小野芳夫という男 10月26日 午前11時
正義感からではない。元刑事の勘とでも言えばいいのか? 村長の話を聞き、急き立てられるように動き出してしまった。
(村長が俺を呼んだのも、平本幹次がこの村に来たのも、偶然とは思えない。上村京子の無念がそうさせたような気がする)
普段はあまりスピリチュアルな事を信じない俺だが、妻の樹里は勤務先である五反田邸で霊を祓ったというし、その後も何度か心霊的な事件に遭遇しているらしい。俺には全く霊感などはないが、何かの導きとしか思えないのだ。気のせいでしかないかも知れないが。
(小野芳夫と田辺時頼には、どうしても話を聞きたい。できるなら、上村京子の無念を晴らしてやりたい)
幼い子供を残して、自殺してしまう程つらかった京子の気持ちを考えると、まだ平然と山神村に住んでいる二人の男の神経が理解できない。同じ男として、許せない。村長の話だと、京子の遺骨は村営の霊園の一角にある無縁仏の共同墓に埋葬されているそうだ。二人をそこまで連れて行き、土下座をさせたいとも思った。しかし、二十五年も前の事だから、惚けられたらそれまでだろう。自殺に追い込んだ女が眠っている村に住み続けているような鉄面皮の人間だから、罪を認めて謝るとは思えない。しかも、殺人ではないから、時効は成立している。何とも歯痒い。
「あれか……」
しばらく歩いて行くと、前方に二階建ての大きな家が見えてきた。周囲をブロック塀で囲まれている。小野芳夫の家だ。小野はずっと独身で、村長と同様、お手伝いさんを雇っており、身の回りの世話をしてもらっている。村長と違うのは、そのお手伝いさんは夜になると帰ってしまうところだ。それを考えると、小野の家は一人で住むには大き過ぎる気がした。
「ここか」
門の前まで来て、表札を見た。「小野」と達筆な字で書かれた木製のものだ。門から建物までは、何十メートルかある。田辺家と同じで、母家の手前に倉庫があり、大型のトラクターが二台駐められている。その奥にはガレージがあり、黒塗りの高級セダンが一台あった。一人だから、田辺家とは違い、車はそれだけだ。
「誰だ?」
トラクターの陰からヌッと男が現れた。目つきはまさに蛇、髪はオールバックを整髪料で固めており、紺色の作業服の上下を着ている。小野芳夫本人だろう。
「失礼しました。神社の鳥居を壊した犯人の調査を村長に依頼された私立探偵の杉下左京と言います」
俺は革ジャンのポケットから名刺を取り出した。
「私立探偵?」
小野は右の眉を吊り上げた。怪しまれているのだろうか? 警戒するような目で俺を見つつ、近づいて来て名刺を引ったくるように取った。
「東京の人間か? それがわざわざ群馬の山奥まで来るとは、村長がよっぽど高額な報酬を提示したのか?」
小野はニヤリとした。嫌な言い方をするが、その通りなので反論するつもりはない。とにかく話のとっかかりを得たいので、これ幸いと、
「それで、犯人らしき連中の事、何かご存じではありませんか?」
愛想笑いをして尋ねた。
「さあな。キャベツを盗まれた奴もいるみたいだが、俺は何の被害も受けてねえし、何も知らねえよ」
小野は作業服の胸のポケットに名刺を押し込みながら、踵を返して家に向かおうとした。
「そう言えば、二十五年前、神社の裏手で自殺をした人がいるって聞きました」
俺は小野の足を止めるために大声で言った。案の定、小野はピクンとして立ち止まった。
「何が言いたいんだ?」
小野は俺が私立探偵で、東京から来たというのを気にかけているようだ。元々悪い人相を更に凶悪にして振り返った。素人ならビビって逃げ出すだろうが、俺は腐っても元刑事だ。しかも、元同僚には小野より凶悪な顔をした加藤という奴がいる。あいつより怖い顔の人間を俺は知らない。だから、凄まれてもびくともしない。
「おや、その事は何かご存じなんですか?」
俺はニヤリとし返した。
「何も知らねえよ。帰れ!」
小野はまた踵を返すと、大股で家へと歩いて行ってしまった。
