5-1「宿るもの」
夜の帳が静かに降りる中、野営地の焚き火がぱちぱちと小さな音を立て、頼りなげに燃え続けていた。
炎の向こうに揺らめく影は、一行の心に重く垂れ込める靄を映し出しているかのようだ。
星々が瞬く夜空の下、少し肌寒い風が頬を撫でていく。
「と、言うわけで、次に向かうべき土地なんだが……」
ロイが、どうにも決まり悪そうに頬をひとかきした。
それは彼が何か言い出しにくいことがある時の、幼い頃から変わらない癖だった。
他の者たちもまた深い溜息を漏らし、憂鬱そうに野営地の焚き火を囲んでいる。
揺れる炎の光が皆の顔をぼんやりと照らし出すが、そこに浮かぶのは決意よりも、むしろどうしようもない困惑の色だった。
なぜこれほどまでに気まずい空気が漂っているのか。
その答えは明白だった。
一行は「その国に根付く、人々にとってかけがえのない何か大切なものをこの手で破壊しなくてはならない」という、あまりにも重く、残酷な使命を帯びているからである。
天上の神々が仕組んだ悪戯のように、彼らに課せられた逃れられない宿命だった。
あくまで憶測の域を出ないが、二百年前にかろうじて封印された魔王の魂はその際に七つに分かたれ、アストリア各地にとって最も「大切なもの」
ーー聖遺物や自然、あるいは人々の信仰の対象ーーに宿ってしまったのだ。
時の流れと共に古の封印が徐々に綻び始め、魔王復活の不吉な兆候が各地で見られつつある今、早急に手を打たなければ、魔王の魂が完全に蘇り世界が再び闇に覆われる危険性がある。
まさに残された時間は少ない、時間との戦いだった。
「とは言っても、こうも壊しにくい、人々の心の支えとなっているようなものばかりに魔王の魂が宿っているのだとすると……いくら神託を受けた勇者とそのパーティとは言え、一つ間違えれば、国際問題に発展しかねないね」
シルリアが常と変わらぬ微笑みを浮かべて、さらりと恐ろしいことを口にする。
完璧な笑顔の奥には、深い憂慮と、彼女自身の故郷への複雑な思いが隠されているのがロイには痛いほど分かった。
彼女の言葉に一行の表情はさらに気まずそうに歪む。
焚き火の炎がふいに強くなった夜風に煽られて激しく揺れ、彼らの心の激しい動揺を映し出しているかのようだった。
今までがたまたま幸運に恵まれ、大きな騒動になる前にどうにか破壊できただけだったのかもしれない。
運命の女神エデルがほんの気まぐれで微笑んでくれていただけなのかもしれない。
これから先、他の国々でも同じように事が進むとは限らない。
残された候補地
ーールミーナ王国、イル=シャル国、セレスティア聖教国、ハナレア諸島ーー
いずれもが、一筋縄ではいかない相手であることは想像に難くない。
その中でも次にどこを選ぶべきか……。
「現状を鑑みれば、まずはルミーナ王国から攻めるべきだろうな。あそこは、ロイ、シルリア、そしてクロエの出身国でもある。俺たちの中に事情をよく知る者が三人いるということだ。全くの余所者が声高に主張するよりも、多少は融通も利きやすいだろう。それに、ルミーナでも今までと同じような事象……魔王の魂の汚染が確認され、それを破壊するやむなきに至ったという事実を示せれば、他の国々も、俺たちの行動の正当性を理解してくれるかもしれん」
ジークがいつものように冷静に、諦観にも似た響きを乗せて諭す。
厳しい現実を受け入れざるを得ない苦渋と、仲間たちへの配慮が滲んでいた。
ルミーナは確かに三人の故郷だ。
故郷で彼らは自らの手で「大切なもの」を壊さねばならないかもしれないのだ。
三人の胸に去来するであろう複雑な思いが、夜の静寂の中でずしりと重くのしかかる。
「……それしか、ないんだろうな」
ロイが呟くと他の者たちも無言で頷いた。
言葉にしなくとも、皆の心は痛みを伴いながらも同じ結論に辿り着いていた。
