5-2 「騎士の道」
重厚な樫の扉が、軋む音も立てずに滑るように開かれた。
そこは第一近衛兵団長の執務室。
ルミーナ王国の軍事の中枢とも言える部屋は、華美な装飾こそないものの、歴代の団長が使い込んできたであろう調度品が歴史の重みを静かに物語っていた。
父シルヴィウスの背中は、磨き上げられた大きな窓から燦々と差し込む午後の光を完全に遮り、部屋の奥まで長い黒々とした影を落としていた。
ユイリーシャ家の揺るぎない伝統と、厳格な格式が、娘であるシルリアの肩に、ずしりと重くのしかかってくるかのようだった。
「魔王討伐の任から、即刻離脱せよ」
静かで抑揚がなく、有無を言わせぬ絶対的な響きを伴った父の言葉がシルリアの鼓膜を冷たく打った。
窓の外からは中庭で日々の訓練に励む騎士たちの、金属がぶつかり合う剣戟の音や、気合の入った掛け声が微かに響いてくる。
かつてはシルリア自身の日常でもあったはずの音さえ、今の彼女には遠い異世界の出来事のように、現実感を伴わずに感じられた。
「納得いきません……魔王討伐は王女殿下から直接拝命した、名誉ある任務です!この使命を全うするその時まで、任から離れるわけにはまいりません!」
シルリアは思わず机に身を乗り出すようにして、父に鋭く抗議した。
父の目の前にある重厚で大きな執務机の上には、ルミーナ王国の紋章が金箔で刻まれた羊皮紙の書類の山と、磨き上げられた銀のインク壺が、持ち主の性格を反映するかのように、整然と冷ややかに並んでいる。
目に映る全てがシルリアの必死の訴えを、鼻で笑うかのように見下ろしているように感じられた。
「王女殿下には私からよしなに伝えておく。お前が案ずることは何もない。……お前の代わりなどこのルミーナには、いくらでもいるのだからな」
シルヴィウスは娘の抑えきれない激情を、凪いだ水面が小石を受け止めるかのように、ものともせず断固として首を横に振った。
微塵も揺るがない態度は長年、ルミーナ王国の揺るぎない盾として、騎士の名門ユイリーシャ家の当主として、ただひたすらに厳格に生きてきた者の鉄のような意志を示していた。
彼はまるで最終通告でもするかのように、重々しく言葉を続けた。
良家との見合い、ユイリーシャ家の騎士としての血を絶やさぬための後継者の出産を厳命する、と。
我が家の家紋を何としてでも、未来永劫保ち続けなくてはならないのだ、と。
家の伝統。
女はたとえどれほどの才があろうとも、第一近衛兵団には決して入れないという、石に刻まれたかのような不文律。
不憫にも剣才に恵まれなかった、心優しい弟シルフィのこと。
何よりも「騎士になりたい」という、物心ついた頃からのシルリア自身の焦がれるような、魂からの渇望にも似た夢。
それらが彼女の心の中で、茨の蔓が複雑に絡み合うかのようにきつく結びつき、身体を、脆い心を、容赦なく締め付ける。
心臓に冷たい棘がじわじわと食い込んでくるかのような、耐え難い苦痛だった。
「後継者が必要であると仰るのでしたら、シルフィを、弟を第一近衛兵団に推薦し、お育てになれば良いではございませんか」
シルリアの喉から絞り出されたのは、そんなか細い反抗だった。
弟の優しさを盾にして貶めるつもりなど毛頭ない。
ただ、息もできないほどに苦しい状況から、ほんの僅かでも逃れるための、藁にもすがるような必死の言葉だった。
「あやつに、もし騎士としての剣技の才が僅かでもあったのなら、とうにそうしていたわ!お前も、それはよく分かっているはずであろうが!」
父の雷鳴のような怒声が、静まり返った室内に激しく反響した。
言葉の一つ一つが、シルリア自身が心の奥底で、ずっと認めたくないと目を背けてきた辛い事実を、鋭い刃物のように、容赦なく残酷に突きつけてくる。
「では……女も、実力さえあれば第一近衛兵団に入れるよう、父上のお力で、古臭い規則を変えられてはいかがでしょう。時代は常に移り変わっていくものです」
なおも諦めきれずに食い下がるシルリアに、父の表情はさらに冷たいものへと変わっていった。
「……ならん。女は決して第一近衛兵団には入れられん。それがこの国の、そして我がユイリーシャ家の、揺るがぬ規則なのだ」
高く、分厚く、どこまでも冷たい石の壁のように、シルリアの前に固く立ちはだかった。
「……そうですか。……ならば、我がユイリーシャ家の家紋が、歴史の波に消え去るのももはや時間の問題ですね」
諦観とほんの少しの皮肉を込めた言葉が、自分のものではないかのように、シルリアの乾いた唇から静かに滑り落ちた。
ばちん!
