第3話 美童攫(びどうさら)い
「今朝はまた一段と冷えるな。早く、春が来ないもんか」
水溜りに冰が張る朝。
その日馬当番だった狛は、垂れ込める曇り空の下、飼葉を詰めた桶を抱え吐く息を白くさせながら、壊れかけた草鞋足で厩舎へ向かっていた。
郷の奴僕は通常ほとんど裸足だ。それでもさすがに厳冬に限り、草鞋を許されている。
とはいえほつれた一枚底の薄っぺらい草鞋なぞ、裸足と大差はない。ごろごろした大小の石が足裏に痛んだ。
臘月(12月)も下旬、まもなく新しい年が来る。
———— 新年か……。
現年号名を狛は知らないが、世の支配者が『漢王朝』と称されるものだということくらいは、一応知っていた。漢になってから約四百年ほどが経過しているらしい、とも。
さりとて狛にしてみれば、だからどうということもない。
歴史という単語は、彼にとっては遠いものでしかなかった。
あの脱走失敗から十カ月が経っていた。狛はたぶん、十四歳ほどになっている。
「狛のやつ、あれからすっかり従順になったな。もともと愛想いい方じゃなかったが。まあ、栗を自分のせいで殺したも同然だしよ」
「あんなことしでかして、よく殺されずに済んだもんだよ。普通なら即効、晒しもんだ」
「商品価値があるんだろうよ。見目は悪くないからな。ヒッヒ」
騒動後の己について、奴婢内で囁かれている内容は狛も知っている。
当然、上役からも目を付けられているだろう。
ただし狛がおとなしくなったのは、目立つのを避けているからではなかった。
従順という表現も正確ではない。
脱走失敗。友の死。それによる酷罰。
……その上に。
〝 おまえは生まれながらの用済み。打ち捨てられた屍 〟
あの瞬間、腹に落ちてきた塊。
狛の腹底に蓋をしたその塊は、それきりびくとも動かない。
初めは重さを感じて苦しんだものの、やがて慣れ、意識することもなくなった。
それからの狛には、時の手応えがない日々がぬるぬると、ただ無意味に流れている。
東空に暁が射せば、一日が始まる。西空の夕照が消えれば、一日が終わる。
万人に等しく訪れる、繰り返しの自然循環。
これといって幸福感も得ない代わりに、別段、不幸も感じることはない。
狛はあれからずっと、ものを深く考えなくなっていた。
……いや、それも的確ではないだろう。
彼は〈考えるのをやめていることに気付くこと〉を、止めているのだ。
狛は思い至っている。
希望やら願望やらは思案の産物。そんなもの持たなければ何も傷つかず、絶望が発生することもない。そのせいで自分が誰かを巻き込むこともないのだ、と。……
厩舎近くの道は、石の少ない土道になる。
ぺたぺたと草鞋音をたてながら厩舎そばまで来た狛は、ふいに立ち止まった。
ひと仕事から戻ったらしき一団の細作達が、厩舎から出て来る場面とかち合ったのだ。
———— こんな多数人で出張るなんて、珍しいな。
その細作達、今回はだいぶ遠出してきたと見え、皆、足元がかなり汚れている。
狛は避けるように、一団と距離をとってすれ違おうとした。
……と。
「……?」
目に留まったある一点に、狛は視線を寄せた。
男どもの中に、毛色の違う細い影がひとつ混じっている。
———— 子どもだ。男児……いや、女子か?
「遙様、こちらへ」
細作から丁寧に様付けされて『遙』と呼ばれた、歳は狛よりひとつふたつ下かとみえるその子は、囲う男たちに比して、段違いに良い身形をしていた。
———— また、どこぞいっぱしの家の子でも、攫ってきたか。
大人壁の中、小さな影は女首長邸方向へと連れられて行く。
見慣れぬ光景に、狛は暫くぼうっと一団の背を眺めた。
———— どこの子だろう。細作が攫ってきた子を『様』呼びするなんて。
そんな疑問が浮かんだものの、すぐにはっと我に返る。
———— 俺には関係ない!
男でも女でも、どこの誰でも同じだ。きっとあの子も、結局は代価品にでもされるだろう。
くるりと踵を返し、狛は廐舎へ向かった。
◇◇◇
寒さを別にすれば穏やかな晴天の下で、年が明けた。
孟月(1月)は春の始まりだ。地味な細作の郷にも、いつもよりほんの少し、明るさを感じさせる趣が漂っている。
朝の風がどこかの炊屋から、美味しそうな匂いを辺りに運んできていた。
———— 年明けのご馳走かな。
肉か魚か、それは薪を背負いながら郷道を歩く、狛の嗅覚を刺激する。
———— 正月祝いって、何するんだろう。
世間では新年気分とやらに浮かれる時節らしいが、狛はその特別感を知らない。
正月だとか月節句だとか、そんなもの、僮僕には全く無縁のものなのだ。
それでも、気温や水が少しずつ温みを増してくるのはわかるし、来月になればこの郷も、もっと豊かな花色で彩られる。
それらは僮僕の身でも味わえる、ささやかな癒しであった。
「母ちゃぁん、待ってよお!」
無邪気な声。狛の正面から駆け寄って来る小さな体がある。
その子には母親の後姿しか見えていないのだろう、目前に迫った狛を避けようともせず、ドン、と見事にぶつかり、可愛らしくころけた。
「はは。おい」
狛は子どもの腕を取り、助け起こす。
「大丈夫か? 走るならちゃんと前を見ないとな」
衣の土汚れを払ってやろうとしたとき、脇から伸びてきた別の手が、狛から子どもを奪いかえさんばかりに引き離した。
「……!?」
横を見上げると、そこには子の母親——上役である女細作が立っていた。
女の一瞥は、狛に対する侮蔑のこもった視線。
それをプイと逸らし、女は子どもの手を引いて無言で去って行く。
「……」
母子の後ろ姿を、狛は黙って見遣る。
上役からの不遜態度は日常で、いちいち腹など、立ててはいられない。それより、
———— 『母さん』か。……俺にもそんなの、いたのかな。
狛の心内に、そんな、何の《《たし》》にもならない思いが浮かんだりした。
今の女も含めた狛の上役である韋虞細作は、闇仕事の請負を生業とする特殊な専門集団である。
諜報、陰謀、奸計、欺瞞、冤罪、暗殺。
人の正義の価値観が失われた時代は無論のこと、例え治世であろうとも、必須悪として常に存在する闇世界。陽の下に出せぬあらゆる役目を、陰の中で一手に遂行するのが細作だ。
韋虞の由縁は後漢王朝創立期よりなのだと、いつだったか、狛は聞いたことがある。しかしはっきりしたことが明瞭化されていない、謎多き一族であった。
この郷は韋虞族の生活場でもあって、細作の家族もいるし、それほど多くはないが子どももいる。
細作を親に持つ子たちの行く末はもちろんひとつしかない。あの子の訓練は、まだ始まっていないようだが。
「……」
狛は小さくため息をつき、薪置き場へ歩き出した。
<次回〜 第4話 鉛空>