ルミーナ出身と言えど、その国の国宝や聖遺物と呼ばれるレベルのものを破壊するとなると、やはり拭いきれない気まずさから、彼らの足取りは自ずと重くなる。
故郷であればこそ、「大切なもの」が人々にとってどれほどの意味を持つのかを、他の誰よりもよく知っている。
故郷への想いと世界を救うという使命の間で、彼らの心は激しく引き裂かれそうだった。
「やるしかないよなぁ……でも、正直、考えただけで吐きそうだぜ」
ナックが力なく笑う。
「あたしも今から胃が痛いわ……」
クロエが美しい眉を寄せて深いため息をついた。
ため息ばかりが星空の下の静かな土地に、まるで吸い込まれるように沈んでゆく。
夜風が彼らの重たい息をどこかへ運び去り、焚き火の燃え残った灰が、カサリと寂しげに舞い上がった。
***
数日後ーー
どこまでも続く紺碧の海原を背に、一行を乗せた定期船は白亜の美しい港町、ルミーナ王国の玄関口へとゆっくりと滑り込んだ。
潮風が頬を撫で、どこか懐かしい甘くもしょっぱい故郷の香りが鼻腔をくすぐる。
活気に満ちた船乗りたちの威勢の良い掛け声、カモメの甲高い鳴き声が遠くから響き渡り、水揚げされたばかりの新鮮な魚介の香りと、街路樹に咲き誇る南国の花々の甘い香りが混じり合って、ルミーナ独特の開放的で華やかな港町の匂いを作り出していた。
しかし陽気な賑わいとは裏腹に、シルリア、ロイ、そしてクロエの表情は、故郷の土を踏むべき高揚感よりも、どこか複雑な思いが晴れない梅雨空のように深い影を落としていた。
重い鎖でも引きずっているかのようなぎこちない足取りで、三人はゆっくりと船から降り立つ。
「はぁ……着いちまったか……」
ロイが誰に言うでもなく、ぼそりと呟いた。
その声には船酔いと長旅の疲れとこれから起こるであろう出来事への諦め、それでも前に進まねばならないという微かな決意が入り混じった複雑な感情が込められていた。
「あたしは八分目くらいまで覚悟が決まったわよ、おそらく。多分」
クロエの瞳には微かな憂いの色が浮かんでいる。
普段の彼女の女王然とした美しさの陰に、愛憎半ばする複雑な心情が垣間見えた。
シルリアに至っては固く唇を結んだまま、ただ一点、王都へと続くであろう道を見つめている。
彼女にとってこのルミーナは、自身のアイデンティティそのものを揺るがす、過酷な試練の地でもあったのだ。
生まれ育った土地で、土地の人々が心から大切にしているものをこの手で破壊しなければならないかもしれない……これほどまでに皮肉で残酷な運命が、他にあるだろうか。
港には一行の到着を正確に予測していたかのように、ルミーナ王国騎士団の一隊が寸分の乱れもなく整然と並んでいた。
陽光を反射してきらめく豪奢な甲冑が眩しく、騎士たちの統制の取れた立ち姿からはこの国の軍事力の高さと厳格な規律が窺える。
先頭に立つ、いかにも実直で機械的な印象を受ける騎士が一行の前に進み出て、硬い表情のまま形式的な敬礼をした。
「勇者ロイ殿、並びに御一行の皆様方、長旅ご苦労様でございます。我が名は第一近衛騎士団副団長、バルムンクと申します。国王陛下がお待ちかねでございます。これより王城までご案内させていただきます」
言葉には一切の感情が感じられず、有無を言わせぬような冷たい響きがあった。
それは丁重な出迎えというよりは、むしろ厳重な監視の下に置かれるかのようにも聞こえる。
一行は顔を見合わせ、言葉もなく静かに頷いた。
選択の余地など彼らには最初から与えられていなかったのだ。
壮麗な装飾が施された王家の馬車に揺られながら、辿り着いたルミーナ王城はその白亜の壁がどこまでも続く青空に映える、息を呑むほどに美しい建造物だった。
完璧すぎるほどの美しさとは対照的に、どこか息詰まるような重苦しい空気が城全体を覆っているのを、ロイは肌で感じ取っていた。
黄金で飾られた美しい鳥籠のような、そんな息苦しい印象を受ける。
