閑話「灰の瞳」
ルミーナ王国。
中心に壮麗にそびえ立つ王城。
陽光を浴びて白亜の壁が眩しく輝き、天を衝く尖塔群は王家の威光を無言で語っていた。
季節の花々が咲き乱れる中庭の石畳は、色とりどりの光を反射し万華鏡を覗き込むようだ。
甘やかな花の香りが風に乗り、鳥のさえずりが微かに聞こえる。絵画のごとき風景の中、場違いな影がひとつ、所在なげに立ち尽くしていた。
少年は、擦り切れて色褪せたぼろ同然の古着をまとう。泥に汚れた靴は、彼が辿ってきた旅路の過酷さを物語っていた。
初めて見る壮麗な景色、肌を撫でる優雅な空気、全てが彼にとって異質で、深い灰色の瞳に戸惑いと諦念に似た光が揺らめく。
彼は名を、ロイといった。
「……あら?」
カツ、カツ、と軽やかで威圧的な靴音が近づいてきた。
音の主は、腰まで届く艶やかな黒髪を風に遊ばせる少女だった。
ルミーナの国旗にも用いられる鮮烈な緑のドレスが、彼女の白い肌を一層引き立て、翻る裾は蝶の舞を思わせる。
誰の許可も得ず、広大な中庭を我が物顔で闊歩する姿は、この城こそが彼女の個人的な遊戯盤だとでも言いたげだ。
「お前、随分と不思議な目の色をしているのね?」
不意にかけられた声に、ロイの心臓が飛び跳ね、文字通り凍りついた。
サザリ王女は、興味深そうにロイの瞳を覗き込む。彼女の大きな瞳は純粋な好奇心に満ちていたが、同時に底知れぬ何かを宿してもいた。
「ふふ、面白いわ。今日から私のお気に入りにしてあげる。光栄に思いなさい」
幼い子供特有の無邪気な響きと、一切の躊躇も容赦もない冷酷な決定権を含んだ言葉。
「お気に入り」
サザリにとって、気まぐれな人形遊びの延長線上に過ぎなかったかもしれない。
名もなき少年の人生は、地鳴りのような音を立てて根底から激しく揺さぶられ始めたのだ。
***
「サザリ、他のにしなさい。そのような素性の知れぬ者を…」
「見てごらんなさい、サザリにはもっと相応しい…」
玉座の間。
王と王妃の声には、戸惑いと隠しきれない呆れが滲んでいた。
金糸銀糸で彩られた壮麗な広間に、不釣り合いな緊張が走る。
渦中のサザリは頑なに小さな首を横に振るばかりだった。
「絶対にあれじゃなきゃいやなの!あの目なの!」
長い睫毛を震わせ、今にも大粒の涙をこぼしそうな声で彼女は必死に訴える。
あの底光りする灰色の瞳に、彼女は何を見出したのだろう。
抗いがたい魅力か、ただ新しい玩具を見つけた子供の気まぐれか。
結局、王女の激しい癇癪と涙の前に周囲は屈し「しばらく様子を見よう」という玉虫色の結論をもって、ロイは王城にその身を置くことを許された。
お気に入り、とは言えど、決して特別扱いを意味しない。
むしろ奇異な存在へのレッテルであり、新たな苦難の始まりに過ぎなかった。
***
それからの日々は、居場所のない寄る辺なさそのものだった。
朝餉のパン一片と具の少ない温かいスープを求め、ロイは侍女や使用人たちの仕事の合間を縫っては卑屈なほどに手伝いを申し出た。
早朝、露に濡れた庭園で庭師の重い荷物を運び、昼下がりには厨房の熱気の中で山と積まれた皿を洗い、夕暮れには風にはためく洗濯物を取り込む。
どこへ行っても、「王女様が気まぐれで拾った、得体の知れない小汚い小僧」という無言の蔑みと冷ややかな視線が容赦なく突き刺さった。
それでもロイは笑った。媚びへつらうように、ただひたすらに必死で愛想笑いを浮かべ続けた。
壮麗なる牢獄で生き延びるための、彼なりの処世術だった。
「お呼びですか、王女様!」と明るい声を張り上げ、息を切らして駆けつけた先がサザリ王女の退屈しのぎ、即興の舞台装置であることにもとうに慣れきっていた。心は麻痺し、ただ生存本能だけが彼を突き動かしていた。
***
そんなある日のことだった。
いつものようにサザリ王女の私室へ呼び出されると、そこには既に二人の見慣れない少女がいた。
ひとりは、砂糖菓子のように甘いピンク色の髪を愛らしいツインテールに結い上げている。ささくれ一つない手には高級そうなレース飾りのぬいぐるみが固く抱きしめられていた。
もうひとりは、短く切りそろえられた髪が活動的な印象を与える凛とした佇まいの少女。身のこなしや簡素ながらも上質な衣服は、貴族の少年と見紛うほどだった。
