二〇一四年 七月二十六日 吉野倫玖
『清掃員』登場です。
二〇一四年 七月二十六日 土曜日
「ハイ、トーマス」
麻那美にDVDを貸し、マンションの前まで送り届け、K駅の改札に向かう途中、倫玖は、珍しい楕円形の歩道橋の上で、見知らぬ、長身の黒いスーツ姿の男に声を掛けられた。ネクタイまで黒い。浅黒い肌に、星の瞬く夜空を集めた様な、潤んだ黒い瞳と、同じ色の毛。此れまた、一度見たら忘れられないような素晴らしい容姿をしている人物だが、ハッキリした顔立ちと、長い睫毛に厚めの唇のせいか、かなり中性的に見えた。
「探したわよ。見事に餌に食い付いてくれたじゃない」
「ト、トーマス?えーと…?」
―…男?女?日本人?ハーフ?
声と体格は男性かもしれないのだが、顔が整い過ぎていて、倫玖には国籍と性別が判断出来ない。特に、国籍は全く分からない。日本語の上手い外国籍の人間なのか、単に日焼けした、南方系の容姿をした日本人なのか、セクシーな、唇に特徴の有る異世界の住人なのか、本当に、全く分からない、不思議な人物である。ただ、今まで自分が出会った人間のサンプルの中には無い、というだけで、決して不快感は無いのが、更に不思議である。
最近、黒いスーツに全く良い印象が無い倫玖だったが、少なくとも知り合いには居ない顔に、トーマスと呼ばれる、此の状況が全く理解出来ず、眼を瞬かせてしまった。
「さっきまで、其処の連絡通路で観察させてもらったわ。ちょっと話せない?」
「へっ?」
相手の言葉は、以前自分が麻那美を観察していた場所を示唆していた。倫玖は、ブワッと冷や汗が出そうになるのを感じながら、相手の顔を見詰めた。相手は、クスッと妖艶に笑いながら、首を傾げた。
「察し悪くない?『清掃員』って言ったら分かる?イーストヒーローアンドヒズフレンズ。『THOMAS』でしょ?あんた」
「あっ、えっ?『清掃員』って、Twitterの?」
俺の察しが悪いって話なの?此れ、と思いながら、倫玖は、目を白黒させた。
「場所替えましょうよ。排気ガスの上で御喋りする趣味は無いの。夕飯ぐらい奢るわよ、吉野倫玖君」
実名を知られている、という恐怖で、倫玖は、一瞬目の前が暗くなった。
建物の谷間に夕暮れが迫る光景は、悪くないものだと思いながら、倫玖は、近くの中央図書館の四階のテラスに『清掃員』と二人きりで出て、夕景には背を向けて、ベンチに腰掛けた。『清掃員』は、ブツブツ言いながらも、倫玖の隣に座り、テラスに咲く、白い小さな花に、愛おし気に触れた。
「奢ってあげるって言ったのに、何で図書館のテラスなのよぉ。此の暑いのにスーツの人間の身にもなりなさいよね?まぁ、そろそろ気温や紫外線気にするような時間帯じゃないし、良いけど。…ふーん、ジャスミンの花が咲いて、綺麗なテラスじゃない。良い宵になりそうね」
ああ、此れはジャスミンの花なのか、などと思いながら、倫玖は、相手の、長い人差し指の先を見た。浅黒い肌に、可憐な白い花が違和感なく映えている。結局性別が分からない。七対三で、多分男、というくらいの雰囲気である。年の頃は、アルマーニと其れ程変わらないようにも見えるが、振舞いは、ほぼ成人女性の其れだった。年齢も不詳だ。まぁ、気にする所は、其処じゃないか、と思いながら、倫玖は口を開いた。
「…いや、人目が有るような無いような場所だし、此処なら、図書館だけど飲食も電話も出来るし、良いでしょ。流石に二人きりは怖いから。四階のテラスなら排気ガスもマシだし」
「へぇ、一応考えたのね」
『清掃員』は、少し感心した様な顔をして、大きな瞳を倫玖に向けた。意外に素直に称賛を向けてくれるので、倫玖は『清掃員』の、其の様子に、外見とのギャップを感じた。そして、何と無く、其の外見とのギャップが有る態度には覚えが有るような気がしたが、倫玖は思い出せなかった。
「えーと、その。何で此処に?そりゃ、俺も、聞きたい事は有るけど」
「まあ、あのアカウント自体が餌だったのよ。結構攻撃されていたでしょう?如何いう攻撃してくるかで、色々分かる事が有るから。上手い事、内容だけじゃ、あたしに辿り着けない様にしてあるしね。其れに少しは、苗の神教がヤバいんだって啓発になれば、ってね。一応、全世界発進でしょう?SNSは。あんたみたいに、接触を図ろうとして来る人間を誘き寄せる事も出来るしね。で、態々(わざわざ)DMくれて、苗の神教の事を聞きたいって人間が、どんな奴かと思ったの。で、分かる奴には分かるくらいの情報を餌として渡して、渋谷とか練馬で張って、あんたを突き止めたってわけ。御見事。あれだけの情報で、賢いじゃないの。調査能力としては今、結構好い線行っているわよ」
