4-5「約束」
ナナミの本当に笑った顔が見れたなら、きっと勇気がでるはずだ。
切実な願いを胸に、意を決したロイは、両腕にぐっと力を込めた握り拳をぶら下げ、決闘でも挑むかのようにナナミの前へ再び立ちはだかっていた。
灰の瞳は先程までの涙の痕跡など微塵も感じさせないほど、真剣そのものだった。
「……本当に、よほど暇みたいね。あなたは」
呆れたような、戸惑いを隠せないような声で、ナナミは小さくため息をついた。
ロイの真剣で必死な眼差しを無下にはできなかったのだろう。
彼女は繕い物の針をそっと布に刺したまま、ふぅ、と小さく息を吐くと、彼女なりに精一杯の笑顔を作って見せてくれた。
お世辞にも上手とは言えず、頬は不自然に引きつり、口角はプルプルとぎこちなく震えていた。初めて「笑顔」という表情を学習したばかりの絡繰人形のようだ。
不器用で健気ですらある笑顔に、ロイはこらえきれず、腹を抱えて大爆笑してしまった。
「ぶふっ……! あは、あははははは! な、なんだよそれ、ナナミ! ひっくく……!」
「……本当に失礼ね、あなた」
むっとしたように、ナナミの細い眉が寄せられ、桜色の唇が小さく尖る。頬はほんのりと、夕焼け空のように赤く染まっていた。
ロイは笑いすぎて滲んだ涙を指で乱暴に拭いながら、それでも込み上げてくる笑いを必死にこらえようと、肩を震わせる。
「私笑うのが、とても下手だから封印したの。」
「あ、ああ……っ、くく……ご、ごめん……でも、さ……もっと、笑ったほうが、絶対いいよ、ナナミは。うん、すごく……いいと思う」
息も絶え絶えに、なんとかそう伝えるとナナミはぷいと顔をそむけてしまった。
「……黙って。このこともし誰かに言いふらしたら、容赦しないんだから」
耳まで真っ赤に染めたナナミの、精一杯の威嚇なのだろう。
「……うん、絶対にいわない。約束する。二人だけの秘密だ」
ロイはまだ少し笑いを堪えながらも、真剣な顔で頷いた。
二人だけの秘密、というものはどこか弾むような明るい響きがあった。
「……そうきっぱりと断言されるのも、なんだか少し癪に障るのだけれど」
小さく呟くナナミの声は、もう本気で怒っているようには聞こえなかった。
ロイの心には二人だけの誰にも知られない秘密ができたような、くすぐったいような嬉しい気持ちが、ふわりと込み上げてくる。
ほんの少しだけ、ナナミとの心の距離が縮まったような気がして胸の奥がじんわりと温かくなった。
大切な宝物のような温もりを抱きしめるようにして、ロイは今度こそ、迷いのない足取りで再び試練の洞窟へと向かった。
今度こそ必ず乗り越えてみせる、と。
ロイが試練に再挑戦している間、先にそれを終えていたクラリスは、森のさらに奥深くへと足を踏み入れていた。
陽光も容易には届かぬほど木々が生い茂り、しっとりとした苔が岩や倒木を覆い、神聖でいて人を寄せ付けないような気配が漂う森。
精霊たちの微かな囁きに導かれるまま、彼はこの地のさらなる調査を進めようとしていた。
上手くいけば、もっと流暢に言葉を交わせる上級の精霊とも出会えるかもしれない。
淡い期待を胸に、柔らかな腐葉土を踏みしめる。
ふと大木の陰で、小さな背中がうずくまっているのを見つけた。
ルーだ。
彼女は何かを隠すように、慌ててごしごしと目元を拭っているのが見えた。
「なんでもない!めにゴミがはいっただけだもん!」
クラリスの気配に気づき、聞いてもいないのに強がるように言う声は、微かに震えている。
「そうかい?それは大変だ。ちょっと見せてごらん、取ってあげようか?」
クラリスが優しく声をかけると、ルーはぷいとそっぽを向いてしまう。
ちっぽけな背中には哀愁が漂い、放っておくわけにもいかない。
話してくれるまで待ってみるか、と少しだけ離れた草原にクラリスは腰掛ける。
やがてぽつりと、絞り出すようなか細い声が聞こえてきた。
「……あのどうくついったら、カカさまとトトさまにあえるかなって、ちょっとだけ、おもったのに。……いなかった」
言葉の端々に滲む、幼い子供の純粋な失望。
クラリスは何も言わず静かにその言葉を受け止めた。
彼女の小さな肩が、微かに震えているのが分かった。
ルーはくるりと振り返り、今度は無理に作ったような乾いた明るい笑顔をクラリスに向けた。
「そうだよな!カカさまもトトさまも、あたらしいせかいへたびだったんだ!あんな、くらくてじめじめした穴のなかにいるはずがなかったんだよな!」
虚ろな笑い声をあげるルー。
悲しげな姿にクラリスの胸はまるで細い針で突き刺されるように、ちくりと痛んだ。
こんなにも幼いうちに両親を亡くし、一体どれほど寂しい思いを、たった一人で抱え込んできたのだろう。
それなのに、周囲の大人たちと同じように無理に笑顔を作り、自身の本当の感情に必死で蓋をしている。
彼女の健気さが、痛々しいほどに伝わってくる。
かつての幼い自分と、どこか重なる気がした。
「あそぼ!クラリス!」
ルーは突然そう言うと、クラリスのまだ少し冷たい手を小さな手でぐいと力強く引いた。
「ああ、もちろん。今日は一日、君がしたいことに、なんでも付き合うよ」
クラリスは柔らかく微笑み、小さな手に応えた。
ルーは精霊たちの言葉を直接、詳細に理解できるわけではない。
けれど彼女は全身で、魂で、精霊たちと心を通わせる特別な術を、生まれながらにして知っていた。
