小野の失踪 10月26日 午後4時
田辺家を後にして、俺は再び役場へ行った。
「あら、ドライブデートですか?」
駐車場から正面玄関に向かう途中で、晴美さんに会ってしまった。もしかして、家に帰るのか? 危ないところだったな。
「そうです」
俺を押し退けて、龍子さんがドヤ顔で言った。何て事言うんだよ!
「失礼します」
晴美さんはツンとして俺達とすれ違うと、オフロード車へと駆けて行った。
「いでで!」
龍子さんが俺の右の耳たぶを引っ張り、
「左京さん、まさかとは思いますが、あの人に気があるのですか?」
もう完全に正妻のような顔で食ってかかってきた。あんたにどうこう言われたくないとは思ったが、そんな事を言えば、十倍返しされるので、
「そんな訳ないでしょう」
苦笑いをして応じるだけに留めた。
「それならいいです。もしそうなら、樹里さんに報告しなければなりませんから」
龍子さんは真顔で理解不能な事を言った。あんたも同列だよと思った。そもそも、愛妻の樹里は、そんな事で怒ったりしないし、取り乱したりしない。それはそれで、何だか悲しい事でもあるのだが。
「ひっ!」
晴美さんは俺達の前で爆音を轟かせると、役場から走り去った。今のは絶対意図的だったよな。もしかして、本当に晴美さん、ヤキモチ妬いてるのか? まさかね。
「おお、仲がよろしい事で。デートでもして来たのですか?」
そこへ村長が七釜戸さんを伴って現れた。
「違いますよ。田辺さんに会って来たんです」
俺は真顔で言い返した。すると、村長の顔が強張った。七釜戸さんはキョトンとしている。
「まさか先生、私から話を聞いたと言ってないでしょうね?」
村長が気にかかったのはそこだった。とぼけているのか?
「誰の名前も出していませんよ。いずれにしても、何も話してくれませんでしたけどね」
俺は肩をすくめた。村長はニヤリとして、
「まあ、そうでしょうな。小野も時も、口は固いですから。下の方はゆるゆるですがね」
そこまで言ってしまってから、龍子さんが顔を赤らめているのに気づき、
「いや、これは失敬。女性の前でする話ではありませんでしたね。失礼」
村長はスタスタと玄関を出て行った。
「どちらへ行かれるのですか?」
七釜戸さんに尋ねた。七釜戸さんは村長を追いかけながら、
「吊り橋の視察です」
それだけ言うと、走って行った。とすると、晴美さんも吊り橋に行ったのだろうか?
「左京さん、行きましょう」
龍子さんに腕を引かれて、俺は役場の奥へと歩いて行った。
「おや、迷探偵さん、まだいらしたのですか?」
一階のフロアに着いた時、平本幹次が現れた。龍子さんは平本を見ると、慌てて俺の背後に隠れた。そこまで怖がる必要はないと思うが、まあ、素性を知っていれば、そうなるか。
「ええ、まだしばらくいるつもりです」
俺はにこやかに応じた。こいつは俺が苛つくのを楽しみにしているのだろうから、絶対にそんな素振りは見せない。
「それはそれは。美人の助手さんを連れて、何かお調べになったのですか?」
平本は龍子さんを舐め回すように見てから、また俺を見てニヤリとした。とことん嫌な性格の男だな。
「ノーコメントです」
俺はフッと笑って、龍子さんにしがみつかれたまま、フロアを抜けて会議室へ向かった。平本は何も言わずに玄関の方へ歩いて行った。
「怖過ぎです、あの男。何かしでかすような気がします」
龍子さんは俺の背中に抱きついて来た。流石にやり過ぎだと思ったので彼女を払い除けて、
「それは偏見ですよ。弁護士さんがそんな考えなのは良くないのでは?」
真顔で嗜めた。龍子さんは涙ぐんで、
「ごめんなさい」
頭を下げた。涙を見せられると動揺してしまう俺は、
「まあ、わかればいいんですよ」
軽く龍子さんの背中を叩き、会議室のドアを開いた。
結局、村長も七釜戸さんも晴美さんも帰って来ないので、俺は村長の家に戻ろうと思い、会議室を出た。
「待ってください、左京さん」
ひっつき虫のように龍子さんがついて来る。煩わしかったが、あまり邪険にするのも可哀想なので、そのままにした。
「あれ?」
駐車場の愛車の様子がおかしい。よく見ると、右の前輪がパンクしていた。
「参ったな」
念のため、助手席側に回り込むと、左の前輪もパンクしていた。
「何て事だ」
俺は項垂れてしまった。山神村には自動車修理工場はないと聞いている。隣の嬬恋村から来てもらいたいところだが、そんな余裕も予算もない。
「あの男の仕業でしょうか?」
龍子さんが言った。俺は違うと言いたかったが、ショックのせいで言えなかった。もしかするとと思ってしまったのだ。
「仕方がないから、歩いて帰りましょう」
俺は溜息混じりに言った。
「そうですね」
龍子さんは何故か嬉しそうだ。理由は聞きたくない。役場から村長の家までは、歩けない距離ではないが、一時間はかかりそうだ。その間中、龍子さんと一緒なのはきつい。
「おやおや、どうしたのかね、探偵さん?」
そこへ水崎駐在がスクーターで現れた。午前中と違い、ニコニコしている。
「車のタイヤがパンクしまして。村長の家まで歩いて帰るところです」
俺は苦笑いをして言った。
「それは災難だね。ここのところ、何件か車やバイクのパンクがあってね。何者かが連続しておこなっているらしんだよ。運が悪かったね。犯人は多分捕まらないと思うよ」
水崎駐在はヘラヘラ笑いながら告げた。何だ、この人は?
