とある現実(リアル)の禁書目録 ①『聖書』
先日、バスに乗っていた時のことです。
バス停でしばらく停車をしていた時に、自分はボーッと窓の外を眺めていたら、一軒家の門に大きく派手な字で『カルト宗教に注意!』みたいなことが書かれた板が貼ってありました。
自分が興味を持って内容を読んでみると、「某新興宗教団体Aの広報紙によると某新興宗教団体Bはカルトである!」みたいなことが書かれてありました。どちらも小さな宗教団体みたいですが、それにしても他の宗教団体をカルトだと断定するには、自分の信仰する宗教の広報紙では論拠として弱いのではないかと思います。
それにしても、どちらもキリスト教系の団体みたいなのに、そこら辺の解釈は難しいですね。
「『キリスト教徒』新約聖書は、神の啓示によって書かれ、隣人の魂の欲求を満足させるに足るありがたい書物だと考えている人。その教えが罪の生活と矛盾しない限り、キリストの教えを守って行こうとする人」━━アンブローズ・ビアス。
……メチャクチャ辛辣ですね。……デリケートな話題なので、そんなにゴリゴリと来られると怖いです。
世界歴史上の最大のベストセラー本と言えば、もちろん、『聖書』ですが、同時に最も検閲を受けた本でもあります。
『旧約聖書』とは、キリスト教および、ユダヤ教の神聖な記述が織り込まれた書物の集りであり、どちらの宗教も、『旧約聖書』を神の霊感によって書かれたものと位置付けられています。
しかし、現在では『旧約聖書』のほとんどは、初期の伝承や叙述をあとから編集したものであるという説が有力です。
全体が現在の形にまとめられたのは、おそらく紀元前五世紀になってからだろうと言われており、「創成期」を含む五書すべてが完成したのは、紀元前400年に入ってからだそうです。
『旧約聖書』は大半がヘブライ語で書かれていますが、一部はアラム語だとのことです。
キリスト教徒とユダヤ教徒にとって『旧約聖書』は、神が人間と交わし、シナイ山でモーセに啓示した誓約や契約の記録ということになっています。
『旧約聖書』で正典と認められる書と順序は、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教によって異なります。ユダヤ教徒がもちいる「ヘブライ語聖書」は24書で構成されていますが、キリスト教の『旧約聖書』になると、そのうちいくつかの書を分けているので、全部で39書になります。またカトリックが正典と見なす7書を、プロテスタントは典拠が疑わしいという理由から「聖書外伝」と呼んでいます。
一方、『新約聖書』はキリスト教徒だけの聖典です。これを構成する27書には、イエス・キリストの誕生から、西暦100年くらいまでのことが年代順に書かれてあり、キリストの生涯と教え、キリスト教会の設立に関する最古の記述ということなっています。イエスが示した新しい誓約や契約は、モーセが受けた啓示の達成であり、それに取ってかわるものであるというのがキリスト教の姿勢です。
新約聖書は「福音書」、「使徒行伝」、「使徒書簡」、「ヨハネ黙示録」に分かれており、西暦70~100年にギリシャ語で書かれたものが、2世紀に1冊にまとめられました。
『聖書』は聖ヒエロニムスによって西暦400年ごろラテン語に翻訳され、6世紀末には定本となる完成版として、まとめられた「ウルガダ聖書」として知られるこの翻訳は、ローマカトリック教会公認の『聖書』と言われ、16世紀の宗教改革まで1000年にわたってその地位を保ちました。
『聖書』の原典をめぐる争いは、キリスト教初期からすでにあったようです。
中世のカトリック教会は、原意が損なわれたり、誤訳されたりすることを恐れ、ラテン語で書かれた公認の「ウルガダ聖書」を翻訳することを反対しました。しかし14世紀、教会の規則を無視して、「ウルガダ聖書」の初の英語版が、宗教改革者ジョン・ウィクリフトとその信奉者らの手によって作成されました。
ですがイギリスでは、教会の許可なく「ウィリクフト聖書」を読むことが禁止されました。
