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ruth story  作者: Cy


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1-3 「鏡にうつる深淵」


彼女の頬を伝う涙はまるで止めどない雨のように、いつまでも濡れた軌跡を描き続けた。

細い肩は目に見えて震え、冷たく乾いたダンジョンの空気の中、彼女は押し殺した慟哭のように、音も出さずにただひたすらに楚々と涙を零し続けた。

小さな体温さえ凍てつく空気に抗えず、かえってロイの腕の中で震えているように感じられた。


どうすればいいのか、ロイには皆目見当がつかなかった。

慌てて少女を地面に、壊れやすい陶器を置くようにそっと座らせた。

困ったように立ち尽くし、焦燥感に駆られて何かしなければと両手を空中で所在なさげに泳がせてみたが、慰めの言葉も、取るべき行動も、何ひとつ適切なものが彼の脳裏に浮かんでこなかった。


「ち、違うんだ!」


張り詰めた喉から絞り出された声は、情けなく裏返り乾いた空気に掠れた。

彼はどうやら、敵ではないことをどうしても示したいらしい。


「ぼ、ぼく、いや俺は不審者じゃ……あ、あの、ここにいた魔獣はもう、きれいに片付けましたから!ご安心を!」


耳をつんざくような自分の必死の声に、ロイは内心でさらに青ざめた。

拙い叫びは先ほどまで悍ましい魔獣が闊歩していた空虚なこの空間に、砂漠に水を撒くように虚しく吸い込まれていく。


この世界からたった一人、切り離されてしまったかのように少女はひたすらに涙を流し続けていた。

瓦礫と泥濘にまみれたその場所で、彼女の存在だけが異質で、痛々しいほどに際立っている。

もうどうしたらいいのだ、と困惑して、少女の前にゆっくりと膝をついた。泥に汚れたマントが、冷たい地面にじっとりと広がる。


「俺たちは……魔王を倒すために、国から遣わされた者で……その……!」


喉がからからに渇き、言葉がうまく紡げない。

まるで錆びついた歯車を回すように、ひとつひとつ声を絞り出し、ロイは何とか事情を説明しようと試みる。

それでも、ロイは逃げるように視線を逸らすことだけはしなかった。震える自身の瞳で、必死に少女の顔を見つめ続けた。

己の無力さを噛み締めながら。


少女もーーただ、灰の瞳を見つめ沈黙していた。

壊れた瓦礫の隙間から顔を出す月光が色白い輪郭を白く照らし出す。

血と泥に汚れてなお、痛ましいほどに無防備で。

涙で濡れた長い髪が頬に張り付き、震える長い睫毛の下で、大きな瞳が静かにロイを見上げていた。

ライラックの瞳は深い井戸の底のように、感情の色を映してはいなかった。


やがて、彼女は何かを確信したかのように、ゆっくりと小さく首を傾げた。

凍てつくような夜気の中、か細い唇がわずかに動く。


「……そう。」


吐息のように漏れたその声は、あまりにも静かだった。

凪いだ水面の下に広がる、底知れない深淵を覗き込んだ時のような、ひやりとした感触を伴っていた。

深い、深い湖のような静けさ。

たった一言が、ロイの心臓に冷たい氷の針のように突き刺さった。


ただの頷き。ただの一言。

なのに、彼女の「そう」という返答には、多くのものが込められていた。

不安。疑念。絶望。……そして、微かに、諦め。


ロイは、胸を締め付けられるような衝動を必死で押し殺した。

泥に濡れた膝を地につけたまま、ただ、少女のそばにいることしかできなかった。

一体何に、こんなにも嘆いているのか到底理解しきれない脳みそが考えた言葉なんかでは、もはや何の慰めにもならないように思えた。



「ロイ……その子……」


背後からかすかな声がした。

振り向くと、物陰から仲間たちがわらわらと姿を現していた。

クロエ、シルリア、ジーク、ナック、そしてクラリス。

それぞれが武器を手に、警戒を解かぬまま、ロイの背後に集まってくる。

彼らは皆、見たこともない珍しい生き物でも観察するかのように、ロイの傍らに力なく座る少女を遠巻きに覗き込んでいた。


「……あー……」


ロイは再び乾いた笑いを漏らすしかなかった。

喉の奥はカラカラで、もはやまともな言葉は出てきそうにない。

伝説の剣?そんなものは、今、この場においては、ただの冷たい鉄くずに過ぎなかった。

血まみれの少女が放つ痛切なまでの存在感の方が、どんな伝説の武具をも遥かに凌駕していた。


「なっ……!ちょ、ちょっと待てよ!」


ジークが突然、血相を変えて叫んだ。

驚きに目を剥き、必死に記憶の糸を辿ろうと頭を抱える。


「なんか見たことあるぞ!どこでだっけ……!昨日酒場にいた……」


ナックもまた、懸命に記憶の引き出しを探っている。苦悶の表情は、喉元まで出かかっている名前を思い出せずに身悶える子供のようだ。


「嘘だろ、君たち……」


呆れたような声が響いた。

クラリスが長い前髪を優雅に払いながら、諭すように言った。


「マリナ・マチルダ。かつて、魔王を封印した伝説の大魔女だよ。驚くくらい、瓜二つだね。」


「えー、そんな名前だったかー?ヤキニク・スゲーウメーとかじゃなかったか?」


ナックは鼻の下を掻きながら、間の抜けた声を上げる。

場違いな空気に、ロイはこめかみが引き攣るのを感じた。


仲間たちの不躾な視線が集中する中、シルリアがそっと一歩前に進み出た。

壊れやすい硝子に触れるかのように、なるべく驚かさないような声で少女に声をかける。


「あの……あなたは?」


少女はうつむいたまま、消え入りそうなかすれた声で答えた。


「……ナナミ。」



わずかな間を置いて、言葉を続ける。



「ナナミ・マチルダ……その、さっき言っていたマリナ・マチルダの、子孫、なの。」


ナナミ・マチルダーー名前を聞いた瞬間、張り詰めていたパーティの空気が、微かに震えた。

誰もが息を呑み、無言で顔を見合わせる。

目と目が交わされ、言葉にならない言葉が飛び交う。

次の瞬間には示し合わせたかのように、全員が確信に満ちた表情で深く頷き合っていた。


(こいつ(この子)は、絶対に強い……!)


ロイは心の中でガッツポーズを決める。内心では小躍りしていた。


(キターーー!!)


胸の中で歓喜の鐘がゴンゴン鳴り響く。


(間違いない!これは掘り出し物だ!!女神エデルからの贈り物だ!!!)