「はぁぁ……まさか、こんな大層な迎えまで用意してくれていたとはな……」
馬車が王城の中庭で完全に停止するまでの間、ロイはこのルミーナに根付く「大事なもの」を破壊しなくてはならないという、あまりにも過酷な事実を一体どう切り出せばいいのかと、頭の中で悶々と悩み続けていた。
何度も何度も言葉を組み立て直すが、どの言い方もこの状況においては適切だとは思えない。
胸の奥で重苦しい鉛のような気持ちが渦巻いていた。
「悩んでいても仕方がないわ。なるようにしかならないもの」
揺れる馬車の窓の外に聳え立つ壮麗な城をぼんやりと見上げながら、いつもの無表情でナナミがそんな事を静かに言う。
冷静すぎるほどの言葉は、全てを諦めているかのようにも、あるいは全てを見通しているかのような達観から生まれているようにも、ロイには聞こえた。
王城へ向かう途中、馬車の窓から見える街の人々がこちらを見て驚いたような顔をしたり、何かをヒソヒソと囁き合ったりと、どこか騒がしい様子だった。
何事かと怪訝に思う一行だったが、国王の待つ謁見の間へと通された途端、その理由が判明することになる。
謁見の間は懐かしいような、厳粛な気配のする荘厳な空間だった。
磨き上げられた大理石の床がまるで鏡のように一行の緊張した面持ちを映し出し、高いドーム型の天井からは、数えきれないほどの宝石が散りばめられた巨大なシャンデリアが眩いばかりの光を放っている。
女神エデルが座す、天国の一部を切り取って地上に持ち込んだかのような圧倒的な美しさだったが、過剰なまでの豪華さが、逆に息苦しいほどの圧迫感を与えてもいた。
玉座に座すルミーナ国王は、年の頃五十代半ばといったところだろうか。
高く通った鷲鼻に鋭く射抜くような眼光を宿し、引き締まった表情からは、一国の王としての絶対的な威厳と同時に、決して油断ならない老獪な策略家の顔が窺えた。
まさに絵に描いたような「王の中の王」といった風格である。
「なんという事だ……これは……!」
玉座の国王が、周りに控える臣下たちが、一斉に驚きの声を上げた。
彼らの注いでいる視線は、一行の先頭に立つ以前よりもいくらか逞しくなったように見えるロイ。
ではなく。後ろに静かに控えているナナミへと、何かに吸い寄せられるかのように集中していた。
幽霊でも目の当たりにしたかのような、到底信じられない奇跡を目にした時のように驚愕の色に染まっていた。
「かすかに噂では聞いていたが……まさか本当にここまで、あの伝説の魔女マリナ・マチルダに瓜二つとは……信じられん……」
国王が、震える声で呟いた。
「……」
ここでナナミの存在……二百年前に魔王を封印したとされる伝説の魔女マリナ・マチルダと生き写しであること、強力な魔法の才能が、既にこのルミーナ王国の奥深くまで様々な憶測と共に広まっていることが明らかになる。
そうだった、とロイは内心で思い出す。
旅を続けるうちに、すっかりその事実に慣れてしまっていたが、ナナミはあの魔王封印の英雄、マリナ・マチルダの姿、力をも受け継いでいるかのような、この世界における最大の奇跡であり、同時に最大の謎でもある少女なのだ。
(そういえば、俺たちも最初はこんな風にナナミのことを見てたっけな……)
今となっては当たり前のように隣にいて、共に戦う仲間として感じているが、確かに彼女の存在そのものが、この世界の常識を根底から覆すものだった。
しかし、当のナナミはそんな周囲の驚愕の視線も、国王の言葉も、まるで意に介さないかのようにいつもの無表情を崩さずただ静かに佇んでいる。
沈黙がかえって場の尋常ではない緊張感を高めていく。
普段のどこか掴みどころのないナナミを知っているからこそ、ロイたちは(頼むから、うまいこと乗り切ってくれよ、ナナミ……!)と、心の中で全員の思いが一つになって、彼女の次の言葉を待っていた。
