4-7「いかないで」
「……じゃあ一度、これまでの情報を整理させてもらうよ」
先ほどのロイとピィを巡る喧騒が嘘のように、一行が集う宿屋の一室は、水を打ったような静寂に包まれていた。
アルルホスから託された、重々しい言葉の断片、クラリスがルーや森の精霊たちとの交流の中で丹念に集めてきた情報が、難解なパズルのピースのように一つ一つ、重苦しい雰囲気を伴って卓上に置かれていく。
「……と、言うことなんだ。僕が知り得たのは、ここまでだ」
クラリスがまるで喉の奥から絞り出すかのように言った。
表情は硬く、いつもの軽やかさは影を潜めている。
一同は神妙な面持ちで深く頷き、それぞれが思考を巡らせていた。
これまでの旅路で得てきた知識……魔王の魂が土地の輝かしいもの、最も生命力に満ちたものに宿り、本質を根源から歪めてしまうという忌まわしい性質。
それが今目の前に突きつけられた数々の情報と重なり合い、一つの恐ろしい可能性を、明確な形を持って示唆していた。
「そういえば……」
不意に、ナックが何かを思い出したように呟いた。
「ミコトが、星辰の盤を見て言ってた気がすんなぁ…『七つの魔王の魂は、七つのうんちゃらかんちゃら……』……とか、そんな感じのことを……」
「な、なんでそんな大事なことを今まで黙ってるんだよーーっ!」
ロイの鋭く若干裏返った声が飛ぶ。
「いやあの時は目の前のもの壊すことに必死で……その、なんだ、優先順位っていうか……頭が回ってなくてだな……」
「悪い。俺もそんな旨の話を聞いた気がする。皆も何となく、そういうものだと気づいているものだとばかり……」
ナックとジークが、ばつの悪そうな顔で歯切れの悪い言い訳を重ねる。
そのやり取りが、張り詰めていた場の緊張をほんのわずかに緩めたが、すぐにまた重苦しい空気が部屋を支配した。
卓上に並べられた情報を統合すると、おぞましく絶望的な結論が導き出される。
『黒い実』は、魔王の魂の欠片が「命の樹」の持つ膨大な生命力に寄生し、清浄で聖なる力を捻じ曲げ、歪めて生み出された呪いの産物。
「命の樹」もまた、魔王の魂に深く侵され、言葉にすらならぬほどの苦痛に喘いでいるに違いないのだ。
最近ミルラの根で頻発しているという「旅立ち」の急増は、甘美な香りを放つ黒い実を口にした者たちが、知らず知らずのうちに生命力を吸い取られ、魂の抜け殻となって「新しい世界」という名のこじつけがましい、虚無へと誘われている結果ではないのだろうか?
アルルホスが警告した「蛇」とは、おそらく「命の樹」に直接取り憑き、聖なる木の根源から魔力を吸い上げ、代わりに邪悪な力を注ぎ込み続けている、恐るべき大蛇の魔獣。
古の神獣であるアルルホスをして警戒させるほどに強大であり、今や「命の樹」は風前の灯火と言っても過言ではないのかもしれない。
「これはもう、確定かもしれないな……200年前、魔王の魂は七つに分かれて各国に根付くなにか『大切なもの』に封印された」
「魔王復活の兆しは封印が解けつつあるせいで、こんなことになっているのだとすれば……」
壊すしかない。
ーーその先は誰にも言い難い事実であった。
「だとしてもなんで、こんな……壊しにくい大切なものばかりに、魔王の魂ってやつは宿っちゃうわけ!?」
クロエの嘆きがまるで薄いガラスが砕けるような鋭い音を立てて、静まり返った空間に響き渡った。
悲痛な叫びに、話を聞いていたルーは小さな肩をびくりと震わせ、不安そうに潤んだ瞳で周囲の大人たちを見上げた。
美しいエメラルド色の瞳が恐怖と混乱で揺れている。
「なぁ……“こわす”って……なんだ? 命の樹さまのこと、みんなでこわすつもりなのか……? そんなこと、しないよな……? しないって、いってくれよ……!」
幼い声には純粋な恐怖と、必死の懇願が滲んでいた。
真っ直ぐな問いに、一行は皆、まるで苦虫を奥歯で噛み潰したような、何とも言えない表情で押し黙るしかなかった。
突如。
沈黙を破るかのように宿屋の扉が勢いよく開き、息を切らせた村の若者が、慌ただしい様子で駆け込んできた。
「こ、こちらにいらっしゃいましたか!ルー様!勇者様ご一行!あ、アウリナ様が……アウリナ様のご容態が、急に!」
「!?」
不吉な言葉の気配に、ルーの顔からサッと血の気が引いたのが分かった。
一行が急いでアウリナの元へと向かう。
「ババさま!」
着いた時にはもう、彼女は息も絶え絶えであった。
呼吸は浅く、閉じられた瞼は微かに震えているだけ。
