第2話 屍(しかばね)
「きさま、我ら韋虞の細作族から逃げられると、本気で思ったのか?」
男の片足が、針刀の打ち込まれた狛の左腿の傷を乱暴に踏みつける。
その靴底下の肌から、血が細く伝った。
「……くっ」
狛の口から、歯を食いしばった呻きが漏れる。傷口は針穴だが痛みは酷い。
男の背後、土牢壁上部の小さな窓外に、今にも落ちてきそうな重量感ある雲が垂れ込めているのが、狛の霞んだ半眼に映った。
土牢に通常窓はないから、きっとここは元々倉か何かだったのを牢に代用したのだろう。
その小窓画を肩越しに乗せた形で、細めの竹稈を握った三人の男が、土床に這う狛を上から見下ろしている。
暗くて男達の人相までははっきりしない。
ひとり、大柄な無精髭面が混じっているのだけが、かろうじてわかった。
男らの手にしている、先端がささくれたかなり使い古し感のある竹稈は、そこかしこが血汚れ、且つまだ湿った血筋が数本伝っている。
狛の血だ。
———— 殺される……。
もう、ずいぶんやられた。
息つく間も無く打たれすぎて、ここでどのくらいの時間がたったのか、狛にはよくわからない。
ギギイィ……
立て付けの悪い土牢扉の鈍い響。誰かが入って来たようだ。
入室者に対し、男どもは顎を引いて片膝を付いた。
細作男達とは明らかに違う、その者のいでたち。
———— 首長……?
それが韋虞一族の女首長だということが、狛にも認識できた。
僮僕一人の脱走失敗に、わざわざ首長が足を運んできた……?
「……」
急に室内温度が下がったように狛は感じた。
無精髭男が狛の背後にまわり、後ろ手に締め上げた狛の髪をわし掴んで頭を上向かせる。
狛に歩み寄る女首長。足音はしない。
女が狛の前に屈むと、女の身につけている装飾品がカラカラと小さな音を立てた。
「まさか逃亡を図るとはな。無謀極まりないが……ふふん、度胸だけは買ってやる」
初めて耳にする女首長の声色は、こんな男どもを従えているにしては、存外濁りのない美しさを持っていた。
されど研がれた鉄刃のように平坦で、狛の耳をひやりと撫でる。
女は常時 —— といっても、狛が女首長の姿を目にした機会はこれまでほんの数度だけ、しかも遠目でしかないのだが —— 貌の上半分を、白色の仮面で覆っていた。
だから狛を含め知る限りの誰も、女の全素顔を知らない。
仮面の眼位置には視野確保の小穴が開けられている。しかし穴奥は黒く、眸は見えなかった。
覆われていない下半分の肌は異様に真皎い。
齢は全く不明だが、艶があり若々しくも見える。細い顎上に備わる薄い唇は、黒血色の口染に塗られていた。
僮僕の身である狛が、こんなに間近で首長を目にするのはもちろん初めてだ。
———— 人……なのか?
なんとも妖異な姿と放つその〈気〉は、激しい殴打で麻痺しかけていた狛の一部の感覚神経を、否応なく覚醒させる。
加え、女からは何か……狛が嗅いだことのない、ツンとするようなスウッとするような、不思議なにおいがした。
植物……葉か、根か、樹皮か、……薬草?
『ここの首長は巫祝(呪術師)なんだ。凄い力があって何でも出来ちまう。巫術でも占卜でも、呪詛でも』
それも例の聄の耳語だ。
『だから荒くれの傭人どもも、逆らえないのさ』
女首長は、先端の尖った、唇と同色の染め爪を持つ指で狛の顎を掴み上向かせた。
「小児ながらの計画は立てたつもりだろう。お粗末だったが」
「……」
ああ、そうだ。
狛は、ついさっきあったばかりといえる事態を思い返す。……一緒に逃げた栗は?
