長く静かで奇妙な戦争
前フリなしで書きます。
今回は、戦争に関する結構有名な話を書いてみることにします。
1980年代の日本がバブル経済まっただ中のころ、海外で次のようなジョークがささやかれていたそうです、「富裕国になるのは簡単だ。日本に宣戦布告して、その直後に降伏宣言をして日本の支配下になればいいんだ」と、残念ながら自分は物心ついたときから不況だ不況だとの声しか聞いたことがないのでバブル時代というものを経験したことがありません。
明治37年(1904)2月10日に日露両国が互いに宣戦を布告して、日露戦争が開始されるとほぼロシアの衛星国であったモンテネグロ公国もそれに伴い、日本に対して宣戦布告をしました。
モンテネグロ公国は、ロシアの援軍として義勇兵を満州に送りましたが、実際には戦闘には参加せず、この宣戦布告は日本に無視されて無かったことにされ、日露戦争で(日本がお得意のジャイアントキリングで)戦争が終結した後の講和会議の場にも招かれませんでした。
その後第一次世界大戦の影響で当時“ヨーロッパの火薬庫”と呼ばれていたバルカン半島に属するモンテネグロ公国はセルビア軍によって占領され、1918年に成立したユーゴスラビア王国( 前身はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国 )に取り込まれモンテネグロ公国は消滅しました。
このため国際法上は日露戦争勃発直後から、モンテネグロ公国と日本は現在にいたるまで戦争が継続中であるという奇妙な状態となってしまいました。
それから、さすがは“ヨーロッパの火薬庫”と呼ばれていたバルカン半島の国々では奇妙な相互の関係性や権謀術数、あるいは戦争、反乱などが繰り広げられた後、モンテネグロは度々国名を変えながら2006年に独立を果たしました。
日本政府は同年モンテネグロの独立宣言を承認しましたが、日露戦争における宣戦布告に対しては「千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。」と回答しています。
一応、モンテネグロのジョークとして、「ロシアと一緒に宣戦布告をしたのはいいものの日本なんて国しらないな?」「どうせ大国ロシアの前ではそんな雑魚国家すぐに負けるだろ」「え!? 日本勝ったの?」「ナニソレ怖い。次俺らの番かも?」「ちょっと地図で日本っていう国の位置を確認しようぜ」「アレ? 日本て、周りを海に囲まれてるじゃねーか」「アイツら俺たちが怖くて国ごと海の中へ逃げ込んだw」みたいなのがあるらしいです。これはもちろんジョークです。
それでは、話を次の戦争の話に移します。
まずこの戦争のきっかけとして王党派と議会派に別れて争いが起こり、いわゆる清教徒革命(1639)と呼ばれるイングランド内戦が起こりました。
その後王党派軍は、議会派軍に連敗を喫して1648年にイングランドの西に追い詰められた主力の虎の子王党派海軍とともにシリー諸島への撤退を余儀なくされました。
そこで、内戦終結後もイングランドとの有効関係を保ちたいという思惑を持っていたオランダ(ネーデルラント連邦共和国 )は議会派と同盟を組んでいたため海軍を派遣して王党派軍に対して、条件をつけて1651年4月に宣戦を布告しました (既にイングランドの本土のほぼ全ては議会派によって掌握されていたためシリー諸島のみにおいての布告)。
その後、わずか1~2月後の1651年6月、議会派海軍は王党派軍を降伏に追い込み、オランダ軍は一度もイングランド王党派軍と戦火を交えることなく、互いに一発の銃弾も使われることなく、互いに一滴の血も流さずに撤退していきました。
そして、この宣戦布告は歴史の中に忘れられていきました。その原因の一つとして一国の一部対しての宣戦布告という曖昧さのためオランダ側としても、戦争終結宣言をしなかったということらしいです。
ところが、1985年シリー諸島の政治家で歴史家でもあるロイ・ダンカンがロンドンのオランダ大使館にシリー諸島においては、未だにイングランド軍とオランダ軍の戦争が継続中であるという、自らの発見を手紙に書いて送り、これにより大使館職員によってこの事実が確認され、ダンカンは当時の駐英大使ライン・ハイコペルとシリー諸島において1986年4月17日平和条約に調印し、これにより世界最長となる335年にもおよぶ長い戦争に終止符が打たれることになりました。
Wikipediaによると“ハイデコペル大使は、「戦争が継続していたために、シリー諸島がいつオランダに攻撃されるか分からないという状態で、住民にとってはずっと悩みであったに違いない」と冗談を飛ばした。”だ、そうです。




