田辺時頼、否認する 10月27日 午前11時
俺達が遅い朝飯というか早い昼飯を済ませた頃、田辺時頼が伊達刑事と富澤刑事に挟まれるようにして役場の休憩室に作られた捜査本部に入って行った。富澤刑事は、俺に気づくとまたドヤ顔になり、右手の親指を立ててみせた。
「田辺さんが犯人なんですかね?」
龍子さんが呟いた。俺は奥から見に来ていた晴美さんに気づいたので、
「滅多な事は言わない方がいいですよ」
龍子さんを嗜めて、物置にされている会議室へ向かった。晴美さんと目が合ったが、彼女は何も言わずに奥へ戻って行ってしまった。
「待ってくださいよ、左京さん」
龍子さんはそんな晴美さんを無視して俺を追いかけて来た。
「何か引っかかるんですよ」
俺はパイプ椅子に座って言った。
「引っかかるって何にですか?」
龍子さんはパイプ椅子には座らず、俺の前に仁王立ちした。
「小野さんが山神神社に行くのを知っていたのは、田辺時頼さんだけっていうのがね。田辺さんは真犯人に陥れられたんじゃないかと思えるんですよ」
俺は龍子さんを見上げた。龍子さんは腕組みをして、
「そうですね。あまりにもあからさまですよね。で、真犯人て誰なんですか?」
ぐっと顔を近づけて来た。
「龍子さん、口に海苔が付いてますよ」
俺はおにぎりを貪っていた龍子さんに告げた。
「やだ!」
龍子さんは慌てて会議室の壁にかけられている鏡を見た。
「ああ、こんなにはっきりわかる程大きいのが!」
龍子さんは涙ぐんでティッシュで海苔を拭った。
「あの人も気づいて笑っていたんでしょうね」
龍子さんは項垂れてパイプ椅子に腰を下ろした。
「晴美さんはそんな人じゃないですよ。どうして貴女は彼女をそんなに敵視するんですか?」
不思議に思ったので、訊いてみた。
「だから、言ったじゃないですか! あの人は、左京さんに邪な気持ちがあるんですよ!」
龍子さんはキッとして俺を睨みつけて来た。
「邪な気持ちがあるとしても、龍子さんが敵視する理由にはなりませんよ」
俺は龍子さんを真っ直ぐに見た。
「ああ、もう! 私が左京さんを好きだからに決まっているじゃないですか! 鈍感!」
龍子さんは涙を流して言った。
「え?」
そんなストレートに言ってくるとは思わなかったので、俺は慌ててしまった。
「でも、左京さんには樹里さんという綺麗で素敵な奥様がいらっしゃるから、我慢しているのに……」
龍子さんは声を上げて泣き出した。
「ちょっと、龍子さん、外に聞こえますよ……」
俺は立ち上がって龍子さんを宥めた。
「どうしたんですか?」
そこへ七釜戸さんが入って来た。龍子さんの声が聞こえたらしい。
「知らない!」
龍子さんは七釜戸さんを押し退けて会議室を出て行ってしまった。
「何があったんですか?」
七釜戸さんが俺を見た。俺は肩をすくめて、
「俺にもよくわかりません」
すると七釜戸さんは俺に近づいて、
「あの、確認なんですが、本当に先生は坂本先生とそういう関係ではないのですか?」
「だから何度も言っているでしょう? 彼女はあくまでビジネスパートナーですよ」
俺は近過ぎる七釜戸さんの顔から離れて言った。
「そうですか、そうですか」
何故か七釜戸さんは急に嬉しそうに頷いた。どういう事だ?