鋭い音が部屋に響き渡り、シルリアの左頬にまるで灼けた鉄を押し付けられたかのような、灼けるような激しい痛みが走った。
視界が一瞬真っ赤に染まる。
父に叩かれたのだ。
まだ幼かった頃、木剣の稽古で無様に転び、泣きじゃくった時以来の、本当に久しぶりの、忘れようにも忘れられない痛みだった。
しかし、シルリアは倒れなかった。
頬を押さえることすらせず、ただ燃えるような、射殺さんばかりの強い光を宿した瞳で、目の前の父を睨み返した。
深い屈辱と、決して折れることのない、鋼のような意志の炎が激しく燃え盛っていた。
「父に向かってなんという口答えだ。反抗期も大概にせよ。……そもそも今のそのお遊びのような旅に、お前ごときが、命を賭す覚悟など微塵もないのであろうが!」
シルヴィウスの声は怒りというよりも、むしろ娘に対する深い失望の色を滲ませていた。
「……」
シルリアは、きつく、血が滲むほどに唇を固く結び、何も答えなかった。
いや、答えられなかったのだ。
命を賭す覚悟。
重い言葉が、鉛の塊のように彼女の胸の奥深くにズシリと突き刺さる。
「……すこし頭を冷やせ。己の立場というものをよくよく考えるのだな」
それだけを言い残すと、シルヴィウスは重たい足取りで執務室を出て行った。
残されたのは、ジンジンと熱を持つ頬の痛みと、心の中で激しく渦巻く、どこにもやり場のない激情をただ一人抱えたシルリアだけだった。
重厚な扉が閉まる音があたりに響く。
世界の終わりを静かに告げる、厳粛な鐘の音のように彼女の耳に、心に、いつまでも重く響き続けた。
「命を賭す、ね……」
ぽつりと誰に言うでもなく呟いたシルリアの脳裏に、昨日のことのように鮮やかに蘇る記憶があった。
***
彼女にはかつて心から憧れ、目標とする騎士がいた。
アルベルト・フォン・ヒューガン卿。
第一近衛兵団の中でも特に傑出した存在であり、強く、逞しく、誰よりも優しく、常に冷静で賢く、およそ騎士に求められる全ての武才にも長けたまさに完璧な騎士、騎士の中の騎士と呼ぶにふさわしい人物だった。
まだ幼かったシルリアにとって、騎士アルベルトは暗闇を照らす太陽のような絶対的な存在だった。
彼はルミーナ王国の第一近衛兵団の誇り高き騎士であるにも関わらず、決して驕らない。
人が嫌がる仕事も、下々の者がすべき仕事でも、喜んで引き受けるような素晴らしい人。
同時に厳格な父とは対照的にシルリアの内に秘めた剣への情熱を、誰よりも早く見抜き、理解してくれた唯一の大人だった。
父がユイリーシャ家の娘としての厳格さや淑やかさで彼女を律しようとしたのに対し、アルベルトはいつも、大きな手で彼女の頭を優しく撫で、力強くシルリアのささやかな夢を心から応援してくれたのだ。
「騎士の道とは決して力だけでも、技だけでも極められるものではない。シルリア嬢、胸の奥に宿る『心』そのものなのだよ。何を護り何のために剣を振るうのか。揺るぎない心がいつかあなたを真の騎士へと導いてくれるだろう」
陽光がきらきらと輝く港町で、額に滲む汗を屈託なく拭いながら、そう語ってくれたアルベルトの温かな言葉は、今もなおシルリアの胸の最も深い場所に、大切な宝物のように深く鮮明に刻まれている。
そのアルベルトが数年前に殉職した。
ルミーナ近海の荒れ狂う嵐の中、彼はたった一人で絶望的なまでに巨大な海の魔獣に果敢に立ち向かい、そして……二度と帰ってこなかった。
彼の亡骸はまるで獣に食い散らかされたかのようにズタズタに引き裂かれた小舟の残骸と共に、数日後、静まり返った物悲しい浜辺に無惨な姿で打ち上げられたという。
残酷な出来事は、まだ多感だったシルリアの心に決して癒えることのない深い傷跡を残した。
彼女にとって生涯忘れられないトラウマであると同時に、彼女が「真の騎士道とは何か」「命を賭すとはどういうことか」を、血の滲むような思いで絶えず自問し続けるきっかけとなったのだ。
命を賭す覚悟。
アルベルトは生き様と死に様をもって、シルリアに示した。
今の自分には果たしてそれがあるのだろうか?
