平本幹次という男 10月25日 午後3時45分
龍子さんは俺の右腕に自分の左腕を絡ませて、
「あのサイコパスの事、気になりませんか?」
意図してなのか、胸を押し付けてきた。俺はやんわりと龍子さんを押し退けて、
「いや、別に」
役場へ入って行く。
「左京さん、さっきの女の人とどこへ行っていたんですか?」
龍子さんは口を尖らせて追いかけて来た。
「神社ですよ。その神社の鳥居を倒した犯人を見つけて欲しいと頼まれて、この村に来たんですから」
また腕を絡ませようとする龍子さんをかわして、俺は奥へと大股で歩いた。
「それ、変ですよ。村長がメールで依頼して来たのは、あのサイコパスの身辺調査ですから」
龍子さんの言葉に俺は立ち止まって振り返った。
「ホントですか?」
龍子さんを見下ろして尋ねる。龍子さんは腕組みをして、
「嘘を言ってどうするんですか? 本当ですよ。だから、私はお断わりしたんです。そんな危険人物の調査を左京さんにさせられませんから」
「それはどうも。でも、あの事件から二十年経っているんですよ? 奴はまだそんなに危ない存在なんですか?」
俺はまた前を向いて歩き始めた。一階のフロアには、平本の姿はなかった。
「それはわかりませんけど、村長は平本の事を隠して、左京さんにどうでもいい事件の調査と称して呼んだんですよ。危険ですから、断わって、私と一緒に帰りましょう」
龍子さんは俺の右手をぐいと掴んで引き止めようとした。
「俺はそんな事で怯んだりしません。仮にも警視庁の警部だったんですよ? サイコパスにビビって逃げたりしたら、末代までの恥になります」
全然そんな事は思っていないが、龍子さんと帰るのは困るので、男気を見せてみた。
「末代までの恥だっていいじゃないですか! 命の方が大事です!」
龍子さんは涙目で訴えてきた。ちょっと、目を潤ませるのはやめてくれないかな。心が揺らいでしまう。
「どうしたんですか、左京さん?」
そこへ救いの神になってくれそうな晴美さんが現れた。途端に龍子さんの顔が険しくなるのがわかった。何だろう?
「村長はお戻りですか? お話ししたいのですが?」
俺は一触即発な雰囲気を脱するために何か言おうとする龍子さんを遮って晴美さんに尋ねた。
「ああ、戻っていますよ。どうぞ」
晴美さんも龍子さんの殺気でも感じたのか、苦笑いをして先導してくれた。
「おおっと。部外者はここまででお願いします」
俺は尾いて来ようとする龍子さんを押し留めて、晴美さんを追いかけた。
「もう、意地悪!」
背後から龍子さんが叫んだが、無視した。
「ああ、その事ですか」
俺は村長室に入るなり、龍子さんから聞いた事を村長に言ってみた。すると村長は笑いながら、
「平本幹次が突然この村に移住して来たので、どういうつもりなのか気になったので、貴方に調べてもらおうと思って、代理人である坂本先生にお願いしたら、けんもほろろに断られたんです。それで、他を当たろうと思っていると、平本が役場で働かせてくれと言って来たんです。ですから、もうその件は要らなくなったので、貴方に違うお願いをしたまでですよ。深い意味はありません」
全く悪びれる事なく、言い訳した。俺もそれ程平本の事が気になった訳ではないので、
「それなら、こちらも何も異存はありません」
あっさり引き下がった。ところが、
「失礼します」
お茶を淹れてくれた晴美さんが退室すると、
「先生、よろしいですか?」
村長は俺にソファを勧めて自分も向かいに座ると、
「晴美ちゃんの前では、あまり平本の話をしたくないので」
「は?」
俺は村長が手を合わせて謝ったので、眉をひそめた。
「奴の事は、ここに来る前にいた東京都の市から連絡があって、どういう人物なのかは聞いてはいます。しかし、今でもどういう人間なのか、はっきりとはわかりません」
「と言いますと?」
俺は声を低くして尋ねた。村長は、
「平本がどんな事件を起こしたのかは、警視庁の刑事さんだった先生ならご存知ですよね?」
俺は「先生」を連発する村長に苦笑いをして、
「先生はやめてください。下の名前で呼んでください」
改めてお願いした。
「わかりました、先生」
村長は俺をからかっているのだろうか?
「もちろん、平本幹次の当時の犯行は捜査一課にいたので、一般人よりは詳しいつもりです」
俺は真顔で応じた。そして、その当時の事を思い出した。
二十年前、やっと捜査一課の刑事になれた俺は、気合が入りまくっているバカだった。大きな事件を解決し、名を上げようと躍起になっていた。そんな時、平本の事件が起こった。最初は小動物を残酷な方法で殺す事から始まり、やがて幼稚園児を襲い、怪我をさせ、遂には小学校低学年の男児を殺害するに至った。しかし、その当時まだ小学校四年だった平本は刑法で裁かれる事なく、治療という名目で専門の病院に入院させられた。そして、三年が経ち、平本は退院し、素性を知らない自治体へ移り住んで、何事もなかったかのように過ごしていた。それを打ち破ったのは、写真週刊誌だった。平本の目隠しの写真を出して、小学生の時起こした事件を書き立てたのだ。途端に平本はその自治体に住んでいられなくなり、もっと遠く離れた地へと移り住んだ。そこから平本の足取りはパッタリと途絶え、やがてメディアも奴の存在を忘れていった。それから十五年以上が経っている。奴はその間、何も事件を起こしてはいない。
「中学二年の時、平本は両親を交通事故で喪い、施設で長い時間を過ごしました。それはここへ移り住んだ時、前の自治体から申し送りとして伝えられた事です。表向きは忘れ去られていても、行政はずっと平本を監視しているような状態だったのです」
平本の素性を知っている施設としては、奴を里親に引き取ってもらうような考えは持てなかったのだろう。仮に持てたとしても、後でその事が里親に知れれば、大問題になる。
「平本は大学まで進みましたが、ずっと施設で過ごしていたそうです」
村長は俯いて続けた。
「優秀だったんですか?」
俺はふとそんな疑問をぶつけてみた。
「そうらしいです。大学は推薦入学で、施設長も平本の過去を知っているにも関わらず、信じられないくらい穏やかな性格で、真面目で勉強熱心な子だったと言っていたそうです」
村長は顔を上げて、
「しかし、就職となると話は違って来ました。どこの企業も、平本の素性を知ると彼を不採用にし、就職浪人になってしまいました。それでも、彼は腐る事なく、アルバイトをして食いつないでいたそうです」
平本はもう更生しているのではないだろうか? 俺も警視庁時代、奴を疑ってしばらくその動向を探っていた程だ。だが、それは間違っていたと思えて来た。
「それで、今、平本は役場で何をしているのですか?」
俺はそれが気になっていた。
「平本は今、村のごみ収集の仕事をしています。毎日朝早くから働いていますよ」
村長は微笑んで言った。
「このままずっと、平穏な生活が続けばいいと思っています」
村長は窓の外を見た。