表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/14

第1話 闇夜の悪鳥

 歴史の大波の中には、闇世界が常、必須悪として存在する。

 諜報ちょうほう、陰謀、奸計かんけい欺瞞ぎまん冤罪えんざい、暗殺 ……陽の下に出せぬあらゆる役目を、陰の中で遂行する〈細作さいさく(しのび)〉。

 世情がどうあろうと、彼らは生息し続ける。


 時は、後漢の末(西暦2世紀末)。

 四百年という、中国初の長期統一安泰政権を誇った漢王朝も、いまや壊滅的な腐敗症状に堕ち、世界は群雄割拠の戦乱期に突入していた。


 ある山野の奥に、人眼に秘され息づく細作のさとがある。

 夏の始まりの満月夜のこと。ふたつの小さな人影が、郷の葉影で息を潜めていた。……

 おれは、自分の生まれた日も、場所も、知らない。


 幼いおれが気づいたときには、細作(さいさく)(しのび)一族・韋虞いぐ氏の僮僕どうぼく(男奴隷)として『はく』と名付けられ、世間から隔離されたこの〈韋虞のさと〉で働かされていた。


 細作の補佐務めもまだできないおれのような少童には、仕事が二つある。


 ひとつは、上役の下働き。

 もうひとつは……傭人ようじん(金で雇われた外部者)等に対しての報酬として、からだで支払われる代価品 ——


「今回の払いか」

「おう、なかなか上物だ。てぇせつに扱えよ。怒らせたら怖い連中の、でぇじな商品らしいからな」


 不敵が生業なりわいな者どもの粗暴な息遣い。抵抗を奪ういくつもの手。

 肢体中を這い回る慾情のにおい。


 苦しい。

 呼吸も、臓腑ぞうふも、全部がきしむ。


 ……いやだ。ちきしょう。

 今にみてろ。こんな所、必ず抜け出してやる。

 いつか、必ず ……!!


挿絵(By みてみん)


◇◇◇


「狛、ほんとにやるのか? 今日?」


 隣で狛にくっつくようにしゃがんでいるりつが、消え入るような声で訊いた。

 触れている栗の腕は震えている。


「そうだ。今夜を逃しちゃ駄目だ。昼間もそう言ったろ」


 正円にいくらか欠けた月が、夜の闇中にも樹々の影を地面に形作れているのを、狛の視覚は確認できている。

 少なからずある雲が流れて、ときおり月光を塞ぐものの、真っ暗闇という状態ではない。


 ———— 動くには充分だ。


 麻布で小さく丸めた荷を背にくくり付け、岩陰に片膝(かたひざ)を付いている狛は、己の視力の良さを信じた。


 栗がなおも不安を吐露とろする。


「うん。……でも、成功するかな」


 僮僕仲間の栗は小柄で、歳は狛と同じか、ひとつくらい下かもしれない。

 頭が弱いというわけでもないのに、いつもおどおどしている。


「いまさら何言ってるんだ。おまえ、ここでずっとこんな生活、続けたいのか」


 ひそめた声ながら、狛は語気強く叱咤しったした。


 栗は例の代価仕事はさせられていない。ただしそれ以外については、狛よりずっと過酷で嫌な作業を毎日させられていた。

 同じ僮僕でも、対外的な商品でもある狛とは、上役も使い分けているらしい。


 栗は一見従順そうに見えはしていても、真意では抗っている。

 そう狛は判断していた。


「この林を抜けたとこに川がある。以前上役の狩に従わされて、知ってる」


 今からすることは狛だって怖い。だから自身をも励ましている。


「かなり幅の広い川だ。この辺りは網の目みたいに水流れがあるけど、その川はずっと大きい。上役らはあそこを渡って、郷と外とを行き来してるんだ」

「……」

「あのあと何度かこっそり行ってみたとき、川岸に打ち捨てられた小舟を見つけた。ボロだけど、充分使える」

「うん」

「そのとき決めた。あの川を越えて下流の向い岸に行けさえすれば、なんとか逃げられる。漕ぎ竿も探して、そこに用意してあるんだ」


 同じ説明を栗にはもう何度もしてきた。

 この計画に、狛は栗を無理矢理巻き込んだつもりはない。栗も納得し、希望していたはずなのだ。


「夏の雨期になったら、水嵩みずかさが増して渡れない。今しかないんだ」

「そう……だね」


 相槌あいづちが弱い。

 狛は心中で舌打ちした。

 栗の性格がこうなのは仕方ないにしろ、ここへ来て、栗の尻込みに合わせているわけにはいかない。


「……わかった。嫌ならここで帰れ。独りで行く」


 本音では、独りよりふたりがいいと狛は思っている。

 栗は気弱だがいい奴だ。賎民せんみん扱いの中で、物心ついてからの狛が唯一、心を交わせる友であった。

 ここで帰しても、栗は狛の計画をきっと誰にも言わないだろう。


「ご、ごめん、狛!」


 狛の突き放しに、栗はあわてて反応する。


「行くよ、一緒に行く。おれだってこんなとこ、いたくなんてない」


 栗は狛の手をぎゅっと握った。


 サワサワと草や樹々の葉をなびかせ渡る風はぬるい。春ももう終いで、今は初夏に入る過ごしやすい時期だ。


 だがこの先にはすぐ長雨と湿気と高温の不快さ、加え水の氾濫に苦しむ悪月がやって来る。

 少年が事を起こすに最適な期間は短い。


 狛は行動前の最後に、もう一度周囲を見回した。


 ホウ……ホウ……ホウ…… 

 風が一時止み、しんと静まりかえった月夜に、夜鳥の籠った鳴き声が響く。


挿絵(By みてみん)


 ———— ふくろうだ。


 狛は胸のあたりが、わずかにもやり、とした。


『鴟ってのは、不吉の予兆なんだぜ』


 いつだったか、年上僮僕のしんが、博識ごかしのように言っていたのを思い出してしまった。


『鴟は悪鳥だからな』


 ———— いや、違う。


 狛は栗に勘付かれないよう、胸中で鬱念うつねん払拭ふっしょくする。


 ———— ヤツは、暗闇の強者だ。


 あの鳥は夜目が効き、羽音を立てずに目的の獲物を捕食する夜の支配者。

 そうだ。今の我はまさに、鴟になるべきところではないか。これは吉兆だ!


 狛は地に付けていた膝を上げた。


「栗、行くぞ。離れるなよ」

「うん」


 二つの細い影は、己の未来への希望に足を踏み出した。


 <次回〜 第2話 (しかばね)


 第1話をお読みいただき、ありがとうございます。

 「ブックマーク」と「評価の✩」いただけるとありがたいです!よろしくお願いいたします。


【用語解説】

細作しのび:秘密や内情を密かに探るしのび。諜報、破壊、暗殺などの闇仕事を行うプロ。

◆漢王朝:秦王朝後に劉邦が創立した、中国初の長期統一王朝。前漢と後漢に分かれる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
闇の世界に生きる少年たちの生き様を描いた、重厚で魅力的な物語でした。後漢末期の時代背景が緻密に描かれ、読者の想像力を掻き立てます。特に、狛の複雑な心情や、栗との揺るぎない友情が丁寧に描写されており、感…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