彼女がどのような力を持っているのか、片鱗すら知らない。だが、ロイは本能的に感じ取っていた。この少女は、ただ者ではない。

計り知れない何かを秘めた、逸材だと。


ロイの下心に気づくはずもないナナミは、なおも震える声で言葉を継いだ。


「……一緒に旅をしていた、他の人たちは……多分、全滅、しちゃったみたいね……」


今にもかき消えてしまいそうなほど弱々しい声だった。嵐の中の小さな灯火のように、頼りなく揺らめいている。


「……私、救えなかった……」


小さな肩が、ひくりと震えた。

震えが伝播するかのように、森に漂う夜の空気が、一瞬にして凍てつくほど冷たく張り詰めた。


「な、なんですとー!?」


耐えかねたロイが、大げさな舞台役者のように大仰な身振りで叫んだ。


「そ、それは、大変なことに!こりゃあ、一大事だ!」


彼は勢いよく立ち上がり、手を振り回す。


「君のような可憐な少女を、危険な目に遭わせるわけにはいかない!そうだろう、みんな!」


あまりにも芝居がかったロイの態度に、クロエは隠そうともせず盛大なため息をついた。


「……あんた、今日、どうしたのよ?」


氷のように冷たい視線を浴びても、ロイは全く意に介さない。むしろ、この状況を楽しんでいる節すらあった。

騒がしい一行のやり取りを、ナナミはどこか遠い、悲しげな瞳で見つめていた。

しばしの躊躇いの後、俯きがちに震える声でぽつりと呟いた。


「……迷惑じゃなければ、一緒にいかせてもらってもいいかしら?」


そう言うと、ナナミはそれまで胸に抱えていた、オーロラにぼんやりと光輝く剣を、そっとロイに差し出した。

白く細い腕が、不安げに震えている。

渡された剣は、持ち主の深い悲しみを映し出すかのように、今はただ、鈍く物悲しい光を帯びていた。

ロイは一瞬、剣が放つ尋常ならざる気配に戸惑ったが、すぐに恭しく受け取った。


「……ありがとう、ナナミ。もちろん歓迎するよ。」


ナナミは裸足のままだった。

白くか細い足の指を、地面の冷たい泥が容赦なく汚していく。

身にまとっているのは、血と泥に汚れた白いワンピース一枚きり。

それでも彼女は最後の勇気を振り絞るように、痛ましいほどまっすぐに立っていた。


「よし!この子を放っておくわけにはいかない!お姫様抱っこだ!」


ロイが高らかに宣言したのと、ほぼ同時だった。

後ろから、すかさず、ジークとナックが叫び声を上げた。


「いや、おんぶだ!背中のほうが安定感があるだろ」

「いやいや、肩車だ!見晴らしサイコーだし!」


二人は口々に主張しながら、我先にとロイを押しのける勢いで前に出る。

子供のようにはしゃぎ回る男たちに、クロエの眉間には、くっきりと深いしわが刻まれた。


「うるっさいわね、あんたたち!調子に乗りすぎ!」


まるで雷鳴のように、陰気なダンジョンの静寂を打ち破る声が響き渡る。

ジークとナックは、叱られた子犬のようにぴたりと動きを止め、バツが悪そうに縮こまった。



***

街へと戻った一行は、何をおいてもまず装備屋へと駆け込んだ。

剥き出しの腕や足に、夜の冷たい風が容赦なく吹きつけ、ナナミはぶるりと肩を震わせた。

彼女がまとうワンピースには、乾いた血の跡が痛々しくこびりつき、破れた箇所からは寒さにこわばった白い肌が覗いていた。



「前に見つけたんだけどさ、これなんてどうだい?」


クラリスがにっこりと微笑みながら、取り出したのはレースとフリルが幾重にも重ねられた、豪奢なドレスだった。

薔薇の刺繍があしらわれ、たっぷりのリボンが飾られている。

アンティークドールの衣装のようだ。


「いやいや、こういうときは防御力重視だろ!」


ジークはそう言うなり、店の隅から頑丈そうな鋼鉄の鎧を引っ張り出し、重たげな音を立てて床に置いた。ずっしりと響く金属音が、埃っぽい店内に鈍く反響する。


「見てよこれ!天使の羽つきミニスカ!これならみんなメロメロ間違いなし〜!」


