episode70 月軌道投入噴射
「かぜって……なに?」
シャーリーから放たれた言葉に俺は言葉を失った。
……えっ? なに言ってんだ?
「風邪は風邪だよ。熱が出たり、喉が痛くなったりして体調が悪くなるアレ」
「熱って……体温が上がるってこと?」
「それは神の試練のことではないのですか?」
「は?」
ティアからこの場にそぐわない言葉が出てくる。
神の試練? なにそれ?
「なんだそれ?」
「十歳くらいまでの子供に時折現れるのよ。全員が全員に起きるわけじゃないけど」
「身体が急に熱くなって意識を失って、そのまま亡くなってしまうことの方が多いんです」
「えぇ……」
なにそれこっわ。
発熱で意識失うとかどんだけ高熱なんだよ。
「治癒魔法も全く効かないので、なす術がないのですが、奇跡的に熱が下がって意識を取り戻す子も少数いて、その子達は偉業を成し遂げることが多く、そのことから神からの祝福を受け、その試練として体温が上がるのだと言われ、熱が上がることイコール神の試練と呼ばれるに至りました」
「ふ〜ん」
ようは幼少期によく出る知恵熱とかその辺ってことか?
でもそのまま亡くなるってどういうことだ。
まぁ、前世日本でも近代に入るまでは新生児や幼児は長く生きられなかったって聞くしな。
それで七五三っていう行事があるくらいだし。
この世界では風邪がそういうふうに言われているのなら郷に入りては郷に従おう。
「まぁ、その神の試練に罹っても治癒魔法で一発だなってことだよ」
「なに言ってんの? 神の試練は大人じゃ起きないわよ。言ったじゃない、十歳くらいまでの子供って」
「ん?」
「大人になってから体温が上がったっていう例は聞いたことはないですね。神の試練を受ける子供も十年に一度、現れるか現れないかくらいの頻度ですし」
「えぇ……」
なんだそれは?
皆健康優良児なのか?
いや、そうじゃないか。
思い返せばアルカイムの医務室とかで風邪薬を見たことがない。
あったのは傷薬が大半だった。
風邪とかは治癒魔法とかをかける方が早いからなのかな? って考えていたが、実際は必要ないからだったのか……
ていうか子供の頃に高熱?
それって――
「そういえば俺って子供の頃に高熱が出て寝込んでたって言われた」
んで目が覚めて前世の記憶を思い出して、そこから前世とのギャップで数日引きこもってたんだった。
「そうだったんだ? 道理でね」
「神の試練を乗り越えたのであれば、今の功績にも納得です」
「そういうもんなのか」
魔力なんてものがある世界じゃ風邪をひかないのか?
この宇宙船のファストエイドキットを作る時も、医者の人に持っていくものを選定してもらって一覧を見た時に風邪薬入ってなかったけど、宇宙に出ても魔法が使えるってことがわかってたからアルカイムと同じでいらないんだと思ってた。
代わりに持ってきてるのは魔力補充用のポーションとかだ。
これは魔法を使う時に魔力を消費するからってことで理解できる。
「知らないことが多いなぁ」
「あなたってアベコベよね。知識が」
「確かに……一般常識に疎い感じがしますね」
「そうだな……」
そのあたり、全然調べてなかったからな。
……勉強しよ。
◆
さて、前世アポロ計画を取り上げる際、大抵映像に出されるのは打ち上げ風景と月着陸の風景、そして月面に足をつけるアームストロング船長の姿が多いだろう。
じゃあ道中は? 一体クルー達はなにをしていたのか?
地球から月までの三日……今世でもアルカイムから月までは三日かかる。
その間が取り上げられないのは何故か?