「か、賢いって言われても、何て言ったら良いか…。俺の名前まで、如何して…」
「まぁね、人間ってもんを何年もやっていると、時々、そういう事が出来る事もあるわけよ。生きていたら色んな事が有るでしょ?気にしないの」
『清掃員』は、そう言って、クスッと、再び妖艶に笑った。厚めの唇がニヤリと歪む。
「いや、個人情報知られたら、入手方法が気になるでしょ普通。俺のストーカー?」
倫玖が弱々しく抗議すると、相手から、あんたが言うぅ?と言い返されたので、倫玖は黙った。其れを言われると何も言い返せない。『清掃員』は、黒いスーツに包まれた、長い脚を組んだ。凛としていて姿勢良く、まるで映画のワンシーンの様だと倫玖は思った。そんなの気にしないで良い事よ、と『清掃員』は言った。
「誘拐に比べたら気にするような話じゃないでしょ?生きていたら色々有るけど、あたしも流石に誘拐されかけた事は無いわよ」
「え、俺が誘拐されそうになった事まで?…一体何者?」
倫玖は、鳥肌が立った。『清掃員』は、あら?と言った。
「…ふーん。察するに、自分が誘拐されそうになった理由が知りたい、みたいな事?」
「え…?何で、其処まで?」
「此れ以上はフェアじゃないわね、少しは此方も情報を与えましょう。あたしも名乗るわよ」
『清掃員』は、そう言うと、イブキよ、と言った。
「…えっと。女の人…?男の人?」
「ま、何とでも思ったら良いわ。あたしの名前はイブキ。本名よ。イーヴって呼ぶ?イヴでもいいわ。どっちも愛称なの。連れはイブって呼ぶわ」
益々性別が分からない名前だな、と思いながら、倫玖は、はぁ、と言った。
「…じゃ、まぁ、何か、年上かもだし、一応敬意を表して、イブキさん。『苗の神教撲滅』って、如何いう事スか?」
「言葉通りの意味よ。其れが、あたしの目的」
「…イブキさんは、苗の神教の人間じゃないの?」
「んー、其の言い方、ちょっと難しいのよねぇ。そんな人間『居ない』わよ」
「はぁ?居ない?苗の神教の人間が?居ないものを撲滅って?え?」
倫玖は頭が混乱して来た。しかし、イブキは、倫玖の混乱には御構い無しに続けた。
「ま、良いでしょ。そうねぇ。あんたが知っていて得するような情報って、無いのよ、実は。悪いけど。苗の神教なんてものには関わらないで暮らせるなら、其の方が良いのよ。今日は、其れを言いにきただけ。怖い目に遭った事は忘れて、可愛い女の子とデートでもしていた方が幸せよ」
「え…」
「何?彼女じゃないの?先刻の、あの子」
「まぁ…その。理由が有って」
「理由…?やだ、まさか、そうなの?あんた、もしかして、苗の神教の事知りたくて近付いたの?あの子に」
「…まぁ。え、あの子の事も調べたの?やっぱり、あの子、苗の神教関係者?」
倫玖が驚きの声を上げると。イブキは吹き出した。
「ぶっ、くくく。あはは、嫌だぁ。女の子と付き合って色々聞き出そうってわけ?何?一丁前にハニートラップでも仕掛けるつもり?ちょっと、如何いう心算よぉ」
「いや、笑わないで。こっちは真剣に」
自分でも多少無理のある突飛な方法だとは思っていたのだ。最悪、友達程度の関係でも良かったのに、何故か思わず、付き合ってくれなどと言ってしまった。成功したのは、何故か偶然相手が交際を了承してくれたからだ。本当に、ただ、其れだけが理由である。
イブキは、笑うのを止めた後、妖艶に微笑んで、言った。
「ハニートラップとか、顔が良い奴の発想よねぇ。自分が女に相手にされないって発想が、前提として全く無いのよ」
「うっ…」
「隠さないの。どうせモテ男でしょ、其の顔じゃ。片思いなんてした事無いでしょ、自分から近付くとかさ。言い寄ってくる女にOK出せば何とかなる人生。違う?」
「…いや、その…」
図星だが、ハッキリ言われると何か傷付くな、と思いながら、倫玖は言葉を探した。
「俺だって振られますよ、普通に。顔は関係無いでしょ」
言うに事欠いて、言わなくても良い事を言ってしまった、と後悔した倫玖だったが、イブキは、アッサリと、でしょうね、と言った。
「ブランド品のバッグと一緒よね。顔が良くて、頭が良い高校に通っている彼氏が良いわけよ」
「…え、俺の学校も何処か御存知で?」
「さあね。でも、あんたの友達の水森君、ちょっと良いわね。塩顔のイケメンで細マッチョって。あんたの顔よりは、あっちが好みかも。何か、ちゃんとスポーツしてる感じ?」
高校はおろか、よく一緒に居る友人の情報も押さえられていると知って、倫玖は青褪めた。しかし、イブキは、少し済まなそうな、此方を諭してくる様な声で続けた。
