2-7「夜明けの誓い」
星辰の盤が砕け散った後、聖域は一時的な静寂に包まれた。
息をするのも忘れ、耳が痛くなるほどの静寂だった。
だがそれも束の間、夜が白み始めると共に新たな騒動が持ち上がる。
盤の破壊を知った老衆たちが、血相を変えて月の間に駆けつけ、ミコトと傍らで彼女を庇うように立つナックを激しく詰問し始めたのだ。
「ミコト様!なんということをしてくださったのですか!我が国の至宝、星辰の盤を破壊するとは神への冒涜、国への反逆に他なりませんぞ!」
「ナック!そなたも同罪じゃ!巫女様を唆し、この国を滅亡の危機に追いやったこと、万死に値する!」
老衆たちの甲高い声がまだ薄暗い聖域に響き渡る。
怒りよりも、長年信奉してきた絶対的なものが失われたことへの恐怖と混乱に満ちていた。
彼らにとって星辰の盤はツクヨの国の秩序そのものであり、盤を失うことは小さな世界の終わりにも等しいことだった。
ミコトは毅然として彼らの前に立っていたが、依然として疲労の色が濃い。
ナックは怒りに肩を震わせ、今にも掴みかからんばかりだったが、ミコトがそっと彼の腕に触れ、それを制した。
責め立てられる2人を見兼ねてか、聖域に避難していた住民たちが一人、また一人と月の間の周囲に集まり始めたのだ。
彼らは昨夜のミコトの献身的な祈りと、ナックの命懸けの行動を目の当たりにしていた。
「……待ってくだされ!ミコト様は我々を、この国を守ろうとされたのですぞ!」
最初に声を上げたのは、昨日ミコトに子供を救われた母親だった。
一つ声が上がると、次々と住民たちが老衆たちに反論の声を上げ始める。
「そうだ!星辰の盤が魔獣を呼び寄せていたのなら、壊すしかなかったはずだ!」
「ミコト様は自分の命を投げ出そうとまでされたのだ!それを救ったのがナック殿ではないか!」
「いつまで古いしきたりに縛られておるのです!我々は盤がなくとも、自分たちの手でこの国を立て直せます!」
これまで巫女と盤に全てを委ねてきた民衆が、初めて自らの意志で声を上げた瞬間だった。
声は次第に大きくなり、老衆たちの詰問の声をかき消していく。
ミコトはその様子を驚きに満ちた顔で見渡した。
星辰の盤が無くなってしまった今でも、彼らはミコトの方を支持したのだ。
圧倒的な数だった。
老衆たちは予想だにしなかった民衆の反発に言葉を失い、ただ狼狽えるばかりだった。
少し離れた場所で傷の手当てをしながら見守っていたロイたち。
「ふぅ……。でも、ミコト様のあの修行のおかげで、なんとか乗り越えられたね」
クラリスが安堵の息をつく。
「あのからくり屋敷、本当に無駄じゃなかったわ! 最後は感覚で避けられるようになったもの!」
クロエが少し誇らしげに笑う。
「シルリア、あの大技かなり良かったぞ。見直した」
ジークが素直に称賛する。
「ジークこそ、昨夜の動きはキレがさらに増していたんじゃない?まるで踊っているようだったね」
シルリアが微笑み返す。
今までとは違い、激しい戦いの後だというのに、彼らの表情は疲労よりも確かな達成感と仲間への信頼に満ちていた。
ロイはそんな仲間たちを眩しそうに眺め、隣に座るナナミにそっと話しかけた。
「何事もなくて本当に良かったな。星辰の盤は壊れちゃって、ツクヨの国の人たちはこれから大変なのかもしれないけど……」
ロイが努めて明るく笑いかけると、ナナミは小さく頷き、何かを思うように目を伏せた。
「……きっと、ここの人たちは大丈夫。」
彼女の言葉には確信にも似た響きがあった。
***
やがて戦いの喧騒が嘘のように、優しい朝日が聖域を照らし始めた。
清浄な風が吹き抜け、血と土の匂いを洗い流していく。
