4-9「大蛇の猛威」
アルルホスの背に乗ったクラリスとルーがミルラの根へ舞い戻った時、先程までの陽気な喧騒は跡形もなく消え去っていた。
燦々と降り注ぐ真昼の陽光が、むしろ惨状を一層際立たせている。
トトカラムの姿はどこにも見えず、村はまるで巨大な獣に蹂躙されたかのように静まり返り、人々の住まう家々は無残に傾ぎ、丹精込めて育てられていた畑は踏み荒らされ、見るも無残な姿を晒していた。
その息を呑むような光景を前に、後から駆けつけたロイたちの胸にも、鉛を飲み込んだかのような重苦しい空気が満ちていく。
「おや、そこの小さな使い手よ。お前、ようやくこの世に正しく顕れたのだね」
張り詰めた静寂を破ったのは、神獣アルルホスの荘厳で、どこか古の響きを持つ声だった。
大きな黄金色の瞳は、ロイの肩で小さな赤い羽根を震わせているピィへと真っ直ぐに向けられている。
「ピィ!」
ピィはアルルホスの視線を受けると、小さな胸を誇らしげに張り「いかにも!」とでも言うかのように一声高らかに鳴いた。
旧知の仲であるかのように、魂のレベルで通じ合っているかのように、二体は言葉にならない意思の疎通を交わしているようだった。
傍らでルーは唇を真一文字に強く結んでいた。
先程までの涙は既に乾き、幼いエメラルド色の瞳には、深い悲しみと確固たる決意の光が明滅しあい、夜明けの星のように強く宿っている。
ナンバル=ムウの未来、愛する「命の樹」を必ず救うのだと。
小さな身体のどこにこれほどの力が、と見紛うほどの覚悟が既に定まっていた。
ロイはそんなルーの姿と集まった仲間たち一人一人の顔を見渡し、静かに頷いた。
「行こう。もうこのまま見て見ぬ振りなんて出来るはずがない」
彼の言葉に、皆がそれぞれの想いを込めて力強く応える。
ルーもまた、小さな拳を握りしめ、ロイの隣に並び立った。
それぞれが使い慣れた武器を手に取り、鎧の紐をきつく締め直し、これから始まるであろう決戦への覚悟を、全身に漲らせる。
ピィの鋭敏な感知能力と、アルルホスの神体から放たれる霊的な導きに従い、一行は「命の樹」の奥部、巨大な蛇が絡み合うかのように複雑に根が入り組んだ地下深くへと、慎重に足を踏み入れた。
巨大な根が天然の洞窟を形成した、広大な地下空間……まさしく、大蛇の巣と呼ぶにふさわしい場所だった。
ひやりとした、墓場のような空気が肌を刺し、『黒い実』から絶えず放たれる禍々しい瘴気が濃密な霧のように立ち込めている。
息をするだけで胸が悪くなるような、淀みきった空気の中、おびただしい数の魔獣が蠢く気配が、闇の奥から絶えずザワザワと響いてきていた。
根の洞窟の最深部。
広がっていたのは、信じがたいおぞましい光景だった。
天を衝くかのように聳え立つ「命の樹」の太い根に、山をも飲み込まんばかりの、途方もなく巨大な蛇が、長い身を何重にも巻き付かせている。ぬらりとした黒紫色の鱗に覆われたその巨体は、悪夢が具現化したかのようだ。
大蛇は「命の樹」の根に、鋭く巨大な牙を深々と突き立て、聖なる樹液を極上の酒でも味わうかのようにゴクゴクと啜りながら、醜悪な口からは絶えず黒く粘り気のある毒気を、濃密な瘴気として吐き出していた。
命の樹が言葉にならぬ苦痛に呻いているかのように、巨木全体が微かに絶え間なく震えているのが分かった。
「ダージャ……」
アルルホスの神体が、悲しげにその名を告げた。
「かつて、ナンバル=ムウの地を、我と共に守護していた、古の地の主だった。だが…忌まわしき魔王の魂に精神を侵され、見るも無残な姿に成り果ててしまったのだろう」
アルルホスの言葉は一同の胸に鉛のように重く、深く響いた。
守護者が、なぜ。
この地を愛していたはずの存在が、なぜ。
「キシャーーーーーーーーーーッ!!」
ダージャがまるで一行の存在に気づいたかのように、甲高い、耳を劈くような咆哮を上げた。
