4-6「魂のガイド」
ひやり、とした空気が肌を刺す。
再び足を踏み入れた試練の洞窟は、先程と何ら変わらず、得体の知れない何かが潜んでいそうな不気味な静寂に包まれていた。
だがロイの心持ちは先程とは確実に違っていた。
腹の底から湧き上がってくる恐怖が完全に消え去ったわけではない。
しかし、ナナミの温もり、クラリスの励まし、仲間たちの存在が、心の奥底で頼りない灯火のように揺らめき、彼の足をかろうじて前に進ませていた。
(ナナミは……俺のことを、勇敢だって言ってくれた。クラリスも俺なら何度でも立ち向かうって……。そうだよな。くよくよしてても始まらない。何度でも立ち向かうっていう粘り強さだけは、俺の唯一の取り柄のはずなんだから!)
ロイはごくりと乾いた喉を鳴らし、まだ微かに震える拳を強く握りしめた。
武器は持てない。
ならばこの素手で、己の全てで、試練に立ち向かうしかない。
洞窟の奥、濃密な闇が凝縮したかのように、ゆらり、と黒い影が再び姿を現した。
先程よりも心なしか輪郭がはっきりとしているように見えるのは、気のせいだろうか。
ロイは反射的にぐっと身構えた。
今度こそ何が来ても怯むものか。
たとえ、また悪夢のような光景を見せられようとも。
「サッキハ……ヤリスギテシマッテ……ゴメンネ」
低い、間の抜けたような、抑揚のない声が洞窟内に響いた。
「え!?あ、ああ……うん……イイヨ、別に……」
予想だにしなかった、あまりにもストレートな謝罪の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
緊張でカチコチに張り詰めていた肩の力が、不意に抜けていくのが分かった。
黒い影は大きな頭のような部分を、こくり、こくりと何度か縦に振っている。
どうやら、本当に心から謝っているらしい。
「ヒサシブリノ……オキャクサン……ダッタカラ……チョット、ハシャイジャッタ……」
もじもじ、という擬音が、影から発せられるのなら、今この瞬間に鳴り響いているだろう。そんな仕草で、影は言葉を続ける。
なんだか大きな体を持て余した不器用な子供のようだ。
ロイは完全に拍子抜けしながらも、まだ警戒を完全に解くことなく、影の次の言葉を待った。
影は一度ゴホンと言いたげなゼスチャーをした後で再びロイに向き直った。
どこか恐怖を感じさせようとする気配に、ロイもまた気を引き締める。
「オマエノ、タマ………シ……ア……イ………」
途切れ途切れに、勿体ぶるように言葉を紡ぎ始める。
「(俺の……魂の、愛……だと?)」
ロイはごくりと息を飲んだ。
試練とは、己の魂の愛の形を問うものなのか?
それはいったい、何をすれば証明できるというのだろうか……。
ロイが固唾を飲んで見守る中、黒い影はおもむろに自身の股間のあたりに、影でできた手を伸ばすような仕草をした。
何かをそこから大切そうに取り出す。
鶏の卵ほどの大きさの、燃えるような赤色をした、内側からぼんやりと温かな光を放っている「タマ」だった。
影は「タマ」をこともなげに、ポトリとロイの足元……
より正確には、ロイの股の真下あたりに、そっと落とした。
コロリ、と乾いた音を立てて転がった、赤く輝くタマ。
それを見た瞬間、ロイの思考回路は完全に綺麗に焼き切れた。
「タマ……。俺の、タマ……?」
魂の愛がどうとか、試練の乗り越え方がどうとか、そんな高尚なことは、一瞬にして思考の彼方、アンドロメダ星雲の遥か向こうへと吹き飛んでしまった。
目の前にあるのは紛れもなく「タマ」であり、それが自分の股の下に「落ちた」という、衝撃的で個人的な大事件の勃発。
「俺のタマァーーーーーーーーッ!!!!俺の大事な、かけがえのないタマが、お、落ちたぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
絶叫。もはや悲鳴に近い、魂からの叫び。