仲間たちの間には安堵の空気が流れていたが、ロイはふと、ナナミの横顔に過る微かな苦悶の影に気づいた。
よほど疲れているのだろう。
そう察したロイは声をかけようと手を伸ばす。
しかし伸ばした手は宙を切った。
ナナミは自分の疲れなどそっちぬけで、傷つき疲弊した仲間たちや住民たちを見渡すと、何かを決意したように、白く細い指先を震わせながらも、奥歯で何かを噛み殺すように唇をきつく結び、回復の奇跡を使おうとそっと手を掲げたーー
「……主は力を使わずともよい」
いつの間にか、音もなく影が差すようにナナミの傍らに立っていたミコトが、細い手首を有無を言わせぬ確かな力で掴んで制した。
いつもよりずっと低い声は周囲の喧騒にかき消えそうなほどだったが、深い配慮と警告にも似た響きが込められていた。
ナナミは心の奥底に隠した最も知られたくない秘密を、不意に覗き込まれたかのように、はっと息を呑み、驚愕に目を見開いてミコトの顔を見上げた。
ミコトの瞳は朝日に照らされていながらも、どこか深淵を思わせる静けさと、全てを見通すような鋭さを湛えている。
「……その清浄なる奇跡は、今のお主にとって……あまりにも大きな代償を強いる。身を灼き、魂を削る呪詛の疼きをただ増幅させるだけであろう?」
ミコトは言葉を選びながら、彼女の魂に直接語りかけるように囁いた。
周囲の誰の耳にも届かぬはずだった。
風の音、人々の安堵の声、遠くで鳴く鳥の声ーー
それら全てに紛れて、消えてしまうはずの小さな小さな囁き。
だが運命の悪戯か、あるいは勇者の研ぎ澄まされた五感が不吉な気配と共にその言葉の断片を拾い上げたのか、ミコトが呟いた意味深な囁きだけが、奇妙なほど鮮明な音でロイの耳にだけ、胸騒ぎを覚えるような不吉な響きを伴って届いてしまったのだ。
(呪詛……? 代償……? 魂を、削る……?)
ロイは眉をひそめ、ナナミとミコトの緊迫した横顔を凝視する。
ナナミの瞳が驚きと秘密を見抜かれたことへの激しい動揺、予期せぬ理解者を得たかのような戸惑い、言葉にできない安堵のような複雑な色を映して、大きく揺れた。
彼女は何か言い返そうとしたが声にならず、全てを承知しているかのようなミコトの瞳を見つめ返すことしかできない。
ミコトはナナミの胸中を理解しているかのように、穏やかに哀しみを湛えた微笑みを浮かべると、掴んでいた手をそっと離した。
今度は集まった全ての者たちへ向き直り、両手を高く掲げた。
「皆の者、昨夜はよくぞ耐え忍んだ!このミコトが、聖なる光をもって、傷と疲れを癒そうぞ!」
ミコトの声と共に彼女の身体から温かく、清らかな光が泉のように溢れ出し、聖域全体を優しく包み込む。
光に触れた者たちは、体の傷だけでなく心の奥底にわだかまっていた不安や恐怖までもが、雪解けのように和らいでいくのを感じた。
歓声と感謝の声が聖域に満ちる中、ナナミは一人その光の輪から少し離れた木陰に身を寄せ、誰にも見られぬように深く顔を俯かせながら、懐から取り出した小さなポーション瓶を静かに呷っていた。
やけに小さな背中が、朝日の中でひときわ儚く痛々しくロイの目に映った。
「……定められた運命ばかりに囚われて、ただ星に祈り、楽がしたかっただけじゃったのやもしれんな、ワシらは」
回復の奇跡が終わり、朝日の中でミコトはぽつりと呟いた。
盤がなければ未来が見えないと信じ込み、思考を停止していたのは老衆だけでなく、自分自身も同じだったのかもしれない、と。
だからこそ、村人たちが自らの意志で自分を守ろうとしてくれた光景は、ミコトの心に深く刻み込まれていた。
盤の力では決して見ることのできなかった未来だった。
