1-2「宝箱の中身は」
初めて足を踏み入れたダンジョンは、底知れぬ闇を孕み、凶暴な魔獣たちの咆哮が絶えずこだまする、まさに恐怖が具現化したような空間だった。
魔獣の獣性が剥き出しになった叫びが耳朶を打つたび、ロイの喉奥には悲鳴にも似た衝動が濁流のように押し寄せる。
奥歯を噛み締め、必死に押し殺していた。
(無理だって……怖えって……!)
何度心の中で悲痛な叫びを繰り返したことだろう。
だが、ここまで血と汗に塗れて辿り着いた今、臆病風に吹かれて引き返すなどという選択肢はないのだと、彼の魂にーー寸分たりとも刻まれていなかった。
……せめてそんな大層な矜持だけでも、彼にあったのなら。
実際には、逃げたい気持ちを必死に押し隠しているだけ。
許されるのならば全部みんなに任せて自分だけでもとっととダンジョンの外に飛び出してしまいたかった。
まるで綱渡りをするようなギリギリの精神で踏ん張るロイの背後から、耳をつんざくような甲高い音が辺りの空間を切り裂いて響き渡った。
このダンジョンに巣食う魔獣が放った悪意に満ちた超音波だった。
「ぐっ——!」
ロイは咄嗟に両手で耳を塞いだが、その凶悪な音波は鼓膜を激しく貫いていた。
頭蓋骨の内側で脳漿が激しく揺さぶられ、視界は万華鏡のように歪んでいく。足元の大地がまるで生き物のようにぐにゃりと軋み、彼の体は重力に逆らうことなく、吸い寄せられるように膝をついた。
平衡感覚はとっくに狂っていた。
自分が今どこに立っているのかさえあやふやで。
「ろ、ロイ……!? 大丈夫かよ……!」
果たして近くなのか遠くなのか分からないところから誰かの焦燥した声が聞こえる。
だが今のロイにはそれに答える力など残っていなかった。
ぐわんぐわん揺れる頭の隅で警鐘が鳴り響いているだけだった。
次の瞬間、喉から湧き上がる強烈な吐き気に抗うことができず、ロイはよろよろと這うようにしてダンジョンの冷たい岩壁まで辿り着いた。
そして——
「う……げぇ……!」
堪えきれずに、胃の内容物を激しく噴出した。
酸っぱく、この世の苦味が凝縮されたような液体が喉を焼くように逆流してくる。
胃がぎゅっと絞られ体の中の不快なものが容赦なく外へと押し出されていくようだった。
(……っ、ち……くしょう……!)
生理的な涙が目の縁に滲む中、ロイは必死に地面に手を突き、這いつくばった。
こんなにも情けない姿、誰にも見せたくなどなかった。
勇者としての矜持など最初から持ち合わせていなかったものの、唯一彼を奮い立たせていたちっぽけな虚栄心でさえも、たった今地に落ち泥に塗れたように感じられた。
彼の体は意志などまるで無視して制御不能な状態に陥っていた。
(もうやだ……帰りたい。帰って毛布に包まりたい。)
今の彼をこの場に繋ぎ止めているのは、薄っぺらい表面的な建前だけだ。
奥底で叫び続ける逃避願望を、彼は必死の思いで押し殺している。
彼の心の世界は、脆くも崩れ落ちそうな砂の城。風が吹けば更地にもなる。
命からがら、頼りない自分と共に戦ってきた仲間たちと、次々と牙を剥き襲い来る魔獣を、まるで悪夢の中で手探りするように撃退し、息も絶え絶えになりながらもついにダンジョンの主
——先ほど超音波攻撃を仕掛けてきた巨大な悪意の塊のような魔獣を、辛うじて討ち果たした。
ムカつきすぎて泣きべそをかきながら塵と化していく魔獣が早く消えるよう足でバシバシと蹴散らしてゆく。
全てが塵となり空中に漂い消えたその時。
「だーーーーーっ!!!」
先ほどの魔獣とは打って変わり、ロイの魂の底から絞り出されたような、野太い雄叫びがダンジョンの冷たい空気を震わせた。
彼を縛り付けていた恐怖という名の鎖から解放された喜びの叫びであり、死闘の果てに掴んだ、血と汗と何かにまみれた勝利の咆哮だった。抑えきれない感情の奔流を一瞬に爆発させたかのようだった。
だが、激情の奔流が過ぎ去った後には、深い静寂だけが残った。
張り詰めていた糸がプツンと切れ、ロイの体はまるで魂が抜け落ちた操り人形のように、力なく冷たい床にドサリと音を立てて崩れ落ちた。
勝利の余韻も束の間、彼の意識は疲労という名の深い淵へと静かに沈んでいった。
「だ、だれか、ポーションを……」
そう。
彼らの肉体は既に悲鳴を上げていた。
