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ruth story  作者: Cy


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4-4「弱虫勇者」





そよ、と頬を撫でる風は、どこか遠い場所から運ばれてきたような、甘い花の香りをかすかに含んでいた。

微睡みの中、ふわりとした柔らかな感触に全身が包まれていることに気づき、ロイはゆっくりと重たい瞼を押し上げた。

ぼやけた視界が徐々に焦点を結ぶと、まず目に飛び込んできたのは木々の葉の隙間から降り注ぐ、きらきらとした木漏れ日だった。

そして次に、静かに座り、何かを手元で繕っているナナミの姿。

どうやら自分は彼女の膝に頭を預けて眠ってしまっていたらしい。

ライラック色の涼やかな瞳は、手にした仲間たちの誰かのマントだろうか、破れやほつれに真剣に注がれ、細い指が慣れた手つきで針を運んでいる。

いつもの無表情は彼女が今何を考えているのか、少しも教えてはくれない。


「……ナナミ」


掠れた、自分でも驚くほど弱々しい声で名を呼ぶと、彼女は針を動かす手を止め、僅かに視線を下げてロイを見た。

ライラックの瞳には何の感情も浮かんでいないように見える。


「どうしたの?」


淡々とした声。

寝転がったまま、ロイの頭の中を先ほどの洞窟での出来事……あれは本当に幻だったのだろうか。強烈な残滓がぐるぐると巡る。

血の気も凍るような光景。

仲間が、ナナミが無惨に切り裂かれる様。

そして、影が吐き捨てた絶望的な言葉。

確かめたかった。

この温もりも、この声も、目の前にいる彼女も、本物なのだと。

ロイは幼子が無意識に母を求めるように、そっと手を伸ばし、ナナミの滑らかな頬に、ぺた、ぺたと覚束ない手つきで触れた。

ひんやりとして、けれど確かな温もりを感じる肌。


「……ふざけているの?目が覚めたのなら、そろそろどいてくれる」


咎めるような、それでいて突き放すわけでもない、いつものナナミらしい声。

僅かに寄せられた眉。

あまりにも「いつも通り」の彼女の反応にロイの中で張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。

安堵したのか、それとも別の感情か、自分でもよく分からないまま灰色の瞳からぽろり、ぽろりと熱い雫が止めどなく溢れ出す。

しまった、と焦ったロイが咄嗟に腕で顔を覆う。

こんな情けない姿、誰にも、ましてやナナミに見られるわけにはいかない。

だが、遅かった。


驚きを映したライラック色の瞳が、大きく見開かれるのが分かった。

ナナミは、繕いかけていたマントをそっと傍らに置くと、静かにロイの顔を覗き込んだ。


「ねぇ、ロイ。泣かないで。……言いすぎてしまったかしら。ごめんなさい。……大丈夫よ。気が済むまで、ここにこうしていていいから」


壊れ物にでも触れるかのように、ふわり、とロイの青い髪が優しい手つきで撫でられる。

温かな感触が、何度も、何度も、繰り返される。

慈しむような手つきが、かえってロイの涙腺を刺激した。


「ないでっ、ないっ……ひっぐ……!」


嗚咽が堰を切ったように漏れ出し、喋れば喋るほど、なけなしの虚勢まで剥がれ落ちてしまいそうで、ロイは唇を固く、固く結んだ。

情けない。勇者なのに。リーダーなのに。

こんなところで、子供のように泣きじゃくるなんて。


「……大丈夫。大丈夫よ、ロイ」


落ち着いてと促すような、穏やかで優しい声色が、なおも繰り返し頭を撫でる。

ナナミの声と手つきは、荒れ狂う嵐の海で唯一見つけた灯台の光のように、ロイの心を静かに照らし始める。


「きっと洞窟の中で、酷い目にあったのね。……辛かったでしょう」