理由は――
「はい! フォアカード〜」
「嘘ぉ!?」
「ポーカー強ぇな、シャーリー」
俺の座っている座席の足元でポーカーを楽しんでいるシャーリーとティアの二人。
ぶっちゃけるとこの道中三日間は暇だ。
やることといったらバーベキューロールによる歳差運動……駒を回しているとグワングワンと揺れ始めるアレが起きて宇宙船が傾いてしまうことを修正するくらいと月への軌道修正を行うくらいだ。
だから計器を見る人一人だけ置いて残りは食事や睡眠、あるいは今二人がやっているようにカードゲームなどをやったりするくらいの時間がある。
前世じゃこの時間を使ってTV中継をしていたが、今世ではTVが普及していないから着陸の時だけ広場にスクリーンを置いて生配信……パブリックビューイングを行う予定だ。
「もう、シャーリーが強すぎてつまんない……」
「加減すると怒るじゃない、ティア」
「むぅ……あっ! そうだアーサー様」
「ん?」
「月に降りてなにをするんですか?」
「えっ? ミッション内容は知ってるだろ?」
急にティアからそんな質問が来るなんて思ってなかった。
ミッション内容はわかってるもんだと思っていたんだけど。
「ミッション内容は月へ降り立ち、実験機器の設置と岩石採取ということは聞いてますが……例の魔石の指し示す場所でそれだけ行うとは思えなくて。ソル様の手紙のこともありますし」
「それは私も気になってた! 魔石の指す場所のこと何にも触れてないなって思ってたの」
「そうでしょ? だからミッション内容以外に何かするのかなと思いまして」
「なるほどそういうことな」
急に聞いてくるもんだからびっくりした。
しかしそうだな……なんと言えばいいのか……
「正直……考えてない」
「「……えっ?」」
二人同時に声を上げ、二人同時に首を傾げる。
うーん……そんな反応されてもな。
「なにがあるのか全くわからなくてさ。望遠鏡で見てもただの地面だったし」
高解像度の望遠鏡ならもっと拡大できたかもしれないが、そっちはからっきしだからな。
なにがあるのか行ってみないとわからない。
「そうなんだ。だから実験の方に重きを置いたのね」
「行って帰ってくるのがメインミッションだが、どうせ行くならな」
前世アポロ11号も同じで行って帰ってくることがメインミッションで実験などはおまけだった。
12号からは本格的な調査や実験になっていったけど。
「もしかしたら観測精度のアレで、間違えてる可能性もあるから一応例の魔石は持ってきてるけど」
「そうなんだ。……間違えてたらどうすんの?」
「歩く……しかないんじゃないか?」
「えぇ……」
月面車なんて積んでないし、月着陸船は多分燃料が足りないからシャーリーの言うような事態になったら歩いていくしかない。
幸い、今世の宇宙服は生命維持装置が魔力由来だから船外活動時間はかなり長い。
……幸いと言っていいのかは疑問だが。
その分歩かなきゃいけないし。
「もしそうなってたらご愁傷様ね、シャーリー」
「あなたねぇ……自分は司令船に残るからってぇ!」
「きゃあ!? いいじゃないっ! あなたはアーサー様と一緒に月を歩くんだからっ!!」
ティアとシャーリーがじゃれあい始める。
のんびりとした空気が船内を包んでいて、非常にゆったりとした時間を過ごせているのはありがたいなと感じるひと時だった。
◆
――三日目
のんびりのほほんとした旅路の終わりが近づいてきた。
片方の窓の外には小さくなったアルカイムが。
そしてもう片方には――
「すごい……月がこんなに近くに……」
「望遠鏡で見たものよりもはっきりと凹凸がわかるわ……本当に月に来たのね、私達」
ティアとシャーリーが眼下に広がる月に見惚れていた。
月から大体18000km離れたところにいるのだが、かなり大きく見える。
見上げた先にあった小さな月が、今じゃ窓の外いっぱいに広がっている。
感慨深い光景だ。
『ヘリオス5、こちらコントロール。LOI-1のPADが用意できました』
ミッションタイム72時間45分……打ち上げから72時間45が経過したところで、マティルデから通信が入った。
LOI-1……いよいよ月周回軌道への投入だ。
「コントロール、こちらヘリオス5。コピー準備了解」
『――了解。LOI-1、SPS/G&N28445、プラス0.98、マイナス0.19、点火75時間49分49.65秒、マイナス2889.7、マイナス0394.4、マイナス0068.6、ロール358、ピッチ226、ヨー347、0169.2、プラス0061.0、2917.3、6分02秒、2910.8、六分儀は星31、1066、358。PADの残りはNA。GDCアライン、ベガとデネブ、243、183、012。アレージなし。LOI点火の2分前には、ハッチ窓の上端のすぐ下に地平線が見えるように。左側のランデブーウィンドウには表示されません。LOSは75時間41分23秒。AOSは76時間15分29秒。LOIの噴射がない場合のAOSは76時間5分30秒です。LOIの噴射前、Noun 42に表示される値は、H Aが431.3加算し、H Pが128.2を減算したものです。以上です』
