二〇一四年 七月三十一日 吉野倫玖
やっと恋愛っぽくなってきた気もします。
二〇一四年 七月三十一日 木曜日
麻那美は、倫玖に会うなり、DVDの礼を言ってくれた。麻那美からDVDの感想を聞くのも、何だか楽しかった。こういう話を、確かに、倫玖は、女の子とキチンとした事が無かった事に思い至った。あれ見た?と言えば、相手が大体其れを知っていて、見た、と言ってくれて、他愛も無い話題として、其れ等を消費していた。
其れが、今日は、何かが違った。倫玖がDVDを貸し出し、其れを麻那美が視聴した事により、共通の話題が出来たのだ。映画の中の台詞を何か一つ言うだけで、麻那美は笑ってくれた。倫玖が言っている事を、麻那美が、何の事だか分かってくれるのだ。一方通行の話題でもなければ、会話の繋ぎとして消費される話題でもない、御互いに一歩ずつ歩み寄った末の遣り取りだと倫玖は思えた。自分の話、親にも姉にも聞いてもらえない自分の話を聞いてもらえる。自分の中身、自分が何を楽しいと思うかという、自分の中身に触れてもらえる。
そうか、と倫玖は思った。此れが、相手との関係を育てる、という事なのかもしれない、と。
―こうして、二人だけの関係を育てていったら、相手は自分にとって、特別な人間になって、そうなったら、もしかしたら、相手の容姿も何も気にならなくなって。自分だけの特別な。
いけない、と倫玖は思った。
―此の、目の前の人間の、色々な表情を引き出したいと思ってはいけない。もっと喜ばせたいとか、もっと笑う顔を見たいと思ってはいけない。
共通の話題を作って、交際を引き延ばして、苗の神教について、何かを聞き出さなくてはならないのだ。そんな部分に目を奪われているようでは成り立たない。其れに、どれだけ倫玖が相手との関係を育てたと思っていたとしても、相手にとっては自分が、そうでは無い可能性は有る。
―容姿が気にならない?自分だけの特別な?
アルマーニと自分が似ていなかったら、如何だったのか。今の関係は無いのではないか、と思うと、倫玖は、如何しても其れ以上考えられなくなって、何時ものように思考を止めた。
―嫌だな。
倫玖は、麻那美と一緒に居ると、時々、上手く話せなかったり、頭が回らなくなったりするのだ。頭が悪くなるような気がする。今調べたら知能とか偏差値とか下がってたりして、と思ってしまうくらい、自分の気持ちや状態が分からなくなるのだ。
「グレージュって何でしょう」
フードコートから見える、ブランド品買い取り店のポップを見ながら、麻那美が、ポツリと呟いた。
「ああ、人気色だよね」
エルメスのバーキン等にもある色である。倫玖の座っている位置からは、グレージュという文字以外見えないが、察するに、とあるブランドの鞄のグレージュだけは他の色より高額で買い取る、というような事なのだろう。
「え?色の名前なのですか?」
「グレージュ?ああ、グレージュは、グレーとベージュの中間の色の事だよ」
「…詳しくていらっしゃるのですね」
麻那美の、黒曜石のような瞳が大きく見開かれ、ストレートな尊敬の念と、素直な称賛の言葉が自分に向けられる。此れまで会話を重ねてきて、倫玖は最近、麻那美がファッションに興味を持っている事が分かってきた。
「え?ううん。詳しくないよ。分からない時に調べて、覚えるだけ。分かると、面白いでしょ?」
「ええ、そうですね、面白いです」
麻那美は、柔らかに微笑んだ。実は、似合わない表情だと倫玖は思っている。此の、ツン、と整った顔に似合うのは、もっと違う表情だと感じる。ただ、其れが、どんな表情なのかは分からない。其れでも、何か、自分と居て、穏やかな表情をしている麻那美を見ると、何度でも、胸の辺りに浮遊感を覚えるのだ。イブキの言う、大事にするという事が、如何いう事なのかは未だに分からないが。
倫玖は、甘い気分を振り払うように、言葉を発した。
「ねぇ、麻那美ちゃん、何色が好き?グレージュ好きなの?」