全員が満身創痍。生きてここに立っていること自体が、奇跡と言っても過言ではなかった。
クラリスは震える指先で、床の上を転がすようにしてポーションをロイへと渡す。
「……早いとこ、回復士を見つけた方がよさそうだね……こういったダンジョンには癒しの精霊もついてきてくれないし……」
乾ききった喉から絞り出された声は、今にも途切れそうなほど弱々しかった。
ジークも苦笑いを深く刻み込んだ顔で、愛用の重い槍を杖代わりに、よろよろと立ち上がった。
「俺らなんざ、もう風前の灯火だ。一度街に戻って回復士を誘うことが最優先事項だろ。マジで。なんで先に誘ってないんだよ……」
ロイは差し出されたポーションを一口含むと、顔を歪めた。
鉄錆がこびり付いたような、奥底に土の匂いが混じったような、悍ましい味が舌を麻痺させる。こんな劇薬のようなものが、本当に傷ついた体に良いのだろうか。疑念だけが黒い煙のように立ち上った。
「……攻撃こそ最大の守りかと思って……」
乾いた笑いを滲ませながら、小さく呟いたロイに、太陽のように明るい笑顔を向けたナックが「そうだそうだ!」と遠慮会釈もなく豪快に彼の肩をバシバシと叩きつけた。
肩を伝う衝撃は、疲弊した体に鈍く響き、ロイは思わず顔をしかめた。
一方で、知的な思考を持つシルリアは、空になったポーションの瓶を憂いを帯びた指先で弄びながら、深い溜息をついた。
「それにしても……魔王討伐という重大な使命を帯びたパーティなのに、肝心の回復士がいないなんて、一体どういうことだろうね?」
腕を組みクロエもまた苛立ちを滲ませた表情で頷いた。
「普通!王国側が!巫女に匹敵するほどの神官とか聖女レベルの回復士を派遣するのが筋ってもんじゃないの!? 全く、何を考えているんだか!」
仲間たちがそれぞれの疲労と不満を吐き出す中、ロイは最早味など感じないポーションを無理やり飲み干し、鉛のように重い腰を上げた。
「……とりあえず、探索続行だろ。せっかくここまで血とゲロと汗を流して辿り着いたんだ。」
仲間たちはまだ納得のいかない表情を隠せないながらも、ロイの言葉に渋々と頷き、ダンジョンの奥深くへと疲れた足を引きずりながら進んでいった。
ようやくダンジョンの最奥。
湿り気を帯びたじめじめとした空気と、骨まで凍てつくような岩肌の冷たさが肌を刺すその場所に、周囲の無骨な岩とは明らかに一線を画す、異質で強烈な存在感を放つ大きな宝箱が、沈黙を守るように鎮座していた。
息を呑むほどに眩い金と、夜空の星屑のような銀で、気が遠くなるほど細やかな装飾が丹念に施され、中央に内側から燃え盛る炎のような妖しい赤色の宝石が埋め込まれている。
威圧感すら漂わせる神々しい宝箱の前でロイたちは言葉を失い、まるで磁石に引き寄せられた鉄粉のようにしばし立ち尽くした。
「……これ、いい意味か悪い意味か、普通じゃない気配がするね。」
クラリスの震える声が静寂を切り裂いた。
「中身がヤバいならなおさら開けなきゃな」
ジークはどこか諦めたようなそれでいて、挑戦的な笑みを浮かべ肩を竦めた。
屈強な戦士であるナックは、いつでも飛び出せるように巨大な斧を構えたまま、獲物を狙う猛獣のような鋭い眼光で宝箱をじっと睨みつけている。
知略に長けたクロエと冷静沈着なシルリアは、互いに小声で何かを囁き合い美しい顔には隠せないほどの警戒の色が浮かんでいた。
ロイは乾ききった喉を潤すように、ゆっくりと深呼吸をひとつし、固く決意を秘めた瞳で宝箱の重厚な蓋に手をかけた。
鈍い金属が擦れる音を立てながら、永い眠りから覚めるように蓋がゆっくりと開かれていく。
——その宝箱の中身は。
鮮血に濡れた、白百合のような白い衣をまとった少女だった。
「うわっ!?」
本能的な恐怖からロイは悲鳴にも似た叫びを上げ、熱い鉄に触れたかのように飛び退いた。
仲間たちも瞬時に臨戦態勢を取り、それぞれの武器を構え張り詰めた沈黙が重い幕のようにその場を覆い尽くす。
誰もが目の前の信じがたい光景に言葉を失い、目を丸くした。
宝箱の中には確かに生きた人間がいた。
まだあどけなさが残る少女。
純白の衣はおぞましいほどの鮮血に染め上げられ、まるで生きた屍のように小さく丸まってぴくりとも動かない。
ありえない。
魔物の巣窟であるダンジョンの最深部に、無力な人間が?しかもこれほどまでに痛ましい姿で?
