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ruth story  作者: Cy


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30/86

4-8「クラリス・ブレイクリー」



風が木々の葉を揺らす音さえ、とうに途絶えてしまったかのような根にまみれた、命の樹の元。

もう一歩も前に進めないほどに、心も身体も疲れ果てていた。

細い肩で荒い息を繰り返し、ぜえぜえと喘ぐ喉はまるで焼けつくように痛い。

どれだけの間、闇雲に走り続けてきたのだろうか。

追いかけてくるものは誰もいないはずなのに、何か見えない恐ろしいものから逃れるように、ただひたすらに、小さな足を動かし続けた。

ふらふらと覚束ない足取りで、苔むした太い根にずるずると背中を預けるようにして座り込む。

ざらりとした冷たい樹皮の感触が、薄汚れてしまった簡素な服越しに、じわりと伝わってきた。

ぎゅっと閉じた瞼の裏には、ちかちかと赤い光が執拗に点滅し、頭の芯がズキズキと痛む。


ぽとり。


乾いた小さな音と共に、熟しきってぬらりとした艶を放つ『黒い実』が一つ、ルーのすぐ傍の湿った土の上に、誰かがそっと置いたかのように転がり落ちた。

「……くろい、み」

掠れた声が自分のものではないかのように乾いた唇から漏れた。

もう見慣れてしまった、不吉な色。

甘く抗いがたい香りを放つ、果実。





***




かつて、森の木々がもたらす赤い実は、ルーにとってとびきり美味しい宝物だった。

太陽の優しい光をいっぱいに浴びて、ルビーのようにきらきらと輝いていた。

ルーがもっとずっと小さかった頃、優しいカカさまが、赤い実を丁寧に丁寧に砕いて、小さな木のスプーンで食べさせてくれた。

甘酸っぱくて、ふんわりと花の香りがして、言葉にできないほど幸せな味が小さな口いっぱいに広がったのを、今でもはっきりと覚えている。


目を瞑れば、今も鮮明に思い浮かぶ。

カカさまの、いつもルーを見つめていた柔らかな笑顔。

大きな岩を軽々と持ち上げてしまう、トトさまの太くて逞しい手の温もり。

陽だまりの中で、二人に挟まれて聞いた、たくさんの物語。

全てが満ち足りていた、温かな夢のような日々。


けれどいつからだったろうか。

森の木々がつけるのは美しい赤い実ではなく、禍々しい黒い実ばかりになってしまったのは。

黒い実をカカさまがこっそりと口にするようになってから、優しかったカカさまは、少しずつおかしくなっていった。


うつろな目でいつも遠くの空ばかりを見つめ、「新しい世界」のことばかりを、うわ言のように口にするようになった。


カカさまを元の優しいカカさまに戻したくて、トトさまは「命の樹様の力を借りてくる。試練の洞窟へ行って、カカさまを治す手がかりを見つける」と、そう言って森の奥深くへと消えていった。

けれどトトさまはいつまで待っても帰ってこなかった。

きっとカカさまがいつも言っていた、「新しい世界」へルーたちよりも先に一人で行ってしまったのだ。


などと、思うことにした。

そうでも思わなければ、胸が張り裂けそうだったから。

次第にカカさまは弱っていき、大好きだった森の蜂蜜すら喉を通らなくなり、やがて眠るように細く息を引き取った。

カカさまもまた、トトさまのいる「新しい世界」へ旅立ってしまったのだ。

最後に残された唯一の肉親であり、いつも優しい昔話をしてくれたババさまも、「新しい世界」へと行ってしまった。

とうとうルーは「広い世界」に本当にひとりぼっちになってしまった。



どうして、誰もルーの問いかけに返事をしてくれないの?


そんなに、楽しいところなの?

「新しい世界」っていうのは。

それなら、どうして。


「ルー、私たちの可愛い子。お前は、私たちの宝物だよ」

「お前を心から愛しているよ、ルー」

「トトさま、カカさま!ルーも、だーいすき!」


あんなに優しく抱きしめてくれたくせに。

あんなに愛おしそうに、何度も何度もルーの名前を呼んでくれたくせに。


どうして、ルーを一緒に「新しい世界」へ連れて行ってくれなかったの?


