4-10「いのちのうた」
大地は呻きを上げていた。天は痛いほどに青く晴れ渡っているというのに、世界が泣いているかのようだ。
「命の樹」という絶対的な守護者を失ったミルラの根は、もはや集落としての形を辛うじて留めているに過ぎなかった。ただでさえ、トトカラムに荒らされていた家屋は根こそぎ薙ぎ倒され、豊かな実りをもたらした畑は土くれと化し、そこに確かに息づいていた人々の生活の痕跡は、無慈悲なまでに消し去られていた。
先の戦いでルーが浄化を行ったものの、大地は深く汚染され、神聖なる「命の樹」が倒れたという現実は、村人たちの心に、抜き去ることのできない絶望という名の冷たい楔を深く打ち込んだ。
あちこちで慟哭が響き渡り、力なく天を仰いで崩れ落ちる者、虚ろな目で目の前の瓦礫をただ見つめ続ける者……。
ルーも圧倒的な喪失感と、全てを飲み込まんとする絶望に打ちひしがれ、泥と涙にまみれて地面にうずくまることしかできなかった。
彼女の小さな背中は、世界の終わりを一身に背負っているかのように、痛々しく震えていた。
「ねえ、ルー」
底なしの絶望の淵に、ふわりと芯のある優しい声がかけられた。
ナナミがいつの間にかルーの傍らに静かに膝をつき、潤んだエメラルド色の瞳をじっと見つめていた。
「大地がたとえ深く眠ってしまっていても、あなたの声なら、きっと届くはずよ。どんな小さな歌でもいいの。あなたの魂からの歌は……そうね、まるで魔法のように新しい命の芽を呼ぶのよ。……試してみる価値があると思わない?」
ナナミの言葉は、乾ききった大地に染み込む最初の一滴の清らかな雫のように、ルーの荒んだ心にゆっくりと浸透していく。
ルーはおそるおそる顔を上げた。
涙で濡れそぼった頬を手の甲で乱暴に拭うと、先程までの絶望の色はなく、一点の曇りもない毅然とした強い光が宿っていた。
彼女はまだおぼつかない足取りでふらつきながらも、確かに立ち上がり、瓦礫を一つ一つ乗り越え、倒れた「命の樹」の、かつて最も大きく天を突いていたであろう巨大な根の上に、小さな体で凛と立った。
深呼吸を一つ。
澄み切った声が天に、いや、宇宙の果てにまで届かんばかりに、力強く、どこまでも優しく、ミルラの根の荒れ果てた大地に響き渡った。
ただの「うた」ではなかった。
魂を根源から震わせる、生命そのものの、始まりの歌だった。
歌声はまず、倒れて横たわる「命の樹」と周囲の汚染された大地を、母の愛のように優しく包み込んだ。
長きにわたり樹を蝕んできた禍々しい瘴気の残滓、激しい戦いの生々しい傷跡、この地に澱んでいた全ての負のエネルギーが、春の陽光に溶ける冷たい雪のように、みるみるうちに浄化されていくのが分かった。
永い間、言葉にならぬ苦しみと孤独な戦いを続けてきた「命の樹」の偉大なる魂が、ルーの歌声に導かれるようにして、ようやく安らぎを取り戻し、無数の温かな光の粒子となって、荘厳に天へと還っていくのが見えた。
神々しい光景に重なるように、ミルラの根に安置されていたアウリナの亡骸もまた、柔らかな光の衣をまとい、命の樹の魂と共に安らかに天へと昇っていく。
ルーは二つの大きな光が空に溶けてゆくのを見上げ、そっと呟いた。
「ババさま。……いってらっしゃい」
泣き腫らした顔には慈愛に満ちた優しい笑顔が浮かんでいたが、頬をまた一粒だけ、清らかな涙が静かに伝った。
もう悲しみの涙ではなく、深い感謝と愛する魂の解放を見届けた安堵の涙。
どちらも嘘偽りのない、彼女の心の奥底からの真実の感情だった。
ルーの歌声は風に乗り、光に乗り、ナンバル=ムウの隅々にまで、生命の息吹そのもののように響き渡った。
人間、動物、小さな虫けら、風にそよぐ名もなき草花、森の奥深くに息づく精霊たち……この地に生きとし生けるもの全ての内に眠る、本来の純粋な生命力を呼び覚まし、力強く共鳴させる。