「……ロイ、アレ……一体、なんだ……?」
ジークの喉の奥から絞り出すような低い声が、静寂を打ち破った。
ロイは口を開こうとしたが、言葉が見つからなかった。
心臓がけたたましく鼓動し、全身の血液が逆流するような奇妙な感覚に襲われる。
幻かもしれない。
悪意ある者が仕掛けた、巧妙な罠かもしれない。
だが。
彼女は確かにそこに存在していた。
冷たい石の宝箱の中で、か細い腕で最後の希望の光を掴むかのように、古びた本とオーロラ色に光り輝く剣をぎゅっと抱きしめて。
ロイは湧き上がる恐怖と抗いがたい好奇心に突き動かされるように、恐る恐る一歩、宝箱に近づいた。
震える指先を壊れ物に触れるかのように伸ばして、そっと、彼女の凍えるように冷たい頬に触れようとした——。
まさに指先が触れようとした、瞬間。
脳裏に堰を切ったように、鮮明な過去の光景が洪水のように押し寄せてきた。
王都の長い廊下で見かけた威厳に満ちた大魔女の肖像画。
幼い自分に慈愛に満ちた優しい声で何かを語りかけてくれた。
静寂に包まれた深い闇の中、ふわりと微笑み、導くように白い小さな手をこちらに差し伸べてくれた、見知らぬ女性の面影。
その瞳の色は——
鮮やかな夜明けの空のような、忘れようもないライラック色だった。
ロイの僅かに震える指先が少女の氷のように冷たい頬に、そっと触れた。
ひどく信じられないほどに冷たかった。
生気を吸い取られた抜け殻のように。
凍えるような冷たさに全身の細胞が悲鳴を上げ、ぞくりと悪寒が走る。
やがて、少女の固く閉ざされていた繊細なまぶたが、ゆっくりと、長い時間をかけて巻き戻されるフィルムのように持ち上がった。
深い深い眠りから、永い永い悪夢から、ようやく解放されたかのように。
鮮やかな吸い込まれるようなライラックの光が、運命の矢のようにロイの瞳を射抜いた。
「……あ……」
乾ききった喉の奥から、か細く消え入りそうな声が漏れた。
ライラックの瞳は揺るぎなくロイを映していた。
ただまっすぐに何よりも強く、触れればすぐにでも消えてしまいそうなほど、儚げに。
そして、少女は——。
堪えきれなかった感情が溢れ出すように、大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めた。
零れ落ちる透明な雫は、何かを必死に訴えかけているようだった。
拭いきれないほどの深い寂しさか。遠い忘れたいほどの記憶への恐怖か。
それとも、まだロイの心の辞書には存在しない、名もなき感情の奔流か。
わからない。
何もかもが。
だけどロイは心の奥底で確信していた。
今にも消えそうなほど小さな傷ついた光を、このまま暗闇の中に置いていくことなど決してできない。
実に奇妙で劇的な出会いが、自分たちだけではない、世界までをも巻き込んで、静かに回り始めた運命の歯車を大きく変えてしまう。
そんな熱い予感が、ロイの胸の奥で静かに燃え上がっていた。
「……もう大丈夫だ」
目の前の少女と自分自身に言い聞かせるように、ロイは小さく確かな声で呟いた。
宝箱の中からまるで壊れやすい宝物を扱うように、そっと、血濡れの少女を抱き上げた。
仲間たちは目の前で繰り広げられたまるで現実離れした光景に、まだ言葉を失いただ立ち尽くしていたが、誰もロイの行動を制止する者はいなかった。