「俺、ロイって言うんだ。君たちも、王女さまに拾われたの?」
ロイは僅かな期待を込め、できるだけ親しみを込めた声で話しかけた。
「下賎な庶民風情が、気安く話しかけないで!」
鋭い拒絶の言葉を吐き捨てたのはピンク髪の少女だった。
抱いたぬいぐるみの陰から睨みつける瞳は、幼いながらも侮蔑の色を隠そうとしない。身にまとうドレスの生地も仕立ても一級品で、立ち居振る舞いからは紛れもない高貴な血筋が滲み出ていた。名をクロエというらしい。
「こんにちは。私はシルリア。この子はクロエ。最近、隣国から事情があって亡命してきたそうなの」
短髪の少女がクロエの無礼を詫びるかのように、穏やかな声で応えた。
清楚な装いと背筋の伸びた美しい姿勢からは、育ちの良い貴族の娘であることがうかがえた。
「……そっか」
ロイは微かに唇を噛み俯いた。胸に冷たいものが広がるのを感じる。
やはり自分だけが、雨の日に道端で拾われた捨て猫のような存在なのだと、改めて思い知らされた気がした。彼女たちは自分とは違う。
***
そこへ部屋の主であるサザリ王女が、小鳥のように軽やかな足取りで入ってきた。
「さぁ、みんな揃ったわね!今日はおままごとをするわよ!」
彼女の言葉に有無を言わさぬ力がこもる。
配役はサザリの独断で瞬く間に決められた。
シルリアが愛らしい赤ちゃん役、サザリ自身が優しいママ役、ロイが頼りがいのあるパパ役。
残されたクロエは……不本意ながらも愛馬という役割を与えられた。
「父上、母上、おなかがへりました。何かくださいませ」
シルリアが貴族の子女らしい丁寧な言葉遣いで、幼子のような声色を作って言った。
その瞬間
パァン!
乾いた鋭い音が部屋に響いた。
サザリ王女の小さな手が、シルリアの白魚のような頬を力任に打ったのだ。
ロイの肩が見えない糸で引かれたようにびくりと震え、部屋の空気が一瞬にして凍りつく。
「ダメじゃない!赤ちゃんは、難しい言葉遣いはしないわ!『まんまー』とか言うのよ!」
サザリは悪びれる様子もなく、むしろ良いことを教えたとでもいうように胸を張る。
「も、申し訳ございません……」
頬を押さえるシルリア。
それすらもサザリの気に障ったのか、王女が再び無慈悲に手を振り上げた、その時。
「ママ、だめだよ!赤ちゃんを叩いたらかわいそうだよ!」
ロイはほとんど反射的にサザリとシルリアの間に割って入っていた。
背中には恐怖で冷たい汗がじっとりと伝う。王女の機嫌を損ねれば明日にも王城から追い出されるかもしれない。
いや、それ以上の罰が待っているかもしれない。それでも体が動いたのだ。
サザリは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとし、やがて「……ふぅん、それもそうね」と意外にもあっさり手を下ろした。
どうにか最悪の事態は避けられたか、とロイが胸を撫で下ろしたのも束の間だった。
サザリの次の標的は、不満げに唇を尖らせていたクロエだった。
「あなたは馬なんだから、ちゃんと言うことを聞きなさい!」
そう言うとサザリはクロエの綺麗なピンク色の髪を乱暴に引っ掴み、手綱でも引くかのように無理やり引きずろうとした。
「きゃっ!や、やめて!!」
「馬は喋らないのよ!」
クロエが悲鳴を上げる。
シルリアは眉を寄せ、痛ましげにその光景を見つめていた。
そして全てを、サザリは無邪気な笑顔で、ただ楽しそうに見下ろしていた。
悪意など微塵も感じさせない純粋な残酷さがそこにはあった。
「そんな乱暴にしちゃ痛いよ!かわいそうだよ、クロエが!」
ロイは再び叫んでいた。もはや後先など考えていなかった。
「もう!ロイったら、いちいちうるさいわ!あなたがいると、ちっとも面白くない!つまらない、こんな遊び!もう知らないんだから!」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、サザリは金切り声を上げると、ぷいと踵を返し嵐のように部屋から出て行ってしまった。
後に残されたのは気まずい沈黙と、髪をぐちゃぐちゃにされ目に涙をいっぱい溜めたクロエだった。