それが一体何なのか、なぜこんなところにあるのか、深く考える余裕などミジンコほども持ち合わせていなかった。
ただただ「自分のタマが落ちたかもしれない」という衝撃と言いようのない焦燥感、この世の終わり、途方もない喪失感のようなもので、完全にパニックに陥っていた。
ぶわっと涙が止めどなく溢れ出し、視界が滲んで何も見えない。
ロイは泣きじゃくりながら、生まれたての小鹿のように震える手で、赤く輝く「タマ」をそっと、しかし猛禽類が獲物を攫うがごとき素早さで拾い上げた。
手のひらに伝わるのは、不思議なほど温かく微かに脈打つような感触。
「うわああああああ!どうしよう!どうしようもないけど、でも、でも、どうしよう!」
もはや意味不明な言葉を絶叫しながら、ロイは一目散に、出口と思われる方角に向かって突っ走った。
背後で黒い影が何か言っていたような気もするが、それを聞き取る余裕など、今のロイにあるはずもなかった。
「ガンバレ……ヨ、ユウシャ……」
残された黒い影は、ロイの消えていった背中にほんの少しだけ寂しげな声で、呟いていた。洞窟の冷たい石壁に虚しく反響する。
***
洞窟から文字通り転がり落ちるように飛び出してきたロイの第一声は、周囲の仲間たちの度肝を抜くものだった。
「だ、誰か助けてくれぇぇぇぇっ!俺のタマ……!俺のタマが落ちたんだけど、これ、どうすればいいと思う!?」
涙と鼻水とよだれでぐしゃぐしゃになった顔で、手には赤く輝く「タマ」を、赤子でも抱くかのように大事そうに抱えている。
ちょうど同じく試練を終えて、若干やつれた顔で出てきたらしいジークとナックが、尋常ではないロイの姿にあんぐりと口を開けて目を丸くした。
「タマ……?」
ジークがまず訝しげに呟き、ロイの手元と、それからおそるおそる確認せずにはいられないといった感じでロイの股間へと視線を移す。
ナックも同様に野生の勘で何かを察知したのか、視線を彷徨わせた後、二人して何とも言えない、筆舌に尽くしがたい表情を浮かべた。
深い憐れみと、ほんの少しの好奇心、大いなる困惑と、若干引いているような、実に複雑な感情が絶妙なバランスで入り混じった顔だった。
「……お前……それ、まじか……」
ナックがようやく絞り出すように言った。
ーー声が驚きで震えている。
「だって、だって、黒い影が出てきて、俺の足元にポトリと落として……うわあああん、どうしよう!ナナミもルーも女の子だから、こんなの見せて元に戻してくれなんて口が裂けても頼めないし……ううう、俺のタマ……俺の大切なタマが……ああああ……」
ロイは再びその場にへたり込み、わんわんと子供のように泣き崩れる。
泣き喚く姿は、勇者というよりは大事なおもちゃを壊してしまった幼児そのものだ。
「いや、待てロイ。落ち着け。冷静に。論理的に考えるんだ。それは本当に『お前の』タマなのか?確証は?」
ジークがなんとか冷静さを取り戻そうと努め、淡々と事務的な口調で問いかける。
「だって、俺の股の下に落ちたんだぞ!俺のじゃなかったら、一体誰のなんなんだよぉぉぉっ!」
もはやロイに理路整然とした理屈など通じるはずもなかった。
仲間たちは顔を見合わせる。「なあ、ナナミに一度見てもらうべきじゃないか?」「いや、あいつは容赦なさそうだぞ、本当にタマだった場合、どうするつもりだ。よくもこんな穢らわしいものを……って握り潰すかもしれない」「ルーなら何か知っているかもしれないな」「い、いっそ、アウリナ様に見ていただくか……いやいや、それはさすがに勇者としてどうなんだ……」などと、ひそひそと必死に小声で揉めていると、ただならぬ騒ぎを聞きつけたルーが「どうしたのー?みんなして、なにかおもしろいことでもあったー?」と、ひょっこりと顔を出した。
「ル、ルー……」
ロイは最後の希望、救いの女神が現れたかのような潤んだ瞳でルーを見つめた。
観念したように涙は依然として流したまま、おずおずと手に持った赤く輝く「タマ」を、ルーの前にそっと差し出した。
