左京、駐在に取り押さえられる 10月26日 午前10時
翌日になった。酔い潰れていた坂本龍子弁護士が、俺の部屋に来て土下座をしている。そこまで謝らなくてもいいと思うのだが、真面目な彼女は気が収まらないようだ。
「龍子さん、もういいですから、朝食をすませてください。お手伝いさんが困っていますから」
俺は龍子さんの肩を叩いた。
「はい、ごめんなさい」
龍子さんは涙で濡れた目で俺を見た。女の涙にはとことん弱い俺は直視できずに顔を背けて立ち上がり、
「俺はちょっと出かけて来ます」
そそくさと部屋を出た。あまり長く二人きりでいると、村長にあらぬ誤解を与えてしまうからだ。龍子さんは追いかけてくると思ったが、来なかった。ちょっとだけ寂しかったのは、絶対に内緒にしないと、樹里に申し訳が立たない。
居間に行くと、村長はすでに出勤した後で、お手伝いの女性に声をかけてから、村長の家を出た。昨夜のうちに村長から住所と簡単な地図を書いてもらい、まずは晴美さんの父親である田辺時頼の家へ向かった。村長の家からだと、徒歩で10分くらいの場所だ。山神村の住宅は基本的に離れており、隣の家まで何百メートルもある事が多い。時頼の家は村長の家から数えて五軒程なのだが、距離は1キロメートル以上あった。車は役場の駐車場に置いて来てしまったので、歩くしかない。日頃からの運動不足も祟って、俺は道半ばで疲れてしまった。情けないとは思ったが、仕方がない。
「暑いな」
もうすぐ11月だというのに、日差しが強い。しかも、群馬県で有数の豪雪地帯である山神村で、まだ残暑のような陽気だ。地球温暖化は信じていない方だが、やはりそうなのかも知れないと思った。水分補給をしたかったが、山神村にはコンビニエンスストアはなく、個人の商店も見当たらない。もちろん、自動販売機などという気の利いたものも存在しない。とことん利便性とかけ離れた場所だ。そのせいで更に疲労を感じた。それなのに道路の舗装率は高い。路地裏まで行き届いている。村役場は予算の配分を土木関係に注ぎ込んでいるのだろうか? 二十五年前、上村達が移住者として来ているのに、移住者を繋ぎ止めるためのインフラが整っていないように思える。
「お」
そんな事を考えながら歩いていたおかげで、俺はいつの間にか田辺時頼の家の前に来ていた。大規模な農家と聞いていたが、門扉も立派で、その奥に見える倉庫も母家かと思うくらい金がかかっている造りだ。開いたシャッターの向こうには、恐らく一千万円以上はすると思われる大型のトラクターが二台駐められており、更にその奥にはガレージがあり、高級国産車が三台駐まっている。セダン、SUV、ツーシーター。どれも俺の車の十倍くらいする代物だ。晴美さんのオフロード車はないので、役場に行っているのだろう。
「ちょっと、何をしているのかね?」
不意に後ろから声をかけられた。
「え?」
俺はビクッとして声の主を見た。そこには制服警官、要するに村の駐在らしき男性が白いスクーターにまたがっていた。年の頃は五十代後半。帽子から少しだけ見えている髪は白髪が混じっていた。俺を不審者と思っているのか、眼光は鋭い。
「いえ、自分は決して怪しい者ではなくてですね……」
怪しい者が言いそうな事を口にしてしまった。ますます駐在さんは訝しそうな顔になっていく。
「取り敢えず、話を聞きたいから、駐在所まで来てくれるかね」
駐在さんはスクーターを道路の端に寄せて降りると、俺に近づいて来た。完全にまずい状況だ。名刺を出しても、私立探偵だと思ってもらえそうにない。
「最近、空き巣の被害が急増しているんだよ。持ち物を見せてくれ」
駐在さんに詰め寄られ、俺は後退りしてしまった。
「見せられないような物を持っているのかね?」
駐在さんは右手でぐいと俺の左の二の腕を掴んで引き寄せようとした。そこまでされる覚えはないので、
「やめてください。私は不審者ではありません」
ついその手を振り払ってしまった。