かつての守護者としての威厳など微塵も感じさせない、ただただ破壊と飢餓、狂気だけを求める、忌まわしい獣の叫びだった。
「共にこの地を守り、民を慈しんでいたというのに…なんと嘆かわしい姿になったのだ、ダージャよ。もはや、我らの言葉も忘れてしまったというのか」
アルルホスがかつての友であっただろう存在へ、悲痛な声を上げる。
『タベ…テ…タベテタベテタベテタベテタベテーーーーーー!モット…モット…クロイみを!チカラを!タベテーーーーー!クルシイカ?ソレガイイ!ソレガタマラナイ!』
ダージャの意思が声ではなく、直接脳内に汚泥のように流れ込んでくる。
強烈で邪悪な精神攻撃に、誰もが思わず頭を押さえ、苦悶の表情でその場にうずくまった。
「くっ、あああああっ!」
魂を直接汚染するかのごとき洗脳の波は、アルルホスの神体から放たれた神聖なる波動によって、バチィン!という音と共に弾き返された。
金色の温かな光がロイたちを優しく包み込み、ダージャの邪悪な意思を遮断する。
「頼む……勇者よ、そして仲間たちよ。これ以上、彼に罪を重ねさせないでやってくれ。全ての元凶は頭にある魔石だ……奴の額で黒く不気味に輝いている魔石を破壊してくれれば、あるいは……」
アルルホスの声にはかつての友を魂だけでも救いたいという、切実で悲痛な願いが込められていた。
一行は声にならぬ想いを受け止め、力強く、決然と頷いた。
戦端は唐突に開かれた。
「行くぞ!」
ロイの叫びを合図に、ジークが、ナックが、クロエが、それぞれの盾と武器を固く構え、前衛として、山のような巨体を誇るダージャの前に敢然と立ちはだかる。
薙ぎ払われる巨大な黒紫色の尻尾が、嵐のように襲い来るが、三人は歯を食いしばり、猛攻を巧みな連携で受け流し、強靭な肉体で耐え凌ぐ。
鋭く尖った牙が、岩をも砕く勢いで襲い来るが、彼らは一歩も引かない。
「シルリア、援護を頼む!」
ロイの鋭い指示が飛ぶ。
シルリアは美しい横顔に冷静沈着な表情を浮かべ、愛用の弓をしなやかに引き絞る。
放たれた浄化の力を帯びた矢は、意思を持っているかのように吸い込まれ、ダージャの巨体の僅かな隙間を正確に縫い、的確にその動きを牽制し、確実にダメージを与えていく。
「……塵芥と成りなさい」
ナナミが小さな掌を静かに天に掲げると、周囲の淀んだ空気がビリビリと震え、彼女の足元に巨大な魔法陣が展開される。
凝縮された魔力が、強力な広範囲殲滅魔法となって炸裂した。
根の洞窟内に悪夢のように溢れていた雑多な魔獣たちが、一瞬にして破壊の奔流に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく消滅していく。
圧倒的な余波は、ダージャの巨体をも激しく揺るがし、確かなダメージを与えた。
「森の精霊たちよ、どうか我らに力を貸しておくれ!」
クラリスは、アルルホスの神聖な力を借り、魂を共鳴させ、この地に息づく森の精霊たちを励起させる。
彼の呼びかけに応じ、無数の緑色の優しい光を放つ精霊たちが、生きている蔦のようにダージャの巨体に絡みつき、動きを一時的に封じ込めた。
ルーは出来ることはないかと、必死に辺りを見渡す。
覚悟を決めたとは言え、幼い彼女にとっては本当の本当は逃げ出したいほどに、怖かった。
こんな時、どうすれば。必死にまだ幼い脳みそで考えを巡らせる。
こわかった時、カカさまはどうしてくれたっけ。
思い出す、幼い頃の光景。
『〜〜〜』
小さなメロディの一フレーズが、頭の中によぎる。
「ーーーーそうだっ!!」
思い出の歌が心の中で弾ける。
(ああ、クラリス。お前のいってたことはほんとだ。)
やがて、脈打つように清らかな歌を歌い始めた。
巫女として、この地の全ての生命に捧げる祈りの歌。
(カカさま、トトさま、ババさま。きこえている?)