「これ……俺のタマなんだけど……ど、どうしよう……」
ルーは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにロイの手の中の、内側から温かな光を放つ赤い物体に気づき、興味深そうに目をきらきらと輝かせた。
「わぁ、きれーな石……じゃない、これ。なんか、あったかくて、すごいちからを感じるぞ!」
ルーは「タマ」に、何の躊躇もなくそっと小さな指先で触れた。
その瞬間だった。
タマは、まるでルーの指に呼応したかのように、淡い炎のような光にパァァァッと包まれた。
温かな、神聖な光が周囲を明るく照らし出し、ロイたちの驚きの声も、幻想的な光の中に吸い込まれていくようだ。
やがて眩い光がゆっくりと収まると、タマの硬質な殻が、パキ、パキパキと心地よい音を立てて内側から割れ始めた。
割れ目から、小さいのにもかかわらず全身から燃えるような力強い生命力を感じさせる、それはそれは美しい小鳥が、ゆっくりと姿を現した。
燃えるような真紅の羽根は朝日を浴びてキラキラと輝き、瞳は磨かれた黒曜石のように深く、賢そうな光を宿している。
不死鳥の雛、と呼ぶのがふさわしい神々しいまでの姿だった。
「ピィ!」
小鳥は澄んで力強い声で一声高らかに鳴くと、軽やかにその場から飛び立ち、ロイの頭の上をくるり、くるりと優雅に旋回した。
小鳥が飛び回る軌跡には、キラキラとした金色の光の粒子が祝福するかのように舞っている。
「きゃーーーーーーーーっ!タ、タマから、と、鳥が、う、生まれたーーーーーっ!!!!」
今度は先程までの悲壮な絶叫とは全く異なる、純粋な驚愕の絶叫だった。
ロイは口をあんぐりと開けたまま、目をこれでもかと丸くして、自分の頭上を舞う小さな神鳥を見上げている。
「わー!すごーい!やっぱり!これ、『たましいのガイド』だ!」
ルーがまるで自分のことのように興奮した様子で、両手を叩いて声を上げた。
「しれんをみごとにのりこえたものにあたえられることがあるっていう、たましいの道しるべ!これからすすむべき道を、きっとおしえてくれる、とってもきちょうなそんざいが生まれたんだよ、ロイ!」
「お、俺のタマから…魂のガイドが……」
ロイはまだ状況が飲み込めていない様子で、呆然と呟く。
さっきまで自分の体の一部(だと信じて疑わなかったもの)が、こんなにも神々しく、愛らしい存在に生まれ変わるなんて、誰が想像できただろうか。
「ピィ!」
小鳥は再び一声鳴き、今度はふわりとロイの左肩に軽やかにとまった。
うるうるとした大きな黒い瞳で、ロイの顔をじっと見上げる。
麗しい眼差しは、「ねえ、あなたが私の主なの?」と問いかけているかのようだ。
「おいロイ!早くなまえをつけてやれって!ぐずぐずするな!」
ジークがいつになく興奮した様子でロイの背中をバンバンと叩く。
「そうだぞ、ロイ!たましいのガイドとは、ちゃんとなまえをつけて、けいやくしなきゃ、ほんとうのちからをはっきできないんだぞ!」
ルーも真剣な顔で続く。
「えっ、えっ、えーと、名前……?お、俺がつけるのか……?」
ロイは突然の展開に戸惑いながらも、肩の上の小さな温もりを見つめる。
小鳥は期待に満ちたキラキラとした目で、ロイの言葉をじっと待っているようだ。
「うーん、そうだな……。俺のタマから生まれた、わけだから……『タマ』なんてどうだ!」
我ながら名案だ、とばかりに自信満々にロイが言うと、肩の上の小鳥は雷に打たれたかのように、ぶんぶんぶんと激しくものすごい勢いで首を横に振った。
あまりの勢いに小さな赤い羽根が数枚、はらりと抜け落ちるほどだ。
「ええー、ダメか?やっぱ勇者の鳥だからなぁ……フェニックス……は、なんかちょっと仰々しいっていうか、気恥ずかしいな!おまえ、まだこんなにちびっこいしなぁ」
「ピィ!ピピぃ!ピッピチュルリ!チュルルルルル!」
小鳥が何かを必死にそして早口で訴えるように、甲高い声でまくし立てるように鳴き立てる。