「え?私の好きな色ですか?…実は、どの色も好きなのです。強いて言えば、以前は黄色が苦手でしたが、その…色にはトーンが有るそうなので、レモンイエローですとか、青みがかった色なら好きだという事が分かったのです」
「へぇ」
如何やら本当にファッションに興味が有るらしい、と倫玖は思った。
「気が合うね。俺も、好きな色も嫌いな色も無い」
「そうですか。…今日は、如何してそんな事、御聞きになるのですか?」
「いや、君の事、よく知らないな、と思ったから」
苗の神教の事より聞きやすいし、と思って言った言葉だったが、口に出してみると意外と恥ずかしかったので、倫玖は軽く咳払いした。しかし、麻那美は、何か感銘を受けた様な顔をして、そうですね、と言った。
「吉野さんは、唐揚げが御好きなのですか?」
―あ、そういう風に見えるのか。
麻那美に、何時もフードコートで唐揚げばかり食べる人間だと思われている可能性を知り、倫玖は、思わず、クスッと笑った。
「いや、実は唐揚げは普通。肉が好き。肉なら何でも好き」
火を恐れる習性の有る姉、美紅が、食品に中まで火を通す忍耐力に欠ける為、美紅の揚げる唐揚げは、時々、中まで火が通ってない事が有る。だから、弁当などに唐揚げが入っている時は、美紅作か如何か思い出そうとして、一瞬構えてしまうのだ。だが、此のフードコートでは肉の選択肢が少ないから、肉を食べたい時は、大体唐揚げを選んでしまう。オマケに、此のフードコートは、ポテトと唐揚げを同じ油で揚げているような味がして、ポテトがあまり旨くない。だから、揚げ物を食べたい時も、大体消去法で唐揚げの方を頼む。結果、唐揚げ購入の機会が増える、という次第である。因みに、此のフードコートの唐揚げの味は無難である。冷凍食品をフライヤーで揚げただけなのであろうが、火が通っていれば美紅の唐揚げより良いと倫玖は思っている。
「麻那美ちゃんは揚げ物苦手?」
麻那美が、食欲が無いと言って、殆どサラダばかり食べているのを倫玖は知っている。此のフードコートでは、あとはドーナツと麺類と丼物程度しかメニューの選択肢が無いので、そういうものかもしれないが、麻那美が揚げ物を食べている所を見た記憶が無いのだ。麻那美は、少し頬を染めて俯いて、言った。
「その…疲れると、つい野菜スティックで食事を済ませてしまう事が有って。でも、ええ、そうかもしれません。得意ではないと思います、揚げ物は。肉も、其れ程。魚の方が、未だしも得意ですね。上司にも毎食掌一つ分くらいは蛋白質を摂る様に言われているのですが」
「凄く具体的なアドバイスじゃない?其の上司の人」
倫玖が、驚いて、そう言うと、麻那美は、益々(ますます)頬を染めた。
「その…私、未成年ですから、東京の保護者のような役をしてくださっていて。健康上の心配もしてくださるのです。一人だと、私…以前は、食事を忘れてしまう事が有って。ですから、以前好きだった食べ物、というのも、パッとは思い出せないのですけれど、御野菜は最近、美味しいと思えて」
「え?」
麻那美の発言に不穏なものを感じて、倫玖は更に驚いた。相手の言葉に、何か、摂食に関する困難さが含まれている様に感じたのである。相手の、此の華奢さと青白さが意味するところのものを、倫玖は何となく察した。
「其れは、その…今は、大丈夫なの?」
倫玖の言葉に、麻那美は、大丈夫です、と言って、俯いたまま微笑んだ。
「心配してくださる方のアドバイスは裏切れませんもの。仕事に差し支えるようでは困りますから。必要なら、時折、鉄剤も処方して頂いておりますよ」
「…唐揚げ、あげる」
倫玖が、思わず、唐揚げを一つ差し出すと、相手は、まぁ、と言って、珍しくクスクス笑った。倫玖は、何だか焦った。
「いや、肉食べよう、肉。掌一つ分でしょ、此れ」
麻那美は、微笑んだ儘、食べかけのサラダの入ったカップを、倫玖の方に差し出した。倫玖は、サラダの上に唐揚げを載せた。
「頂きます。…考えてみれば、母に似たのでしょうね。体型も顔も似ているのです。母も、珍しい野菜を有難がって食べていました。こうして嗜好も似ていくのでしょうね」
「…俺、未だ野菜に目が行かないな。家族は、矢鱈野菜食べるけど。両親にも、そんなに似てないし、如何だろう」