「皆々様、彼女のことが気にかかるとは存じますが……ま、まずは、このアストリアを救うべく立ち上がった、誇るべき仲間たちを、改めて紹介させて下さい!」
とにかくロイは、この重苦しい空気を何とかしようと、少し慌てながらも努めて明るい声でパーティのメンバーを紹介していく。
一人一人の名前と、役割、これまでの戦いでの活躍ぶりを簡潔に述べるたびに、国王の表情に、徐々にではあるが満足の色が浮かんでいくのが分かった。
貴重な戦力を入念に査定しているかのような視線だった。
「ふむ、なかなかに頼もしき戦士たちを見つけられたようだな、勇者ロイよ。そして……ナナミ殿、と申されたか。まさか、あの伝説の魔女マリナ・マチルダにこのような形で血を引く子孫がいたとは……まことに感慨深い。かの伝説の魔女は何を隠そう、我がルミーナ王国の出身であり、我が国とは非常に深き関わりが……」
そして始まった。
国王の、長い長〜〜〜〜〜い、自慢話に近い、ルミーナ王国の輝かしい栄光と、マリナ・マチルダとの歴史的関係、そして王国の誇りについての演説。
それが延々と終わりの見えない大河のように続くのを、ロイたちから見て、実にあからさまに退屈そうな顔で聞いているナナミ。
「この話は、一体いつまで続くのかしら」と、心の中で正確な時間を計っているかのようだった。
ロイたちはただただハラハラしながら見守るしかない。
ナナミが何か国王に対して失礼なことを口走ったり、あるいは無表情の仮面の下から、あからさまに嫌な顔をしたりしないかと気が気ではなかった。
「……魔王討伐という大任を果たされた暁には、ぜひとも我がルミーナ王国の顧問魔法士として、そなたを心より歓迎しよう。報酬はそなたが望むものを、望むままに与えることを約束する」
ようやく終わったかと思われた演説の最後に、再び国王からのあからさまな政治的勧誘。
一行は内心でさらに辟易とする。
どうやらルミーナ国王は、是が非でもナナミの計り知れない力を他国に渡すことなく自国のものとしたいという、強い思惑があるらしい。
誰もが欲しがるような、この世に二つとない貴重な宝石を何としてでも自分のコレクションに加えようとする、強欲な商人のような、あからさまな欲望がそこにはあった。
頼みのナナミは国王の熱のこもった話を聞き、ただ静かに目を伏せるだけで、肯定も否定も何の返事も返さなかった。
沈黙がかえって彼女の心の奥底にある何かを雄弁に物語っているようで、ロイの胸には漠然とした不安が募っていく。
(そう言えばナナミは一体どこで生まれ育ったんだろうか……?今までそんな話一度も聞いたことがないな……)
ふとロイの頭にそんな疑問が浮かんだ。
共に旅をしてきた仲間でありながら、彼女の過去は未だに深い謎に包まれている。
国王の長い長い話とそれに対するナナミのNOとも取れる沈黙を、我慢強く聞き終えた後でロイは意を決し、今回の来訪の最も重要な核心を国王に告げた。
魔王の魂が、ルミーナ王国の「大切なもの」に宿っており、それを破壊しなければ世界は救われないのだと。
ロイが一切の誤魔化しのない、真っ直ぐな灰の瞳で国王の目を見据えてそう答えると、国王の表情がそれまでの余裕綽々としたものから一変した。
彼は玉座で僅かに身じろぎし、額にはじわりと冷たい脂汗が浮かぶ。
「な、なんだと……?わ、我が国の大切なもの、だと……?そ、それは一体どれのことだ……?我がルミーナには古より王家に伝わる数多の聖遺物もあれば、民の心の拠り所となっている神聖なる場所も数多く存在するのだが……!どれが魔王の魂に汚染されているというのだ!」
具体的な対象が皆目見当もつかないのか、あまりにも心当たりがありすぎるのか、国王は酷く狼狽しているようだった。
動揺ぶりは一国の王としては、見苦しいほどだった。
あれを、これを、すぐさま確認しろと広間で命令が飛び交う。