ルミーナ王国では女は国王陛下付きの第一近衛兵団には、決して入ることはできない。
どれほど剣才に恵まれようとも、どれほど騎士の魂を焦がそうとも、重く冷たい門は固く閉ざされている。
女はせいぜい王配殿下や王女殿下の護衛を務める、第二、あるいは第三近衛兵団に所属するのが関の山。
それもごく限られた者だけだ。
ユイリーシャ家は代々、その第一近衛兵団長を輩出してきた、ルミーナ王国でも指折りの由緒正しき騎士の家系。
気高き誇りはシルヴィウスやシルリア自身の血にも脈々と流れている。
しかしシルリアは女である。
弟のシルフィは誰よりも優しい心根を持つ、彼女の自慢の弟だが、残念ながら騎士としての才には恵まれなかった。
だからこそシルリアには「ユイリーシャ家の血を継ぐ後継者を産む」という、道具としての役割が周囲から、何よりも父から強く期待される。
だが彼女の魂はそんな運命に抗い、ただひたすらに騎士の道を焦がれているのだ。
アルベルトが背中で示してくれた、あの険しく気高い茨の道を。
***
もはや用もなくなった、父の威圧的な気配だけが残る執務室にこれ以上いても息が詰まるだけだった。
父シルヴィウスの気配が完全に消えたそこは、ただがらんとして、どこまでも冷たい空虚な空間に過ぎない。
実家にも今は酷く帰りづらい。
重苦しい葬式のような食卓の空気を思うだけで、足が鉛のように重くなり胃がきりきりと痛む。
シルリアは何かに導かれるように、あてもなく城下町へと向かった。
磨き上げられた石畳の道は、昼下がりの柔らかな陽光を浴びて白く輝き、道行く人々の活気と喧騒で満ち溢れている。
しかしその賑わいも、今の彼女のささくれだった心には遠い世界の出来事のように、少しも届かなかった。
「おい、見ろよ。ユイリーシャのとこの……」
「やめとけって、お前。聞こえるぞ、そんな大声じゃ」
「へっ、聞こえたって構やしねえさ。どうせ、俺たちみたいな下々の者なんざ、高慢ちきな貴族様には虫けら同然なんだからよ。しかし、あれだろ?あの嬢ちゃん、女の癖に、剣の腕ばかりを日がな一日磨いてたっていうじゃねえか」
「ああ、それもそうか。しかし、見た目だけはそこらのひ弱な美青年って言われてもおかしくねぇくらい綺麗なんだがな。もったいねえ。性別が女だってだけで、第一近衛兵団には入れねえってのに、全くもって無駄な努力ばっかりしちまって、ある意味可哀想なこったよな」
「有り余る努力を、ちったあ身だしなみとか、お淑やかな作法の方にでも使やあ、どこぞの金持ちの嫁の貰い手だっていくらでもあるだろうによぉ」
城下町を見回る下っ端の兵卒たちの聞こえるか聞こえないかの、ひそひそとした声量で囁かれているのであろう悪意に満ちた陰口は、日々の厳しい訓練で異常なまでに鍛え上げられたシルリアの耳には、嫌というほど、一言一句違わぬほどはっきりと届いていた。
柄にもなく腹の底からじりじりとした、マグマのような熱い怒りが湧き上がってくるのを感じた。
この国では女が剣の力を磨き高みを目指そうとすれば「女らしくない」「はしたない」と嘲笑され、家柄が良ければ良いで「淑女らしく振る舞え」「家のための駒となれ」と、息の詰まるような古い型にはめられようとする。
ガラスの天井を見ているみたいだ。
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも、馬鹿馬鹿しい。
あまりの馬鹿馬鹿しさと、込み上げてくる虚しさに、シルリアは道端に無造作に置かれていた使い古されてボロボロになった古い樽の上にどかりと、投げ出すように腰を下ろした。
