5-3 「名前のない願い」
お魚亭の店内は使い込まれた木のテーブルや椅子が醸し出す温もりと、厨房から響く威勢の良い料理人たちの声、仕事終わりの一杯を楽しむ客たちの、どこまでも陽気な笑い声で満ち溢れていた。
次々と運ばれてくる新鮮な魚介を使った豪快な料理と、キンキンに冷えたエール。
シルリアは普段の彼女からはとても考えられないほどの早いペースで、その琥珀色の液体を、まるで水でも飲むかのように呷っていく。
キリリとした苦味と喉を焼くような炭酸の刺激が、不思議と今の彼女には心地よかった。
「だーかーらー!私はー!べっつに、男とか、お、女とか、そんなくだらないこと、どーでもよくて、ただ、一人の騎士として……み、認められたいだけなのよぉ……ひっく!」
呂律がかなり怪しくなってきたシルリアが、手に持った重いエールのジョッキをテーブルに叩きつけんばかりの勢いで、熱っぽく、だけれど少し悲しげに熱弁を振るっている。
白い頬はほんのりと可愛らしいさくら色に染まり、普段は鋭い光を宿す瞳は潤んで、いつもの凛とした姿からはおよそ想像もつかないほど無防備で、どこか幼く見えた。
「おい誰だ!シルリアにこんなに飲ませたやつは!って、もしかして俺か!?悪かったって!ナナミ!お前はエールなんかに興味を示すな!まだどう見ても未成年でしょうが!」
ロイは今にも泣き出しそうなシルリアの介抱と、隣で興味津々といった顔でエールのジョッキに手を伸ばそうとするナナミの監視で、完全にキャパオーバー、てんてこ舞いの状態だ。
大家族の少し頼りない父親を見ているようだった。
「私が生まれ育った国では数えで十六歳になれば、もう立派な大人として扱われ、結婚することも許されていたわ」
ナナミが不満げに唇を尖らせて目の前のエールのジョッキに、恋焦がれるかのような熱い視線を送っている。
「へぇ〜っ!そうなのか!……いやいや、結婚できる年齢と酒が飲める未成年かどうかは、全く別の問題だから!ほら、ナナミはこっちの新鮮なミルクでも飲んでなさい!」
ロイにまるで子供をあやすように差し出されたミルクのグラスを、ナナミは心底不満そうな、そしてどこか侮辱されたかのような目で見つめている。
「……ノルディアでは温めたエールを飲んでいたじゃない。」
「あれはほとんどアルコールなんてとんでる、薬用酒みたいなもんだから!だーからーダメなものはダメ!……って、こらぁ!シルリア!そっちのテーブルのいかついおじさんたちに絡みに行くんじゃない!」
いつの間にか席を立ち、隣のテーブルで屈強な漁師らしき男たちが酒盛りをしているところに、千鳥足で絡み始めているシルリアをロイが顔面蒼白になりながら慌てて引き戻す。
「はっはっは!いやー、大変だなー!リーダーってやつはまるで猛獣使いか何かみたいだな!」
ジークが腹を抱えて面白そうに囃し立てながら、自分のエールのジョッキを豪快に飲み干す。
「そうだそうだ!飲めー!もっと飲めー!ロイも細かいことは気にしないで、もっと飲めー!」
ナックが完全に悪乗りして、ロイの空になったジョッキになみなみと琥珀色のエールを注ごうとする。
「ピピィー!ピィ、ピィ!」
そんなカオスな状況をロイの肩の上でピィが、心底心配そうな呆れたような表情で小さな首を傾げ見守っていた。
テーブルの片隅では喧騒などまるで意に介さないかのように、吟遊詩人のクラリスが愛用の竪琴を優雅に爪弾きながら、甘く切ない恋の歌をその美しいテノールの声で口ずさんでいる。
美しい歌声と旋律だけがこのアルコールと熱気に満ちた喧騒の中で、唯一の清涼剤のようだった。
彼の周りにはいつの間にか歌声に聞き惚れたのであろう、若干名の人だかりも出来ていた。
城下に住まう乙女たちでさえも、うっとりとした顔で見つめている。
ロイはもはや食事を楽しむためにこの店に来たというよりは、なんだか手に負えない子供たちの育児体験をしているような、不思議な気持ちになっていた。
完全に灰になりかけている彼の目の前に、ドン、と大きな音を立てて、また新しいエールのジョッキが置かれた。
見ればシルリアがいつの間にか追加で注文していたらしい。
「ロイだって!本当は!心の隅の、隅の方では女なんてどうせ戦いの場では足手まといだって、役立たずだって、そう思ってるんでしょ?!本当はそう思ってるくせに!」
突然シルリアが潤んだ瞳で射るような強い視線でロイに詰め寄った。
ペリドットの瞳には寂しさと、誰にも本当の自分を理解されないという長年の孤独が痛々しいほどに滲んでいた。
「はぁ!?何言ってんだよ、シルリア!俺がいつそんなこと思ったって言うんだよ!?」
ロイは唐突な言葉に完全に不意を突かれた。
そんなこと微塵も思ったことなどない。