悪しき風習を断ち切り、誰かに定められただけかもしれない運命に縛られるのではなく、人々の強い意志と行動こそが未来を切り開いていくのだーー
そんな確信が彼女の中に芽生えていた。
盤に頼らずとも、自身の力とかけがえのない仲間との絆で、未来を見据えることができる。
何よりも、不器用な男が「絶対に守る」と断言してくれた言葉が強い心の支えとなっていた。
「さて!未来を切り開くために、ワシはさっそく新たな一歩を踏み出すぞ〜!」
ミコトは突然、快活な声で宣言した。
「皆の者!これよりワシと“お友達”になるのじゃ!」
「「「と、友達!?」」」
一国の、それも神聖な巫女から突拍子もない提案をされ、ロイたちは戸惑いを隠せない。
ナナミに至っては興味がないとばかりにそっぽを向いている。
「ほれほれ〜!遠慮はいらん!ミコちゃん、と呼んでみぃ〜!」
ミコトは悪戯っぽく笑い、有無を言わさぬ雰囲気で迫る。
仲間たちは苦笑いを浮かべながらも、「ミ、ミコちゃん……」と、ぎこちなくその名を口にするのだった。
「ナナミ」
不意にミコトが静かにナナミの名を呼んだ。
少し驚いたように、ナナミは意図せずミコトの方へ振り向いてしまう。
ミコトはナナミの目の前に進み出て、すっと右手を差し出した。
「……主は、友達になってはくれぬのか?」
ナナミは差し出された手とミコトの顔を数秒間見比べ、少し考え込むような素振りを見せた後、ふっと目を細めてきっぱりと言い放った。
「……ぜっったいに、イヤ」
その場にいた仲間たちが、びくっ、と肩を揺らす。
な、なんてことを……!
ロイが慌てて「ナナミ、取り消すんだ!」と小声で囁くが、ナナミはふん、とそっぽを向いてしまう。
ミコトは怒るでもなく、むしろ面白そうに口角を上げるとナナミのそっぽを向いた手を無理やり掴んだ。
ミコトの腕に巻かれた黒曜石の数珠が、チリン、と涼やかな音を立てる。
「……主の星は実に複雑で、難儀なものじゃな」
ミコトは掴んだナナミの手をそのままに、彼女の瞳をじっと見つめて言った。
「……だがワシには見える。その奥にある光は強く、そして……美しい」
黒々とした、吸い込まれそうなミコトの瞳が、ナナミの心の奥底まで射抜くように見つめる。
ナナミはバツが悪そうに俯き、何も言えない。
「いつか“その旅”が終わったのなら……。また我がツクヨの国へ来い。その時はきっと主も、ワシと友達になりたくなっておるはずじゃ」
ミコトはまるでナックが乗り移ったかのように、歯を剥き出して屈託なくニカッと笑った。
「……その時こそは、本当の友達になろう」
再び少しの沈黙が流れる。
やがてナナミは本当に小さな声で呟いた。
「…………考えて、おくわ」
ナナミの返答を聞いてロイたちは心底ホッとした表情を浮かべるのだった。
「皆の者」
ミコトは改めて一行に向き直り、深々と頭を下げた。
「このツクヨの国を……囚われていた“ワタシ”自身を……救ってくれて、本当にありがとう」
感謝と、新たな始まりへの希望に満ち溢れていた笑みがとても眩しかった。
***
翌朝。
旅立ちの準備を整えた勇者一行は、ミコトの屋敷の前で彼女を待っていた。
久しぶりに袖を通した自分たちの衣服からは、陽だまりのような優しい清潔な香りが漂う。
どうやら彼らが眠っている間に誰かが洗濯し、丁寧に畳んでおいてくれたようだ。
屋敷の中からは、何やら慌ただしい人々の声や足音が聞こえてくる。
国の一大事の後始末で、まだ混乱が続いているのだろう。
やがて少し髪を乱し、額に汗を浮かべたミコトが忙しそうに一行のもとへやってきた。
