第14話(最終話) 新野の龍〈2〉
密命に従った約日。
鄧義は新野城下にある諸葛亮の仮屋に、隠密に入った。
指定された密談室は、暗さで詳細がわからないものの、鄧義の隠し室同様窓はなく、狭めだとは察しられる。
奥壁の前にある几案(机)上に小さく灯された燈だけが、唯一の光源であった。
その几案側の胡床(折り畳み座具)に、今宵より主人となる、諸葛亮と思しき人物は坐していた。
「鄧義か」
諸葛亮が口を開く。
男にしては、かなり細く柔らかな声音。
「はい」
面を伏せ、細作らしく片膝をついた姿勢で鄧義は控える。
「今後は諸葛様のご指示で動くよう仰せつかりました。何時なりと必要なお申し付けを」
相手の応答はない。
隠密のやり取りでは、必要最低限の発声のみであるのが常だ。
伏せた面を動かさずに、鄧義は少し上目使いをしてみた。
新たな主人、貌はちょうど灯の影具合で、この角度からでははっきりしない。
体は細身の、比較的長身であることが見てとれる。
「そなたの得手は、薬事だそうだな」
諸葛亮が、鄧義の専門分野を確認してきた。
「は、確かに。過去にいっとき、南陽郡の医者、張仲景の弟子をしておりました」
張璣、字を仲景という者は、南陽一と評されている高名な医者である。
細作薬事のための一環として、鄧義は張仲景の門下に入り、医学を会得した。
弟子を辞した鄧義は南陽郡新野県に移り、県尉(県警察長官)の下で働く下位官吏となる。
やがて、役人でありながら疾医としての腕も高い、との評判が認められ、三年ほど前、荊州の実質的州治所、襄陽県の中央庁舎に出入りするまでの身に抜擢されたのだ。
『抜擢 』……?
———— 違う。そんな経緯じゃない。
すべては始めから仕組まれ、自分は下される命に従って来ただけだ。
今もその命によって、ここにいる。……
「そなたの薬才を、存分に活かしてもらおう」
「……はい」
薬事と言っても、細作が役立てる場合の目的は、大抵人命を救うためではない。
扱うのは物騒な、麻薬、毒薬の類。
とどのつまり利用場面は、嗜癖(依存症)、撹乱、破壊、暗殺といった、武力行使とは別の闇手段としてである。
鄧義はその方面分野に長けていた。
———— これからこの人の下で、それらを活かす場が増えるのだな。
そう、鄧義が頭に描いたときだ。
「……狛」
唐突な、それもあまりに思いがけぬ呼びかけに、鄧義は視線を床にした体位の呼吸を固めた。
◇◇◇
「その名で呼ばれたのは十二年ぶり、か?」
「……」
鄧義は、顳顬に冷えた汗を感じた。
自分をそう呼ぶ者はもう誰もいない。その名時代の己は、封印したい過去でもある。
———— そう……か、韋虞の者なら。
焦燥にとらわれつつ、鄧義は想察を巡らせる。
十二年も経つとはいえ、旧い韋虞細作ならば、鄧義の過去名を憶えているだろう。
細作上役の誰かが、新主人にわざわざ伝えたのか……。
かかれど。継いでかけられた次の言葉が、鄧義を絶句させた。
「 術を持ったな」
「え……っ!?」
弾かれたように発した声とともに、鄧義は頭を上げた。
彼の目に初めて、目前の相手の容貌がはっきりと映る。
暗燈に妖しく揺れ浮く、皓い肌膚。
冴え冴えと研がれた、鋭い爪牙を思わせる眉目。
彫られたように整った玉貌。……
———— ……!!
鄧義の全身が完璧なまでに硬直した。
どれだけ時を経ていようと、雪片の疑いもなく確信できる。
鄧義の前に坐す人は、十三年前、『狛』だった彼に生き延びる転機を与え、その後忽然と姿を消したあのときの少年、遙だったのである。
◇◇◇
———— あ……あ!?
あまりの事態に口を呆けたように開けたまま、鄧義は次の言を見つけられないでいる。
目の前にいるのはまぐれもない、遙。
そして今は諸葛亮の名で出仕した、己の新たな主人。
思考が言葉を作れない。
これは……自分は夢でも見ているのか……?