「……本日は長旅でお疲れでしょう。詳細については、また日を改めてお呼びいたします。それまでは、城にてごゆっくりお休みくだされ」
国王の側近である大臣が、そう言って謁見の終わりを告げた。
ルミーナ出身であるロイ、シルリア、クロエ以外の者たちは大切な客人であるかのような丁重な扱いを受け、それぞれに豪華な客室が用意された。
彼らとルミーナ出身の三人の間に、見えない線を引かれているかのような、微妙な待遇の違いであり、ロイの心には何とも言えないものが引っかかった。
(俺たちルミーナ出身の者には、労いの言葉一つなしか……まあ、そうだよな、俺たちは“客人”じゃないってことか……)
扱いの差にロイは内心で、はぁ、と深いため息をついた。
故郷だからといって、勇者だからといって、必ずしも優遇されるわけでもない。
そんな厳しい現実に彼は改めて複雑な気持ちを抱かざるを得なかった。
いまだに玉座の前に跪いたまま、これからどうしたものか、……などとロイが考えていると、目の前にふわりと、豪奢なドレスの裾が広がった。
色とりどりの花弁が舞い降りたかのような、美しい光沢を放つ絹の生地が、磨き上げられた大理石の床に優雅な影を落としている。
「ロイ、少しだけ二人きりでお話できませんこと?」
甘えるような、どこか計算された猫なで声にも似た声でロイは別室へと誘われた。
声の主を見上げたロイの脳裏には、遠い、遠い昔の記憶が、春先の陽炎のように鮮やかに揺らめいていた。
――『お前、随分と不思議な目の色をしているのね?ふふ、面白いわ。今日から私のお気に入りにしてあげる。光栄に思いなさい』ーー
まだほんの幼かったロイが、故郷のティアーシャ村からの年に一度の遣いとして、初めてこの壮麗な王城へとやって来た際に、物珍しい玩具でも見つけたかのように、自分を指さしてそう言い放った少女、ルミーナ王国の第一王女サザリ。
あの日、王城は今と少しも変わらず、どこまでも荘厳で、どこまでも美しく、貧しい村で育った幼いロイにとっては天上の世界のように感じられたものだ。
気まぐれな妖精のように美しい王女のたった一言が、彼のその後の運命を大きく、否応なく変えてしまうことになったのだ。
彼にとって、華やかで息苦しい王城での、長く孤独な日々の始まりの合図だった。
王女の子供特有の無邪気で、残酷な「お気に入り」という言葉が、一人の名もなき少年の人生をその根底から大きく揺るがしてしまった。
時として運命とは本当に些細な、予期せぬ言葉から始まるものなのかもしれない。
王女サザリは今も昔と少しも変わらぬ、どこか芝居がかったような、計算され尽くしたような仕草で、ロイに妖艶な微笑みを向ける。
年月は、彼女をより一層美しく、より一層計算高い女性へと変えていた。
「こんなにも立派な勇者になったのね……わたくし、本当に嬉しいわ。やはり幼き日にあなたを見出した、わたくしの目に狂いはなかったということですものね?さあもっと近くへいらして。あなたのこれまでの華々しい冒険譚を、わたくしにもっと詳しくお聞かせ遊ばしてちょうだいな?」
「あ、ああ……喜んで」
「その鳥は……?」
「ピィと言います。……ナンバル=ムウにて…「ピィ!」
純粋な賞賛とは明らかに異なる、どこか相手を自分の所有物であるかのように扱う、ねっとりとした粘つくような響きがあった。
自分が丹精込めて育て上げた人形が、期待通りに見事な踊りを披露したことを喜んでいるかのような、歪んだ満足感と、危険な独占欲の香りが微かに潜んでいる。
彼女にとってロイは、自分の慧眼によって見出され、自分の期待通りに大成を遂げる予定の「物語の主人公」なのだろう。
英雄と結ばれるという、甘美でロマンティックな結末を、彼女は何よりも強く望んでいる。
たとえ物語の主人公が、ロイという名の個人でなくても、全く構わないのだとしても。