「さて、お待たせじゃ! いやはや、大仕事を成し遂げた英雄たちをゆっくりと歓待もできずに追い出すようで申し訳ないのじゃが……いかんせん国中がこの通り、てんやわんやでな。この後片付けにはちと、骨が折れそうじゃ。主らはこれ以上面倒事に巻き込まれる前に、先を行くが良い」
ミコトは申し訳なさそうに眉を下げながらも、表情はどこか吹っ切れたように明るい。
「僅かながらになってしまったが、餞別とアマテラスの花で作った丸薬じゃ!失くすでないぞ!」
僅かといいつつも、沢山詰め込まれたお土産を阿形と吽形がロイとナックに手渡す。
小瓶に詰められたアマテラスの花の丸薬を大切に荷物入れにしまい、改めてミコトに向き直った。
「こちらこそ何から何まで本当に長い間、お世話になりました」
ロイが代表して頭を下げる。
「うん、ずっとここにいたいくらい楽しかったわ。特にミコちゃんのお料理!」
クロエが名残惜しそうに言う。
仲間たちが口々に感謝の気持ちを述べると、ミコトは慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「さて、旅立つ者たちの行く末に幸多かれと祈るも、巫女の務め。主たちのこれからの旅路が、どうか安寧で実り多きものとなりますように……」
ミコトはそう言うと、目を閉じ、両手を胸の前で静かに組んだ。
聖域の清浄な空気が、彼女の周囲に集まってくるのが分かる。
「ーー星影より生まれ出でし、慈愛と勇気の御女神エデルよ。今、新たなる道を歩み出さんとする、若き勇者たちの前途に、御身の温かなる眼差しと、揺るぎなき守護の光をお与えください。彼らが如何なる困難に直面しようとも、希望を失わず、仲間と共に乗り越える力を。その歩みの一つ一つが、やがて世界を照らす輝きとならんことをーー」
ミコトの祈りと共に、彼女の身体から柔らかな光が放たれ、それが一人一人の頭上へと降り注ぎ、それぞれの身体を優しく包み込んでいく。
直接的な力の増強というよりも、心の奥深くに染み渡るような、温かくて心強い加護だった。
誰もが自分の内側に、確かな希望の灯がともったような感覚に似ている。
無事、全員が加護を受け終えたのを確認すると、ミコトは最後に、何かを確かめるようにゆっくりとナックへと向き直った。
楚々とした瞳には、巫女としての厳かさとは違う、一人の女性としての深い情愛と避けられぬ別離への微かな寂しさが揺れていた。
「……して、ナック」
いつもの快活さとは裏腹に、声が少しだけ震えているように聞こえた。
「……おう」
ナックはミコトのそんな揺らぎも全て受け止めるように、力強く応じる。
彼の瞳にもまた、彼女への深い信頼と、これから成し遂げようとする使命への揺るぎない決意が宿っていた。
「主には本当ならば……このツクヨの国に残り、ワシと共に国の新たな未来を築いて欲しい……。そう、心から願っておるのじゃ……。じゃが……」
ミコトは言葉を区切る。
寂しくないと言えば嘘になる。
だが彼の意志を最大限に尊重するように、続けた。
「……どうやら、そうは問屋が卸してくれぬようじゃな。今のお主の瞳は、もうワシの知るお前ではない。盤を破壊した時よりも、さらに遠くの、もっと大きな未来を……ワシには計り知れぬほどの覚悟を見据えておる」
彼女はナックの心の奥底まで見通しているかのように、静かに言った。
覚悟の強さを、それがどれほど過酷な道のりであるかを、彼女は星詠みの巫女としてではなく、彼を最も近くで見守ってきた者として感じ取っていた。
「おうよ。俺はもっと強くならなきゃならねぇ。守らなきゃならねぇものが、このアストリアには、まだたくさんあるんでな。お前だけじゃない。お前が愛したこの国も、まだ見ぬ多くのものも……」
