知っていたのは一人? 10月27日 午前10時
役場に戻った俺は、村長が指示して用意してくれた軽めの朝食を食べた後、七釜戸さんにコンプレッサーを貸してもらい、役場の軽トラに積んで山神神社に戻る事にした。愛車のパンクを応急処置するためだ。
「私が牽引して駐車場まで持って来ますよ」
未だに軽蔑の眼差しのままの晴美さんが言ってくれたが、
「左京さん、急ぎましょう。左京さんの車は私が運転します」
龍子さんが晴美さんを無視して、俺を強引に役場の外に連れ出そうとした。どちらかというと、龍子さんが喧嘩腰だ。やめて欲しい。
「そうですか、わかりました」
晴美さんは能面のような顔になって、役場の奥へ行ってしまった。ああ……。話がこじれそうだ。
「龍子さん、俺の車はマニュアル車ですけど、大丈夫ですか?」
一応確認した。すると龍子さんが立ち止まって、
「え? そうなんですか?」
明らかに焦った表情で俺を見た。
「オートマ限定免許なら、ダメですよ」
俺は七釜戸さんを呼び止めて、軽トラに同乗してもらう事にした。
「すみません……」
龍子さんは涙ぐんだが、オートマ限定の人に俺の愛車を運転させる事はできないし、道交法違反だから、弁護士としてそこは引き下がるしかないのだ。
「じゃあ、そういう事で」
俺は七釜戸さんの運転する軽トラに乗り、山神神社を目指した。
「七釜戸さん、誤解されているようなので言っておきますが、坂本先生はビジネスパートナーで、愛人ではありませんから」
言い訳がましく聞こえるのを承知で、俺は七釜戸さんに言った。
「わかっていますよ。誰にも言いませんから」
しかし、七釜戸さんは更に誤解を深めたらしく、皆まで言うなの表情をした。言わなきゃよかったと思った。
しばらくして、軽トラは山神神社に到着した。長野原署の大型パトカーはまだあった。鑑識作業が難航しているのだろうか? あの山村キネという老婆が現場を踏み荒らしたせいで、犯人のものと思われるゲソ痕が消されてしまっているからだろうか?
「あ」
七釜戸さんが軽トラを俺の愛車の横に停め、俺と二人で荷台のコンプレッサーを下ろした。あまり大きなものではないので、難なく下ろせたのだが、
「お前達、まだ懲りぬのか!? 山神様の祟りに遭うぞ!」
キネ婆さんが突然現れ、コンプレッサーの上にひょいと飛び乗ってしまったのだ。
「お婆ちゃん、危ないから降りて」
七釜戸さんが微笑んで告げたが、
「やかましい! わしは誰の指図も受けぬ!」
キネ婆さんは頑として降りようとしない。全く、どういうつもりだろう?
「あ、婆さん、こんなとこにいたのか!」
そこへ水崎駐在が走って来た。
「こっちに来い、婆さん! 足跡を取らせてくれ」
水崎駐在がコンプレッサーの上を飛び回る婆さんを捕まえようとした。
「触るな、穢らわしい! お前のような奴にあれこれ言われとうない!」
キネ婆さんは年齢に似合わない俊敏さで水崎駐在の手をかわし続けた。
「すばしっこい婆さんだな」
水崎駐在は苛ついていた。
「水崎さん、もういいですよ。その婆さんのゲソ痕は判別できましたから」
鑑識係の一人が来て言った。
「そうですか?」
水崎駐在は息を切らせて鑑識係の人を見た。
「ざまあ見さらせ!」
キネ婆さんはあかんベーをしてから、ピョンとコンプレッサーから飛び降りると、驚くような速さで走り去ってしまった。
「クソババアめ」
水崎駐在は舌打ちをしてキネ婆さんの後ろ姿を睨んだ。
「予想通り、現場は婆さんの足跡で踏み荒らされて、犯人の足跡はわからなくなっていました。もう引き上げますので」
鑑識係の人は溜息混じりに告げると、現場に戻って行った。水崎駐在もそれに続いた。
「じゃあ、やってしまいましょうか」
俺は七釜戸さんに声をかけ、コンプレッサーでパンクした右の前輪に空気を入れる作業を始めた。
「よし、ここだ」
俺は穴の開いた箇所を見定めると、トランクから応急処置用の工具を取り出して、穴を塞いだ。