「抵抗するか!?」
次の瞬間、俺は駐在さんに左腕を捻られ、地面に突っ伏した。
「いでで……」
痛みに顔を歪め、俺は路面から顔を上げようとした。
「大人しくしろ! それ以上抵抗するともっと痛い思いをするぞ!」
駐在さんは全体重を乗せて俺の抵抗を阻んだ。息が詰まりそうなくらい苦しい。
「抵抗しませんから、体重をかけるのをやめてください。息ができません」
俺はそれだけ言うのが精一杯なくらいダメージを受けていた。
「わかった。動くなよ」
駐在さんは立ち上がると俺を引き起こしてくれた。
「正直に話せ。何をしようとしていたんだ?」
駐在さんは俺の左腕を極めたままだ。
「ですから、田辺時頼さんのお宅に行こうと思って歩いていたんですよ。そしたら、いきなり貴方が……」
そこまで言うと、
「嘘を吐くな! 田辺さんの家にトラクターや高級車があるので、それを物色していたんだろう?」
駐在さんは俺の左腕を捻じ上げた。
「あいてて!」
俺は涙目になり、叫んだ。
「どうしたんですか、水崎さん?」
そこへ救いの女神になってくれそうな晴美さんが爆音を轟かせて、オフロード車で現れた。
「ああ、晴美ちゃん、近づかないで。今、空き巣犯の疑いがある男を尋問中だから」
水崎と呼ばれた駐在さんが言った。すると晴美さんは、
「水崎さん、その人は村長さんに呼ばれて山神神社の鳥居を倒した犯人の調査に来た私立探偵の杉下左京さんですよ」
晴美さんは水崎さんのスクーターの後ろにオフロード車を停めて降りて来た。
「ええ? 本当かね?」
水崎さんは目を見開いて晴美さんを見た後、また訝しそうに俺を見た。左腕は極められたままだ。
「本当です。ですから、腕を放してあげてください」
晴美さんは真顔で水崎さんに言ってくれた。
「村長からは何も聞いていないんだがね……」
水崎さんは不満そうな顔で俺を見ながら、極めていた左腕をやっと放してくれた。
「村長さんはバツが悪いから、水崎さんに言わなかったのだと思いますよ」
晴美さんは微笑んで言った。
「いくら長野原署が動いてくれないと言っても、私には伝えて欲しかったね。失礼したね、探偵さん。それじゃあ」
水崎さんもバツが悪いのか、そそくさと立ち去ろうとした。すると晴美さんが、
「ちょっと、水崎さん、いいですか」
俺から離れて水崎さんと何か話し始めた。
「いつつ……」
俺は捻じ上げられてまだ痛い左腕を摩りながら、二人が話しているのを見た。小声なので何を話しているのかわからなかったが。
しばらくすると、水崎さんはスクーターにまたがり、走り去ってしまった。
「災難でしたね、左京さん」
晴美さんがにこやかに言ったので、
「私はそんなに怪しく見えますかね?」
まだ痺れている左腕を摩った。
「仕方ないんですよ。見知らぬ人は皆怪しく見えてしまうのが、この村なんです」
晴美さんは走り去る水崎さんの後ろ姿を見た。
「なるほど」
俺も水崎さんを見た。
「それはそうと、私の家にご用があるんですか?」
晴美さんが尋ねてきた。俺はハッとした。二十五年前の話を晴美さんの前で田辺時頼に訊くのは忍びない。
「いえ、そういう訳ではないんです。たまたま通りかかって、大きなお屋敷だなと思って眺めていたら、水崎さんに不審者と思われたんですよ」
俺は咄嗟に嘘を吐いた。
「そうでしたか。私、忘れ物を取りに来たので、またすぐ役場へ行かなければならなかったので、それならよかったです」
晴美さんの言葉に、
「そうなんですか」
つい妻の樹里の口癖で応じてしまった。だが、今更用があるとは言えないので、小野芳夫の家に行こうと考え、
「じゃあ、また」
愛想笑いをして、歩き出した。
「どちらへ行かれるのですか?」
晴美さんが呼びかけてきたが、
「いえ、散歩です、散歩」
振り返ってまた嘘を吐いてしまった。
「そうですか」
晴美さんは少し不審に思ったかも知れないが、目的を知られたくはないので、それは仕方がないと思い、また前を向いて歩き出した。