(一筋縄ではいかないな)
俺は仕方なく、元来た道を戻った。
「何をしているんですか?」
小野の家を離れた時、背後から爆音を轟かせて晴美さんが現れた。駐在の水崎さんはこの騒音には何も言わないのだろうかと思ってしまった。
「あ、いや、ちょっと疲れたので、村長の家に戻ろうと思って……」
バツが悪くなったので、そんな言い訳をした。多分、晴美さんは俺が小野の家の庭から出てくるのを見ただろう。散歩と言いながら、何かを嗅ぎ回っているのは明らかだからだ。
「そうですか」
晴美さんは何も訊かなかった。そして、
「乗ってください。私も村長さんの家に用事があるんです」
「はあ」
俺は苦笑いをして助手席に乗り込んだ。若い女性の運転する車には、樹里以外乗った事がないので、妙に緊張してしまう。坂本龍子弁護士に見られたら、非常にまずいと思ったが、晴美さんの厚意を無下にできないので、乗らないという選択肢はなかった。
「今、小野さんの家に寄られていたのですか?」
晴美さんはハンドルを切りながら訊いてきた。
「はい」
見られているのを気づいているのにとぼける事はできない。
「小野さんて、愛想がほとんどない人ですから、会話が弾まないでしょ?」
晴美さんは二十五年前の事など知らないのだろう。恐らく、生まれていないか、まだごく小さい頃だろうから、知る由もない。微笑んでそう言われた時、俺はホッとした。
「そうですね。東京から来た私立探偵だとわかると、警戒心をあからさまにして、嫌な顔をされました」
俺は頭を掻いて応じた。
「そうでしょうね。この村は閉鎖的ですから、村外の人には皆警戒心を持ちますが、小野さんは特にそうなんですよ」
晴美さんは村長の家を見定めて、速度を緩めた。
「あ」
俺は村長の家の門の前に龍子さんが立っているのに気づいた。
「左京さん、彼女さんがお待ちみたいですよ。どうしますか?」
晴美さんの目がまた汚いものを見るような目になった。ああ……。
「彼女じゃありませんよ。ビジネスパートナーです」
俺は言っても無駄かも知れないと思いながら、晴美さんを見た。
「そうですか、ものは言いようですね」
晴美さんは車を停めた。龍子さんは反対の方を見ているので、俺達には気づいていない。
「降ります」
晴美さんの半目に堪えきれず、俺は車を降りて、歩き出した。晴美さんは俺をいないもののように無視して村長の家の前まで車を走らせた。そして、龍子さんと何かを話し、車を村長の家の庭に乗り入れた。
「あ、左京さん!」
そこでようやく龍子さんが俺に気づき、駆け寄って来た。機嫌は良さそうなので、晴美さんとは天気の話でもしたのかも知れない。
「何かありましたか?」
俺は作り笑顔で尋ねた。龍子さんは微笑んで、
「あの方、村長さんの秘書の方なんですってね。私、妙な誤解をしてしまっていたので、謝罪しました」
どんな誤解だよ? 訊くのが怖い。役場で顔を合わせた時は、引き離すしかないと思って何も教えなかったのだが。
「左京さんはどこへ行って来たのですか?」
龍子さんは微笑んでいるが、目が笑っていないのがわかった。やっぱり、晴美さんの車に乗っていたのを気づかれたようだ。ここは一つ、龍子さんが黙ってしまう展開をしてみよう。
「龍子さんがお休みになっていた時、村長から聞いた昔話が気になったので、散歩がてら、見て来たんですよ」
効果覿面だった。龍子さんはさっきまでの戦闘体制を解き、顔を赤らめた。
「そ、そうでしたか。お疲れ様でした。もうすぐお昼ですから、家に入りましょう。田辺さんはすぐにお帰りになるようですから」
そそくさと踵を返すと、早足で庭を戻って行った。それと入れ違うように晴美さんが玄関から出て来た。
「失礼します」
晴美さんはよそよそしい会釈をして、車に乗り込むと走り去ってしまった。何だ、一体?
(小野の事、村長にもう少し訊いてみるか)
俺は晴美さんのオフロード車を見送ってから、庭を進んだ。