ロイはそっとクロエに近づき、震える手を差し伸べようとした。
「だ、大丈夫? 髪、直すの手伝うよ」
「さわらないで!ほっといてよ!あなたのせいで余計なことになったじゃない!」
クロエは手を激しく払いのけ、わっと泣き出しそうな顔で部屋を飛び出していく。
「あ、クロエ、待って!」
シルリアが慌ててその後を追いかける。
広い部屋にロイはぽつんと一人取り残された。夕暮れの光が床に長い影を落としていた。
この日、ロイは骨身に染みて理解した。
きらびやかな王城で生きていくということが、一体どういうことなのか。
自分もまた「王女のお気に入り」という名の見えざる檻の中で、ただひたすらに生き残る術を探し続けなければならないのだと。
その檻は時として牙を剥き、容赦なく心を傷つけるのだと。
***
王女をあんなにも激しく怒らせてしまった。
初めて友達ができるかもしれない、淡い期待を抱いた貴重な機会も、自分のせいで台無しにしてしまった。
ロイはがっくりと肩を落とし、夕闇が迫る王城の長い廊下をしょんぼりと力なく歩いていた。
夕餉の鐘が遠くで鳴っているが、食欲など湧いてこない。
彼の寝床は、王城の中でも忘れ去られたかのような、古い塔の屋根裏にある物置部屋だった。
埃っぽく薄暗い空間は、もともと用途を失った古い家具やガラクタが打ち捨てられる場所だった。
ロイはその隅を辛うじて片付け、壊れかけた長椅子や木箱を組み合わせて、ようやく体を横たえられる程度の粗末な寝床を作った。
そこが彼にかろうじて与えられた「寝る場所」であり、誰にも邪魔されずに息を潜められる唯一の聖域だった。窓も小さく昼間ですら薄日が差し込む程度で、いつも薄ら寒い。
だが今日の一件で、このささやかな安息所すらも追い出されてしまうかもしれない。そんな不安が鉛のように心を重くしていた。
「あ、いたいた!おーい!」
その時、背後から微かな、切羽詰まったような声が聞こえた。いつも自分を呼び止める侍従たちの事務的で冷たい声とは違う柔らかな響きに、ロイは驚いて振り返る。
先ほどの二人の少女、シルリアとクロエが肩で息をしながら立っていた。
「どうしたの?こんなところまで…」
ロイは目を丸くした。
「さっきはごめんね。ううん、違うの、助けてくれて本当にありがとう。こんなこと、大きな声ではとても言えないけれど、王女さまったら本当に乱暴で…でも、誰も何も言えなかったから。あなたが言ってくれて、実はすごく助かったんだよ」
シルリアがまだ少し息を切らしながらも、興奮を隠せない様子で早口にそう伝えた。その言葉だけで、ロイの心にのしかかっていた重石が少しだけ軽くなるような気がした。
「ほら、クロエ。あなたも、ちゃんと言わなきゃいけないことがあるでしょう?」
シルリアが隣で俯いているクロエの肘を軽くつつく。
桃色のツインテールに髪を結った少女は、抱いているぬいぐるみに顔を半分埋めもじもじとしていた。やがて何かを決意したように、潤んだ瞳でロイを上目遣いに見上げた。大きな瞳にはまだ涙の膜が張っている。
「あ、あの……ごめんなさい。さっきは、助けてくれたのに……八つ当たりして、酷いこと言っちゃったの。ほんとうは、怖かったの……」
か細い声だったが、そこには紛れもない誠意が込められていた。
ロイも思わず目頭が熱くなるのを感じた。彼は小さく頷き、ぎこちないながらも微笑んでみせる。
「ううん、いいんだ。君が無事で、本当に良かった」
ロイの屈託のない心からの笑顔に、クロエの心臓が不意にどきりと高鳴った。
彼女自身もまだ気づかない、小さな変化の兆しだった。
ロイは嬉しさと照れ臭さからか、自身の汚れた袖でごしごしと目元を拭う。改めて二人へ向き直り、少し首を傾げて躊躇いがちに口を開いた。
「あのさ、もし良かったら……俺と、友達になってくれないか? …って言っても、俺、今日のことで王女さまに嫌われちゃっただろうから、もうすぐクビになっちゃうかもしれないけど……」
最後は尻すぼみになったが、精一杯の勇気を振り絞った言葉だった。
するとシルリアがぱっと顔を輝かせた。
「王女さまなら大丈夫だよ。あの人は怒っても寝たら大抵のことは忘れちゃうもの。それに、私たちはもうとっくに友達じゃないか! これからもよろしく、ロイ!」