胸の奥がぎゅううううっと、万力で締め付けられるように痛い。

裏切られたような、たった一人だけこの暗い森に置き去りにされたような深い寂しさが、幼い心を容赦なく蝕んでいく。



***


ハッと、何かの気配に目を開くと、先ほどと同じ黒い実が運命がそっと手を招いているかのように、静かにルーの目の前に転がっていた。

カカさまがこの実を食べてから「新しい世界」へ旅立つことばかりに執着するようになったのだ。

この実の先に、カカさまの言っていた「新しい世界」があるのなら……。


とたんにどこからともなく、甘く囁くような声がすぐ耳元で響き渡った。

決して一人ではなく、幾重にも重なった、男女とも、子供とも大人ともつかない、奇妙で抗いがたいほど魅力的な声だった。


『ルー……かわいいルー……こちらへおいで。黒い実をたべて、私たちのいる世界へ、さあ、おいで……』

『そうすれば、すぐにまた会えるよ。優しいカカさまにも、力持ちのトトさまにも……』

『こちらでまた三人で、沢山沢山遊ぼう。もう、寂しくなんかないよ……決して……』

『『『さぁ、黒い実を、今すぐ食べてごらん?とっても、とっても美味しいよ?』』』


甘い蜜のような声。

ねっとり粘りつくように脳髄に染み込み、ルーの脆くなった心を激しく揺さぶる。

震える両手で何かに誘われるように黒い実をそっと掴んだ。

ひんやりとした、どこかぬめりのあるような感触が、小さな手のひらに伝わる。

もう、寂しいのは嫌だ。

ひとりぼっちは、もうたくさんだ。

カカさまに会いたい。トトさまに会いたい。

あの頃のように、三人で手を繋いでお腹を抱えて笑い合いたい。

目を固く瞑り、小さな口をゆっくりとあけた。

黒い実がその甘い香りと共に、ルーの乾いた唇に触れようとした。


パシッ!


鋭い音が森の静寂を破り、手の上がふっと軽くなる感覚。

何が起こったのかわからず、重々しくルーが目を開けると、そこには肩で大きく息を切らしたクラリスが、鬼気迫る表情で立っていた。

彼の美しい金の髪が、びっしょりと額に張り付いている。


「なにを、して、いるんだい、ルー」

ぜいぜいと荒い息を切らしながらも、声には今まで聞いたこともないような、鋭く強い響きがあった。


「……クラリス……」

ルーは呆然と目の前の突然の闖入者を見上げた。


「なぜ、今、この実を食べようとしたんだ?正直に話してごらん」

クラリスは先ほどとは打って変わって、厳しく諭すような口調で問い詰める。

普段優しい眼差しの青い瞳には、ルーが今まで見たことのないような、強い、悲しい光が宿っており、気迫に押されてルーはびくりと小さな肩を揺らした。


「……トトさまと……カカさまに……あえるって……おもった、から……」

からっぽになったような虚ろな瞳が、力なく俯きがちになる。

悪いことをしたつもりはないのに、どうしてクラリスはこんなに怒っているのだろう。

胸の奥が、またちくちくと痛んだ。


「そんな気持ちで、そんな顔で、その実を食べても、君のカカさまやトトさまには、もう二度と会えない。絶対に、絶対に、会えないんだよ、ルー!」


クラリスは自分のことのように悲痛な顔で、必死に、懸命に訴えかける。

抑えようもなく震える声。

この世で最もむごい真実を、伝えなければならない役目を負わされた者のように、彼自身の心が張り裂けそうになりながらも、ルーの潤んだ瞳をただまっすぐに見つめて言葉を続けた。


ルーの向こう側に、幼い頃の彼も重なるようだった。


「……なんで……?どうして、そんなこというの……?」

合わせたルーの瞳に、みるみるうちに涙の膜が張り、今にもぽろぽろとこぼれ落ちそうに、はかなくうるりと揺れる。

ルーの向こう側に重なる幼い彼もまた、絶望に伏した目に涙を浮かべる。


「……君の大切なトトさまも、優しいカカさまもね。もう、僕たちがどんなに願っても、どんなに頑張って会いに行こうとしても、決して会えるような場所にはいないんだ。どれだけ手を伸ばしても、指先が触れることすらないほど……アストリアの果ての果てよりも、夜空に瞬く一番遠い星の小さな瞬きよりも、ずっとずっと、遥か遠くへ行ってしまったからだよ」