サラダと唐揚げを食べながら、麻那美は、倫玖の顔を見てきた。倫玖は、何となく自嘲気味に続けた。
「…ほら俺、じいちゃんみたいに絵が上手いわけでも無いし、遺伝って言っても、何か」
麻那美は、咀嚼したものを飲み込んでから、丁寧に口を拭って、意外そうに言った。
「顔や技能が丸ごと遺伝する筈もありませんもの。そういう事を御気になさるのですね」
「気になる…訳ではないけど」
「絵が上手いか如何かより、絵が好きか如何か、という方が重要だと思います」
奇しくも、生前祖父に言われた事が有る言葉が麻那美の口から出たので、倫玖は、驚いた。麻那美は続ける。
「絵は、其れ程御好きではないのでしょう?」
「うん、そう言ったね、前。興味が無いって」
「興味が無い事が得手でなくても、気になさる必要は無いと思いますよ。絵の方も、其れ程好かれてもいないのに、描く技能を与えようとは思わないのではないでしょうか」
「絵の方が?」
絵、というものを擬人化した発言をされた事が無かったので、倫玖は目を剥いたが、麻那美は、そうです、と言って続けた。
「ですから、興味が無いのであれば、気になさる必要は無いと思いますよ。絵を好きである必要も有りません。御祖父様は八十歳近くになるまで絵を愛して、描き続けて亡くなった方なのですもの。抑同じだと思わない方が良いのです。相手に比べたら、私達は最近生まれた様なものなのですから、御祖父様の八十年と比較して、御自分を卑下なさる必要も御座いませんわ。其の事に費やした時間の長さが既に違うのです、物理的に」
「…ああ、そんな風に考えた事、無かったなぁ」
「きっと、血縁ですと、色々な事に対する目が曇ってしまうのでしょうね。何時ものように合理的に御考えのようではないですもの」
「…俺、合理的?初めて言われてけど」
「合理的というのが宜しく無ければ、一日の時間の使い方が上手くていらっしゃるのだと思っております。部活はなさっていないそうですが、勉強をして、バイトをして、と伺うと、よく両立なさっているものだと思いますわ。感心します。絵にまで関心を持たれる必要は無いのでは?一日は二十四時間なのですもの」
「…其れ、個性?絵に興味を持つより、俺の?」
「…そうですね。性格、特徴、個性と称されるものでしょうね」
麻那美は、倫玖の言葉に眼を瞬かせながらも、ハッキリと、そう言った。
「アンパンマンとか、好き?」
言ってしまってから、しまった、藪から棒だった、と、また倫玖は思ったが、麻那美は、咄嗟の事で驚いた様子ではあるものの、素直に、よく知らなくて、と言った。
「でも、可愛らしいですよね。小さい子は皆好きなのだと聞いた事が有ります」
「なかなか深いよ。見ても面白いかも」
「貸していただいたDVDも興味深かった事ですし、吉野さんが、そう思われているのなら、そうなのでしょうね」
麻那美が、実に素直に、そう言ったので、思わず、倫玖は、考察を口にしそうになったが、堪えて、言った。
「見た事が無い相手に先入観を与えるのは本意じゃないから、感想は言わないけど。…世の中って、面白いものが沢山有るなって、俺は思う。何だってね、調べたら面白いし、分からない度に調べて覚えたら、物知りみたいに見えるよ。単なる子供番組でもね」
「一日は二十四時間なのに、勉強なさりながら、そういう事を調べるのに時間を割いていらっしゃるというのも、興味深い御話ですね。参考になります。…きっと、その、一般と少し異なる着眼点を御持ちなのでしょうね。貴方の角度から見たら、単なる子供番組では無いのでしょう。そういう目線を持つ事が出来れば、きっと、何でも面白いというのは本当なのでしょうね。成程、其れが個性、という事でしょうか?」
「そうかも。個性ね」
倫玖は、麻那美の言葉を聞きながら、イブキの忠告がグルグルと頭の中を回るのを感じていた。
『そういう点じゃ…今の彼女は、良いと思うけど。頭も良いし。あんたが突飛な事言っても、一応は聞いてくれると思うわよ?あの裏垢みたいな内容の話でも』