1409年、ロンドンのセント・ポール大聖堂で開かれたカンタベリー会議では、新たな教令が出され、『聖書』の翻訳と、特別な承認を受けずに新しい翻訳聖書を読むことを禁じ、これを守らない場合は破門にすると定められました。ヨーロッパのほかの国々では翻訳は行われていましたが、イギリスでは宗教改革まで新たな翻訳版『聖書』は登場しませんでした。
16世紀のプロテスタントの宗教改革者は、“神は『聖書』を通じて人間に直接話しかけているので、すべてのキリスト教徒は『聖書』を研究する権利と義務がある”と主張しました。彼らは『聖書』の自国語翻訳を奨励し、自ら翻訳も行いました。マルティン・ルターがドイツ語訳聖書を出版したのは1522年だのことですが、その前後にドイツ語訳の『聖書』が他に14種類も刊行されていました。また、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ボヘミア、オランダ、北欧でも、各国語に翻訳された『聖書』が出版されました。
プロテスタントの宗教改革者たちの、「ソラ・スクリプチュラ」(聖書のみ)という姿勢は著しく権威を失墜していたカトリック教会にとって脅威であり、そのためカトリック側は各地で続々と刊行されるプロテスタントの『聖書』を検閲の対象に定めました。プロテスタントもまた『聖書』の内容を検討し、教義に反する『聖書』を禁じました。
最も激しい弾圧を受けた翻訳聖書は、「ティンダル訳」で、ティンダルは、ヘブライ語とギリシア語の原典を英訳し、イギリスで出版した最初の人物でした。1524年~1526年に、ドイツのケルンとヴォルムスで出版された彼の新約聖書は、イギリスにひそかに持ちこまれたものの、教会はこれを禁じ、公開で焚書にしました。他にもティンダルが翻訳した「モーセ五書」は1530年、「ヨナ書」は1531年、改訳の新約聖書は1534年に禁書となり、これらも燃やされました。
ティンダルは異端として裁判にかけられた後、1536年にブリュッセル近郊で絞殺され、遺体は自ら翻訳した『聖書』とともに火刑に処されました。しかし、ティンダル訳は後に1661年に出版された公認の『欽定訳聖書』(キング・ジェームズ版)をはじめ、後世の『聖書』の多くの部分を形作りました。
英語版聖書の需要が高まると、規制が困難になり、ヘンリー8世はティンダルの同僚であるマイケルズ・カヴァデールが1535年に作った英訳聖書の完全版と、ティンダル版を底本とする「マシュー聖書」を公認の『聖書』としました。「マシュー聖書」とは、序文と注釈をつけたジョン・ロジャーズがジョン・マシューという偽名で1537年に出版したものです。ロジャーズはプロテスタントに改宗した元カトリック司祭で、ティンダルの友人でもありました。
しかし、敬虔なカトリック信者であるメアリー1世が即位すると、ロジャーズは300人の異端者と投獄され、1554年に火刑に処されました。
次々に登場する新たな『聖書』を禁止したのはイギリスだけではありません。
1546年、フランスにあるソルボンヌ大学の神学教授たちは「ルーヴァンの禁書目録」を根拠にロベール・エティエンヌが刊行した『聖書』を糾弾しましたが、フランソワ1世は、「ルーヴァン目録」の国内での発行と頒布を禁じ、エティエンヌ版聖書に対する非難を取り下げるよう命じました。しかし、1547年に王が亡くなると、再び禁書とされ、彼はプロテスタントの勢力の強い地域に移りましたが、そこでもエティエンヌの聖書は認められませんでした。
スペインでは、プロテスタントの影響を受けた『聖書』を異端審問所が弾圧しました。1551年に出された「バリャードリード禁書目録」では、103種類の『聖書』に対し、誤りがあり、異端という理由から、刊行を禁じ、修正や破棄を命じました。
イギリスでメアリー1世のもとローマカトリックが息を吹きかえし、宗教裁判や異端を取り締まる法律が復活すると、プロテスタントの『聖書』への締めつけが一段と厳しくなりました。1555年、女王は、「いかなる者も、この国に、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、マイルズ・カヴァデール、エラスムス、ティンダールの名が記された文書、書籍、新聞、あるいはカトリックの教義に反する誤った教えを含む書籍を持ちこんではならない」という命令を下しました。