たった一言が、心の奥底に無理やり押し込めていた恐怖や絶望を的確に掬い上げる。

どうしようもなく晴れ渡った空の青さが、今はただ、打ちのめされ、疲弊しきった心に容赦なく突き刺さるようだった。


やがてナナミの冷たくて優しい手が、静かな声が、がんじがらめになっていたロイの心を、少しずつ丁寧に解きほぐしていくのを感じる。

凍てついた大地に陽光が差し込み、雪解けが始まるように。


覇気のない、自分でも消えてしまいそうなほど弱々しい声で、ロイはぽつりと呟いた。


「……こわい」

「そう」

静かな肯定。

彼女は驚きも、呆れも、軽蔑も、何も見せない。

ただ、そう、と受け止める。


「ぜんぶ……こわいんだ……」

「そうね」

ナナミの声はただ寄り添うように柔らかい。


「ナナミは失望、しないのか……?俺、こんなんで……勇者、なのに……」

「なぜ?屈強な戦士だって、全てを手に入れた権力者だって、こわいものの一つや二つ、誰だって持っているわ。それの何がおかしいの?」

「……ちがう……そういうのとは、ちがうんだ……」


子供が駄々をこねるような、か細い反論。

それでもナナミは急かすことも、遮ることもなく、ただ静かにロイの次の言葉を待っている。

優しい沈黙が、今は何よりもありがたかった。


「ただ……ただ、こわいんだ……!何もかもが……!」

「こわいと思うことは、いけないことなの?」

「……」

言い返す言葉が見つからず、ロイは再び黙り込んだ。

いけないことではないのかもしれない。

でも勇者が弱音を吐いていいはずがない。


「このアストリアは、本当にひどいところね。こんなにも怯え、傷ついている人を無理やり矢面に立たせて、さらに苦しめているのだから」


彼女はロイではなく、アストリアという世界そのものを静かに非難しているかのようだった。


「でも、それはっ……俺が、勇者だから……!アストリアを、救わなきゃ……っ!」


言葉を継ごうとしたロイの唇に、ナナミの細く少し冷たい人差し指が、そっと触れた。

静かに、とでも言うように。


「そんなか弱いあなたを、アストリア中の人々が責めることがあるなら、私はそんな無責任な人々のことを責めてあげるわ」


風がふたりの間を、ざあ、と音を立てて吹き抜けていく。

甘い花の香りが一層濃くなった気がした。

まただ。またあの時のように甘く切ない痛みが胸の奥を締め付ける。どうしようもない痛みが余計に涙を誘うのだ。


「いっそのこと、全てを投げ出して逃げてしまえば楽なのに。あなたは決して逃げ出そうとはしない。弱いと自覚しながらも自分を必死に奮い立たせて、震える足でそれでも戦おうとしている」


どこまでも静かで、けれど揺るぎない確信に満ちていた。


「そんな人を、一体誰が責める権利があると言うの?」

「……あなたはもう、充分勇敢な勇者だわ、ロイ」


木漏れ日のように、優しく温かい言葉ばかりが、次から次へと降りかかってくる。

どの言葉もロイの荒んで乾ききった胸の奥深くに、ゆっくりと染み渡り、ぽかぽかとした温かな余韻を残していく。

ずっとずっと心のどこかで求めていた言葉。

こんなにも浅ましくて、臆病で、弱い自分が、喉から手が出るほどに、泣きたくなるほどに欲していた言葉。

たとえそれが気休めや、偽りの優しさだったとしても、それでも誰かに言って欲しかった言葉。


「俺……ただ……何者かに、なりたかっただけなんだ……。勇者とかじゃなくて……誰かの役に立てるような、そんな……」


絞り出すような、途切れ途切れの告白。


「ええ。ロイ・シリルの物語は、他の誰でもない、あなただけのものよ。誰に後ろ指をさされようと、笑われようと、あなただけが紡いでいける、たった一つの物語だわ。あなたのしたいようにすればいい」