『ハニートラップなんて、裏のある関係じゃなくて、何かが凄く上手く噛み合ったら、良い関係になれると思うのに』
いや、駄目だって、と倫玖は思った。誰にも聞いてもらえない話を、麻那美にだけして如何するのだ。誰にも言わなかった話を、麻那美に聞いてもらって、如何する。キチンと付き合った子とすらしていない話を話せる関係になって、如何するというのだ。
―其れより、苗の神教の事を聞かないと。
しかし、麻那美は、中座します、と言って、食べ終えた物をサッサと片付けに行ってしまった。今日も言い出せなかった、と倫玖は思った。土台無理な話なのだ、話の流れで聞き出そう、などという事は。自然に話せるような内容では無いのだ。だから、無理矢理でも、思い切って聞かないと、と思うのに、やはり、如何切り出して良いか分からない。
戻ってきた麻那美が勉強を始めたので、倫玖もボディバッグから英単語の小さな学習本を出して復習する事にした。麻那美と一緒に居て、唯一、素直に良いなと思えるのは、沈黙の時間が有っても御互い平気な事である。好かれようとして上手い事を言おうとしなくても良いし、黙っていても気不味くない。麻那美も、そういう時に、倫玖に何も期待していない様に見えて、楽なのだ。倫玖は今まで、家族以外で、そういう人間に出会った事が無かった。其れに思い至った今日、倫玖は、自分が、無意識に、相手に期待されている事を察して動いて、場を収めようとする癖がある事を知った。麻那美との沈黙の時間によって、其れを知った事が、倫玖を複雑な気持ちにさせた。
何時ものようにマンションの前まで送って行くと、ねぇ、と倫玖は言った。
「今日はさ、蛋白質…摂ったよね」
一歩踏み込んで、ちゃんと食べなよ、とは差し出がましい気がして言えず、何だか妙な言い方をしてしまった、と倫玖は思った。相手に、どのくらい踏み込んで良いのか、今、麻那美と如何いう関係なのか、倫玖には分からないのだ。姉達や歴代彼女と培ってきた、女の子との自然な距離感、というものを、全く思い出せない。
しかし、麻那美は微笑んで、有難うございます、と言った。
「誰かと一緒なら、食事を忘れたりしませんもの。良いものですね、一人では無い食事というのは。助かっておりますわ。御休みなさい」
麻那美が立ち去った後、倫玖は、思わず、マンションの前で、両手で顔を覆って屈み込んでしまった。顔が熱い。
―何今の、狡くない?
少なくとも、一緒に居ると食事が食べられる、有難う、と、女の子に言われた事は無かった。何だよ、と倫玖は思った。
―何で、そういう事言うの?
倫玖は、暫く、そうしていた後、悔しくなって、真っ直ぐにK駅に向かった。
『吉野@link1010tom 七月三十一日 夕方、DVD返してもらう時「グリフィンドール!」って言ったら笑ってもらえた 水森@shin_mizumori0516さんがコメント 七月三十一日 あれ?吉野、彼女出来た?』
『吉野@link1010tom 八月一日 熱中症患者全国で多発とか怖いわ』
『まなみ@n0a8no7ka 八月一日 台風は逸れたようだけど、鹿児島は雨が酷いらしい。最近、九州に何かある度に家に電話してしまう』
『さおりん@0807snkt 八月一日 暑くて体が重いくらい。予報通り、雷ゴロゴロ、雨パラパラ』
『吉野@link1010tom 八月二日 夕方から出掛けるのに、最高気温35℃とか…水森@shin_mizumori0516さんがコメント 八月二日 あれ?暑い日にわざわざ出掛けるって珍しいな。デートか?』
『まなみ@n0a8no7ka 八月三日 一週間、晴れで35℃の予報。厳しい。高知県も、台風の影響か、凄い雨らしい』
『まなみ@n0a8no7ka 八月四日 朝起きたら既に32℃。台風十一号が来そう。西は大雨、東は猛暑』
『まなみ@n0a8no7ka 八月五日 今日は37℃。怖いくらいの気温』
『吉野@link1010tom 八月五日 ルンバの写真集が出たってマジで?』
2014年にルンバの写真集出てたなぁ!と、懐かしくなりました。