「では、私が坂本先生に交際を申し込んでも、構わないのですね?」
七釜戸さんの口から衝撃的な言葉が出た。
「構いませんよ。どうぞご自由に」
俺は苦笑いをして応じた。
「わかりました。ありがとうございます」
七釜戸さんはスキップをして会議室を出て行った。まあ、龍子さんは美人だから、普通の男だったら、好きになるよな。あれだけ迫られて、全然その気にならない俺がおかしいのだろうか? いや、俺には樹里という世界で一番可愛い妻がいる。おかしくはない。あれ? 七釜戸さん、晴美さんとは何でもないのか? 俺の早とちりだったのか。
それからしばらくして、また富澤刑事が頼んでもいないのにいろいろと教えに来てくれた。妙に懐かれているのは、前橋警察署の副署長時代に、彼の父親がそこにいたせいらしいが。
田辺時頼だけが小野芳夫が山神神社に行ったのを知っていたという情報は、実は水崎駐在経由なのだそうだ。小野がいなくなったと小野の家のお手伝いさんに連絡をもらった水崎駐在は、まず田辺に会いに行き、その事実を知った。そして、神社に探しに行って、小野が欅の木に吊るされているのを発見したという事だった。富澤刑事がドヤる理由はなかったのだ。富澤刑事と伊達刑事は、裏取りに行き、時頼から話を聞いただけなのだ。しかし、時頼はどうして小野が神社に行くと言っていたのかは知らないと言ったらしい。そこは妙だった。小野と時頼の仲なら、理由を知らないはずがない。もし、小野が話さなかったのだとしたら、時頼は不審に思ったはずだ。だが、そういう事でもないらしいのだ。結論として、時頼は小野が神社に行った理由を知っているはずだ。そして、時頼が吊るされていた木が、二十五年前に上村京子が首を吊っていた木だという事が、時頼が真相を隠す理由となっている気がする。捜査本部の人達は、村長からその事実を聞かされているという。だが、あまり重要視されていない。何故なら、犯人は時頼で、昔の事件は無関係だとされているからなのだ。事件は終わらない。そしてもちろん、小野殺しの犯人は時頼ではない。
「あ」
会議室を出ると、ちょうど捜査本部から時頼が伊達・富澤両刑事に連れられて出てくるところだった。時頼は俺に気づいたが、すぐに目を逸らし、刑事二人に挟まれて、玄関の方へ歩いて行った。手錠はかけられていないから、事情聴取が終わっただけなのだろう。状況証拠だけでは、逮捕はできない。時頼は小野殺害を否認したようだ。
「左京さん、さっきはごめんなさい。左京さんを困らせてしまって……」
龍子さんが奥から戻ってきた。七釜戸さんは告白したのだろうか、などと思ってしまう。
「いや、別に。俺の方こそ、無神経でした。すみません」
俺は頭を下げた。すると龍子さんは、
「何かよくわからないんですけど、役場の職員さんに告白されてしまって」
妙に嬉しそうに言ってきた。あれ? 何だかモヤモヤするな。どうしてだ? それにしても、七釜戸さん、フットワーク軽いな。
「私、困っちゃって……」
龍子さんは俺をチラチラ見ている。
「それで、どうしたんですか?」
ここは一つ、興味があるふりをした方が無難か。
「もちろん、お断りしました。好きな人がいるのでと言って」
龍子さんは意味ありげに俺を見た。まさか、名前は出さなかったよね? 七釜戸さん、撃沈したのか。お気の毒な。
「おや、またお会いしましたね」
そこへ平本幹次が現れた。途端に龍子さんが俺の背後に隠れた。
「長いご滞在なのですね、迷探偵さん。では失礼します」
平本は不適な笑みを浮かべ、奥へと歩き去った。
「やっぱり気味が悪いです、あの人」
龍子さんは俺の背中にしがみついてきた。奴は事件に関わっているのだろうか? つい、そんな事が頭を過った。
時頼はそのまま帰されたようだ。富澤刑事が報告に来てくれた。
「もちろん、奴には監視を付けますけどね」
付けるとは言っても、刑事は三人しかいない。恐らく、張り付くのは富澤刑事と伊達刑事だろう。
「早く片づけて、帰りたいですよ」
富澤刑事はポロッと本音をこぼすと、捜査本部へ戻って行った。
「本当にこれでいいんだろうか?」
俺は思わず声に出していた。
「え? どういう事ですか?」
聞きつけた龍子さんに言われた。
「あ、いや、何でもないです」
何の根拠もなく言ってしまった事だ。説明のしようがない。俺は尚も食い下がる龍子さんを振り切り、会議室に戻った。