「了解。LOI-1、SPS/G&N28445、プラス0.98、マイナス0.19、75時間49分49.65秒、マイナス2889.7、マイナス0394.4、マイナス0068.6、358、226、347、0169.2、プラス0061.0、2917.3、6分02秒、2910.8、31、106.6、35.8。GDCアライン、ベガとデネブ、243、183、012。アレージなし。TIG2分前にハッチ窓に地平線。LOIを伴うLOSは75時間41分23秒。AOSは76時15分29秒。 LOIなしのAOS76時間5分30秒。燃焼前のHA、431.3、HP 、マイナス128.2」
『OK、復唱正解です』
SPS/G&Nの数字は重量で28,445kg。
プラス0.98、マイナス0.19は機械船の後ろにあるエンジン「SPS」エンジンノズルの向ける角度。
75時間49分49.65秒はSPSの点火時間。
マイナス2889.7、マイナス0394.4、マイナス0068.6は速度変化でX軸-880.8m/s Y軸-120.2m/s Z軸-20.9m/s それぞれ遅くなる。ちなみに単位はマイル。
358、226、347の数字はマティルデが言ってくれたように宇宙船の姿勢の数字。
0169.2、プラス0061.0は月周回軌道の遠月点と近月点で単位は海里を使っている。
kmに直せば遠月点313.4km 近月点113.0kmの周回軌道に乗せる。
燃焼時間は6分2秒……TLIと同じくらいの長さでエンジンを噴かして減速して月の重力圏に捕まって月の周りをぐるぐる周るってわけだ。
ちなみにこれ、LOI-1という名の通り一回目の噴射で、二回目がある。
あと、星の名前が前世とおんなじでびっくりしたね。
そして約三時間後。
LOI-1の噴射時間が近づいてきた。
『では、通信途絶します。大体30分後にまたお会いしましょう』
「ああ、また30分後」
地上との通信が切れる。
月の裏側に入ったことで、通信波が届かなくなった為だ。
通信衛星なしでどこからでも繋がるのはアルカイム地上限定らしい。
こうなるかもしれないと思って事前に段取りしててよかった。
「今は宇宙に三人だけ……か。孤独ね」
「私なんか二人が月に行ってる間一人だよ?」
「さらに孤独じゃない」
「二人とも、着席しろよ。シートベルトもしっかりとな」
「「はーい」」
6分間も減速する為、全員シートに座ってシートベルトもしっかりと締める。
「さぁ、いよいよだぞ」
「久しぶりに重力を感じるわけね」
「大丈夫かしら? 結構きつかったりしますか? アーサー様」
「俺も未体験だからわかんない」
「それもそうですよね」
タイマーがカチリカチリと時を刻む。
ティアに聞かれたけど、どれくらい重力を感じるのだろうか。
まぁ、そんなにガツンとくるもんじゃないだろう。
「5、4、3、2、1――点……火ぁ!?」
タイマーがゼロを迎えた瞬間、背中を蹴られたのかと錯覚するほどの衝撃を受ける。
減速だから俺達は進行方向反対側に向かってエンジンを噴かしているから、身体は前のめりになってしまう。
シートベルトを締めてなかったらパネルに頭をぶつけてたな。
「これは……すごいですね」
「慣性ってこんなに強かったのね」
「時速4万km近くだからなぁ」
衝撃を受けたのは一瞬だけで、それ以降は身体に少し重みを感じる程度だった。
そして予定通り6分2秒、噴射を終えて俺達は月周回軌道に入った。
「ふぅ……やっと軽くなったな」
「わぁ! ねぇアーサー! 見て見て!!」
右側の席に座るシャーリーに手招きされ、シャーリーの指差す方を見る。
それは窓の外。眼下に月が視界いっぱいに広がる光景だった。
「これはすごいな」
「ね!」
大気がない故に光の揺らぎが一切なく、陰影がはっきりしている月面の様子は非日常的な光景で、本当に遠くまで来たんだなと実感させられる。
その光景をシャーリーはキラキラとした目で見下ろしていた。
「ねぇ、ティア! VERB82起動できる?」
「82? あぁ、ちょっと待ってね」
シャーリーの質問の意図を汲んでティアはDSKYに手を伸ばす。
VERB82は遠月点と近月点を表示するコマンドだ。
さて、どう出るかな……
「えっ!? すごい!! 見てくださいこれ!!」
「どれどれ……うお」
「なになに? どうしたの?」
コマンド操作を終えたティアが声を上げた。
俺もその画面を見て驚くとシャーリーも気になって覗き込もうとしてくる。
画面が見えるように前の空間を開けると、そこにシャーリーが身体を入れてきてDSKYの画面を覗いた。
「うわぁ! すごいじゃない!! 169.6と60.9よ!!」
314.1kmと112.8kmの楕円軌道に投入できていることを示す表示。
今回俺達は169.2と61.0……つまり313.4kmと113.0kmの楕円軌道に乗せる予定だったからほぼ設定通りにコンピューターは動いてくれたことになる。
「すごい!! カレンさんもシンシアさんもすごいですね!!」
「ここまででもすごいなぁって思ってたけど、これは言葉が出ないわ! こんなに正確に月周回軌道に乗せられるなんて!!」
すごいすごいと言い合うティアとシャーリー。
語彙力を失うほどにその性能の高さに驚嘆しているのは理解できる。
俺も同じだからだ。
……ところでシャーリーさん? 俺の膝に乗っかる形で会話しないで。重みは感じないけどドギマギするから。
56年前の今日、アポロ11号が月軌道に入った日なので投稿しようと思いました。明日は着陸の日なので、明日も投稿しようと思います。