幼い頃からシルリアにとっての遊びといえば、もっぱら木剣を振るうことと、父の弓をこっそり持ち出して的を射ることだった。
暇さえあれば森で木登りをしたり、近くの川で魚を追いかけたり。
それはおよそ貴族の令嬢らしからぬ、活発で野生的なものばかりだった。
同年代の少女たちが目を輝かせて夢中になる、美しい刺繍や華やかな舞踏の稽古には、全くと言っていいほど興味が持てなかった。
だからだろうか。
今でも街角でひらひらとした繊細なレースや、色とりどりのリボンで美しく飾られたドレスをその身に纏い、楽しげに甲高い声で語らう少女たちの姿を見るたび、心の隅でちくりとした痛みを覚えるのだ。
もしもクロエや、ナナミみたいに、普通の女の子らしく、生まれついていたら……自分は今よりもずっと穏やかに、もっと幸せだったのだろうか。
そんな詮無い自己嫌悪と拭いきれない羨望が、いつも彼女の胸を静かによぎる。
でもやっぱり、あんなひらひらの動きにくそうなドレスはどう考えても自分の趣味じゃない。
想像しただけでぶるりと身震いがする。
「おーい!シルリアー!」
不意にすぐ背後から、聞き覚えのある間の抜けた明るい声がかけられた。
その声にシルリアは深く沈んでいた思考の海から、まるで無理やり引き戻されたかのように、はっと顔を上げた。
「……うるさいな!今、大事な考えごとを……っ!」
大切な考え事を邪魔されたことへの苛立ちと、溜め込んでいた鬱憤が一瞬にして重なり合い、つい、いつもの彼女の冷静沈着な口調とは程遠い、刺々しく不機嫌な声が出てしまった。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
「お、おう……わるかったな。珍しく虫の居所でも悪いのか?」
心底びっくりした、という顔でこちらを心配そうに見つめているのは、かけがえのない仲間たちのリーダーであるロイだった。
後ろにはいつものように無表情なナナミと、ジーク、ナック、クラリスの顔も見える。
「ああ……ごめん、みんな。つい……」
シルリアはひどく気まずそうに、自分のこめかみのあたりをポリポリと掻いた。
仲間たちの何の裏表もない、屈託のない表情にささくれ立っていた彼女の心が、ほんの少しだけ和らぐのを感じた。
「終わったのか?さっき、団長と話してたんだろ?」
ロイがどこか遠慮がちに、隠せない心配をその瞳に浮かべて尋ねてくる。
「別になんでもないよ。ただの親子喧嘩みたいなもの。みんなはこれからどこかへ行くところだったの?」
なるべく明るいいつもの声で、シルリアはそう答えた。
家の、自分自身の、複雑な事情を彼らに話す気にはどうしてもなれなかったのだ。
「おう!今からみんなで飯でも行こうって話してたんだ!あそこの『お魚亭』!シルリアも行くだろ?」
ロイが快活に笑いながら誘ってきた。
「…そうだね、行こうかな」
シルリアは小さく頷いた。
一人でこのどうしようもない気持ちを抱えて街を彷徨うよりも、きっと少しは気が紛れるだろう。
シルリアは小さく僅かに躊躇いがちに頷いた。
一行は港町特有の活気に満ちた居酒屋「お魚亭」の、年季の入った暖簾をくぐった。
店内には焼きたての香ばしい魚料理の匂いと、漁師たちの陽気で大きな話し声が満ちている。
そしてそこでシルリアは、自分でも驚くほどに珍しく羽目を外し、心の奥底にずっと溜め込んでいた不満や悲しみ、怒りを、堰を切ったように爆発させることになるのだった。