ロイは一人、目をキラキラと輝かせながら、白いミニスカートを振り回している。

そのたびに、ふわふわとした可愛らしい布地が、ひらひらと軽やかに宙を舞った。


「甘い!甘すぎる!筋肉を育てるには、動きにくい重装備しかないんだ!!」


ナックが妙な熱意を込めて、肩パッドが異様に巨大な、いかにもゴツい鎧を掲げる。

どう見てもナナミの華奢な体には不釣り合いな代物を真剣に勧める様子に、クロエの堪忍袋の緒はついにぷっつりと切れた。


「いい加減にしろって言ってんでしょうが!!!」


怒号と同時に、クロエの美しい桃色の髪が、怒りのオーラでふわりと逆立ったかのように見えた。男たちは一斉に硬直し、わずかに身を縮こませて沈黙した。




***

喧騒の中、ナナミは一人、店の奥まった一角に視線を向けていた。

――そこに掛けられていたのは、誰も気にも留めなかったような、ごく地味な一揃いの衣装だった。

清潔そうな真っ白なワイシャツ。

仕立ての良い黒のベスト。

首元には、小さなピンク色のリボンが控えめに結ばれている。

漆黒のスカートは動きやすそうな膝丈で、装飾らしい装飾は何もない、どこにでもあるようなシンプルなデザイン。

ナナミはゆっくりと目当ての服に近づき、震える指先で、そっと布地に触れた。

さらりとした、上質な木綿の感触。

それが、ひどく懐かしいもののように感じられた。


かつて伝説と謳われた大魔女が、好んで纏っていたとされる衣服――

もちろん、これは精巧に作られたレプリカにすぎない。

だが、今のナナミにとってはそれだけで十分すぎる意味を持っていた。


「……これが、いい。」


掠れた声が、誰に聞かせるでもなく、静かに漏れた。

服一式を手に取ると、ナナミは僅かな躊躇いの後、おずおずと試着室へと向かった。



***

「さあ、お騒がせボーイズたち。お会計の時間よ。」

クロエがぱんぱんと手を叩く。

散々楽しんだんでしょう?と言わんばかりの黒い笑みを浮かべている。


とてつもない威圧を感じる声に、男たちはびくりと肩を跳ねさせ、慌てて各自の財布を探り始めた。

チャリン、チャリンと小銭がぶつかり合う音。

床をせわしなく踏む靴音。

先程までの騒がしさとは違う、妙に慌ただしい空気が流れる。

慌ただしい喧噪の中、シルリアだけが一人、ぼんやりと遠い目をしていた。

彼女の視線は、試着室の閉じられた扉に注がれているようでもあり、もっと別の遥か遠い何かを見つめているようでもあった。



***

その頃ーー

試着室の中は、しんと静まり返っていた。

古びた木の壁、わずかにきしむ床。

うっすらと埃となめし革の匂いが漂う、狭く薄暗い空間。

ナナミは震える手で、血と泥に染まったワンピースの背中の留め具に手をかけた。

布地が擦れる微かな音だけが、やけに大きく耳に響く。

汚れたワンピースを脱ぎ捨てると、冷たい空気がむき出しになった肌を容赦なく刺した。

ぶるりと身震いしながら、鏡に映る自分の背中に視線を落とすーー

そこに広がっていた。黒々とした、異様な形のアザ。

極めて小さいものであったが、単なる痣ではなかった。

意思を持つ禍々しい生き物のように、皮膚の上で不気味に脈打っている。

鏡の中に映った自分自身。

どこまでも暗く、光を失った瞳が、冷たくその忌まわしい紋様を見つめ返していた。

ナナミは、ぎゅっと唇をかみしめる。痛みにも似た感情が胸を締め付ける。


(……そう、そういうことなのね……)


心の中で、誰にも打ち明けることのできない、あまりにも重い秘密を、そっと受け入れた。声には出さず、ただ静かに、この狭い空間で、ひとりきりで。


(……これが、私の運命……)


今の彼女にできることは、ただ、静かに目を伏せることだけだった。鏡の中の自分から目を逸らすように。受け入れたはずの運命の重さに、押し潰されそうになりながら。


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