クラリスの声は深い悲しみを湛えながらも、どこまでも優しく穏やかだった。


ルーの大きな瞳が信じられない、信じたくない、というように大きく絶望的に揺れた。

足元から、今いる大地がガラガラと崩れ落ちていくような途方もない感覚に襲われる。


「あの黒い実を食べても、今の君では誰にも、何にも会えない。そこに待っているのは、ただの冷たい“終わり”だけだ。その先には、きっと……“誰も”、“何も”いない、虚無の世界なんだよ」


クラリスの言葉の一つ一つが、冷たい氷の刃のようにルーの幼い胸に、深く突き刺さる。



「……でも、でも、みんな、あたらしいせかいに……カカさまが、そう言ってた……ばばさまも……だから、ルーも……」

かろうじて絞り出した声は、か細く途切れ途切れに震えていた。

信じたい。

カカさまの言葉を、ババさまの言葉を。

それが今のルーにとって最後で唯一の希望なのだから。


「……そう思いたいよね。僕だって……もし、そうなら、どんなにいいだろうかと、心からそう思う。でもね、ルー」

クラリスはゆっくりと息を吸い込み静かにはっきりと告げた。


「“会いたい”っていう、大切な気持ちを君のたった一つの命と引き換えにしちゃ、絶対にいけないんだ」


ルーの唇が小刻みにわなないた。

言葉にならない、悲しみとも怒りともつかない感情が喉の奥でつかえ、声にならない。


クラリスは静かに、本当に静かに、ルーの前に膝を折り、その小さな、氷のように冷たくなった手を、自身の手のひらで優しく、そして力強く包み込んだ。

温かい体温がじんわりと、けれど確かに伝わってくる。


「大切な人を、ある日突然失ってしまって……寂しくて、つらくて、悲しくて、もうどうしようもなくなったとき。それでも、この世界で“生きる”っていうのは、本当に、本当に苦しくて、息もできないほど辛いことだよ。……僕も、よく知ってる。君の痛みが自分のことのように、痛いほどにね」

彼の声には嘘偽りのない深い共感と、彼自身もそれ以上の耐えがたい痛みを乗り越えてきたであろうことが、痛切に滲んでいた。


かつて自分は心のビンの中身を空っぽにすることを選んでしまった。

むしろ、心の中のビンですら持つことを諦めたと言っても過言ではない。


ルーはきっと心のビンの中身を詰めたままにした。

キラキラしたものもくすんだカケラも、たくさん詰まっているのに固く固く蓋を閉じてしまった。


ようやく、クラリスは理解する。


ビンの中身は空っぽでも、たくさんでもいいものではないと。

素敵な想いがたくさん詰まっていたとしても、詰めすぎてはいつかビンはひび割れてしまう。

たとえどんなに綺麗なものでも、心苦しくとも、時折ビンの外へ投げ出さなくてはならないのだ。

集めて、眺めて、並べて、投げ出して、また集めて、そうやって入れ替えて行くものだと。


ルーの大きな瞳から、ぽろり、ぽろり、と大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちてゆく。

ずっと、ずっと心の奥底に、誰にも気づかれないように溜め込んでいた、冷たくてしょっぱい悲しみの雫だった。


クラリスは泣き崩れるルーの姿を見て、優しく、過去の自分自身にも言い聞かせるかのように、寂しげに微笑んだ。


「でもね、ルー。

君がこうして“生きている”限り、君の大切なトトさまも、優しいカカさまも、君の心の中でずっと一緒にいることができるんだ。

君が笑うとき、君が泣くとき、君が何かに一生懸命手を伸ばして、頑張っているとき。

全てを君と一緒に、彼らもまた感じて生きているんだよ。君が彼らのことを覚えている限り、君の中で彼らは永遠に、生き続けているんだ」


「……いきてる……?トトさまも……カカさまも……ルーの、こころのなかで……?」

涙で濡れた潤んだ瞳が、クラリスの顔を捉える。


「そう。だからね、ルー。君がこの世界で“生きてる”っていうことは、君の大切なトトさまやカカさまが、“君を通して、この世界にまだ一緒にいる”っていう、かけがえのない証なんだ。もし君が黒い実を食べてしまったら……君だけじゃなく君の心の中にいる、かけがえのない大切な二人も、君と一緒に、本当に消えてしまうことになるんだよ」