心の中に生きている彼らに、天高くに座す女神エデルへと響かせるように、ただひたすらに。
彼女の澄み切った歌声は瘴気に満ちたこの絶望的な戦場に、一筋の光のように響き渡り、仲間たちの心に勇気と闘志を再び灯し、皆の士気をどこまでも高めていく。
同時に歌声から放たれる聖なる光の波動が、ダージャの周囲に渦巻く禍々しい瘴気が確実に和らげていくのが分かった。
永遠の別れという深い悲しみを乗り越え、巫女としての強い意志を宿した彼女の歌は、かつてないほどの聖なる力を増幅させていた。
「ピィ!ピピピ、チュン!」(ロイ、右だ!右の鱗が少し剥がれてる!)
「クロエ!今のうちに脇に回り込んでくれ!ナック!そのまま、斧を左目に叩き込んでくれ!」
ロイは肩の上のピィと共に戦場全体を見渡し、仲間たちに鋭い指示を飛ばしながら、剣を抜く。
怖い、やはりどうしようもない恐怖心は、心の奥底から完全に消え去ってはくれない。けれど。
(ナナミが、クラリスが、言ってくれたじゃないか……!世界は俺が思ってるより、ずっとずっと優しいんだ……!)
ナナミの不器用な笑顔、クラリスの温かい言葉。
それらが、ロイの背中を力強く押してくれている。
おかげで小さな頼もしい相棒、ピィにも会えたのだ。
それに今、自分の手には名うての鍛治士が魂を込めて磨いてくれた、伝説の剣が握られている。
負けるわけにはいかない!
彼の剣筋は、まだどこか怯えを含みながらも、以前とは比べ物にならないほど鋭く力強い。
ダージャの鉄のように硬い鱗に深くダメージを重ねていく。
仲間たちの完璧な連携、それぞれの力が一つの強大な流れとなって集束し、山のように巨大な敵を徐々に追い詰めていく。
息もつけないほどの攻防が続いた。
ダージャの抵抗もまた凄まじく、一瞬の油断も許されない、まさに死闘。
だが、ロイたちの心に宿る決意は微塵も揺らがない。
この地を、ルーたちの未来を、必ず守り抜くのだと。
「クラリス!頼む!」
ナナミの放った魔法がダージャの体勢を大きく崩し、クラリスがアルルホスと精霊たちの総力で、巨大な動きをほんの一瞬だけ完全に止めた、刹那。
ロイの灰色の瞳が強く光った。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」
全身全霊の力を込めた彼の一閃が、天から降り注いだ裁きの光のように、閃光となって走り、ダージャの額で禍々しく輝いていた黒い魔石を砕き割った。
パリン、と薄いガラスが割れるような物悲しい音が洞窟内に響き渡り、魔石は粉々に砕け散った。
ダージャの巨体がまるで糸の切れた人形のように大きく、激しく痙攣しその動きが完全に止まる。
もはや咆哮を上げる力も残っていないのか、断末魔の苦悶の叫びと共に、巨体はゆっくりと黒い霧となって消滅していくかと思われた。
静寂の中、ルーがふらりとダージャの巨大な頭があった場所へと近づいた。
霧散しかけていた、かつて守護者であった存在の輪郭を、小さな手で優しく撫でながら、彼女の大きなエメラルド色の瞳からは、慈しみの大粒の涙が止めどなく溢れ出ていた。
「ダージャ……もっと、もっとはやく……きづいてあげられなくて……ごめんなさい……ごめんなさい……おまえも、とてもくるしかったよな……この地をまもってくれていたのに……」
どこまでも澄んだ声で、彼女は静かに歌い始めた。
幼い頃に、優しいカカさまに歌ってもらったのだろうか。
優しく、暖かく、懐かしい旋律の子守唄。
せめて、永い間苦しんできた魂が、安らかに穏やかに眠れるように。
純粋な、深い祈りを込めた歌声は、戦いの喧騒が嘘のように消え去った洞窟内に、静かに優しく響き渡った。