「こっちもできましたよ」
七釜戸さんが左の前輪の修理をしてくれた。
「ありがとうございます」
俺は空気が漏れていない事を確認すると、軽トラの荷台に七釜戸さんとコンプレッサーを載せた。七釜戸さんは軽トラに乗り、走り去った。俺は愛車に乗ると、エンジンをかけ、そろりそろりと発進した。またパンクしたら、目も当てられないからだ。
「ふう」
何とか、役場の駐車場に辿り着けた。こんなに疲れる運転をしたのは久しぶりだ。以前、同じ群馬の別の山奥に釣りに行った時以来だろう。あの時は別の理由で疲れたんだが。
「あ」
車を降りて、役場の正面玄関へ歩き始めた時、大型パトカーが戻って来た。その後から、水崎駐在がミラーを角度調整しながら、スクーターでやって来た。
「ああ、先生、コンプレッサーを下ろすのを手伝ってください」
俺がパトカーを見ていると、役場から出て来た七釜戸さんに言われた。この人も「先生攻撃」かよ、と思いながら、
「わかりました」
役場の裏手に回った。刑事課の人に訊いても、何も教えてくれないだろうから、待っていても仕方ないか。
「お?」
軽トラからコンプレッサーを下ろして、役場の中へ戻ると、三人の男性職員が会議テーブルをどこかへ運んでいた。
「何ですか?」
七釜戸さんに尋ねると、
「この村にはちょうどいい大きさの建物がないので、庁舎の休憩室を捜査本部にするのだそうです」
「ああ、なるほど」
すぐに合点がいった。もし、俺の想像通りだとすると、事件はこれで終わらない。田辺時頼の命が危ないのだ。だが、それに関しては何の確証もないので、何も言えない。七釜戸さんは同僚に呼ばれて、本部設営に駆り出された。
「どうも」
そこへ富澤刑事がやって来た。他の二人の私服刑事はそのまま休憩室に行ったようだ。
「何ですか?」
俺は愛想笑いをして尋ねた。富澤刑事は辺りを憚るようにして俺に近づくと、
「事件はすぐに解決しそうです。小野さんが神社に行く事を知っていたのは、一人だけなんですよ」
得意そうに言った。
「え? どういう事ですか?」
俺も周囲を気にして声を低くして訊いた。
「副署長がタイヤのパンクを修理している間に、俺と伊達さんで聞き込みしたんです。それで、小野さんが神社に行くのを知っていたのは、田辺時頼さんだけだとわかりました」
副署長じゃねえし、と思ったが、それより話の内容が気にかかる。
「随分とあっさりわかりましたね」
皮肉ではなくそう思った。すると富澤刑事は、
「小野さんと関わりがあるのは、そう何人もいないらしいんですよ。だから、それ程時間がかかりませんでした」
鼻の穴を膨らませた。そんなにドヤる事でもないだろうに。
「現場のゲソ痕の中に田辺時頼さんのものがあれば、決まりです。任意で事情聴取をして、吐かせれば解決ですよ」
富澤刑事は道草をしているのを先輩の伊達刑事に咎められ、慌てて走って行った。
(小野が神社に行くのを知っていたのは、田辺時頼だけか)
だが、それに拘ると、犯人を見誤る。直感でそう思った。
「左京さん!」
龍子さんが奥から走って来た。
「役場の人達、大騒ぎですよ。事件は上村京子さんの自殺以来らしいですから」
龍子さんの言葉に俺はハッとした。
「それ、誰が言ってたんですか?」
俺は龍子さんに詰め寄った。
「村長さんですけど?」
何故か龍子さんは顔を赤らめて言った。何だ、村長か。誰か他に上村京子の自殺を覚えている人がいたのかと思った。
「左京さん、顔が近いですよ」
龍子さんが目を潤ませて囁いた。
「え? あ、すみません」
俺は龍子さんの吐息がかかる程顔を近づけていたのだ。すぐに顔を離した。
「私は別に構いませんけど」
龍子さんが俯いて言った。
「不倫は犯罪ではありませんからね」
晴美さんがいつの間にか背後にいて、それだけ言うと歩き去った。
「誤解ですから!」
俺は晴美さんの背中に叫んだ。だが、晴美さんはそのまま振り返らずに行ってしまった。