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織田信長の大炎上騒動

 最近、不定期連載の漫画『ドリフターズ』の新刊が発売されたので読んでみました。


 やっぱり、この漫画はおもしろいです。自分は中二系の要素が大好きなので、この手のケレン味というか大袈裟なハッタリとかは大好物なんです。


 まあ、漫画の大まかなストーリーは、歴史上の偉人たちが死後、異世界に転移して両陣営に分かれて戦いを繰り広げるというものですが、その中の重要なキャラクターとして主人公島津義久の軍師役として織田信長が登場します。


 織田信長は様々なフィクション作品に登場しますが『ドリフターズ』での織田信長は非常に厨二心をくすぐられてカッコいいです。


 日本人は本当に織田信長が好きですね。


 以前、山田風太郎という小説家のインタビューを読んでいたら「信長が日本人から人気があるのは日本人らしくないからだ」みたいな言葉があって「なるほどなー」と思った記憶があります。


 織田信長というと“第六天魔王”とか中二っぽい自称をしたり、数多くの小説、漫画、映画、ドラマ、ゲームなどでラスボス級の扱いをされていたり、他にも印象的なキャラクターとして描かれています。


 信長の残虐性の象徴となる事件の中で最も有名なのが多分、比叡山延暦寺の焼き討ちではないでしょうか。


『平家物語』の中で白河法王の『天下三不如意』と呼ばれている「意の如くならざるもの、鴨河の水,双六(すごろく)(さい)山法師(・・・)の三つのみ」という言葉があるくらい山法師というのは厄介な存在だったようです。


 その後、群雄割拠する戦国時代に時は移り、信長は延暦寺と対立し(この辺の経緯や延暦寺の振る舞いなども面白いのですが文が冗長になるため割愛します)、結果比叡山を焼き討ちしました。


 元亀2(1571)年9月11日、信長は坂本に軍を進め、三井寺に本陣を敷き、25000人の兵で延暦寺を包囲しました。


 都の守護寺である、延暦寺を攻めるのは当時としては、その後の影響を鑑みて危険とする家臣も多くて佐久間信盛らも反対しますが、信長はこの意見を聞き入れませんでした。まあ、ここにいたるまでの経緯を考えるとそうなりますかね。


 織田軍の動きを察知した延暦寺側も金によって信長を懐柔しようとしますが、信長はこれを拒否して使者を追い返します。


 延暦寺にいる者全ての殺戮を命じた信長は池田恒興の「夜になると逃げる者が出てくるが、早朝ならば一人残らず討ち取ることができる」という進言を入れて、夜中に比叡山東麓に3万の兵を配備し万全を期しました。


 翌9月12日、織田軍は坂本、堅田に火をつけて周り、それを合図に比叡山への総攻撃を開始します、その攻撃は4日あとの9月15日まで続き、その火の手の上がる煙が雲のごとく立ち上ぼり京都からでも見えたそうです。


『信長公記』によれば、根元中堂、山王21社、東塔、西塔初め、仏像、社、僧防、経典の一字も残さず、堂塔伽藍一切が焼け、煙は煙霞のように焼き払い全てが灰塵に帰しました。


 山の周辺も信長配下の武将が固めていましたが、秀吉が配備されている場所だけ囲みが甘くなっていて、ここから貴重な絵画などの寺宝が持ち出されました。もちろんそういう指示があったのでしょう。


 山下にいた、日吉大社の北方にある八王寺山に逃げ延びた僧俗、児童、智者、上人も織田軍に追撃を受けて皆、首を斬られ。それらの首は信長に検視されたそうです。


 その他にも、美女、小童たちも数知れ捕らえられ信長の眼前に連れられてきました。すると悪僧はもちろんのこと、「お助けください」と口々に容赦を乞う者の声も聞かずに、結局全ての首を打ち落とし、その場に数千の屍が算を乱して、ひどい惨状だったらしいです。


 殺された者の数としては『信長公記』では先に書いたように数千人、『ルイス・フロイスの書簡』では約1500人、山科言継の『言継卿記』では3~4000人となっています。また『言継卿記』には「堅田等放火、仏法破滅、説くべからず、王法いかにあるべきや」と不安のこもった非難が記されています。また仏に帰依し、信仰心に篤かった武田信玄はわずかに逃げ延びた僧侶たちを保護し、信長の所業に対して「信長は天魔の変化」として強く非難し、延暦寺を再建しようとさえしました。しかし宮中では以前から延暦寺の僧侶たちの堕落ぶりを見かねていた者たちから信長の行動を支持する者もあり、朝廷からは何もおとがめがありませんでした。


 ━━とまあ、長くなりましたが、ここまでは有名な話です。


 ところが1981(昭和56)年、滋賀県教育委員会が比叡山で発掘調査を行ってみると、上に書いてあるような証拠は発見されなかったのです。

 比叡山の土壌からは、焼き討ちがあったとされる焦土層は発見されず、焼死したとされる数千名の僧侶の痕跡も確認されませんでした。


 結果として「信長が比叡山を攻めたというのは事実だが、当時の比叡山にはまだ堂塔の数も少なく、そのため堂塔に火を放っても全山を包むほどの炎の規模にはならなかったと思われる。そして、信長が比叡山に攻めこむという噂はかなり以前からあったため、僧侶の多くはすでにふもとの坂本の村に移り住んでいた。つまり何千人もが焼死したとされてきた信長の前代未聞の大量殺戮は後世に創作された物である」というのが現在では結構有力な説だそうです。


 現在ではSNS上でヘタなことしたり、書いたりすると炎上してしまうので気をつけないといけませんね。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです! 誰がどんな意図で信長の大量殺戮を創作したのかが気になりました.
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