どこか得意げな王女に誘われ、部屋を出ていくロイの後ろ姿を、シルリアとクロエが、何とも言えない、非常に意味深な視線で黙って目で追っていた。
「ロイったら、早速王女に捕まったわね」
クロエが小さくため息をつく。
「クロエ、しっ。」
シルリアが慌ててクロエを制する。
何か、ロイには知らされていない彼女たちだけが知る王女の側面でもあるのだろうか。
そんな意味深なやり取りを交わした後で、この二人もまた、いまだに玉座の間に跪かされたまま、この後どうすればよいのか、少し途方に暮れていた。
生まれ育った故郷であるはずなのに、どこかアウェイな、居心地の悪い感覚がどうしても拭えない。
「あたしは一度家に帰ろうかな。長旅でお気に入りの香油ももう残り少なくなってきたし。街で買い物もしたいし。ここにこれ以上いて面倒なことに巻き込まれたくないし」
クロエの言葉にはこの息の詰まるような王城の空気から、一刻も早く逃れたいという本音が、隠しようもなく滲んでいた。
「クロエの美しさは日々の努力の賜物だね。本当に尊敬するよ。こんな土埃に塗れた過酷な旅の毎日でも、美に対してそんなに真摯に向き合って」
シルリアは素直に心からの賞賛の言葉を口にする。
同性として友への、純粋な敬意が込められていた。
「あら、お褒めに預かり光栄だこと。美しさは時にどんな屈強な騎士の剣よりも鋭い武器になる時があるから。……まあ、本当のところはあたしが生まれ育った、あの息の詰まるような国で染み付いちゃった古い癖がなかなか抜けないだけだけどね」
手をひらひらと軽くふって、なんてことなさそうにおどけてみせるクロエ。
しかしその軽やかな仕草の奥には、彼女が過去の様々な経験から学び取った、したたかで現実的な生きるための知恵が隠されているように見えた。
彼女にとって美しさを保つことへの並々ならならぬ執着は、社会を生き抜くための、彼女なりの処世術でもあり、鎧でもあったのかもしれない。
ちょうどその時だった。
彼女たちの背後から聞き覚えのある、低く、どこまでも厳格な声が響いた。
「シルリア」
何事かと驚いて振り返ったクロエは、そこに立っていた人物の姿を認め、びくりと小さく肩を揺らした。
鋼鉄の鎧を身に纏っているかのような、一切の隙も見せない威圧感を放つ壮年の男性が、冷たい視線でシルリアを見据えて立っていた。
「こ、これは……ルミーナ王国が誇る、第一近衛兵団騎士団長様……。ご、ごきげんよう」
クロエは僅かに頬を引き攣らせながらも、一礼をする。
男はクロエの存在などまるで目に入っていないかのように完全に無視し、シルリアに氷のように冷たく鋭い視線を送り続けている。
眼差しには怒りと失望、軽蔑に近い感情が複雑に、危険なほどに入り混じっていた。
「……父上……」
シルリアの声はまるでか細い小動物が怯えるかのように、小さく僅かに震えていた。
彼女の父である第一近衛兵団長に、有無を言わさぬ態度で執務室へと呼び出されていく彼女の背中は、普段の戦場で見せる凛とした勇ましい姿とはあまりにも対照的に、どこか幼子のように縮こまって見えた。
それも見ただけで分かるほど、かなり機嫌の悪そうな、何かを厳しく詰問しようとしている父親の元へと。
クロエはその光景をただ黙って見送ることしかできず、心の中で(シルリア……負けないで……!)と、小さなエールを送るのが精一杯だった。
親と子の間に横たわる深い確執に、たとえ友人であっても、ましてや異国人である自分は容易に踏み込むことはできない。
ただ彼女の無事を祈り、見守ることしかできない自分の無力さをクロエは静かに感じていた。
勇者一行が誰もいなくなった謁見の間、1人の臣下が口を開いた。
「はて、王国から派遣した回復士の姿がなかったような……」
「ああ、なんでも勇者一行とは落ち合えずに戻ってきてしまったそうだ。今更合流させてもしょうがないだろう」
