の知り合いなのか?あれ、アリア様って……」
ロイが何が何だか状況が飲み込めず、訝しげに問いかける。
アリアは一つにきつく結んでいた濡れた髪を無造作に慣れた、様になる手つきで解くと、夕陽に照らされてキラキラと黄金色に輝く、豊かな赤毛がまるで燃える炎のカーテンのように、彼女の肩へと豊かに艶やかに流れ落ちた。
息をのむほどに美しく、生命力に満ち溢れた瞬間に、シルリアはどこか誇らしげに、少し照れくさそうに皆に告げた。
「ああ、紹介するよ、みんな。こちらがアリア様。ルミーナ王国が誇る、正真正銘のアストリアで一番働き者の巫女様だよ」
「えええええええっ!?」
シルリアの言葉に、ロイをはじめ、ナック、ジーク、クラリスまでもが、信じられないといった表情で目を丸くした。
彼女が神聖なるルミーナ王国の巫女でありながら、こうして自ら海に潜り、モリを片手に獲物を追い、普通の海女としても額に汗して働いている、アリアその人だったのだ。
太陽のように明るく溌剌とし、どこまでも庶民的で親しみやすい、彼らがこれまで漠然と抱いていた「巫女」というどこか厳かで近寄りがたい、神聖不可侵な高貴なイメージとは、あまりにもかけ離れており、ただただ驚くばかりだった。
「おじちゃーん!今日の分市場に持ってっちゃってー!新鮮なうちが一番美味しいんだから!」
アリアはすぐ近くで古びた網の手入れをしていた、顔なじみらしい日焼けした恰幅の良い漁師に、大きな声でそう呼びかけ、先程まで持っていた網いっぱいの、まだピチピチと跳ねている獲物を、気前よくぽいと手渡す。
「あいよーぅ、アリアちゃん、いつもサンキューな!本当に助かるぜぇ!お陰で今日も大漁だ!」
漁師は人の良さそうな、しわくちゃの笑顔で気さくに答え、アリアからずっしりと重い獲物を受け取った。
巫女の仕事といえば、普通は神殿の奥深くで静かに祈りを捧げ、神託を民に伝え、その聖なる力で国を守ること。
神に選ばれし尊き存在は、ただそこにいるだけで皆から深く慕われ、そして敬われるに値する。
しかし目の前にいる彼女は、本当にごく普通の、この港町で生まれ育った庶民の娘と何ら変わらぬように、額に汗して日々の労働にいそしんでいた。
(てっきり庶民の暮らしに憧れている、ちょっと世間知らずな、どこかの箱入りのお嬢様みたいな、高飛車な人なのではと……勝手に失礼な想像をしてたぜ……。とんでもない思い違いだったな……)
ロイは内心でそんな失礼極まりない第一印象を抱いていた自分自身を、深く心から恥じた。
目の前のアリアの太陽のような笑顔と、力強い立ち居振る舞いには、そんな気取ったところや、選民意識など微塵も感じられなかったからだ。
「ごめんねー!今、ちょうど潮の流れがいい感じで、大物がうじゃうじゃしてるからさ、もう少しだけ潜って今夜のおかず分獲っちゃいたいの!だから悪いけど、ちょっとだけそこら辺で待っててくれる?すぐ戻るから!」
そう言うとアリアは再び水中ゴーグルをつけ、悪戯っぽく片目をパチリと瞑ってみせると、美しいイルカのように、軽やかにしなやかに海へと再び潜っていった。
海の女神が生まれ故郷の温かい抱擁へと帰っていくように、どこまでも自然で生命の根源的な喜びに満ち溢れていた。
「本当に……巫女様でありながら、庶民と全く同じような暮らしを……。ある意味、すごいわ……」
クロエが感嘆とも呆れともつかない、何とも複雑な声を漏らす。
神に選ばれし存在である彼女らは、一国の王族よりも権限があると言っても過言ではない。故にそれは到底信じられない、理解を超えた光景だったのだろう。
「王国側からは何度も『巫女としての立場をもう少し弁えるように』と、お諌めの言葉があったらしいんだけど……アリア様ご自身はこうして海と共に、港町の人々と共に生きることを、お辞めになるおつもりは全くないみたいで……」