「俺……魔王を……本当に、倒せるのかな……」


不安が黒い影のように心を掠める。

か細い声にナナミは静かに応えた。

「倒すのは他の誰でもない、あなたよ。だってあなたは……勇者だもの」

真っ直ぐな言葉にロイはふっと、肩の力が抜けるように息を吐き出すように笑った。


「ははは……なんだよ、それ……。やっぱこれ、全部幻覚だよなぁ……。ナナミが、こんなに優しいわけが、ないもんなぁ……」

「……失礼ね。あんなに人の顔をベタベタと不躾に触っておいて、今度はなんてことを言うの」


少しだけ拗ねたような響きが、その声に含まれているのに気づき、ロイの口元が微かに緩む。


「ナナミ……ありがとう……本当に……」

いつの間にか止まっていた涙が、最後の一筋だけ、そっと頬の輪郭をなぞって落ちた。張り詰めていた糸が静かに切れたように、再びゆっくりと目を閉じた。

今は、今だけは。

このままでいたい。この温もりに、この優しさに、包まれていたい。穏やかな思いが、疲弊しきった心を柔らかく包み込んでいく。






***






「……!」

はっと、何かの気配を感じてロイの目が覚める。

目の前には木陰で黙々と裁縫道具を操るナナミの姿。

先ほどと寸分違わぬ光景にロイは一瞬、時間が巻き戻ったかのような、あるいはまだ夢の中にいるかのような奇妙な困惑を覚えた。


「ゆ、夢……か……。はは、だよな……」


安堵の息が思わず漏れる。

「おはよう、ロイ。もう大丈夫なの?」

いつもと何ら変わらない、平坦で涼やかな声。

その変わらなさ、いつも通りのナナミの姿に、ロイは心の底からほっとした。

情けない醜態を晒したのは、どうやら夢の中だけだったらしい。よかった……。


「ご、ごめんな、ナナミ!なんで俺、こんなところに……すぐにどくから!」


慌てて身を起こそうとすると、上から楽しんでいるような声が降ってきた。


「あら?気の済むまでここにいていいと言ったはずだけれど?それとも何か、泣き虫な勇者様には不都合でもおありかしら?」


少し意地の悪そうな、からかうような響きを含んだ表情でナナミがロイを見下ろしている。

ロイの頭の中でさっきまで“夢”だと思っていたはずの、あの膝枕の光景そして交わした言葉の数々が高画質の映像のように、鮮明に残酷なまでにリアルに再生された。

じわりと音を立てて頬に熱が集まる。

今自分の顔はきっと茹で蛸よりも赤いだろう。


ナナミと反対側の木の根元に、ロイはみじめったらしくしゃがみ込み、意味もなく指で地面の土をいじり始めた。

ナナミは相変わらず涼しい顔で針を進めている。

無表情な横顔がやけに眩しく、少しだけ恐ろしく感じる。


「あ、あの、その……ほんとに、ご、ご迷惑を、おかけ、いたしまして……まことに、申し訳ございませんでした……」


消え入りそうな、蚊の鳴くような声で詫びる。

もはや穴があったら入りたい、地の底まで埋まりたい気分だ。

「別に。何をそんなに気にしているのか分からないけれど、あなたが落ち着いたのなら、それでよかったわ」

あっさりとした返答は、彼のこの壮絶な狼狽ぶりを、意に介していないかのようだ。


「ナナミももしかして、あの洞窟、クリア出来なかったとか……?」

ほんの僅かな、藁にもすがるような淡い期待を込めて尋ねてみる。

ツクヨの国のカラクリ屋敷の時のように、ナナミも不可解な試練に苦戦しているのかもしれない、と。

そうであってくれ、と。


「いいえ。私はもうとっくに終わっているわ。今はこうして、皆の分の繕い物をしているところよ」


淡い期待は初夏の雪のように、見事にあっけなく砕け散った。