1661年にイギリス公認の『欽定訳聖書』(キング・ジェームズ版)が出版されました。
1631年、イギリスの印刷業者R・バーガーは、十戒のその七「汝、姦淫することなかれ」の「なかれ」が抜けた聖書を1000部刷ってしまい、この誤植版は「邪悪聖書」と呼ばれるようになり、バーガーは多額の罰金を科せらました。実物は徹底的に処分されたため、ほとんど残っていません。
謹厳さを重んじるヴィクトリア朝には、聖書に対する新しい検閲が行われるようになりましたた。聖書の登場人物が、容認しがたい行いをするはずがないと考え、ヘブライ語の翻訳が間違っていると考え、不適切と思われる箇所を修正しました。
アメリカで最初の削除が行われた聖書は、1833年、辞書編集者のノア・ウェブスターが刊行したものでした。彼は、見苦しいと判断される記述を数千か所にわたって変更しました。ウェブスター版聖書は、1835年にコネティカット州で採択されたほか、イェール大学からも承認され、会衆派の説教師たちの間で20年以上も用いられました。しかしウェブスターが「見苦しくない」箇所まで訂正するに至って非難が起こり、1841年の第3版が最後となりました。
20世紀に入ると、社会主義国で政府による『聖書』の検閲が盛んになりました。1926年ソ連政府は国内の図書館に対し、『聖書』をはじめとする宗教書をすべて排除するよう指示しました。現状維持が許されたのは、最大級のいくつかの図書館だけだったそうです。中国では、1960~1970年代の文化大革命期にキリスト教の礼拝所はすべて閉鎖され、聖書は焼き捨てられました。
ルーマニアでは1951年を最後に、国内で聖書が印刷できなくなりました。バプティスト教会が使用する聖書が、政府公認で印刷できるようになったのは1986年になってからだそうです。同じ1986年、エチオピアの社会主義軍事政権は、「現行の革命と矛盾する」として、数冊の聖書を禁書にしました。エチオピアのある教会宛に発送された45000冊以上の『聖書』は、無期限で差し止められました。
1963年アメリカで、アビントン・タウンシップ対スキーンプ裁判で、連邦最高裁は公立学校での礼拝を禁じる判決を出しました。ただし最高裁は、“『聖書』を文学として読み、歴史または社会学の中で学ぶことを禁じたわけではない”としました。
この判例は多くの誤解を生み出し『聖書』に規制をかけようとする試みが報告されるようになり、学校図書館や授業から『聖書』を外すことを訴える保護者団体や宗教団体は、『聖書』は神の言葉なので、比較文学で扱うなどもってのほかだと考え、自分たちの意にかなった見方や解釈で指導するように要求をしました。
その後、1990年代にはいると、ヴィクトリア朝時代を思わせる“健全”な『聖書』の作成を試みが数多く見受けられるようになり、それに対して無神論者が『聖書』の使用に抗議し、「猥褻で見苦しく、暴力的なその内容は、若者に適しているとは言い難い」と述べたそうです。
図書館には「猥褻でポルノまがい」という抗議が寄せられたそうですが、排除にはいたりませんでした。
そのほか、『聖書』に反対する人々が「『聖書』の中には猥褻な部分が300箇所以上あり、近親✕✕や殺人など、どの年齢層の子供にも不適切な言い回しや話が登場する」という理由で学校からの『聖書』の追放を求めたそうです。
日本だと昔、プロテスタント福音派系の出版社、超教派の文書伝道団体である。宗教法人いのちのことば宣教団がスポンサーになって『聖書』の物語を題材にした『トンデラハウスの大冒険』など『聖書三部作』というアニメ(製作はタツノコプロ)が放映されたそうです。
まあ、自分のような「縁なき衆生は度し難し」と言った輩には、何とも言い難い話です。
「どちらも昼夜分かたず聖書を読んでいるのに、私が白と読むところを、あなたは黒と読む」━━ウィリアム・ブレイク。
聖書の翻訳をすると、本焼くという行為に繋がることもあったみたいですね。……すみません。