未だ「シルマル」としての奇妙な変装を完全に解かないまま(というより、本人はすっかりその格好をしていること自体を完全に忘れてしまっているようだが)、シルリアがつい、いつもの友人としての口調に戻ってしまっていたことにハッと気がつき、慌てて「……と、いうことで、あるのでござる」などと、ひどく不自然に取ってつけたように、無理やり語尾を付け足したが、もはや誰もそれをまともに気にする者はいなかった。
アリアを待つ間、一行はさすがに手持ち無沙汰になり、ひとまず今日泊まることになりそうな、港を一望できる小高い丘の上に建つ、こぢんまりとしていて清潔そうな宿を手配した。
それでもまだ陽が完全に落ちるまでにはたっぷりと時間があったため、先程アリアが獲れたての魚介を威勢よく届けていた、活気に満ち溢れる賑やかな市場へと、改めて足を運んでみることにした。
鼻をくすぐる新鮮な魚介の香ばしい匂い、威勢のいい商人たちの呼び込みの声、そして様々な国から来たのであろう人々が織りなす雑多な賑わいが、どこか心地よい。
「あぁ、いたいた!みんなー!ごっめーん、お待たせー!」
市場の一角で山と積まれた色とりどりの南国の果物を興味深そうに品定めしていた時、聞き覚えのある明るくよく通る声がした。
振り返るとそこには、先程までの濡れた海女姿から一変、簡素な彼女の健康的な魅力を引き立てる白い木綿のワンピースにさらりと身を包んだアリアが、にこやかに立っていた。
シャワーでも浴びてきたのか、濡れていた美しい赤毛はすっかり乾き、傾きかけた夕陽の柔らかな光を受けて、まるで上質な絹糸のようにしっとりと、そして柔らかく輝いている。
その細い手には、人数分の焼きたてでたまらないほど香ばしい匂いを漂わせる串刺しの焼き貝が、ほかほかと湯気を立てながら握られていた。
「これ、さっき市場のおじちゃんが、今日の働きが良いからって、お駄賃代わりにくれたの!だから遠慮なく、あたしの奢りね!みんなで一緒に食べよ!」
にこりと一点の曇りもない、太陽のような屈託のない笑顔で、アリアは一行にその熱々の焼き貝を一本ずつ手渡す。
その飾り気のない潮風にほんのりと心地よく赤らんだ、健康的な頬。
素朴ながらもどこか目を惹きつけられる、生命力に満ちた愛らしいその姿に、正直なところロイを含めた男性陣は、思わずどきりと胸の奥が甘く、少し切なくときめいてしまったことを、決して否定できなかった。
たまらないほど香ばしい、醤油と磯の香りが混じった匂いに誘われ、一行は早速、熱々の焼き貝を夢中で頬張りながら、市場の隅にある、少し古びた大きな木のベンチに腰掛け、改めてアリアと情報交換をすることになった。
これまで自分たちが経験してきた、過酷で、時には理不尽ですらあった旅の道のり、魔王の魂がその国に根付くなにか大切なものに封印されてしまっているかもしれないこと。
封印が解けつつあるせいで、不気味で説明のつかない異変が起きているのではないかと言うことを、アリアに詳しくそして包み隠さず語って聞かせた。
アリアは澄んだ海の色の大きな瞳で一行の顔を一人一人真剣に見つめながら、彼らの言葉に熱心に耳を傾け、時折悲しそうに美しい眉をきゅっと寄せた。
「そうだったんだ……。話は他の国の巫女たちからも、本当に軽くではあるんだけど聞いてはいたんだけどね……。まさか、ナンバル=ムウでアウリナ様とルーに、悲しいことがあったなんて……。本当にお気の毒に……。お悔やみのお手紙を書かなくっちゃ……」
彼女の声には心からの深い同情と、拭いきれないほどの悲しみが痛々しいほどに滲んでいた。
