第7話 匕首 ＜2＞
夜半。狛は衾（布団）内で目を開けた。
今宵の客は横でまだ眠っている。
傭兵らしい頑強な体格をした、おそらく二十代央ばほどの男。
———— 何度か見た客だ。……名前も知らないけど。
この男、訪れる頻度は少ないものの、何故か毎回、報酬に狛を指名してきている。
男を目覚めさせぬよう、狛は注意深く身を起こした。
男の枕頭に目を遣る。男の衣類や鎧と、その上には鞘に収められた長刀と匕首（短刀）が、ひと振りずつ。
男はこの場での危機感を持っていないのか、それらは枕辺というには、やや離れた位置にあった。
———— あれが、戦いの刀。
狛は作業で使う刃物類以外、いわゆる武器というものを、目の前にあったとしても直接手で触れた事はない。
僮僕の身で触れたりすれば、その場で切り捨てられても文句は言えないのだ。
狛は四つ這いで一式にそうっと近付き、二つの刀、殊に匕首の方を、まじまじと覗き込んだ。
———— 何の模様だろう……牛の魔物？
匕首の鞘には、牛のような人のような、なんとも恐ろしげな装飾模様が為されていた。
———— 強そうだな。それにすごくきれいだ。
武器の価値が狛に判るはずもない。それでもこの男の刀は、どちらもたいそう立派に見える。
狛はチラと、男を瞥た。
そもこの常連客、狛の印象として当初から何となく、他の傭兵どもと違い下衆な臭いがしなかった。
どこぞのいい大将にでも仕えているのか。ならば持っている武器も、それなりの物かも知れない。
「……」
深更の静寂の中、武具に魅せられる狛の手が、吸い寄せられるように匕首へと伸びる。
指先が触れようとした、寸前。
「興味があるのか？」
直と投げられた、野太い声。
「！」
恐懼に弾かれ、狛はとっさに引っ込めた手を胸元に抱えて、全身を萎縮させた。
息を呑み振り返ったそこには、知らぬ間に起きていた裸身男の肘枕姿。
鞘の模様にも似た獣の如き鋭い眼光を光らせ、狛を観ている。
「……！」
気付かなかった、まずい、殺される……！
狛の血が、脳天から一気に下降する。
男と眼を合わせさせられた狛は、まさしく蛇に逢うた蛙。冰で固められたかの如く、完全に動けない。
強張る狛に対し、男は平静な面持ちで身を起すと、悠然とした動作で狛が触れようとしていた匕首を手に取り、鞘から抜いた。
そして、
「持ってみるか？」
狛の手を取り、その柄を握らせる。
「こう、狙うのだ」
柄を持った狛の手首を覆い掴み、切っ尖を男自身の喉元に突きつけさせた。
「……」
男の大きな掌の中で、狛の華奢な手が震える。
柄を握らされた掌にはじっとりと汗。沈着な男の様子が、返って恐ろしい。
「どうした。我が怖いか」
蒼白な狛の面前の口許が、にやりと上がった次瞬だ。
男は早技で狛の手から匕首を奪ったかと思いきや、柄を己の手に取り替え、逆に切っ尖を狛の顎下に突きつけた。
「あっ、がっ……！」
鋭い刃先をあてがわれ、狛はまともな悲鳴さえ出せない。
脱走失敗で受けた拷問時にさえ、不思議と浮かばなかった〈死への恐怖〉というものを、初めて意識した。心悸が早鐘を打つ。
……しかし。
ここから、不思議な間が流れる。
男は刃先で狛を捉えたまま、なかなか次の行動を起こさない。
狛もまたこれだけの絶体絶命下、呼吸さえろくに出来なくなっていながら、眸は逸れることなく、男の視線と真直に向き合っていた。
おびえの極致のようで、その眼は正気を失っていない。何かを訴えるような力をさえ宿している。
「……」
眼光炯々、無言で狛を睨み続ける男。
ずいぶんと長く感じる時が流れた。やがて男の口許から、短い息が吐き出される。
「ふっふ。なかなかだな、おぬし」
男は狛の喉元から匕首を下げ、鞘に納めた。
———— は……。
狛の緊張の弦が切れる。