先の戦いで負った傷は癒え、心が砕けそうになっていた者たちには勇気が灯り、黒い実に心を汚染され正気を失っていた者たちも、長い悪夢から覚めたかのように、澱んでいた瞳に澄んだ光を取り戻した。
絶望の色に染まっていた人々の顔に、次第に驚きと、未来への確かな希望の色が、雨上がりの虹のように浮かび上がってくる。
歌声は聖なる浄化の波動となり、汚染された大地と濁った水を清め、ナンバル=ムウ全土に清浄で力強い気が満ちていくのを感じた。
やがて、歌は奇跡を起こす。
倒れた「命の樹」の、最も太い根元、ルーの小さな足元から、眩いばかりの生命の光が溢れ出したかと思うと、小さくも力強い、鮮やかな萌黄色をした「命の樹」の新たな芽が、固くなった土をゆっくりと力強く押し分けて、愛らしい顔を出したのだ。
深い絶望の底から生まれた、希望の光そのものだった。
「あれを……あれを見てくれ!命の樹の……命の樹の新しい芽だ!」
誰かが、かすれた声で叫んだ。
村人たちは神々しい光景と、手のひらほどの小さな芽に宿る圧倒的で純粋な生命力に、しばし言葉を失った。
やがて、誰からともなく嗚咽が漏れ、瞬く間に歓喜の涙の奔流へと変わった。
失われたものの再生、ナンバル=ムウの輝かしい未来を、彼らは小さな芽に、確かに見たのだ。
涙ながらに天を仰ぎ、人々はルーの魂の歌声に、自らの心の声を重ね、共に歌い始めた。
新たな時代の始まりを告げる、美しい生命の賛歌だった。
***
少しの時が過ぎナンバル=ムウには真の平穏が訪れ、以前にも増した明るい活気が戻ってきた。
まだまだ復興途中であるものの人々は悲しみを乗り越え、瓦礫を一つ一つ丁寧に片付け、新しい家を建て直し、希望を込めて畑を耕す。
集落にもう悲壮感はなく、自分たちの手で未来を築き上げていくのだという、力強い意志と、生きることの純粋な喜びに満ちていた。
ロイたちもまた、村人たちに混じり、炊き出しを手伝い、額に汗して力仕事に精を出した。
焚き火の湯気の向こうに見える村人たちの屈託のない笑顔が、彼らの疲れた心を温かくした。
『黒い実』がもたらした悪夢から完全に解放され、ルーの「いのちのうた」と、新たに芽吹いた「命の樹」の若芽に勇気づけられた人々は、自然との真の共生を改めて心に誓った。
もはや「命の樹」の与えられるがままの恵みに一方的に頼るのではない。
自分たちの手で田畑を耕し、知恵を絞り、助け合い、未来を切り開いていく。
確固たる決意が、彼らの瞳を以前よりも強く輝かせていた。
かつての「新たなる旅立ち」の儀式も、形は変わらずとも、意味合いは深く温かく変化していた。
もう無理に感情を押し殺す悲壮感や、歪んだ諦観はない。
故人への心からの感謝と敬愛、生命の大きな循環という大いなる真理への静かな受容と、残された者たちが紡いでいく未来への、確かで明るい希望が満ちていた。
ルーの歌がもたらした、最も大きな奇跡だったのかもしれない。
***
季節が一つ巡るほどの時が経ち、一行がナンバル=ムウを旅立つ日がやってきた。
朝日に輝く広場には、背筋がしゃんと伸び、巫女としての風格も備わってきたルーを先頭に、ミルラの根に住まう全ての者たちが、別れを惜しむように集まっていた。
辺りの空気は、寂しさよりも、旅立つ勇者たちへの心からの感謝と、彼らの未来への力強い激励の念で満ちている。
「巫女は、この地を旅立つゆうしゃに、女神エデルのかごをおくらなきゃいけないって、ばばさまにむかし、おしえてもらったんだ! ルーはまだ、じょうずにできるかわからないけど……でも、いっしょうけんめい、やってみる!」
ルーはそう言うと、少し緊張した面持ちで真っ直ぐに天を仰ぎ、再び美しい歌声を響かせ始めた。
力強い「いのちのうた」とは少し趣の異なる、優しく温かな、旅立つ者たちの道中の安全と幸運を祈る、守護の祈りを込めた歌声だった。
集まった人々は皆、敬虔な面持ちでそっと目を伏せ、清らかで神聖な旋律を、ただ静かに聞き入った。