だが今のロイには言葉の意味を理解することなど到底不可能だった。
「うーん、ピッピピッピ、なんかよくわかんねーけど、元気なのは分かった。あーもう、めんどくせーな!分かった分かった。よし、お前はもうそれでいいや!今日からお前の名前は『ピィ』な!」
半ばヤケクソ気味に、若干投げやりにロイが名前を呼んだ瞬間、ロイと肩の上の『ピィ』と名付けられたばかりの小鳥の回りを、ふわりと淡くどこまでも温かい光が優しく包み込んだ。
「あ!けいやくせいりつだ!やったな、ロイ!」
「ピィ!ピピッ!ピギーーーーーー!ゲゲゲゲゲ!」
光の中でピィが何とも奇妙な、聞く者によっては絶望したような、けたたましい叫び声を高らかに上げた。
「そうかそうか、お前も新しい名前にそんなに喜んでるのか!よしよし!俺も嬉しいぜ、ピィ!」
ロイはピィの心の奥底からの叫びなど露知らず。
契約が無事に成立してピィも新しい名前に大層喜んでいるのだと完全に勘違いし、満面の笑みでピィの小さな頭を優しく撫でてやるのだった。
ピィはロイの無神経さに抗議するように小さく身を震わせたが、今の浮かれきったロイがそれに気づくはずもなかった。
***
「みんなー!こいつ、見てくれよ!俺の魂のガイドになったんだ!『ピィ』って言うんだぜ!」
少し落ち着きを取り戻したロイは改めて集まってきた仲間たちに、肩の上の小さな相棒をこれ以上ないほど得意げに紹介した。
「ほら、ピーピーうるさいくらい元気だから、分かりやすくピィって名前にしたんだ。なかなかいいセンスだろ?こいつも喜んじゃって……」
「ロイ、そ、その鳥って……もしかして、伝説の……」
クラリスが何かを言いかけて、言葉を気まずそうに飲み込み、ポリポリと頬をかいた。
生まれたての神獣(おそらく、いや間違いなく)に、道端で拾った猫にでもつけるような、安直な名前をつけた、などと、この場で指摘していいものかどうか、彼にも判断がつかなかったのだ。
クラリスの心中を的確に察してか、ロイの肩の上のピィが、クラリスに向かって「フンッ、こいつのセンスなど知れたものよ」とでも言いたげな、妙に達観したドヤ顔を一瞬だけ見せた。
ほんの一瞬の出来事だった。
ナナミが猫が獲物を捕らえるかのような速さで、すっと手を伸ばし、ピィの小さな体をひょいと鷲掴みにした。
「ピギャッ!?」
ピィは魂が半分抜け出たような、情けない悲鳴を上げる。仲間たちはドキッとし、特にクラリスはさっと顔を青くした。
掴んだピィを冷徹な爬虫類のような目でじっと見つめ、静かにけれど有無を言わせぬ迫力で言った。
「……なんだか、普通の鳥とは違う、妙な気配がするわね。変なことをしようものなら……焼き鳥にして、美味しくいただいてしまうわよ。覚えておきなさい」
ライラック色の瞳は、本気と書いてマジと読む、絶対零度の光を宿していた。
ジリ、とピィの小さな体が、恐怖でわなわなと小さく震える。
「や、やめなさいナナミ!そ、そいつは、俺のタマから生まれたんだぞ!とっても大事なやつなんだから!」
ロイが顔面蒼白になりながら、慌ててナナミを止めようと叫ぶ。
「……タマ?」
ナナミがピクリと美しい眉を動かし、ロイの言葉をゆっくりと反芻する。
視線が、じろり、とロイに向けられる。
「あ、あや、なんでもない!なんでもないから!頼むから、ピィを放してやってくれ!」
ロイは自分の致命的な失言に気づき、滝のような冷や汗を流しながら、必死に取り繕う。
「……?」
ナナミはなおも怪訝そうな顔でロイと、まだ手の中にいる哀れなピィを交互に見るのであった。
ピィはナナミの冷たい指の中で、(なんでこんなアホな名前にしやがったんだ、アホの勇者めが!しかもなんだ!無礼極まりないこの女は!絶対に、絶対に後悔させてやるからな!)と心の中で激しく毒づきながら、屈辱と怒りでプルプルと震えていた。
小さき魂のガイドの、燃えるような復讐心が、いつかロイに伝わる日は、まだ、ほんの少しだけ遠い。