飾り気のない純粋で温かい優しさに、一行は改めて彼女の飾らない人柄に触れたような気がした。
「そうなんです。だから魔王の魂が、ルミーナ王国……もしかしたらこの美しい豊かな海にある何かに宿っているかもしれない。その『何か』を、なんとかして探し出して破壊しなきゃならないんです。だからアリア様、どうかお願いです。何か心当たりはありませんか?巫女様に代々口伝えで受け継がれているような古い言い伝えとか、何か特別なこの国の民が命懸けで守らなければならないとされている聖なる品とか、そういうものはこのルミーナにはないですか?」
ロイが真摯な藁にもすがるような眼差しでアリアに問いかける。
一刻の猶予もないという、切実な響きが、痛いほどに込められていた。
アリアはうーん、と可愛らしく小首を傾げ、少しの間何かを一生懸命思い出そうとするかのような素振りを見せた後、ふと、悪戯っ子のような、どこか蠱惑的で魅力的なとびきりの微笑みを浮かべて言った。
「うーん、そうだなー……。その前に、一つだけお願いがあるんだけど、いいかな?まず堅苦しい敬語、禁止ね!巫女様ーとか、アリア様ーとかも、今日からぜーんぶ禁止!あたしのことは、気軽にアリアって呼んで!」
「へ?き、禁止って……でも……」
あまりにも突然の予想外すぎる提案に、ロイは間の抜けた素っ頓狂な声を出すしかなかった。
巫女様に対していきなり呼び捨てなど、恐れ多くてできるはずがない。
「だーって、ロイ君、どう見たってあたしとそんなに年、変わらないでしょ?あ、もちろんそこにいるみんなもね?だから、そんな他人行儀なのは今日でおしまい!ね、いいでしょ?」
アリアは少しも悪びれる様子もなく、にっこりと、まるで夏の太陽が花開くかのように、どこまでも明るく人懐っこく笑う。
あまりにもフランクで親しみやすい、壁を感じさせない態度に、一行はただただあっけにとられるばかりだった。
「あ、じゃあ……えーっと、その、遠慮なく……。アリア、何かそういう大事なものの心当たりとか、知らないか……な?」
ロイはまだ少し戸惑いを隠せないながらも、彼女のその裏表のない、太陽のような雰囲気に促されるように、思い切って、かなりぎこちない精一杯のタメ口で話しかけてみた。
その瞬間、
「あ!今の言い方、すっごくキュンときちゃった!いいよ、ロイ君、その調子!」
アリアがパァッと、満開のひまわりのように顔を輝かせ、心の底から嬉しそうに大きな声を上げた。
「きゅ、キュン?」
ロイはもはや奇声に近い、言葉にならないような声を上げ、顔をみるみるうちに茹でダコよりもさらに真っ赤にして完全に固まってしまった。
予想外すぎる反応に、彼のなけなしの純情な思考回路は完全にショート寸前だ。
心臓がまるで嵐の中の小舟のように、ドッドッドッと激しく、不規則に胸の内で鳴り響き、ただ口をパクパクとさせるばかりで何の言葉も出てこない。
ロイの激しい混乱ぶりと、生温かく見守る仲間たちの視線を、アリアはどこか楽しそうにキラキラとした、期待に満ちた悪戯っぽい瞳で見つめながら、さらにとんでもない破壊力を持つ爆弾発言を、こともなげに最高の笑顔で投下した。
「ねえ、ロイ君!あたしと二人きりでデートしない?」
オレンジ色から深い藍色へと、刻一刻とその美しいグラデーションを変えていく、壮大な夕陽が活気ある港町全体を、まるで燃えるような茜色に染め上げ、漁を終えた漁船が次々と港に戻ってくる音や、カモメたちのどこか物悲しい鳴き声が、港町特有の心地よい喧騒を織りなす中、アリアのストレートすぎる大胆不敵な言葉は、一行の間に何とも言えない奇妙な熱を帯びた、ほんの少しだけ危険な香りのする不思議な静寂をもたらしたのだった。




