表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/14

第9話 犬舎

えさはこれだ」


 ドン、と重量ある音を立てて狛の前に置かれた、大きな木箱。

 中には、動物用の骨や肉片が詰め込まれている。


 木箱を持ってきた歳上の僮僕が、不機嫌そうな顔で地べたに直座りしている狛に、薄ら笑みを浮かべ念押しする。


「さぼって誤魔化すなよ。ちゃんと()()()いてこい」

「……」 


 狛は膝に肘を立てて両頬杖を付き、餌の山と睨みあった。


 ———— なんで俺が、こんなこと。


 気が重い。何故というに、その日は臨時に、犬舎の世話をせねばならなくなったからだ。


「簡単な仕事なんだから、さっさとやっとけ。まあせいぜい、気を付けてな」


 木箱男は犬舎の世話長。冷やかすようにわらいながら去って行く。

 その背に、狛は舌打ちとぼやきを当てた。


「ちぇっ。他人事だと思って」


 犬はいにしえから、人の生活近くにいる動物である。

 食用としてだけでなく、防犯、狩猟、捜索、戦闘の補佐道具として、ここ細作の郷でも数十頭が飼われていた。


 犬舎男の言うように、餌やりなど大した労働ではない。

 問題は『犬に絶対に噛まれぬようにすること』であった。噛まれたらほぼ必ずという確率で、死病に至ることが判っているのだ。


 詳しい解明はされていない病であるが、それは対人に限らず馬や牛までも、毎年多く犠牲になっていた。


 ここで飼われている犬どもは、細作の仕事補佐用だから、ある程度は人に慣れている。だとしても狩猟や戦闘にも使われる生き物、所詮しょせんは猛獣に近い。


 要するに犬舎扱いは命懸けであり、覚悟と細心の注意を持ってのぞまねばならない、やっかいな仕事であった。

  ———— ついこの前も下僕げぼくがひとり、やられたばっかりだ。


 要するに犬舎扱いは命懸けであり、覚悟と細心の注意を持ってのぞまねばならない、やっかいな仕事であった。

 それで皆、この作業を避けたがる。今日はたまたま代役が見つからず、若い狛が目をつけられたというわけだ。


 ———— しょうがない。手早く済ませるか。


 どうせやらねばならない役目。狛は数度大息を吐き、諦めて重い餌箱を抱えた。


 犬舎に向いながら、少しでも明るい情報はないかと考える。


 ———— そういえば最近、中の一頭が仔犬を産んだと言ってたっけ。


 仔犬でも見れば少しは気も安らぐかも、などと思いながら、犬舎場近くまで来た狛は、


「……え?」


 目に入った光景に歩を止めた。

 犬舎前に人がひとり立っている。しかもそれは……。


「……」


 狛の喉が緊張に鳴る。

 後ろ姿でも直ぐに判った。あれは、ようだ。


◇◇◇


 まったく、遙は狛の前にいつも印象的な現れ方をする。


 ———— 今度は犬舎で、何してる。


 此度こたびたきぎでなく餌箱。落としたら目も当てられない。

 木箱を抱えたまま、狛はそろそろと遙のかたわらまで歩み寄った。


 遙は間近まで来た狛にまったく反応することなく、いくつかある檻のひとつをつめている。

 その視線先に狛も目をやると。


「あ。仔犬か」


 その檻中には、濃い灰色の毛をした母犬と、最近生まれたという三匹の仔犬がいた。


 母犬は、坐しながらも首筋をピンと立て、こちらをじっと見()えている。

 この母犬、今は座っているから立ち姿は想像になるが、中型ほどの体高だろう。全体にすらりと無駄のない、美しい体躯たいくをしている。


『異様に強くて頭のいい、めすの黒犬が一頭いる』

 そう誰かが話していた。

 なるほど、こいつに違いない。精悍せいかんさが十二分に伝わる犬相だ。


 体を覆っている短い毛は、黒というより青みのある鈍色にびいろ(濃い灰色)で、銀のような光沢があった。

 その毛色もまた、賢さと強靭きょうじんさを感じさせる。

 今は大人しいが、その気になれば、人などひと噛みで餌食にしてしまいそうだ。


 生まれてまだ間もない仔犬は、二匹が茶系の濃灰色、一匹が他の二匹よりもいくらか明るい藍鼠あいねず(青っぽい鼠)色をしていた。

 乳を飲み終えたのか、三匹とも母親にぴったりくっついて、すやすや眠っている。


 ———— へえ……親が強犬でも、やっぱり仔犬は可愛いんだな。


 餌箱の重さも忘れ、しばし狛は、愛らしい仔犬たちを眺めた。


「母犬の名は?」


 不意にされた問。

 隣に立つ遙からだった。暫時ざんじいやしに気を抜いてしまっていた狛の胸が、どき、と鳴る。

 

「……」


 遙には顔が向けられず、狛は横目に探った。


 腕が触れそうなほどの距離に遙がいる、というこの場の緊張に改めて気付き、狛は身を強張こわばらせる。

 脇には何故か薄っすら冷や汗。早打つ心音が、遙にまで聞こえてしまうのではと焦った。


 自身を落ち着かせようと、狛は意識を、された問事項へと全力で傾ける。


「……母犬の、名?」


 犬の名前。それは黒犬について語る仲間の噂話時に、聞いた気もする。


 ———— そうだ、眼。


 犬の眼の色の話をしていた。その犬は、青みがかったすず色の眼をしていると。


「確か、『錫青せきせい』と。眼の色が錫と似てるから」


 由縁ゆえんもつけて答える。


「ふうん……そうなの」


 遙はまだ狛を見ないままであったが、それは狛が初めて聞いた、遙の子どもらしい口調であった。


「錫青か」


 遙は、そこでやっと狛の方を向いた。表情に仄かな笑み。


「とても美しい名だな、狛」

「……」


 遙の口から初めて発せられた己の名と、あてられたまぶしい佳容かようを前に、そのときの狛はただ、しばだたひとみを返すばかりであった。


◇◇◇


 季節は淡々と移ろう。

 韋虞いぐの郷は、早くも晩秋の気配に包まれた。

 冷気を含んだ風が草を柔く揺らし、秋虫たちは厳冬を前にこれを最後と、盛んに己がはねを震わせる。


 その日郷が寝静まった刻は、満月をやや過ぎて身の欠けた月が、雲の切れ間から地上に光を注いでいた。

 月光と、高い虫声と、夜鳥の低声だけが存在深更しんこう。……


 そして事件は、何の前触れもなく起きた。


「追え、追えーっ!  なにをぐずぐずしてるっ!!」


 建物外からする凄まじいやかましさに、寝ていた狛は叩き起こされた。


 何頭もの馬のけたたましいいななき

 それらに混じり、蹄が何かを蹴り飛ばすような暴音が響き渡る。


「先に馬をおさえろっ!」


 ドタバタと土を踏み鳴らす男どもの足音、喚き声。


 ———— な、何が!?


 窓枠から外を覗いた狛の目に、多くの灯明が無秩序に、暗闇をうごめいている様相が映る。


 次いで聞こえた。


「遙だ、遙の仕業しわざだ! 遙が脱走げたぞっ!」



<次回〜 第10話 「遙の逃亡」>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