女神エデルは汚れなき幼い巫女の祈りを、確かに聞き届けたのだろうか。
ダージャの魂を覆っていた黒い霧は、ルーの歌によって少しずつ浄化され、やがて淡く温かい光の粒子へと変わり、静かに天へと昇っていく。
想像を絶するほどの長い苦しみからの解放であり、永い永い迷いの道からの帰還だったのかもしれない。
ダージャが完全に消滅すると「命の樹」を覆っていた、息も詰まるような禍々しいオーラは朝靄が晴れるように綺麗に消え去った。
しかし、長きにわたって邪悪な瘴気に侵され続けた聖なる樹もそれを支えてきた大地も、もう既に限界だった。
永い苦しみから解放された安堵と、自身の永い生命の終焉を静かに悟ったかのように、無数の葉を最後の別れを告げるかのように震わせ落としている。
クラリスがアルルホスを介し、自身の魂を深く共鳴させ、「命の樹」と最後の言葉にならない対話を試みた。
彼の美しい青い瞳には、深い悲しみとそして測り知れないほどの敬愛の念が浮かんでいる。
「永久の時を……この地に生きる全ての者たちに、限りない恵みをありがとう……。我らが未熟であるが故に、あなたを守り切れなくてごめんよ……。もう、苦しまなくていいんだ。あなたはこの地に、我々の心に、限りない命を与えてくれた。大いなる愛は、決して消えないから……」
クラリスの魂からの言葉に呼応するように、「命の樹」は幹全体から優しい光を放った。
クラリスと傍らでとめどなく涙を流し続けるルーに、心からの感謝を伝えているかのようだった。
無数の枝先が慈しむように優しく風に揺れ全てを包み込むような懐かしい気配を感じさせた。
やがて「命の樹」は、魔王の魂の呪縛から完全に解放され、未来の世代に、この地に生きる全ての生命に、最後の想いを託すため、自らの意思で永い生命活動を静かに終えることを選択した。
巨木はゆっくりと、威厳を少しも損なうことなく自らが生まれ育った母なる大地へと、身を横たえていく。
ゴゴゴゴゴゴ……という、嗚咽のような地響きが根の洞窟全体を、地上をも激しく揺るがすが、不思議とそれは破壊的なものではなく、むしろ荘厳で神聖な儀式の一部であるかのように感じられた。
「まずい!こっちに倒れてくるぞ!みんな、安全な場所へ!早く!」
命の樹が倒れゆくさまを見守っていたロイが、ふと我に返って絶叫する。
「ピィ!ピィーッ!」
「皆、ここだ!この岩陰ならばおそらく!ここに早く隠れよ!」
ピィとアルルホスが、根が複雑に絡まり合い、天然の洞穴のようになっている岩場を指し示す。
皆、雪崩れ込むようにして、ぎゅうぎゅう詰めになりながら身を潜めた。
ナナミが極限状況の中、迅速に手を組み、力を振り絞るように祈りを捧げる。
「守護の冠を御身に戴く女神エデルよ、どうか我が身に、汝の聖なる盾を下し給え。如何なる攻撃をも退け、如何なる災いをも払う聖なる守護の壁よ、我が肉体を、我が仲間たちを、決して貫けぬ絶対なるものとせしめよ!」
彼女の祈りに応え、淡く、強靭な神聖なバリアが、一行の周囲にドーム状に展開される。
直後、凄まじい衝撃と轟音が彼らを襲った。
皆、ただ身を寄せ合い、互いの存在を確かめるように必死に耐える。
大地が割れるかのような音が、鼓膜を貫かんばかりに鳴り響き、視界は土煙で何も見えない。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
永遠にも感じられた衝撃がようやく過ぎ去り、舞い上がっていた土煙がゆっくりと晴れていく。
ロイがおそるおそる目を開けると、そこには……信じられないほどに広く澄み渡った、青空が広がっていた。