「できれば……その、さっきの……あれは……その……だれにも、言わないでいてくれたり、とか……なんて……」

情けない懇願だと自分でも思う。

しかし言わずにはいられない。

「私が人の心の弱い部分を面白おかしく言いふらして楽しむような、そんな下世話な人間だと思っているの? それは心外だわ」

ぴしゃりとした少し棘のある言葉に、ロイは慌てて顔を上げた。


「あ!やっ!そ、そーだよねぇ!ナナミはそんなことするわけないよなぁ!ははは!」


兎にも角にも必死に取り繕う。

今、ナナミの機嫌をこれ以上損ねるわけにはいかないのだ。

土をいじる手を止め、恐る恐る彼女の方を振り向く。

先ほどの出来事は、やはり全て手の込んだ幻覚だったのではないか。

そう思えるほど、あの時のナナミの言葉や手の温もりが今はただただ気恥ずかしくて、くすぐったくて仕方がない。

あれほど感じていた情けない、みっともないという自己嫌悪は不思議とどこかへ吹き飛んでいたが。


最近、どうしてだろう。

洞窟で見た幻でも、夢の中でも、今この瞬間も。

自分はナナミのことばかり目で追ってしまっている気がする。事実に改めて気づくと、また顔にじわじわと熱がこもるのが分かった。

赤面し、俯いて地面を指で無心にいじる。

けれどすぐにまた、盗み見るようにナナミの横顔を見てしまう。

無意識の動作を何度か繰り返してしまう自分が、もどかしくてたまらない。


「お、おれ、ちょっと散歩してくる!そう、散歩だ!」

このむず痒いような、落ち着かない気持ちから逃げ出すように、ロイは勢いよく立ち上がった。

「……散歩?」

ナナミの訝しげな声が、逃げるロイの背中に容赦なく突き刺さる。


試練の洞窟近くの森。

微かな水の流れる音、花の甘い香りがロイを無意識にそちらへ足を向けさせた。

鬱蒼とした草木をかき分けてたどり着いたのは、陽光を浴びて水面がきらきらと輝く、小さな泉だった。

水面を見つめながら、大きく息を吸い込む。

ひんやりとした空気が肺を満たし、少しだけ頭が冷静になるような気がした。


水面に映る自分の姿。

過去、散々馬鹿にされ、コンプレックスの塊だったこの灰色の瞳。

今は勇者の証として仲間たちから、時には見知らぬ人々からも讃えられることがある。


はぁーっと、胸の奥の熱を吐き出すように深いため息をつくと、また先ほどのナナミとの出来事が今度は甘酸っぱい記憶として鮮明に蘇ってくる。

優しいナナミの言葉、温かい手の感触、少し困ったような、でも慈愛に満ちた瞳。

「きゃーーーーーーーーっ!!!!!」

嬉しいような、恥ずかしいような、自分でもよく分からない、形容しがたい感情が一気に爆発し、ロイは子供のように興奮した様子で、泉の水をバシャバシャと両手で叩いた。

水飛沫が陽光に反射し、小さな虹を作る。

「やぁ、ロイ!ずいぶんと楽しそうだね?」


突然背後からかけられた快活な声に、ロイは文字通り飛び上がった。

心臓が喉からまろび出て、泉の底に沈んでしまうのではないかと思ったほどだ。


「わぁぁぁぁぁぁぁぁあ゛!?!!? 」


冗談ではなく、本当に2メートル近く跳ね上がったロイの姿に、クラリスは最初こそ目を丸くして驚いていたが、やがて心臓を押さえてぜいぜいと肩で息をするロイの横に、彼は悪びれもなく無遠慮に腰を下ろした。


「し、試練は、どうだったんだよ、クラリスは!?」

「ああ、僕はもうとっくに終わってしまったよ。森の精霊たちがなんだか騒がしく君のことを話していたから、ちょっと様子を見に来たのさ。まさか水遊びをしているとは思わなかったけれどね」


