3-7「ジーク・アーケノイド」
ゲルバスの邪悪な気配が陽炎のように消え失せた後、氷結の塔の最上階には、しんと心臓を抉るような静寂が訪れた。
先程までの激しい戦闘音が嘘のように、風の哭く音と誰かの荒い息遣いだけが響く。
静寂を破ったのは、ジークの獣のような咆哮だった。
「じいちゃんッ!!!!」
ネイシュカとジークは同時に弾かれたように、床に崩れ落ちたグランパルの元へと駆け寄った。
胸にはゲルバスの凶刃によるおぞましい傷口が開き、そこから止めどなく、ドクドクと生命そのものが流れ出してゆく。
赤黒い血が純白の氷床を汚していく様は、あまりにも酷い光景だった。
「じいちゃん……じいちゃん!しっかりしろ!」
もう成人して久しいというのに、幼子のようにグランパルの体に縋り付き、その名を呼び続けた。
死を目前にした恐怖と絶望で声は震えていた。
「やれ、ジークや……。瞬きの間に……もう、こんなに大きくなって……。ネイシュカまで……二人とも、本当に……立派に、なったなぁ……」
薄れゆく意識の中、グランパルは長年覆っていた霧が晴れたかのように、穏やかでどこまでも優しい眼差しで二人を見つめた。
少しくすんだグリーンの瞳には、先程までの混濁はなく、ただ深い愛情と慈しみの光だけが満ち溢れていた。
「子供は…元気が、一番だというのに…何を、そんなに泣いておるんじゃ…?」
あまりにも穏やかで、今のこの絶望的な状況とは不釣り合いなほど優しい声。
そんな声を聞いては、どんなに強がったとしても胸に込み上げるものがある。
「じ、じいちゃん……何言ってんだよ……!俺……俺は…………もう、とっくに20を過ぎたんだぞ……子供なんかじゃ……」
ジークは嗚咽を漏らしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
グランパルの最期を悟り、それでもなお、彼を安心させたい一心で敢えてそんなことを口走ってしまう。
「はは…なにを言うか、小童めは。わしにとっては、いつまで経っても、可愛い…子供じゃわい」
グランパルは、弱々しくも楽しそうに笑った。
ネイシュカが祈るように両手を胸の前で組み、全身全霊で力を解放しようとした。
こんな大きな傷ではきっと回復の奇跡では間に合わない。
彼女も育ての親同然であるグランパルを、このまま失いたくない一心だった。
無表情だった彼女が、今は呼吸を激しく乱し、双眸からは大粒の涙が止めどなく溢れ落ちている。
「グランパル……!今、私が……!」
彼女の周囲に凄まじい冷気が渦を巻き始め、パキパキ、と周囲の床や壁が瞬く間に凍りついていく音が響き渡る。
グランパルをコールドスリープさせ、命を繋ぎ止めようというのだ。
しかし、グランパルは凍てつく力の発動を、弱々しくも確かな力で首を横に振り、制した。
祈るように組まれたネイシュカの冷たい手を、自身の血に濡れた温かい手で、そっと握りしめた。
「もう…よいのじゃ、ネイシュカ。ワシは…もう、充分…生き永らえた……。お前たちの…成長を、こうして見届けられたのだから……もう、思い残すことは、何もない……」
聞き慣れた声は掠れていたが、安堵と揺るがない覚悟があった。
彼はコールドスリープという名の延命を、静かに拒否したのだ。
そして、グランパルは再びジークに向き直り、途切れ途切れの声で、あの日の、長年隠されてきた過去の真実を最後の力を振り絞って語り始めた。
「ジークや……よく、聞くんじゃ……。ネイシュカはな……お前たちの村を…忌まわしい魔族から…守ろうと……ただ、必死じゃったんじゃ……。あの恐ろしい魔族が…現れて…もう、どうしようも…ないと……。お前たちを…ただ、守りたかっただけなんじゃ……一人……ずっと……」
言葉は途切れ途切れで、その度にグランパルは苦しそうに咳き込んだが、それでも彼は語るのをやめなかった。
ネイシュカが下した苦渋の決断、彼女が一人で背負い込んできたあまりにも重い荷、隠され続けた真実を、ジークに伝えようと必死だった。
「分かった、分かったから!もうネイシュカを責めたりしないから!喋らないでくれ! 頼むよじいちゃん…死なないでくれよ……!ネイシュカ!頼むよネイシュカ!コールドスリープでもなんでもいい!じーちゃんを助けてくれよォッ!」
ジークはグランパルの言葉を遮り、ネイシュカに懇願する。
「分かっている!私だって…!私だって、グランパルを失いたくない…!でも…!」
ネイシュカもまた、涙でぐしゃぐしゃになった顔で叫ぶ。しかし、グランパルの意志は固かった。
「やめなさい、ジーク。ネイシュカもじゃ。お前達に……見送られる最期も……悪くない。なぁに…命の環の中に、かえるだけじゃよ。悲しむことはない……」
グランパルは泣き叫ぶジークとネイシュカの頭を、震える手で優しく、慈しむように撫でた。
ゴツゴツとした手の温もりが、二人の悲しみをさらに深くする。