いつの間にこんなことになっていたというのだろうか。あるいは彼女はもうずっと前からずっと無理をしていたのだろうか。
どんな高価な霊薬も、どんな強力な治癒魔法も、彼女の消えゆく命の灯を、もはやこの世に繋ぎ止めることはできないようだった。
「ナナミ! お前の力なら……!」
ロイが半ば叫ぶようにナナミに問うが、ナナミは静かにかぶりを振った。
ライラック色の瞳には、深い哀しみの色が宿っている。
「……もう、寿命よ。彼女の魂は既にこの世への執着を離れようとしている。たとえ復活の祈りを捧げたとしても、もうこの肉体には留まらないわ。それにどうするか選ぶのは私ではない。女神エデルよ」
ロイたちはもう慣れてしまった、聞くものによっては冷淡な言葉。
本音はグランパルを蘇らせた時のように、奇跡を起こして欲しい。
しかしこういう時の彼女の見立ては違えることはないのだろう。
的確に、効率的とでも表現したくなるほどに、受け止めなくてはならない運命を知っているかのように、手を下しても無駄だと分かっているから悪あがきなどしないのだろう。
「ババさま……い、いっちゃうの……」
ルーの唇からか細い悲痛な声が漏れた。
アウリナはその声に反応するようにほんの僅かに目を開け、ルーの方を見て、安らかな眠りにつくかのように穏やかに、“新しい世界”へと旅立ってしまった。
ルーはただ呆然と、動かなくなった祖母の顔を見つめていた。
アウリナの死は彼女にとって計り知れないほどの喪失感をもたらした。
しかし集まってきた村人たちの反応は、ルーのそれとは全く異なっていた。
「おお、アウリナ様が、ついに旅立たれたぞ!」
「なんと、なんと喜ばしいことか!」
「これでまた一つ、魂が女神エデル様のお側へ……!」
悲しみの声ではなく、待ち望んでいたかのような歓喜の声がそこかしこから上がる。
彼らにとって「旅立ち」は祝福であり、苦しみからの解放であり、次なる生の輝かしい始まりを意味するのだ。
異様な光景は、ロイたちにとって理解しがたいものだった。
「ルー様!どうかあなた様が、アウリナ様の魂を女神の元へと導く、昇華の儀を!アウリナ様もきっとそれをお喜びになられます!」
一人の村人が期待に満ちどこか熱狂的な目でルーに迫る。
「あ、う、うん……わかった……」
ルーはただ力なく頷くことしかできなかった。
クラリスがそっとルーのそばに寄り添い、震える小さな肩に優しく手を置いた。
「大丈夫かい?ルー。気をしっかりもって。……無理をしなくてもいいんだよ」
彼はいつものように穏やかで、深い優しさに満ちていた。
「……はは、だいじょうぶだよ、クラリス。ルーはもう、しれんのどうくつもクリアしたんだ。だから……ババさまを……ちゃんとおくり出さなきゃ……」
ルーは無理に笑顔を作ろうとしたが、瞳の奥は全く笑っていなかった。
恐怖とも悲しみともつかない、複雑な感情がないまぜになった瞳は、大きく見開かれたまま、遠く、現実ではない場所を見つめているようだった。
彼女の周囲では、村人たちがアウリナの「旅立ち」を祝い、盛大なお祭りが始まったかのような賑わいを見せている。
常軌を逸したかのような光景に、穏やかなクラリスでさえ、眉を深くひそめずにはいられなかった。
***
アウリナの「旅立ちの儀式」は、村人たちの手によって、浮足立った雰囲気の中、つつがなく執り行われた。
ついに、ルーがナンバル=ムウの新たな巫女として、アウリナの魂を女神エデルの元へと昇華させる時がきた。
集落を見下ろす小高い丘の上に設けられた祭壇には、清められ、白い布で覆われたアウリナの亡骸が静かに横たわっている。
傍らに立つルーは、まだ彼女の小さな身体にはブカブカの、古式ゆかしいナンバル=ムウの巫女の衣装を身にまとっていた。
重すぎる役目を無理やり押し付けられた、お飾りの人形のようにも見えた。
彼女は小さな手を胸の前で固く組み、必死に祈った。
目を固くつぶり、何度も、何度も、この地の全てを司る女神エデルに、祖母の魂の安らかな旅立ちを祈り続けた。
しかし、天からの応えはない。
女神の温かな光も、森の精霊たちの優しい囁きも、何も感じられない。
温暖な気候のはずのこの地域で、ただ冷たい風がルーの頬を虚しく撫でていくだけだった。
ふと、ルーは顔を上げた。
目の前には、無数の民衆の顔、顔、顔。
彼らは固唾を飲んで、自分の一挙手一投足を見つめている。
無数の視線は先の試練の洞窟で感じた、底なしの深淵のように暗く、冷たかった。
彼らの瞳の奥にじわじわと失望の色が広がっていくのが、痛いほどにわかる。