ナックの言葉には飾り気はないが、鋼のような揺るぎない決意と、彼なりの不器用な愛情が込められていた。
ミコトはそんな武骨な男を眩しそうに見つめ、万感の想いを込めて、小さくはっきりと頷いた。
「……“ワタシ”はずっと、この場所で“お前”の帰る場所を護っておる。お前がいつ帰ってきても良いように、このツクヨの国を、必ずや立て直してみせる。だから……お前も、お前の信じる未来を必ずや切り開いてくるが良い」
巫女としての約束であり、何よりも彼を信じる一人の女としての誓いだった。
ナックは一瞬、言葉に詰まったように見えたが、すぐに照れくさそうに、心の底から嬉しそうに力強く頷いた。
「今度こそ、魔王もアストリアの歪みも、全部片付けて……胸張って、この国に帰ってくる!」
「……ふん。その意気や良し。じゃが、無尽蔵にその馬鹿力に頼ればよいというものではないぞ!少しは頭を使って戦略というものを学べ!いつもいつも、ただ感情のままに先を突っ走るでない!聞いておるのか、この朴念仁!」
ミコトがいつもの調子で、けれど声には隠しきれない愛情と心配を滲ませながら小言を言い始める。
「あー! 分かった分かった! もう、お説教はたくさんだっての! 耳にタコができるわ!」
ナックはわざとらしく耳を塞ぐ仕草をするが、口元には確かな笑みが浮かんでいた。
「これ!話はまだ終わっておらんぞ!人の話は最後まで聞かんか!」
「うるせー!俺は頭の良さまでは鍛えてねーんだよ! そんな小難しいこと、これっぽっちもわかんねー!」
いつもの姉弟のような、あるいは長年連れ添った夫婦のような、そんな軽口の応酬。
そのやり取りの一つ一つが、二人にとってかけがえのない時間であることを、この場にいた誰もが感じていた。
やがてミコトの声のトーンがふっと落ちた。
「……体にだけは本当に、気をつけるのじゃぞ。……決して無茶をするでない。お前が……お前までいなくなってしまったら……ワシは……」
言葉が途切れ、ミコトは唇を強く噛み締めた。
黒々とした大きな瞳には、堪えきれない涙が再び膜を張り、今にも零れ落ちそうだった。
彼女はそっとナックの頑強な腕に触れた。
白い小さな手は微かに震えていた。
彼女がどれほど彼を引き留めたいと願い、どれほど彼の身の無事を祈っているか、小さな震えだけで痛いほど伝わってくる。
ナックはミコトの痛切な想いも、震える指先から伝わる不安も全てを包み込むように、力強く、優しく、彼女の手に自分の手を重ねた。
「約束する。必ず帰ってくる。どんな傷を負っても、何度打ちのめされても、必ずだ。だから……お前もちゃんとここで待ってろよ。俺が帰ってきたら、一番にお前のとびっきりの笑顔を見せてくれ」
いつものようにぶっきらぼうだったが、確かな温もりとミコトを安心させようとする、彼なりの精一杯の優しさが溢れていた。
ミコト、涙を堪えるようにぐっと顔を上げ、無理に笑顔を作ろうとしたがすぐに歪んでしまう。
彼女は重ねられたナックの手を、名残惜しそうに何度も何度も握りしめた。
大切な、かけがえのない宝物を手放すかのように、ゆっくりと手を離していく。
離れゆく指先が最後に微かな温もりを伝え合い、完全に離れた瞬間、言葉にできないほどの寂寥感が朝の清浄な空気の中に溶けていくように漂った。
見守っていた仲間たちも二人の間に流れる痛切なまでの深い絆を感じ、ただ息を詰めて見つめるしかなかった。
それは単なる別れではなく、未来への確かな約束が交わされた瞬間でもあったのだ。
「主たち」
ミコトはナックから視線を外し、再び一行に向き直った。
先程までの個人的な感情の揺らぎはなく、再び巫女としての強い光が瞳に宿っていた。