こいつも終わった組か……。

ロイは内心でがっくりと肩を落とす。

自分だけがこんなにみっともなく足踏みしているのか。


「ロイはどうだったんだい?その様子だと、なかなか手強かったようだね」

「俺は……その……ぜ、全然、ダメダメだった……。はは……」


力なく答えると、クラリスはなぜかあっけらかんと笑った。

「はは!それは実にロイらしいじゃないか」

「俺らしいって……それ、もしかしてバカにしてるだろ、クラリス」

「まさか。だって君はきっとまた挑むんだろう? 成功するまで何度でも、何度でもね。君はそういう人だ。僕には分かるよ」

クラリスの言葉には不思議なほどの説得力があった。

全てを見通しているかのような、穏やかで確かな響き。

「……」

世界はもしかすると自分が心の奥底で恐れているほど、冷たくて厳しい場所ではないのかもしれない。

こんな風に自分の弱さも、不甲斐なさも、笑って受け止めてくれる仲間がいるのだから。


小さくて確かな希望の芽が、ロイの心にそっと顔を出し始めていた。


「そういえば、ロイ。さっきから森の精霊たちが、君のことで持ちきりだよ。何か、ものすごくいいことでもあったの? みんな黄色い声を上げて、大騒ぎしてるんだ」

「へぁ!? な、なんだそれ!?」


すぐに思い当たるのは、さきほどの木陰でのナナミとのこと。

まさか、あの膝枕の一部始終まで森の精霊たちに目撃されていたというのか?