「だったら……だったら、最初から男だけの屈強なパーティーでも組めば良かったんだよ!私やナナミやクロエみたいな、か弱い女を仲間に引き入れたりしないで!」
勝手に話がとんでもない方向へと進んでいくことに、ロイは「待て待て待て!シルリア、落ち着けって!」と、両手を大きく広げて必死に制止する。
「シルリアはシルリアだろ!ナナミもナナミだし、クロエだってクロエだ!男とか女とかそんなくだらないこと、この旅に関係あるわけないだろうが!」
それはロイの偽らざる、心の底からの叫びだった。
真っ直ぐで何の計算もない言葉に、シルリアはハッとしたように目を見開き、動きを止めた。
彼女の潤んだ瞳が驚きと僅かな戸惑いの色を浮かべて小さく揺れる。
ロイは、はぁーっと、今日何度目か分からない盛大なため息をついて、わしわしと自分の髪を力任せに掻きむしった。
自分だってもうかなりアルコールが良い感じに回ってしまっている。
今、自分が何を言ってもきっと碌なことにはならないかもしれない。
けれどこれだけは、どうしても彼女に言わねばならないと思った。
女だ男だと言う前にこのパーティーの女性陣はそこらの並の男なんかよりも、自分なんかよりも、ずっとずっと強いのだ。
むしろ劣等感を感じているのは他の誰でもない、ロイ自身の方だったのだから。
「第一な!はっきり言ってこのパーティーの女達はそこらの男よりよっぽど逞しすぎるんだよ!ナナミなんてその気になれば俺らが束になったってきっと敵わないだろうし、クロエだって女の見た目した中身はゴリラかなんか屈強な魔獣に違いないんだぞ!」
勢いでそこまで言い切ったロイのすぐ背後に、いつの間にか桃色の美しい長い髪を完璧なバランスのツインテールにした、美の女神が地上に顕現したかのような、クロエが音もなく立っていた。
白く細い手にはまるで血のように真っ赤なリンゴが一つ握られている。
パキャン!
クロエは真っ赤なリンゴをこともなげに、確かな力で片手で簡単に握り潰した。
甘酸っぱい果汁がまるで血飛沫のように勢いよく飛び散り、彼女の雪のように白い指の間をぽたぽたと滴り落ちる。
ぎぎぎ……と、百年ぶりに油を差された錆びついたブリキの人形のように、ロイがゆっくりクロエの方へと首を動かす。
完璧に美しい顔にはまるで聖母のような慈愛に満ちた完璧な微笑みが浮かんでいたが、大きな宝石の瞳は全く微塵も笑っていなかった。
「……誰が?ゴリラですって……?ロイ?」
銀の鈴を軽やかに転がすように、どこまでも可憐で愛らしかったが、同時に絶対零度の氷のような冷たさを奥に秘めていた。
「ゴ、ゴリラのように……う、美しく、そして、お、恐るべきほどに、ち、力強いなぁ……なんて……ははは……」
ロイの声はもはや哀れなほどに裏返り、情けないほどにかすれていた。
彼の背中にはまるで滝のように冷たい、いや、熱いのかも分からない汗がだらだらと流れ落ちている。
「それって褒め言葉?あたしよく分からなくて」
クロエはわざとらしく小首を愛らしく傾げる。
仕草さえ寸分の狂いもなく計算され尽くしたように、完璧に愛らしい。
しかし今のロイにはそれはまるで死の天使が、処刑執行前に見せる最後の微笑みのようにしか見えなかった。
「は、はい!も、もちろんでございます!と、とてつもなく、最上級の、これ以上ないほどの褒め言葉でございますとも……!」
「そう。じゃあここのお会計、本日は全てロイの奢りということで、許してあげる。あたしの心が広くて良かったわね?」
クロエはにっこりと、悪魔的に愛らしい微笑みを浮かべ、有無を言わせぬ甘い威圧をかけてロイに強制的に頷かせた。
いつの間にかテーブルの上に山のように積み上げられていた、大量に買い込んだであろう高級そうな美容グッズの入った袋を満足げに眺め、さも当然といった顔で近くを通りかかったウェイトレスに、追加の高級エールを注文した。
「それより、ちょっと情報集めをしていたんだけど、どうやら港町が怪しいかもしれないわ」
一息つくと、クロエは打って変わって真剣な表情でそう切り出した。
彼女はただ単に買い物を楽しんでいたわけではなかったのだ。
先んじてこの国の不穏な動きについて、独自に情報を集めていたらしい。
クロエの話によると最近、ルミーナ近郊の主要な港町では原因不明の不漁が続き、海の潮の流れも、経験豊富な漁師たちですら首を傾げるほどおかしくなっているという。
さらにここ数ヶ月で、外洋に棲む魔獣の目撃情報も急増し、漁師たちが漁に出ることもままならず、困り果てているとのことだった。
「ルミーナは海洋貿易も盛んな国なんだろ?……参ったな。今回もまたとんでもなく嫌な予感がしするな……」
やけになったように、ジークがエールを一気に呷った。