安全になったわけではないとはいえ、取り敢えずの恐怖から逃れた狛は、腰を床にへたりつかせた。
そんな狛の目線高さに、男は鞘入りの匕首を掲げる。
「これはおぬしにやろう。置き土産だ」
「え？」
思わず発した聞き返し。狛は思い切り眼を丸くした。
今、何と……？
「置き……土産？」
当然すぎる少年の反応に、男は面様を和らげる。
「これはな。ある若い将に雇われて江水（長江）近くでの戦に出た際、ちょっとした働きへの褒美に賜ったものだ。まあ、記念の品ではあるが」
男は、掲げた短刀に目線をチラとだけ振ると、
「我はこの地を去る。もうここに戻ってくることもあるまい」
そう言って片口端を上げた。
男の平穏さにいくらか安堵を得た狛が訊く。
「江水って……？」
「なんだ、知らぬのか？ 南方にある海と見紛うほどの大川だ。大陸は広い。おぬしも、一生をこんな場所で終えるものではないぞ」
「……」
男は匕首を狛の手元に託し、何かを懐古するかのように眼を細める。
「五斗米道という名を、聞いたことはないか？」
首を左右に振る狛に、男は続ける。
「ここから遠く、何千里も離れた西の地にある漢中（陜西省南西部）という国の人々が、主軸としている教えだ。元より儂の家系はその受け継ぎ手でな。だが我は同意できず、これまで距離を置いていた」
男は立膝に片肘を掛け、遠い視線を天井に遣る。
「先日母から、珍しく便りが届いた。亡き父の地位を継承した兄をこれまで優遇していた、益州刺史（州監督官）が死んだと。それで、難しくなった今後の身の振り方を模索する故、力を貸してくれとある。……母親からそう頼まれては、仕方あるまい」
男の精悍な面付きが、温かみを持つ。
「まあ我も、このまま生涯を傭兵暮しで過ごしたくはないしな」
「……」
江水。五斗米道。漢中。
どれも狛が初めて耳にする言葉であった。
そして知る。何千里もの先にも、人の文明世界があるのだ。
遙の語った『垓下』も、狛にとって未知の地のひとつ。
そうだ。郷を一歩出た先には、果てしない外界が拡がっている。
———— 世界はずっとずっと、広い。
狛は己の知らぬ地を想った。
この男は、これからそこへ旅立つと言う。狛にとって、それは限りない憧れの響きを持っていた。
握りしめた匕首を狛は強く胸に押し当て、瞼を伏せた。さきほどとは違う種の震えが、狛の胸裡に湧いてくる。
やがて狛は額を上げ、男としっかり向き合った。
「刀……ありがとう。必ず大事にする」
若者らしい瑞々《みずみず》しさを湛えた瞳。
「あんたの名を、聞いてもいいか？」
「そうか、名乗っていなかったな」
男の破顔。
「我は張衛、字（通り名）は公則。もし漢中に来ることがあったら、訪ねてこい」
狛は笑む。
初めからの印象通り、明快で悪くない男だ。客に対し狛が自然に笑んだのは、初めてであった。
それから狛は少しの間俯き、何か神妙に考えている面様を見せた後、再び顔を上げると、
「刀の礼を払う」
そう言って匕首を脇に置き、自ら今一度、男に身体を寄せた。
ぽかんとする張衛に対して、他の代価方法を知らない狛本人は大真面目だ。
狛にとって苦痛でしかない行為の自らの提供は、狛には唯一最大限の礼の形である。
意を汲み取った男が、頷きながら明笑する。
「そうだな。置き土産対価のおぬしの餞別。受け取っておこう」
張衛は、逞しい腕で狛の身を抱き寄せた。
張衛の厚い胸板の下、狛は別意識で、今宵得た希望に猛っている。
———— やっと手に入れた、遙。〈術〉への第一歩……！
＜次回〜 第8話 「賭け」＞
【用語解説】
◆五斗米道：後漢末に起こった初期道教の宗教結社。
◆漢中：益州（四川省方面）の南鄭（陝西省漢中市）を中心とした一帯。漢王朝発祥の地。
◆字：姓名とは別に持つ、通常呼び合う時に使用する名前。他人が相手を諱（本名）で呼ぶのは禁忌。