淡い光をまとった小さな精霊たちが、クラリスの周りを楽しそうに飛び回ったあと、興味津々といった様子でロイの元へと集まってくる。


「わっ?!ま、待て待て待て!一体なんて言ってるんだ、クラリス!」


羞恥心で再び顔が熱くなるのを感じながら、ロイは慌ててクラリスに尋ねる。

「うーん……そうだなぁ……」クラリスは楽しそうに目を細め、精霊たちの声に耳を澄ませる。


「『ドキドキー!』」

「『ウレシイウレシイ!ココロガフルエテル!』」


「……ってかんじかな。どうやら君の魂が、何かとても喜ばしい感情で満たされているみたいだね」

クラリスにそう説明され、ロイはふうーーーっと、今度こそ心の底から安堵のため息を吐いた。

どうやら具体的な内容まではバレていないようだ。本当に、よかった……。

「なぁ、クラリスは……いつから、そんな風に精霊の声が聞こえているんだ?」


ふと気になって尋ねると、クラリスは少し遠い目をして、泉の水面を見つめながら答えた。

「うーん、物心ついた時から……いや、もしかしたら、生まれた時から、かもしれないね」


***


クラリス・ブレイクリー。

彼は特定の国を持たず、大陸を渡り歩く移民の家系に生まれた。

生まれた時から精霊に祝福され、赤子特有の産声ではなく、世界に微笑みかけるようにしてこの世に生を受けたという、真偽不明の逸話を持つ。

吟遊詩人であった母と、薬草師であった父と共に、幼い頃から様々な国を渡り歩き、風の吹くまま、気の向くままの、自由気ままな日々を過ごしてきた。


「ねえ、ママ。あそこの木の精霊さんたちが、この先の道は大きな崖崩れがあって、とってもあぶないから通っちゃダメだって、教えてくれてるよ」

まだほんの幼いクラリスが、何の気なしにそう告げた言葉に、彼の両親は最初こそ驚いたものの、やがてこの上ない喜びの表情を浮かべた。


「まぁ!クラリス!あなた、精霊たちの声が聞こえるのね!」


「なんてことだ!我が子に、これほどまでに素晴らしい才能があったとは!これは女神エデルからの贈り物に違いない!」


帰るべき家は持たずとも、優しい両親といつもそばにいてくれる精霊たちとの旅は、幸せな思い出ばかりを幼い彼の心に降り積もらせていった。

しかし、そんな陽だまりのように穏やかな幸せは長くは続かなかった。


旅の途中、彼らの一家は不運にも凶暴な魔獣の群れに襲われ、両親はクラリスを庇ってその短い生涯を終えた。

幼いクラリスにはそれが「死」だとは、すぐには理解できなかった。

きっと、疲れて眠ってしまっただけ。

すぐにまた、いつものように優しい笑顔で起きてくれるはず。

そう信じて、母がいつも愛おしそうに奏でていた竪琴を強く抱きしめ、冷たくなっていく両親の傍らに、何日も、何日も座って待ち続けた。



やがて、両親は再びゆっくりと起き上がる。



しかしその姿は、生前の温かな面影などどこにもない、禍々しい気を放つアンデッドとして。

変わり果てた姿で、かつての息子へと、虚ろな手を伸ばしてくる。

幼いクラリスは言葉にならない恐怖に全身を震わせ、ただ必死に、そばにいた精霊たちに頼み込んだ。

「助けて!お願い!僕たちを!パパとママを、助けて!」

魂からの叫びが彼の内に眠っていた精霊使いとしての強大な力を、図らずも目覚めさせた瞬間だったのかもしれない。

たまたま彼の呼びかけに応じた、近くの火山に棲む強力な炎の精霊が、圧倒的な力で魔物と成り果てた彼の両親を、一瞬にして紅蓮の炎で包み込む。

轟々と燃え盛るふたりの姿を、クラリスはただ呆然と、声もなく見つめていた。

助けてほしかった。

彼の願いは元通りにしたいだけだった。

けれど妖精は結果的に彼らを救った。

彼の両親はクラリスを助けることが残された唯一の救いだったから。


目の前の残酷な光景が、彼の心から感情という感情、色彩という色彩、全てを奪い去っていった。

絶望はいつだって背中合わせで、道を逸らせばすぐそばで手をこまねいているのだ。

幼い彼は、この時にそれを理解してしまった。


いっそ心がなければ、苦しくない。


いっそ何も感じなければ、悲しくない。


以来、彼は何も心の内に詰め込むことなく、ただただ流されるように、目的もなく生きてきた。

例えるなら、風に舞う羽根。

あるいは、水面に浮かぶ木の葉。

根無し草。


自由といえば聞こえはいいが、そうでしかいられない現実は、彼自身にかけられた呪縛のようだった。


そんな色のない、虚無の日々の中で、彼は出会ってしまったのだ。

それぞれの呪縛の中で、それでも必死に自由になろうと、何かを掴もうともがき、不格好ながらも懸命に輝こうとする、彼らに。


「あぁー、もう!なんだって俺らのパーティって、こうも物理攻撃に偏りすぎなんだよな?もうちょっとこう、華麗な魔法とかで、ババーンと敵を薙ぎ払えるような仲間が欲しいぜ!」


どこかの酒場の喧騒の中、ロイがジョッキを叩きつけながら不満げに呟いていた。

「お前が選んだんだろ!」

容赦ないツッコミが飛んでくる。

ほろ酔いしたロイはそんなヤジにうるせぇ!と反論。



「そうねぇ、贅沢を言うのなら後方からの支援や回復役の僧侶とか……いっそ、強力な精霊使いなんて仲間がいたら、戦略の幅も広がって最高なのだけれど」


クロエはどこか夢見るような瞳で分析する。


「ふふふ、僕のこと、呼んだかい?」


突如として背後からかけられた、竪琴の音色のように軽やかで心地よい声に、酒を飲んでいた勇者一行は驚いて一斉に振り返った。

夕暮れ時の太陽のような金色の髪を風に揺らし、人好きのする、どこか掴みどころのない笑みを浮かべた青年が立っていた。


「お、兄ちゃん、確かさっき、酒場の隅の舞台で綺麗な歌、歌ってた奴だろ?吟遊詩人か?俺たちはこれから魔王を倒しにいくっていう、とんでもねえ旅の途中なんだぜ?悪いけど、気楽なコンサートに行くわけじゃないんだぞ?」

仲間のひとりが訝しげに問う。

「わぁ、それはそれは、なんて素敵な旅の目的なんだろうね!見た目に反して、そんなにヤワじゃないつもりだよ~、僕は」

突如として舞台のセリフのように、抑揚のあるミュージカルのような口調で語り始めた青年に、ロイ以外の面々は若干呆れたような、引いたような顔をする。


「長く険しい旅路には、きっと心躍るエンターテイメントもあった方がいいに決まっているさ!戦うだけが冒険じゃない。そこにはたくさんの出会いや別れ、素晴らしい物語がまるで宝箱のように君たちを待っている。何より、君たちのその冒険そのものが、いつか世界中で語り継がれる最高の物語になるんだ」