その無骨な横顔には、これまでの数々の冒険で培われた経験からくる、確かな重苦しい不安の色が濃く浮かんでいた。
その頃にはシルリアはすっかり酔いが回りきってしまったのか、テーブルに突っ伏し、すーすーと静かな寝息を立てていた。
白い頬には疲れが見える。
よほど心の奥底に多くのものを溜め込んでいたのだろう。
「シルリアがこんなになるまで酔うなんて、本当に珍しいこともあるのね?あんたたちはまだ飲んでるの?」
ほんのり頬を染め、ほろ酔い加減のクロエが、少し心配そうにシルリアの穏やかな寝顔を見つめながら言った。
「僕はそろそろお城へ帰らせてもらおうかな?あのふかふかの、天国のようなベッドでゆっくりと寝てみたいしね〜」
クラリスはそう言うと、愛用の竪琴を優雅に肩にかけ、舞台俳優のような、少し芝居がかった足取りで立ち上がった。
「んじゃ、俺らもそろそろお暇するか。ナナミはどうするんだ?城に戻るのか?」
ジークとナックもジョッキに残っていたエールを名残惜しそうに飲み干し、重い腰を上げた。
「クロエ、今日はあなたの家に泊まらせてもらうわ」
ナナミが首を横に振り、きっぱりとした口調でクロエに向かって突然そう告げた。
「はあ?あんた、お城で客人として散々もてなされているんでしょう?!あたしの狭い家なんかより、王城の客室の方がよっぽどマシに決まってるじゃないの!」
クロエが心底嫌そうな、迷惑そうな顔をする。
全く意に介してないナナミはじっとその無表情な顔つきでクロエを見つめた。
「王城では無礼で馴れ馴れしい侍女たちが、入れ替わり立ち替わり私の部屋にやってきて、着せ替え人形のように弄び、髪をいじり回し、くだらない世間話を聞かせるのよ。とてもおぞましい体験だったわ。……今日のところはクロエの狭いと言う家で、我慢してあげる」
あくまで涼しい顔で、そしてどこまでも上から目線でそう言い放つ。
「ええ!?嫌よ!ベッドだって一つしかないし!」
「我慢なさい、クロエ。そんなに幅は取らないわ」
「そういう問題ではないのよぉ!」
クロエの悲鳴にも似た抗議も虚しく、ナナミは既に彼女の腕に自分の腕を絡めていた。
「私たちはこれで失礼するわ。ロイ、シルリアのこと、責任を持ってちゃんと家まで送ってあげるのよ」
ナナミはそう言い残し、クロエは引きずられるようにして「お魚亭」を後にしてしまった。
残されたのは、まだアルコールの回った頭で目の前の状況を把握しようと必死なロイと、テーブルに突っ伏して、幸せそうに、無防備に眠り続けるシルリアの二人だけだった。
「……あ、おい、みんな……俺を一人、置いてくなよぉ……。こんな状況でどうしろって言うんだよぉ……」
ロイの掠れた情けない声は、まだまだ続く店内の陽気な喧騒の中に、虚しく、そしてあっけなくかき消されていった。
***
「シルリア〜、おい起きろって〜。もう店じまいだぞ〜。帰るぞ〜。このままだと、本当に団長に……俺が、八つ裂きにされるぞ〜……」
「ん〜……う、うるさいなぁ……。知るか、あんな石頭の親父のことなんか……むにゃむにゃ……アルベルト卿……」
「いや、だから、石頭の親父に、俺が殺されるんだってば〜……。おれはアルベルトじゃねえよ……」
お互いに呂律がろくに回らない、まるで漫才のような会話が閉店間際の薄暗い店内で続く。
「お魚亭」はもうすぐ完全に店じまいの時間だ。仕方なくロイはまだ夢うつつで何かを呟いているシルリアの肩をそっとかかえ、自分自身のふらつく足取りでなんとか店を出た。
夜空には故郷ティアーシャ村で見た時と同じ、懐かしい満月が煌々と、どこか優しく輝いていた。
石畳の道端には同じようにエールの力に屈し、幸せそうに酔い潰れて寝てしまっている男たちの姿も、ちらほらと見える。
比較的温暖な気候のこのルミーナならば、今夜あたりは道端で寝ていても凍死するようなこともないだろう。
そんなどうでもいいことをぼんやりと考えていると、突然、シルリアがロイの腕からするりと逃れその場にへたり込んでしまった。
「わたしは……もう、絶対にあの家には帰らないんだから〜!!」
駄々をこねる幼い子供のように、シルリアは石畳の道の上にごろんと寝転がってしまった。服が汚れるのもお構いなしだ。
「うわっ、ちょっ、シルリア!危ないだろ!こんなところで寝るなよ!」
これは本格的に参ったな、とロイは、まだ酔いが残ってうまく働かない頭で、必死にこの状況を打開する方法を考える。
明日はクロエが調べてきてくれた、不穏な噂のある港町へ向かわなければならないのだ。
こんなところに大切な仲間を一人置いていくわけにはいかないし、かといって、今のこの泥酔状態の彼女を、厳格極まりないユイリーシャの屋敷に送り届けるのは、どう考えても自殺行為に等しい。
(どうする……どうすればいいんだ……!?)