「それもそうか」
そんな中。
ナナミ、ナック、ジーク、クラリスは先程とは別の大臣……人の良さそうな、どこか飄々として掴みどころのない雰囲気の初老の大臣に案内され、壮麗なルミーナ王城の内部を改めて見学することになった。
巨大な迷宮か、絢爛豪華な美術館のような長い廊下にはルミーナ王国の栄光の歴史を物語る、歴代の王や英雄たちの勇壮な肖像画が、これみよがしにずらりと並んでいる。
しばらくしてようやく王女との当たり障りのない、けれど神経をすり減らすような、探るような会話から解放されたロイもやや疲れた表情で、手持ち無沙汰にその一行に合流した。
王女サザリとの時間は彼にとって、まるで美しい蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のような、息苦しさと、甘美な罠の気配を感じさせるものだった。
高い、見上げるような天井。
壁一面に飾られた精緻な刺繍の見事なタペストリー。
ショーケースの中に厳重に保管された、歴史を感じさせる数々の武具や宝飾品。
王城内部の途方もない豪華さは、まさにルミーナ王国の長きにわたる栄華と、強大な国力を雄弁に物語っていた。
壮麗な回廊を大臣のうんちく混じりの説明を聞きながら歩くうち、ふとナナミが足を止め、壁に飾られた一枚の他とは少し雰囲気の異なる古い肖像画に、吸い寄せられるように静かに見入っているのに、ロイは気づいた。
「ルミーナ王国は非常に貿易も盛んで、行商人も数多く立ち寄り……港街には〜……」
王城を案内する大臣があんなにも離れたところに行ってしまったのにも関わらず、ナナミはひたすらに肖像画だけをじっと見つめる。
描かれているのは神秘的な雰囲気を漂わせた、凛とした佇まいの美しい女性。
その淡い紫色の瞳はナナミの持つライラック色の瞳と、驚くほどよく似ている。
いや、似ているというよりは生き写しだ。
二百年前に描かれたものだと知らなければ、この絵のモデルはナナミ本人だと言われても誰も疑いもしないだろう。
それほどまでに瓜二つの女性だった。
一人皆の輪から外れ、ルミーナ王国最大の英雄であり伝説の魔女として語り継がれるマリナ・マチルダの肖像画を、何かを探るように、何かを確かめるように眺めるナナミに、ロイがそっと声をかける。
「本当そっくりだな。ナナミと」
「ええ。自分でも少し驚いているの。まるで鏡を見ているかのようだもの」
ナナミの声には普段の彼女からはあまり感じられない、複雑な感情が込められているようにロイには思えた。
自分と寸分違わぬ姿をした、二百年も前の伝説の女性を見つめるというのは一体どのような心境なのだろうか。
ロイはふと何かを思い出すように、少しだけ遠い目をして上の方を見た後で、子供の頃にそのマリナらしき人物に会ったかもしれないという、不思議な経験をぽつりぽつりと語り始めた。
記憶はまるで朝霧のように曖昧で、夢と現実との境界線がひどくぼやけてしまっている。
「俺、もしかしたら……会ったことがあるのかもしれないんだよな、その人に。この絵と全く同じ、少しも年を取っていない姿のまんまだったから……夢の中だったのかもしれないけど」
ナナミの大きな瞳が見開かれる。
「……!?どこ……?一体どこで会ったの……?」
そして掴みかからんばかりの勢いでロイに迫ってきた。
あまりにも激しい反応に、ロイは驚きとそして別の意味でのドキドキと胸の高鳴りを感じてしまう。
普段氷のように冷静沈着なナナミの、こんなにも感情を露わにした姿を見るのは初めてかもしれない。
「ちょ、落ち着けってナナミ!子供の頃の話だよ!それに本当に夢だったのかもしれないし……!」
「夢でも構わない!お願いロイ。教えてちょうだい。どんなことをしていたの?あなたに、どんな言葉をかけたの……?」