歌声に応えるかのように、天から柔らかな金色の光が細雪のようにきらきらと降り注ぎ、皆を優しく温かく包み込んだ。
ルーの純粋で穢れなき祈りが形となった、女神エデルからの確かな祝福の光だった。
「みんな本当にありがとう!」
歌い終えたルーは、晴れやかに少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべ、一人一人に駆け寄り、小さな体でぎゅっと力いっぱい抱きしめていく。
「ナナミ……いたいの、いつかルーがもっとすごいみこになったら、ぜったいなおしてあげるからな!」
ルーはナナミを、真剣な目で見つめながら言った。
ナナミは一瞬大きなライラック色の瞳を見開き、すぐに困ったような非常に複雑な表情を浮かべた。
「……やっぱりあなたも、まぎれもない巫女なのね、ルー」
ナナミはほとんど吐息のような、小さな声でそう呟いた。
ルーの純粋で強大な浄化の力をもってしても、彼女自身にかけられた呪いは、まだ解けてはいないのだと、暗に示されたようだった。
クラリスはナンバル=ムウでの忘れがたい経験を通して、精霊使いとして、一人の人間として大きくかけがえのない成長を遂げていた。
古の神獣アルルホスとの正式な魂の契約、固く閉ざされていたルーの心を開き、彼女を絶望の淵から救い出したという経験は、彼に大きな自信と、他者と深く繋がり心を分かち合うことの、何物にも代えがたい喜びを与えてくれた。
「クラリス、だいすき!ルーに、たいせつなこと、いっぱい、いっぱいおしえてくれて、ほんとうにありがとう!」
ルーはクラリスの胸に、ありったけの力で抱きついた。
瞳にはじんわりと涙が浮かんでいたが、決して悲しい別れの涙ではなかった。
「それは光栄だよ、ルー。君と出会えて僕もまた、多くのことを学ばせてもらった。これからは君が太陽のような明るさと優しさで、美しいナンバル=ムウを、この地に生きる人々を、希望の光へと導いていってくれるね」
クラリスはまるで本当の兄のように、優しくルーの頭を撫でた。以前よりもずっと温かく力強かった。
ルーは巫女として、ナンバル=ムウの未来を担う幼きリーダーとして、数ヶ月前とは見違えるほど力強く逞しく成長していた。
屈託ない笑顔は以前にも増して太陽のように明るく、そこにいる全ての者の心を照らしている。
ロイは仲間たちの姿を、頼もしげに見守りながら、ナナミへのまだ言葉にできない淡い想いを胸の奥深くにそっと秘めつつ、魂のガイドであるピィと共に、かけがえのない仲間たちを導くリーダーとして成長していく決意を新たにしていた。
この旅は、まだ終わらない。
魔王を倒し、アストリアに真の平和を取り戻す、その日まで。
一行はルーと村人たち、彼らの旅立ちを祝福するかのようにいつの間にか姿を現していたトトカラムや、森の木々の間から静かに温かく見守るアルルホス、数えきれないほどの森の精霊たちに、盛大にどこまでも温かく見送られた。
魔王討伐という、あまりにも過酷で困難な使命を帯びてはいるが、彼らの足取りは不思議と軽く、希望に満ち溢れていた。
最後にルーは風のように駆け足でロイの元へ行き、自らが夜なべをして編んだのであろう、色とりどりの美しい花の首飾りを彼の首にそっとかけた。
花々からはナンバル=ムウの森の甘く優しい香りがした。
「ロイはもうぜんぜん、めしつかいなんかじゃないな! アストリアを救う、ルーの、ルーたちの、たったひとりのゆうしゃさまだ! だから……またぜったいぜったいあおうな!やくそくだぞ!」
満面の太陽のような笑顔でそう叫ぶと、ルーは一行の姿が森の向こうに消えて、もう見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、小さな手を力いっぱい振り続けるのだった。ナンバル=ムウの輝かしい未来と旅立つ勇者たちへの、数えきれないほどの祈りが、固く、固く込められているかのようだった。
第四章 完