「これからの旅は、これまで以上に過酷なものになるやもしれん。じゃが、決して諦めるでない。必ず、必ずや、全員で生きて帰ってくるのじゃ。ワシはこのツクヨの地より、いつも主たちの幸運と無事を祈っておるぞ」
ミコトが発した愛情溢れる言葉は、一行全員に向けられたものであったが、ミコトの視線は最後に再びナックへと注がれた。
一人の女としての、深く切ない願いを込めた眼差しだった。
「……ミ、ミコチャンも……どうかお元気で。色々本当にありがとうな」
ロイがまだ慣れない愛称を少し照れくさそうに口にしながら手を差し出すと、ミコトは満面の笑みで、ロイの豆だらけの手を力強く握り返した。
朝日を浴びながら、勇者ロイとその一行はツクヨの国の人々に見送られ、新たなる目的地へと力強くその一歩を踏み出した。
ロイは仲間たちの頼もしくなった背中を見つめながら、この国で得たものの大きさを改めて感じていた。そして彼の心には、もう一つ無視できない大きな問いと、確かな予感が生まれていた。
それは、ナナミのことだ。
ふと横を歩くナナミの顔を見る。
やはりどこか憂いを帯びている瞳は長いまつ毛に縁取られている。
いつもと変わらない様子に、当たり前なのにどこか安堵してしまう自分がいた。
これまでの彼女の行動、時折見せる冷淡さ、仲間に対してもどこか一線を画す態度。
それらをロイはただ彼女の複雑な性格や、過去のトラウマによるものだと、単純に解釈しようとしていたのかもしれない。
だが昨日の、ミコトがナナミにだけ囁いた言葉
ーー「呪詛」「代償」「魂を削る」
という、およそ尋常ではない聞くだけで背筋が凍るような言葉の断片。
それを聞いた時のナナミの、知られたくない秘密を見透かされたかのような絶望と、ほんの僅かな安堵が入り混じったような、揺れた瞳。
ミコトが治癒の力を持つナナミに対して奇跡の使用を止めたこと。
一人、光の輪から離れてポーションを飲む彼女の、朝日の中でひときわ際立つ孤独な後ろ姿。
何よりも意図せず見てしまった背中の禍々しい痣。
頭の中で繋がり、ロイの中で一つの否定し難い不穏な確信へと変わりつつあった。
ナナミは単に気難しく、時に「怖い存在」なのではないのかもしれない。
彼女が抱えているのは、誤解や心の傷というレベルを遥かに超えた、何か途方もなく重く、おそらくは彼女の命そのものを脅かすような、深刻極まる「秘密」なのだったなら。
彼女の行動の根底には、常にその「途方もない秘密」が、鉛のように重くのしかかっているのだったなら。
ロイにはまだ、ナナミが抱える秘密の全貌を掴むことはできない。
霧の中に閉ざされた真実の、ほんの輪郭に触れたに過ぎないのだろう。
彼女の強さも、冷たさも、時折見せる、硝子細工のような脆さも、全てが「途方もない何か」を守るため、必死に抗うための、仮面なのかもしれないーー
そう思うと彼女の見方が、彼女という存在そのものへの認識が、音を立てて変わっていくのをロイは感じた。
安易な同情とは違う。
もっと深く、彼女という存在が抱える闇の深さへの畏敬と、……何か、守らなければならない、壊れやすいものを見つけてしまったような切実な予感だった。
ツクヨの国で得た絆と力は、確かに一行を成長させた。
彼らの旅はまだ始まったばかりだ。
更にはナナミがその細い肩に背負う闇の深さは、おそらく彼らの想像を、もしかしたらアストリアの理さえも超えるものなのかもしれない。
それでもロイは前を向く。仲間たちと共に。
いつかナナミが重すぎる荷物を誰かに分かち合える日が来ることを、心のどこかで切に願いながら。
その願いが、新たな勇者の決意となって、彼の胸に静かに灯り始めていた。
第二章 完