ロイの脳内で数少ない選択肢がぐるぐると高速で回転する。
そして彼がようやく捻り出した答えは一つしかなかった。
「おし、わかった!それなら今夜は俺んちにこい!」
もはや今のロイにはそれ以外のまともな選択肢が、思いつきもしなかったのだ。
***
ピィピィ、チチチ、と可愛らしい小鳥たちの囀りが開け放たれた窓の向こうから、朝の爽やかな空気と共に部屋の中へと流れ込んでくる。
カーテンの僅かな隙間から漏れる、朝の柔らかな黄金色の光に優しく照らされて、シルリアはゆっくりと重たい瞼を押し上げた。
ズキン、ズキン、と頭の奥がまるで大きな鐘でも打ち鳴らされているかのように、脈打つように激しく痛む。
(……やってしまった……)
昨夜の、アルコールに彩られた断片的な記憶が、まるで濃い靄のかかった風景のように、朧げに蘇り、シルリアは低く呻いた。
(……ここは、どこだろう……)
まだ重たい頭をゆっくりと巡らせて、シルリアは自分がいる場所の辺りを見渡した。
自分は簡素な木のベッドの上に、きちんと毛布をかけられて横たわっていた。
決して、王城の豪華な客室のベッドのような、雲の上にいるかのような寝心地の良さではないが、かといって硬すぎるということもない、適度な弾力のあるベッドだった。
壁には特に装飾もなく、質素でどこか懐かしいような、すこし埃の匂いのする、見慣れない一部屋だった。
ほとんど物が置かれていない、がらんとした部屋の中、ふと、自分の頭の上に何か小さな温かいものがちょこんと乗っているのを感じた。
「ピィ!」
愛らしい、得意げな鳴き声。
「おや、ピィか。ということは……ここは……」
シルリアがゆっくりと視線を巡らせると、部屋の隅にある小さな木の机に突っ伏して、子供のように静かに眠るロイの姿を見つけた。
シルリアが気づいた途端に彼の肩へと目掛けてピィが飛んで行った。
忠実な番犬のように止まって、心配そうに主人の寝顔をじっと覗き込んでいる。
「…………」
万が一にも、何か取り返しのつかない間違いが起こるような状況ではなかった。
それはロイの人の良さ、朴念仁ぶりを誰よりもよく知るシルリアには痛いほどによく分かっていた。
しかし、それでも、さぁーっと、顔から血の気が引いていくのを彼女ははっきりと感じた。
この状況がもし厳格な父に知られたら。
本当に善良で少し間の抜けた勇者を殺しかねない。
騎士の家柄とユイリーシャ家の名誉を何よりも重んじる父にとって、嫁入り前の娘が、たとえどんな理由があろうとも、男性の部屋で一夜を明かしたなどということは断じてあってはならない、一族の恥とも言うべき醜聞なのだから。
ロイが自分のせいで、そんな目に遭うかもしれない。
「……本格的に、やらかしてしまった……」
シルリアは自分の額をぐっと押さえた。
ズキズキとした激しい頭痛は、昨夜の自分の数々の愚行を、一つ一つ丁寧に責め立てているかのようだった。
しかし、いつまでもこうして自己嫌悪に陥っているわけにはいかない。
この危機的状況を、何とかして穏便に収めなければ。
何より今日は、不穏な噂の渦巻く港町へと、仲間たちと共に調査にいく日なのだ。
シルリアはまるで鉛のように重たい自分の身体を叱咤し、決然とした動きでベッドから起き上がる。
まだ軋む身体と深い後悔と、そしてこれから始まるであろう任務への、確かな緊張感をその胸に抱きながら、彼女はルミーナ王国での新たな一日へと、静かに踏み出すのだった。