「ああ、やはり……まだ幼すぎたのだ……」
「アウリナ様も、これでは浮かばれまい……さぞやお悲しみだろう……」
「「「せっかくの、アウリナ様の輝かしい“新しい世界”への旅立ちだというのに……」」」
ひそひそとした囁き声がまるで鋭い氷の刃のように、ルーの幼い心を容赦なく抉っていく。
どうしようもない絶望感が黒い粘り気のある靄のように彼女を包み込み、息もできないほどにじわじわと追い詰めていく。
その時だった。
バサバサバサッという、空気を切り裂くような巨大な羽音が、突如として上空で轟き、巨大な影が広場全体を覆った。
トトカラム。
このナンバル=ムウに住まい守護するはずの彼が、突如として祭壇のすぐ近くに舞い降り、天を裂くかのような、怒りに満ちた咆哮をあげたのだ。
ルーの悲しみを感じ取り、彼は助けに舞い降りた。
圧倒的な威容と、全てを薙ぎ倒さんばかりの怒気に満ちた叫びは、一瞬にして民衆を恐怖と混乱の渦へと叩き込んだ。
「ドラゴンだ!」「なぜ今ここに!?」「逃げろ!」
人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、美しく飾られた祭壇は崩れ落ち、厳粛であるはずの儀式は、あっけなく中断された。
その大混乱をきっかけにルーは堰を切ったように動き出した。
まるで操り人形の糸が、ぷつり、と切れたかのように、まとわりつく巫女服を乱暴に脱ぎ捨てると、彼女は一目散に、「命の樹」の太い幹の方へと、泣きながら駆けて行った。
「ルー!」
クラリスが危うげな背中を必死に追いかける。
残されたロイたちは民衆を守りながら、必死にトトカラムの怒りを鎮めようと試みていた。
「と、トト!おい、落ち着けって! 俺たち友達になっただろ!なあ!」
ロイが半ば涙目で呼びかけるが、トトカラムは聞く耳を持たず、再び巨大な咆哮をあげ、巨体から発せられる凄まじい威圧感にロイは思わず腰が引けてしまう。
「もう終わりだーー!このままじゃ村が!」
ナナミも最後の手段として、手をかざし凝縮された魔力を放とうとドラゴンへ向けた時だった。
「ピィ! ピピピ!」
小さな赤い影が目にも留まらぬ速さでまるで一筋の閃光のように飛び出した。
ロイの肩から飛び立ったピィが、ドラゴンの巨体へと、果敢に一直線に立ち向かっていく。
「ピィーーー!無駄だ!戻ってこい!お前みたいな小さいのが行っても、食われるだけだぞ!」
ロイが顔面蒼白になりながら絶叫し、ピィに絶対に届かない手を必死に伸ばす。
しかしロイの心配は、良い意味で杞憂に終わった。
ピィは荒れ狂う嵐の中を優雅に舞う一枚の木の葉のように、軽やかにトトカラムの攻撃を避け、巨大な鼻先へと到達し、堂々と止まった。
今は怒りと悲しみで燃えるドラゴンアイを、真っ直ぐに、じっと見つめた。
「ピィ!ピピピピー、チュルリ!ピィー、ピチュルルル!」
小さな体で、一生懸命何かを必死に訴えかけている。
健気なのに古の賢者のような威厳すら感じさせた。
周囲の者たちは、固唾を飲んで信じられない光景を見守る。
武器を構えたまま、呼吸は荒く、張り詰めた緊張は極限に達していた。
やがてトトカラムの荒々しかった息遣いが、少しずつ穏やかになっていくのが分かった。
彼は、フンッ、と一つ、悲しげな鼻息をつくと、雄大な翼をゆっくりと広げた。
再び天へと舞い上がり、ほんの一瞬だけロイたちの方を振り返ったかと思うと、あっという間に蒼い雲の彼方へと消えていった。
彼が飛び立つ際に巻き起こった猛烈な突風に、皆はなすすべもなく吹き飛ばされそうになりながら、必死に「命の樹」の太い根にしがみついた。
やがて風が止み、不気味なほどの静寂が戻る。
「た、助かった……のか……?一体、何が……」
誰かが、かすれた、信じられないといった声で呟いた。
「ピー! ピピッチュル!」
ロイの肩へとまるで凱旋将軍のように誇らしげに戻ってきたピィが、何やら自慢げな顔でその小さな胸をぐっと張っている。
「ピィ!お前、すっげええええぞ!本当に、お前はアストリアで一番すごいやつだ!」
ロイは心からの称賛と感謝を込めて、小さな頭を優しく、こちょこちょと撫でた。
ピィはロイに気安く触るなこの若輩者が!とでも言いたげに、赤い羽根を逆立ててぷいと顔を背けようとするが、またしても喜んでいると盛大に勘違いされ、顔中をグリグリと頬擦りされる羽目になるのだった。
小さな胸の内で、(いつか、いつか見ていろよ、この朴念仁め……!)と、新たな復讐の炎がメラメラと燃え上がったとか、いないとか。