シルリアのセリフは、いつか故郷のティアーシャ村にやって来た憧れの騎士が使うような、力強くも優しい口調だった。ロイの灰色の瞳が希望の光を宿してキラキラと輝いた。
シルリアの影に隠れるようにしていたクロエが、小さな声で呟いた。
「クロエ……」
「ん?」
ロイが聞き返す。
「……クロエって、呼んでもいい、からっ!」
それだけ言うとクロエは顔を真っ赤にしてシルリアの背後に完全に隠れてしまった。
そのままくるりと背を向けて、来た時と同じように慌ただしく走り去ってしまう。
「あ、待ってよう、クロエったら!」
シルリアが苦笑しながらその後を追いかける。去り際に彼女はロイに振り返ってにっこりと笑った。
「たぶん、あれでも『友達になりましょう』って言ってるつもりだと思うよ。素直じゃないんだ、あの子は。それじゃあ!」
「うん!またな、シルリア!クロエも!」
ロイは小さくなっていく二人の背中に、力の限り手を振った。
塔の屋根裏部屋に戻る足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽かった。冷たく埃っぽい部屋も今夜は少しだけ暖かく感じられる気がした。
***
それから幾年月が流れた。
サザリ王女の気まぐれは相変わらずだったが、ロイはシルリアとクロエという二人の友を得て、王城での日々をどうにかこうにか生き抜いていた。
今、ロイは十六歳を迎え、王国の新兵として厳しい訓練に明け暮れる日々を送っていた。
訓練場の片隅、木陰でロイはぐったりと地面に座り込んでいた。
「うわ〜、これはまたこっぴどくやられたわねぇ、ロイ」
「本当に酷い有様。一体全体、何をやらかしたらそんな芸術的なまでにボコボコにされるの?」
呆れたような、面白がるような声と共に、成長して見違えるほど美しくなった二人の女性が、ロイを囲むようにして屈み込んだ。
シルリアとクロエだった。
顔面が見るも無残に腫れ上がり、あちこちに青痣を作っていなければ、見目麗しい美女二人に甲斐甲斐しく介抱されるという、傍から見ればさぞかし羨ましい光景だっただろう。
「敬礼の角度がなってないとか、返事が小さいとか、そんなことでまた教官たちに寄ってたかってリンチだよ……ってぇ〜! クロエ、もうちょっと優しく拭いてくれよ、痛いって!」
ロイが呻くように言うと、クロエは「うるさいわね、これでも手加減してるのよ!」と口では言いながらも、濡らして冷たくしたハンカチを当てる手つきは幾分か優しくなった。
「相変わらず大変そうだね。王女様のお気に入りは、いつまで経ってもやっかみの的で」
シルリアがくすくすと笑いながら、水筒の水を新しい布に浸す。
「へっ、今更言っとけよ。俺以外にも、王女様の『お気に入り』候補なんて、それこそ掃いて捨てるほどわんさかいるだろうが。もう俺のことなんて忘れちまってるかもな」
ロイはどこか投げやりな口調で愚痴る。
冷たいハンカチが熱を持った顔に心地よかった。
目の前の二人は新兵の隊服を凛々しく着こなしている。
全く同じ装いになったと言うのに、彼女たちがひどく頼もしく眩しく映った。
もっとも、ロイの脇に腰を下ろし、介抱しているように見せかけて実は訓練をサボっているだけなのだが、その気安さが今の彼らには心地よかった。
「そういえばさ、聞いた?セレスティア聖教国で、魔王討伐のための聖騎士団が結成されたらしいよ? なんでも、勇者として神託を受けた選ばれし者は、とても珍しい灰色の瞳をしていたとか」
シルリアが普段の彼女からは珍しく、少し興奮したような早口で語った。
ロイの灰色の瞳がほんの僅かに見開かれた。だがそれは一瞬のこと。
すぐに彼はふいと顔を背け、いつものぶすくれたような表情に戻った。
「ほぇー。アストリアの平和のためにねぇ。そりゃあご苦労なこった。俺は、自分の手の届く範囲の平和を守るだけで、もう手一杯だってのに」
これは、そんな風に嘯いていた彼が、やがて自身に下された神託を受け、否応なく勇者として過酷な運命の旅路へと踏み出すことになる、ほんの少し前の物語の一幕である。
彼の灰色の瞳が、世界の命運を左右する輝きを宿すのは、ほんの少し先のことだった。