彼女が口ずさむ何気ない歌、森のリズムに合わせたような即興の踊り、森の木々や花々、小さな虫たちにまで優しく触れ、語りかけるその姿。
一つ一つが、クラリスにとって新鮮な驚きであり、精霊と真に「共鳴」するための、言葉だけではない大切な手がかりとなった。
クラリスはルーに導かれるまま、森の小さな精霊たちの微かな囁きに、より深く耳を澄ませた。
彼らのささやかな悩みを聞き、時にはその小さな力を借りて、森のちょっとした問題を一緒に解決していく。
日照り続きで元気をなくした花に、泉の水を運んでほしいという小さな花の精の願いだったり、巣から落ちて迷子になった虫の子供を、親元へ送り届ける手伝いだったり。
些細で他愛ないけれど温かいやり取りを繰り返すうちに、クラリスの精霊語の理解は深まり、言葉だけでは通じない精霊たちの感情の機微は、ルーが教えてくれた魂の歌に乗せて共鳴することで、より深く、より確かに感じ取れるようになり、精霊たちからの確かな信頼を勝ち取っていった。
森のさらに奥深く、夜空からこぼれ落ちた星屑を一面に撒いたかのように、淡く青白い光を放つ不思議な草……グロウグラスが一面に咲き乱れる聖域に、彼らはたどり着いた。
空気がひときわ澄み渡り、人の世の喧騒など届かぬような神聖な静寂に満ちている場所だった。
聖域の中心、銀色に輝く苔むした巨岩の傍らに一頭の荘厳な獣が静かに横たわっていた。
傷つき、弱っている様子ではあったが、なおも威厳に満ちている。
雪のように白い毛皮を持ち、頭部から天へと伸びる枝角は、生命力あふれる聖なる樹木のように、複雑に美しく枝分かれしていた。古の森の神獣ーー。
「あー!アルルホスだ!ひさしぶりだな!めったにすがたをみせないんだぞ、アルルホスは、とってもはずかしがりやだからな!」
ルーが、旧知の友に再会したかのように嬉しそうに駆け寄り、大きな体に親しげに声をかける。
「そうなのかい? こんにちは、アルルホス。」
クラリスも、畏敬の念を込めて丁寧に挨拶をするが、アルルホスは人間を信用していないのか、鋭く悲しげな光を宿した黄金色の瞳でクラリスを射抜き、身じろぎ一つしない巨体からは、強い警戒の気が放たれている。
瞳には深い悲しみと、長い年月の間に刻まれたであろう人間への不信の色が、ありありと浮かんでいた。
「だいじょうぶだよ、アルルホス!クラリスは、わるいやつじゃないんだ! ルーがほしょうする!そうだ!クラリス、アルルホスにもきかせてあげようよ、さっきのうた!」
ルーはそう言うとクラリスの手を取り、アルルホスの前で、先ほど森で歌っていた生命の喜びを讃えるような歌を、再び伸びやかに歌い始めた。
クラリスも竪琴を取り出し、ルーの純粋で力強い歌声に合わせて、優しくどこまでも柔らかな音色を奏でる。
二人の歌声と竪琴の調べは、聖域の清らかな静寂に溶け込み、温かな光のように、傷ついた神獣の心をゆっくりと包み込んでいくようだった。
やがてアルルホスの険しかった表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
宝石のように美しい黄金色の瞳から、警戒の色が薄れていく。
「……いまの歌と竪琴の音色で、ようく、お前の魂の色が分かった。ルー、いつもありがとう」
アルルホスの声は古木が風に擦れ合うような厳かな響きを持っていた。
「へへへ! どういたしまして!」
「すごいよ、ルー!これが、言葉だけじゃなくて、心で通じ合う、“共鳴”するっていうことなんだね」
アルルホスとクラリスの言葉に、ルーは満足そうに笑い、また近くに集まってきた小さな精霊たちと、楽しそうに聖域を駆け回り始めた。
その間、クラリスとアルルホスは、静かに魂の奥深くで言葉を交わした。
ルーの曇りのない純粋な仲介と、クラリス自身の魂が持つ、深く、癒えることのない「孤独を知る心」、そして何よりも「この森と命の樹を救いたい」という、打算も偽りもない純粋な願いが、長い間、人間に対して固く閉ざされていたアルルホスの心に届いたのだろう。
アルルホスは、クラリスの美しい竪琴の音色の奥底に響く、深い悲しみと、それでもなお失われることのない優しさと強さを見抜いたのかもしれない。
「……お前にならば、我が力の一部を託せるかもしれぬ。もう、時間があまりないのだ」
そう言うと、アルルホスはクラリスと魂の契約を結ぶことを許した。
それは、古の森の神獣の強大な力と知恵、そしてその神体を、クラリスが必要とする時にいつでも呼び出し、借り受ける権利を得ることを意味していた。
契約の証としてアルルホスの荘厳な枝角の一部が、ひときわ強い淡い光を放ち、凝縮された聖なる光が流星の如く、クラリスの胸へと静かに吸い込まれていくのを感じた。
アルルホスは力を振り絞り、不吉なヒントをクラリスに与えた。
声は切迫感を帯び、聖域の空気を震わせた。
「命の樹は……古よりこの地を守護していたはずの“大蛇”に喰われている……。忌まわしき黒い実は、蛇が吐き出す毒牙の顕れ……。全てを喰らい尽くし、この森を、そしていずれは世界をも絶望で染め上げんとする、大いなる災いの影によって……」
真実が重い鉛のように、クラリスの心に深く、深く響き渡った。
「大蛇」
想像もできぬ、絶望的な敵の存在を示唆していた。