「……っ!」

ルーは、はっと息を呑んだ。

今まで一度も、考えたこともない視点だった。


「……それが、本当の本当の“死”っていうことなんだ。何もかもなくなってしまうということ……」

クラリスのどこまでも優しい青い瞳がルーの涙で滲み、きらきらと陽光の残照を反射する。


深い悲しみを知る、澄んだ瞳に見つめられ、クラリスの言葉の一つ一つが、ルーの荒んで凍てついた心に染み込んでいく。

やがてルーは静かに肩を震わせ、ゆっくり、本当にゆっくりと嗚咽を上げ始めた。

ダムが決壊したかのように、次第に大きな泣き声へと変わっていった。

幼い子供がするように、わぁわぁと声を上げて、地面に突っ伏して泣きじゃくり始めた。

ずっと溜め込んできた孤独も、言葉にできなかった悲しみも、誰にも言えなかった寂しさも、得体の知れない不安も、全てを、今、この瞬間に吐き出すように。


少し安心したように、クラリスはもう自分の声は届いていないかもしれないなと思いつつも、泣き喚くルーの小さな体をそっと抱きしめながら、自分自身にも言い聞かせるかのように、独り言のように続けた。


「その胸の痛みはね、君がトトさまやカカさまのことを、そしてこの美しい世界を、心の底から誰よりも強く愛していた、かけがえのない証なんだ。だから、無理に笑わなくていい。泣きたい時は、もう我慢しないで、気が済むまで泣けばいいんだ。きっと、君の心を少しずつ本当に少しずつだけど、必ず癒してくれるから」

背中を優しくゆっくりと撫でる手が、温かい。

「この国の“旅立ち”の儀式はね、きっと、残された人たちが前を向いて生きていくための、強い祈りの形なんだと思う。だからといって、自分の心の中にある悲しい気持ちも、寂しい気持ちも、無理に押し込めて、蓋をしてしまう必要はないんだよ。全てが今の君を形作っている、かけがえのない大切な心の一部なんだから。……もう、閉じ込めなくていいんだ……だからお願いだ、ルー。僕たちと一緒に、この村を、命の樹様を蝕む、呪われた死の根源を断ち切ろう。……諦めるのは、まだ、ずっとずっと早いよ」


ルーに重なっていた自分の幼い頃の幻影は、

ルーはクラリスの温かな腕の中で、心の奥底に溜め込んでいた全ての悲しみと苦しみを、とめどなく溢れ出る涙と共に、ただひたすらに吐き出していた。どれくらいの時間が、そうして過ぎていったのだろうか。

やがてしゃくりあげるような激しい呼吸も、少しずつ穏やかになりながらも、クラリスの言葉一つ一つが、確かに彼女の魂に届いていた。

涙に濡れた顔を上げ、クラリスの服の袖をぎゅっと掴んだまま、力強く何度もこくりと頷いた。


クラリスは心の底から安堵の息を小さく漏らし、ルーの頭を優しく撫でた。

静かに立ち上がると、自らの魂と契約した古の森の神獣、アルルホスの名を呼び、神体をこの場に呼び寄せた。


彼の呼びかけに応じ、周囲の空間がまるで陽炎のように揺らぎ、荘厳なオーラをまとったアルルホスが音もなく、圧倒的な存在感を放って静かに姿を現す。

神々しい姿は、周囲の薄暗い森の空気を一変させ、まるで古の聖域がこの場に出現したかのようだった。

クラリスはアルルホスに手短にこれまでの事情を説明すると、まだ少ししゃくりあげているルーを優しく促し、広くなめらかなアルルホスの背中にそっと乗せた。

自身もまた、軽やかに後ろに飛び乗ると、アルルホスは力強い四肢で大地を蹴り、彼らが目指す「ミルラの根」の集落……へと、森の奥深くを疾風のように駆け抜けていくのであった。


ルーは、クラリスの腕にしがみつきながら、猛スピードで流れゆく木々の景色を、ぼんやりと見つめていた。

涙はまだぽろぽろと頬を伝い落ちていたけれど、胸の奥を締め付けていた鉛のような重さは、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。

まだ悲しみは、簡単には消えない。

でももう、ひとりじゃない。

確かな感覚が冷え切って凍てついていたルーの心に、温かな希望の灯火をともし始めていた。

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