ナナミの声はどこか切羽詰まったような、必死さを帯びていた。
長年探し求めていた答えの欠片を、ようやく見つけ出したかのようなそんな切実さがそこにはあった。
「ええと、確か……甘い香りの綺麗な花を一輪、俺の手にそっと握らせてくれて……『あなたは、きっとこのアストリアを救う偉大な勇者になる』とかだったかな?そんなようなことを言われた気がするんだ。ああ、あと……『美しい灰の瞳』だったかな?!はは、なんな願望が混じってそうだ」
「……そう……甘い香りの花……勇者に……美しい灰の瞳……」
ナナミはロイの言葉の一つ一つを、まるで失くしてしまった大切な記憶のパズルのピースを、一枚一枚丁寧に拾い集めるかのように、静かに、深く、噛みしめるように心に留め、再びマリナの肖像画へとその吸い込まれるような視線を戻した。
彼女の美しい横顔には、言葉にできないほど複雑な感情が浮かんでいるように見えた。
それは驚きであり、困惑であり、僅かながら希望の光のようにも感じられた。
少しの重たい沈黙の後、まるで張り詰めていた糸が切れたかのようにふっと息を吐き、ナナミは窓の外へと視線を移した。
そこにはルミーナ王国の活気ある王都の街並みが広がっている。
無理やり現実に引き戻されるかのように、彼女は静かに口を開いた。
「……この国でロイは生まれ育ったのだったわね」
「ああ、まあな。でも俺の故郷はこんな立派な王都なんかじゃないよ。もっとずっと田舎の、ルミーナの端っこにある、貧しいティアーシャ村ってところだ。……魔獣に襲われて滅んじゃってるけどな」
遠い過去のことを語るロイの声には、失われてしまった故郷への哀しみと、ほんの僅かに憎しみが滲んでいた。
「俺のいた村はさ、本当に何もないルミーナの地図にも載らないような小さな小さな村でさ。毎日毎日、畑仕事を手伝ってたまに森で遊ぶくらいしかすることがなかったんだ」
「……あなたのことだから、きっと泣き虫で、少しおっちょこちょいな男の子だったのでしょうね」
ナナミがふと目を伏せ、その光景を想像するかのように優しい顔をした。普段の彼女からは想像もできないほど、温かいものだった。
「なっ!今だって別に泣き虫なんかじゃないと思うけどな!」
ロイが、少しムキになって反論する。
「そうかしら……?私の膝の上でわんわん泣いていたのは幻だったのかしらね」
「それは言わない約束だろ……!ナナミだって……初めて会った時怖くて泣いて……!」
「私が、なんですって?」
ナナミが小首を傾げてロイを見つめる。
その瞳にはからかうような光が宿っている。
それ以上言おうものなら、とんでもない目に合うようなそんな気迫を感じた。
「ああ、いや!なんでもない!ほら、あっちの鎧とか、すっげーカッコよくないか!?」
ロイが顔を赤らめながら慌てて話題を逸らそうとする。
ぎこちない様子に、ナナミの口元に本当に微かな笑みが浮かんだ。
このどこか親密で他者が立ち入ることを許さないかのような、特別な空気をまとった二人の会話を、少し離れた回廊の角から、ルミーナの王女サザリが美しいレースの扇子で口元を隠しながらも、鋭く、どこまでも複雑な表情で見つめていた。
彼女の宝石のような瞳には、単なる好奇心だけではない、ナナミという存在に対する、明らかな、燃えるような嫉妬にも似た鋭い光が宿っている。
そしてロイとナナミの間に確かに流れ始めている、自分には決して入り込めない、特別な心の絆に対する、どうしようもない焦燥と底知れぬ疑念が、まるで毒のように渦巻いていた。
美しい薔薇の花に巧妙に隠された鋭く尖った棘のように、王女の心の奥底では危険で歪んだ感情が、確実に芽生え始めていた。
自らが思い描く完璧な物語の結末を自分の思い通りに導こうとする、強すぎる意志と、それを阻む可能性のある全ての存在に対する、冷徹なまでの敵愾心が確実に育んでいたのだった。