「でも…でも、そんなの、嫌だよじいちゃん……!」
「さて……ジーク、ネイシュカ……。お前たちが幼い頃、眠れない夜に……よく歌ってやった、おまじないの歌は……覚えて……おるかえ……?」
グランパルは、ふと遠い昔を懐かしむように、そう問いかけた。
「……ええ。」「……ああ、覚えてるよ。」
二人は涙で濡れた瞳を見合わせ小さく頷いた。
「そうか……それなら、よかった……。聞かせて……くれんかのぅ……。なんだか、久々に……聞きたくなって、なぁ……」
ジークとネイシュカは、もう言葉にならなかった。
ただ、ボロボロと熱い涙を流しながら、グランパルの冷たくなり始めた体を抱きしめ、震える声で、あの懐かしい眠れない時のおまじないの歌を歌い始めた。
「ねんねの……雪が ふるよ ふるよ……♪」ジークの声は、嗚咽で何度も途切れる。
「……ぬくもりの なか きみは いる♪」ネイシュカの歌声も、涙で震え、か細い。
「ひとりじゃ ないと わかる ように」
「あしたの ひかりを おいて ゆく」
涙が次から次へと溢れ出し、嗚咽となって湧き上がり、うまく歌えない。
それでも二人は、必死に歌い続けた。グランパルのために。自分たちのために。
時折、グランパルが、薄れゆく意識の中で、懐かしむように愛おしそうに呟く。
「お前たちは、昔から…泣き虫は、なおらんのう……」
「雷がなったら…臍を隠せと…あれほど、言うたのに……」
言葉の一つ一つが、二人の胸を締め付け、涙をさらに誘う。
やがて、歌声が途切れがちになり、グランパルの呼吸も、次第に浅く弱々しくなっていくのが分かった。
歌の最後のフレーズが、か細く、祈るように歌い上げられた時ーー
グランパルの体から、ふっと力が抜け、その手からネイシュカの手が滑り落ちた。
グランパルは最後に二人に、「強く…生きろ…そして…未来を…希望を、持って……」と、ほとんど音にならないような声で言い残し、眠るように、穏やかな顔で静かに息を引き取った。
「じいちゃ……っ……じいちゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!!!!!!!」
ジークの魂からの絶叫が、氷結の塔とノルディアの凍てつく空を震わせた。
彼は育ての親の亡骸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
深い深い悲しみが、彼の心を容赦なく引き裂いていく。
ネイシュカもまた、その場に崩れ落ち、声を殺して嗚咽を漏らし続けた。
同時に、ジークの心の中で、何かが確かに変わり始めていた。
グランパルの最後の言葉、普段は感情を表に出さないネイシュカが、これほどまで取り乱し、悲しみに打ちひしがれている姿。
それらが長年彼の心を支配してきたネイシュカへの燃えるような憎しみに、初めて小さく確かな揺らぎを生み出していた。
彼女もまた、自分と同じようにグランパルを愛し、彼の死を悼んでいる。
紛れもない事実が今まで見ようとしてこなかった真実の一端を、おぼろげながらも感じさせたのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。
二人の激しい嗚咽は、やがて途切れ途切れのしゃくりあげに変わり、重苦しい沈黙が訪れた。
赤く腫れ上がった瞼と、涙の跡が生々しく残る頬が、どれほど二人が泣き続けたのかを痛々しく物語っていた。
ややあって、ジークが掠れた声で口を開いた。
「ネイシュカ……俺は、やっぱり……お前のことを、許せそうにない」
静かだったが、確かな重みがある言葉だった
ネイシュカは、ゆっくりと顔を上げジークの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……許してもらおうなんて、思っていない」
「……けどな」ジークは言葉を続けた。
「お前が何のためにあんなことをしたのか……動機だけは分かった気がする。……痛いほどに分かった。今まで……本当にすまなかった。何も知らずに、お前を責め続けて……」
「……!」
ネイシュカの瞳が、わずかに見開かれた。驚きと、そして何か別の、複雑な感情がその奥に揺らめいた。
「だから一時休戦だ。目的は同じはずだからな。……これからは共同戦線と行こうじゃないか」
ジークはそう言って、ネイシュカに力強い視線を送った。
ネイシュカは数秒間黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうだね。私たちのやるべきことは、一つだ」
二人は誓いを立てるかのように、同時に決意を込めて呟いた。
「「ーー魂喰のゲルバスを、絶対にこの手で葬る」」
グランパルの亡骸の前で、二つの心は悲しみを乗り越え、一つの復讐の炎となって激しく燃え上がり始めていた。