クラリスはそう言うと、芝居がかった優雅な仕草で、一行に手を差し伸べて続けた。

「偉大なる魔王に打ち勝った暁には、素晴らしい英雄譚を、是非ともこの僕に、世界中に広めさせてはくれないだろうか?」

甘美な誘いにぴくり、とロイの耳が反応した。

「物語」。

自分の「勇姿」。

「……あんた、名前は?」

ロイがいつになく真剣な、そして期待に満ちた眼差しで問いかける。

「クラリス・ブレイクリー。しがない吟遊詩人であり、精霊使いさ」

差し出された、細くとも力強い手を、ロイは迷いなく力強く握り返した。

「相棒!約束だ!俺たちの勇姿を、世界中に、いや、歴史に刻むくらい広めてくれよな!」

「ああ、喜んで!我が竪琴と歌声にかけて!」

こうして、風変わりな吟遊詩人クラリスは、運命に導かれるように、勇者一行に加わったのだった。


***


クラリスはふっと意識を現在の泉のほとりに戻し、楽しそうにロイにちょっかいを出している小さな精霊たちに、優しく慈しむような微笑みを見せた。


「こらこら、君たち。あまり無礼なことをしてはいけないよ。彼は、いつかアストリア全土にその名を残すことになる、偉大なる勇者様なんだからね」


悪戯っ子の末の子たちを諭すように言うと、精霊たちは少し名残惜しそうにしながらも、ロイの周りからふわりと離れていく。


もし人の心を空っぽのガラスのビンに例えるのならば、クラリスのビンはほんの少し前まで、ほとんど何も入っていない、空虚なものだったのかもしれない。


けれど彼らとならば。


ロイたちとのこの予測不可能で、時に厄介で、それでもどこか温かい旅ならば。

スカスカのビンの中身を、ほんの少しずつでも、何か大切なもので満たしていけるのではないか。

そんな淡い期待が、彼の胸の内に小さな泉が湧き出すように、静かに芽生え始めていた。


「精霊たちも、心からロイのこと、応援しているってさ」

クラリスがそう笑顔で伝えるとロイは少し照れくさそうに、嬉しそうに頬を掻いた。


「そ、そうなのか。はは、ありがとな、お前らも!期待に応えられるように、頑張るぜ!」


精霊たちに向かって、少しぶっきらぼうに精一杯の感謝を込めて礼を言う。


彼自身の心の気付けになったのか、ロイはぐっと拳を握りしめ、決意を新たにした表情で、勢いよく立ち上がった。

「行ってらっしゃい、ロイ。君ならできるさ」

クラリスの穏やかな声に背中を押され、ロイは今度こそ、迷いなく試練の洞窟へと足を向ける。






しかし、数歩進んではピタリと立ち止まり、深呼吸をしてまた気を持ち直して進もうとしては、なぜかまた足がすくんでしまう。

壊れてしまったブリキの人形のように、行ったり来たり、進んだり戻ったりを繰り返す、情緒不安定すぎるロイ。



「……ロイ?もしかして、暇なの?」

いつの間にかナナミのいる木陰まで、無意識に戻ってきてしまっていた。

彼女は相変わらず、仲間たちの服の繕い物を淡々と続けている。

細い指は、少しの休まることを知らないかのようだ。

ふと、ロイの脳裏に洞窟の中で見た、あのぞっとするほどに綺麗な、しかしどこか人間離れした笑顔を浮かべていたナナミの幻影が蘇る。

それに続いて、かつて旅の道中でゼロを昇華した後に見た、どこか壊れてしまったかのような、痛々しいまでの虚ろな笑顔も。



「……ナナミ」

ロイはまるで何かに取り憑かれたように、意を決したかのように、彼女の前にゆっくりと立った。

「……笑ってみてほしいんだ」

勇気をほんの少しでいいから、もらうために。

ナナミの気休めでも、作り物でもない、心からの笑顔が一度見てみたい。

切実で純粋な願いを込めて、ロイはただまっすぐに、彼女のライラック色の瞳を見つめた。

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