私創 三国志異聞奇譚〔序〕「暁に起つ鴟(ふくろう)」〜戦乱世の闇、細作（しのび）の郷に生きる奴隷少年の運命転機

第8話 賭け

「刀を見るな！　眼は常に敵を追え！　刀はきさまの手腕だぞ、腕を動かす際に、きさまはいちいち腕を見るか!?」

　狛に、指導者の怒声が飛ぶ。

「くそっ……ちっきしょう！」

　いくども吹っ飛ばされ、歯軋(ぎし)りして立ち上がる狛の服は泥まみれだ。

　腕や足皮膚のあちこちには、持ち慣れぬ木刀の刃先が当たってできた、内出血の赤黒い跡が浮いている。

　数か月前より、狛は日常仕事の合間、極秘裏に剣技指導を受けていた。

　師はこの郷の手練れ細作男。名は知らない。

　この郷で下僕は上役の個人名など知らされず、上役はすべて一律、男は『兄様《あにさま》』、女は『姉様《あねさま》』と呼ぶよう、躾られている。

　訓練の始まりは、張衛《ちょうえい》より匕首を授かってから間もなくのことであった。

　狛は得られた大切な匕首を、まずは露見せぬような場所に隠した。

　次にその匕首の形を真似た木刀を自身で削って作り、時間を見つけて、または周囲が寝付いた頃に他人の目を盗んで藪に隠れ、こっそり独自訓練を始めたのだ。

　張衛がさわり程度に実演してくれた柄の握り方と、たまに目にする細作達の訓練姿を思い出しながら、見様見真似で木刀を振ってみる。

　実際の声は出せないから、気合いは息だけで入れた。

　時間が細切れにならざるを得ない中、懸命に毎日繰り返す。

　……だが、やればやるほど自覚するのだ。

　———— 我流じゃ、だめだ。

　そうして数日が経った頃。

　担当仕事を手早く片付け、まだ陽のある時間帯に間を作った狛は、いつものように藪奥で単独訓練をしていた。

　集中していたからか、もしかしたら行動慣れで油断していたのかも知れない。

　はっと気付いたときには、腕組みしてこちらを悠々眺めている男が、真後ろに立っていた。

「あっ!?　あ、兄様！」

　大柄で色黒い肌に無精髭《ぶしょうひげ》の、おそらく四十手前くらいの細作。

　狛の記憶が反応する。その男は、狛の脱走失敗時の仕置人のひとりだった。

　狛は慌てて腰を折り、頭を低くして従順体を見せる。

　……木刀は後ろ手に持ったまま。

「気付くのが遅すぎだ。儂が敵なら、きさま、とっくに屍体だぞ」

　無精髭が鼻で嗤《わら》う。

「今度は剣技の真似か。懲りない奴だな。ふん、だがそんなやり方じゃ、子どものご(・)っ(・)こ(・)と変わらない」

「……」

　ばかにされていることよりも、相手の口調に含まれる、独特の粘質性に気を留めた。

　———— こいつ、俺をつけてきたのかも。

　細作の尾行に、僮僕が気付けるわけがない。

　さらに狛は、あの仕置き時のこの男の様子、そして男が自分に対し、このところ不埒な目つきを当ててきている印象があったことにも、思いが及んだ。

　加えもう一点。成長した狛が、冷静に自認出来ている事項がある。

〝 己は代価品として、郷で一番位である 〟

「……」

　男細作を前に、狛は思案を巡らせた。

　……やがて思い付いた発想は、かつての彼ならばあり得ぬものであったろう。

　手段を選んでいる時間《ひま》などない。ここからは賭けだ。

　体姿勢を維持して狛は切り出す。

「剣を、教えてくれませんか」

「なんだと？」

　細作が眉尻をつり上げた。狛は臆さず続ける。

「ここらには大型の野生動物もいるし、賊に襲われときも、むざむざやられたくはないです。郷が敵に襲われたときにだって、少しは役に立ちたい」

「役に立ちたい？」

　細作の語調が嘲《あざけ》りに染まる。

　間を入れずの狛の《《押し》》。

「俺に出来ることは何でもします。……兄(・)様(・)の(・)ために」

「……」

　髭に埋もれた分厚い唇に、あからさまな下卑《げび》色が浮かんだ。

　その意味を狛は理解している。狛は会話を、自身の意図へと誘導しているのだ。

〝 伽《とぎ》奉仕と引き換えに、剣術指導を得る 〟

　———— そのくらい何だ。目的のために割り切ればいい。

　細作が糧の一部である商品に手を出すのは、先だっての首長命令のような特別な場合を除き、郷の厳格なご法度《はっと》である。

　露見すれば狛の命もないが、この細作とて無傷では済むまい。

「ふん。いい覚悟だな」

　強いてくだらなそうに、無精髭は首をほぐし回す。続いて、

「まあ、のってやってもいい。秘密裏にな」

　実はまんざらでもない声色で、ニヤつきを返してきた。

「お願いします、兄様」

　狛は、己が賭けに勝ったのを確信する。

　郷の掟を自身側の楯としての、極秘取引。すべてはここから脱出し、自分自身の真の人生を歩む道を開くため。

　そう考えると、ひたすら苦悶でしかなかった事のとらえ方も変わる。

　呪う環境も自身の才能も、有効なら利用すれば良いのだ。

　……

「おまえ、そこそこ筋はいい。もう少し筋力を付ければ、案外細作としてやっていけるかも知れんぞ」

　訓練の終了時、無精髭は脇の石に腰掛けながら髭を弄《いじ》る。

　この後たっぷり味わえる報酬を、もう頭中で描いているのだろう。分厚い唇の口許が猥《みだ》りがわしく歪んでいる。

　———— この、卑猥《ひわい》野郎。

　狛は心底で、下劣なものへの蔑《さげす》みを思いきり相手に向けているのだが、そこは悟られぬよう微妙に視線を外した。

　木刀を腰紐(ひも)脇に刺し、軽く両手をはたく。

　手足を濯いでくる、と狛が告げると、無精髭男は腰を上げた。

「さっさとしろよ。隠し室に来る際は常に周囲に気を配れ。それも訓練だからな。出来次第では明日、技段階を一段上げてやる」

　恩着せがましい言を吐き、男は大股で先に去って行く。

　男の背を無言で睨めた狛は身を返し、体を洗う小川へと向かった。

　歩きながら口内に吐き捨てる。

　———— ふん、今に見てろ。おまえなんか、追い越してやる。

　従順な見せ掛けの陰で、狛は己の自由な未来に誓った。

＜次回〜　第9話　「犬舎《けんしゃ》」＞