「うぬの相棒、追い詰められて川へと滑り落ちたまではいいが、泳ぎは不得手だったようだな。知らなんだか。あの川は穏やかに見える水面に反して、下は速流。うぬらのような素人小児が呑まれれば、ひとたまりも無い」
ドクン、と狛の胸に重苦しい太鼓が鳴った。
息を詰める狛に、女の残酷な言が降り重なる。
「屍は上がらぬ。そのまま魚の食い扶持だ」
狛の脳天から、ざあっと冷気が落ちた。
あのとき。
栗と連れ立って疎林を抜け、川水面が狛の視界に入ったとたん、彼らは突如上がった複数の炬火に行手を阻まれた。
『あっ! しまった!!』
無益な叫び。
自分達が泳がされたのだと気付いたときには、もう手遅れであった。狛が最大限に万全を期したつもりだった計画は、とうに露呈していたのだ。
捕まったら最後、命はない。何がなんでも逃れなければ。
無我夢中で奔る狛が、逃走に用意していた川岸の舟を目にして手を伸ばした寸瞬、ピシッと左腿を切り割く、猛烈な痛みが走った。
狛はもんどりうって倒れ込む。
直後に少し離れた所から、狛の名を呼ぶ栗の悲鳴が、聞こえたような気がした。……
「哀れよな。うぬなぞに絆されて寿命を短くした。些少だが」
抑揚のない女の音吐が、狛の胸をえぐる。
狛の隣で両肩を丸め、怯えに瞳を泳がせていた栗の姿。
『栗』とは誰が名付けたのか、あの折の栗はその名の通り、栗鼠そのものだった。
———— 俺が……栗を。
こうなって初めて、狛は客観視する。
あいつはこの脱走計画に、本当に同意していただろうか。命を賭してまでと、心底望んでいたのだろうか。
我知らず己の都合のいい方向に、栗を引っ張り込んだのではなかったのか。
狛の目色から、力が急速に失われ始める。
やはり相手は手練れ細作一族。自身の未熟と運のなさが、結句、栗を死なせた……。
「相棒が死んだのは必然よ。……が、その前に」
重くなった狛の顎を掌に、女はそれまでより僅かに強めた声色を継ぐ。
「運が悪かったと思うか。手の内がいともあっさり露見して」
声の無い嘲笑。
「教えてやろう。告げ口されたのだよ。うぬは、仲間から」
「——!?」
萎えていた狛の眼が上がった。
眼前にある仮面下の、黒唇の片口端が上がる。
「くっく……。うぬらは単純で、小賢しくて……可愛いお仲間どうしだな」
愛玩物をいたぶる口許を、狛は残された反抗心で睨む。
———— 仲間なんて、そんなものおれに……あっ!?
心当たりの顔がひとつだけ過った。
まさか、あいつか!?
顎と髪を掴まれている狛は奥歯を磨らせ、全身に広がる傷の痛みと、腹に競り上がる口惜しさに必死に耐える。
様子を見留めた女は、面付きを愍笑に変えた。
「まだ怒気を持つ力を残しているか。おのが生に意味があると、どうやら未だに期待しているとみえる。まこと、現実を解せぬおめでたい奴よ」
あしらった声の、次瞬。
狛にはわかった。
見えないはずの仮面の奥の眉目が、釣り上がったと。
そして見えたのだ。仮面にくり抜かれた真黒の二つの目穴奥、そこにある眼が。
「—— !!」
ぞくりと背筋に走った寒気は、必定反射。穴中に垣間見えたものは、狛の知る〈人〉の眼とは違った。
二つの穴それぞれに瞳が二つある……!?
『あの女首長はな、人じゃない。神人(仙人)なんだ』
豹変した女首長の気。はっきりとした温度さえ感じさせる冰った威圧が、狛を締めあげる。
黒色の唇は耳まで裂けているように見えた。
このまま女に、頭から嚥み込まれるのでは。狛の全身の毛穴が粟立つ。
「狛。おまえには生きる場所など、ないのだ」
裂けた冷血な黒唇が、不気味に動く。
「わからぬか。おまえはこの世に生まれたと同時に、用済みだった。郷に運ばれる前から」
「……」
「つまり、捨て置かれた屍と、同」
狛の腹内に、ずん、と重石のような堅い塊が落ちる。
重みで、両膝をついた地面が一段下がった気がした。
掴んでいた狛の顎を払い、すう、と立ち上がった女首長は、手下達に命じる。
「二、三日、少し厳しく可愛がってやれ。はっきりと自覚させてやるがいい。生人としての己が何者か、をな」
陰惨に透きとおった美声が、土牢の空気を刺す余韻を残し、女は扉外へと消えた。
女首長の背を見送った男達が、狛に向き返る。
「……さて。『自覚』の時間だ、狛」
彼らの眼に帯びた、陰湿な気色。
無精髭がにやり片口端を引き上げ、鼻を鳴らす。
「安堵しろ、ここからはそう苦痛でもなかろう。きさまの得意分野だからな」
男達は、手にしていた竹稈を放り捨てる。
責苦が再開された。皮膚を割く暴力とは、別の……。
狛の呻きが、暗く湿り臭い土牢に満ちる。
容赦の無い追い討ちは、少年の心奥に残る僅かな希望をさえ餌として、蝕みを増殖させ、一切の抵抗力を奪いながら、絶望の毒巣窟を拡げていく。
用済みの生。人の命など、この世ではしょせん使い捨てだ。
……それは、当たり前の残酷。
———— ここからはもう、脱出られない。
いつ果てるともない凌辱に身を晒されながら、狛は己が五感全ての感覚が、遠く霞んでいくのを感じた。
<次回〜 第3話 美童攫い>