その、幻にも見える相手の腕がふわり動き、纏った長袍の衣擦れの音が、サラ、と鳴った。
脇息に右肘をつき、指を軽く口元に添えた姿勢の遙、いや諸葛亮は、凪の如き静やかな目顔で、鄧義の代弁をする。
「…… なぜ?」
衣擦れと同じ、さらりとした音吐。
「拉致の手から命懸けで脱出げたはずの者が、なぜ今、その者達と組んでいる? ……と」
「……」
鄧義はそうだと思い、同時にいやそのことではなく、と思う。
疑問なぞ発想できる余裕もない。理解能力が完全に困惑していた。
「狛よ」
肘杖を外し、諸葛亮は坐したまま上半身を乗り出す。
歳月を重ね、見る者をぞくりとさせるまでに瓏たけたその貌を、鄧義に真っ直ぐ近づけた。
「理由など、そなたは知らずとも良いのだよ。今は、わたしの手足になってくれれば良い」
転機を与えたあのときと同じ、凛としたささやき。
「なってくれるな。狛」
◇◇◇
晨光を迎えた東空が、一面、紅味を持った光に染まり出す。
鶏鳴時刻の朝焼け ―― 雨の前兆だ。
諸葛宅を辞した鄧義は、その足で新野城の望楼(物見櫓)に立っていた。
暁の光を受けながら、彼は時奥に記憶を遡らせる。
———— 韋虞郷で、遙は『泰山から来た』と言った。
そして父親は乱で目の前で斬られ、死んだ、と。
今回の新任務に就くにあたり、鄧義は諸葛亮の過去身辺についての事前報告を受けている。
記録による諸葛亮の父、泰山郡の丞(次官)であった諸葛珪は、泰山で起きた土着民の乱で死したとされていた。
少年だった遙の話は真実。遙は諸葛家子息、諸葛亮だ。
……けれど。
なにゆえその諸葛亮は、韋虞族から『遙』と呼ばれていたのか。
なにゆえあの女首長は攫った遙を庇護し、そしてなにゆえ遙は、その護られた場所から逃亡したのか。
郷から逃げおおせた後、遙はこの混乱の世を、どのように生き抜いたのだろう?
現在手を組んでいるという、韋虞氏細作との繋がりの真相は。
そして脱走から十二年もの歳月を経た今になって、多少の知名度はあるにせよ、未だ一国も持たぬ劉備なぞを選んで起った理由は……?
……わからない。
鄧義にとってはあらゆる事項が謎のまま、何か大きな胎動が始まろうとしている。
この先の己を、世を待ち受けるものは、とんでもなく複雑怪奇な事態なのではないだろうか?
「……」
だが、しかし。
———— …… 構わない。
実は鄧義にとって、遙の謎がどれほどに増そうとも、大きな問題ではなかった。
今の彼を満たしているのは、不思議なほど沁み広がる、胸臆の和らぎである。
遙が、生きていた。
あの眩しい姿で、再び自分の前に現れてくれた。
そして自分はこれから、その手足となるのだ……!
鄧義は暁の天を見上げた。
その瞳は、かつてない充実の輝きに満ちている。
血色のような紅を映す東空、雲の合間に刺し込み始めた旭を、鄧義は力強い視線で、逸らさず視つめた——。
この年、建安十二年。
異名『臥龍』として、後に畏れられることになる天才政治家、諸葛亮が世に放たれたことで、天下の動乱はその激しさを加速させることになる。
歴史に刻まれる〈三国鼎立〉の、真の幕開けであった。
その激乱に、狛 —— 鄧義もまた身を投じ、時化に揉まれる小舟の如く、人生を翻弄されていく。
欲望と虚無、悲劇と喜劇、虚偽と真実、絶望と希望、憎悪と愛、狂気と正気……死と生。
あらゆる闇と光が絡み合い、乱れ舞う生命の物語が、始まるのであった。
(「暁に起つ鴟」 ~完~)
【用語解説】
◆三国鼎立:中国が三つの勢力(魏・呉・蜀)に別れ、鼎の足のように互いに対立する状態。
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〜次回作にむけて〜
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「私創 三国志異聞奇譚」は、この後あらたな主人公を迎え、多くの新キャラクターと共に、より奥深い世界へと長編展開いたします。
次回作タイトル:
「私創 三国志異聞奇譚 「銀の黄昏に、白玉の龍が哭く」〜戦乱世に舞い降りた美しき龍人の鎮魂歌」
狛(鄧義)も、その中でもちろん活躍します。
韋虞族と女首長の正体、遙と諸葛亮の真実、女首長が狛に言った「かの家」とは。
激動の時代における命懸けの愛憎劇の中、様々な謎が解明されていきます。
この先、歴史要素が増えてはいきますが、主軸は変わらず、愛、恋、友情を描く人間ドラマに、歴史の闇ミステリーも絡めた、壮大物語を構築していきます。
次回作もお付き合い、そして応援いただれば幸いです。どうぞご期待ください!
若沙希