「見つけるつもりがないんですか、貴方は?」
俺以上に感情が昂っている龍子さんが水崎さんに詰め寄った。
「駐在は捜査はしないからね。長野原署は人手不足で、こんな山奥には来てくれんのよ」
鼻息荒い龍子さんに対して、水崎さんはヘラヘラしている。俺を取り押さえた時と別人のようだ。
「そうですか!」
龍子さんは掴みかからんばかりだったが、俺が首を横に振ったのを見て、引き下がってくれた。
「まあ、そういう事なんで」
水崎さんはスクーターのエンジンを止めて、一緒に歩き出した。
「お」
しばらく進むと、前から小野が歩いて来た。
「よう、芳夫さん、どこへ行くんかね?」
水崎さんが陽気に声をかけた。しかし小野は聞こえていなかったかのように俺達とすれ違った。
「何ですか、あの人は?」
龍子さんがまた感情を昂らせた。
「あの人はいつもあんな感じさ。気にしたら、キリがないよ」
水崎さんは龍子さんを宥めた。あんたはもう少し気にしろと思った。
「あら、先程はどうも」
通り過ぎかけた家の中から、タケガミ先生とヨウコさんが出て来た。往診に来たのだろうか?
「左京さん、この人、どなたですか?」
若い女性を見ると、エマージェンシーを発動してしまう龍子さんが訊いてきた。
「村で唯一の武上医院の院長と看護師長だよ」
訊いてもいないのに、水崎さんが教えてくれた。
「先程は失礼しました。武上です」
タケガミ先生は名刺を差し出した。俺も慌てて、
「私立探偵の杉下左京です」
名刺を差し出した。そこへようやく武上先生の字がわかった。武上慎太郎か。
「白巻陽子です」
陽子さんも名刺をくれた。
「弁護士の坂本龍子です」
龍子さんまで名刺交換を始めてしまった。
「次の患者が待っていますので、失礼します」
武上先生と陽子さんは反対方向へ歩いて行った。
「左京さん!」
俺が陽子さんに見惚れていると思ったのか、龍子さんが怒鳴った。
「さて、行きましょうか」
怪訝そうな顔で俺を見ている水崎さんに愛想笑いをして、俺は歩き出した。
顔が広い水崎さんと一緒だったせいか、村の人達が声をかけてくれる事が多く、気が紛れたので、村長の家までの所要時間があまり長く感じられなかった。
「付き合わせてしまったようで、すみませんでした」
俺は一応水崎さんに礼を言った。頼んだ訳でもないのに勝手について来たとも言えるが。
「いやいや、楽しかったよ、探偵さん、弁護士先生。じゃ、これで」
水崎さんはスクーターのエンジンをかけて、走り去った。
「あれ、先生、どうしたんですか? 車は?」
そこへ村長が玄関から現れた。吊り橋の視察からそのまま家に帰ったらしい。全く、身勝手な人だ。
「実はですね……」
面倒だったが、説明した。
「そりゃあ、災難でしたな。まあ、諦めてください。犯人は見つかりませんから」
村長はニコニコして言った。苛つく人が多いな、この村は。龍子さんも村長を睨みつけていた。
それからしばらくして日が落ちた頃、水崎さんがやって来た。先程とは違って、深刻な顔をしていた。
「どうした、水さん? 何かあったのか?」
村長が尋ねた。水崎さんは俺と龍子さんを見てから村長を見て、
「芳夫さんがいなくなったらしい。お手伝いの女性から連絡があった。あちこち連絡してみたが、誰も芳夫さんを見ていないんだ。私らは夕方、芳夫さんが一人で歩いて行くのを見かけたが、どこへ行ったのかはわからない」
あの時からだと、時間が経っている。いい大人が数時間いなくなったくらいで駐在が騒ぐのもどうかと思ったが、小野がどういう人間なのか知っているので、不安がよぎった。そして、その不安は的中してしまうのだ。