「あら、ごめんね。冗談よ。怖がらせた?でも、此れくらいで怖いって思うくらいなら、やっぱり関わるの、止めた方が良いと思うわよ」
「…いや、顔…。顔の話。俺と、そっくりの奴、知りません?其れだけは知りたい。だから、止めない」
倫玖は、相手に情報を握られているという恐怖心は拭えなかったものの、其処から自分を奮い立たせるようにして、そう言った。
「此の顔は、誰の顔?」
振り絞る様にして、そう言う倫玖を、イブキは、気の毒そうな顔をして見て、言った。
「…あんたの顔よ、其の顔は。そっくりの人間が居たって、偶然よ。あんたとは別人。一卵性の双子だって同じ日には死なない。自信持ちなさいよ。顔が同じでも違う人間。…其の顔で、得したり損したりして育ってきたであろう事は、想像に難くないけど。誰に似ていようがいまいが、外見の良さで先入観は持たれるでしょうからね」
倫玖は、イブキが、倫玖と同じ顔の人間について知っているが言う気が無い事を察したので、渋々、顔の造作の事は、今は良いでしょうよ、と言いながら引き下がった。しかし、イブキは、そう?と言って続けた。
「顔は関係無いって自分から言い出すって事は、一番気になる事柄なんじゃないの?」
図星を刺されて、倫玖は、また相手のペースだ、と思いながら黙った。相手は続ける。
「そう沢山居ないような顔なのに、何で他にも居るのって思うと、気味が悪い?其れとも、顔が良いのに何で振られるの、って、心の何処かでは思っている?中身に問題が有るのかって?だから余計に自分に自信を無くす。もしかして何方も正解?」
またも図星を刺された倫玖が黙っていると、イブキは、中身なんて見てもらえた事無いのよ、多分、と言った。
「あんたの顔と肩書を見て近付いてくる女には、あんたの中身は邪魔なの。バッグに中身なんか要らないのよ。自分の都合の良い時間に、流行りの顔で、流行りの服で、流行りの店に連れて行ってくれれば良いの。都合よく扱われちゃうのね。でも、そういう子って、あんたが無個性じゃないと、自分の理想を、あんたに投影出来ないのよ。バッグは空でなきゃ私物を入れられないの。あんたの個性的な中身を外に表現したりするようじゃモテないの。あんな裏垢作るような個性的な人間だって事、女の子は知らないでしょうね、『THOMAS』。あたしは面白く拝読したけど、あんたの過去ログ。でも、デート中の彼氏に、あんな事言われたら、女の子側は『どうしなすった』だわよね。あの個性的な中身を知らせない事も、其れは其れで世渡りの知恵って気はするけどさ」
更に図星だったので、倫玖は言い返す気力も無くし、力無く、あはは、と笑った。自覚は有った。女の子に優しくするという事は、失敗すると、時には都合の良い人間になってしまう事が有るのだ。分かってはいるのだ。自分も面食いだから、自分の外見を好んで近付いてくる相手も、自分の中身を最初に考慮しないで言い寄って来る事くらいは。其れでも、振られれば其れなりに傷付く。自分の何かを否定されたような気がするからだ。イブキは、倫玖の心を見透かしたように、そういうのって傷付くわよね、と言った。
「SNSに、ブランド品のバッグ自慢みたいに、彼氏自慢っぽい写真上げられてね。背景小道具じゃなくて、人格と個性が有るのにね、あんたにだって。別れて正解よ。振られたわけじゃなくて、御縁が無かったと思えば良いの。でも、相手の女の子も高校生くらいなら、そういう子供っぽさも許してあげたいものよね。リテラシーの低い無防備な行動も、十代の子が遣ると初々しい魅力になる事があるし。ま、今後気を付けなさい。サシスセソ言葉と、承認欲求の強い女にはね」
イブキは驚く程可愛い裏声で、サスガァ、シラナカッタァ、スゴォイ、センスイイ、ソォナンデスカァと言った。全部よく言われる言葉だわ、と思いながら、倫玖は少し噎せた。
イブキは、思いがけず、優しい声で倫玖に語り掛けてくれた。
「あら、悪い言葉じゃないわよ、別に。人間関係が円滑になる、良い言葉よ。本心で言う子も勿論居るでしょう?ただ、ちょっと便利過ぎるだけ。中身が無い会話でも、上手くいっちゃうの。でも、其れで済ませられない会話の時は、困るのよ。サシスセソを使い慣れていると、頭を使わない事にも慣れるから、会話の瞬発力が育たないの。急な話題の変化に対応出来なくて『どうしなすった』になっちゃうわけ。だから、そういう女に、あんたの中身が否定されたわけじゃないわ。あれは外国語だったと思いなさい。話が抑通じなかったのよ。あんたの中身に触れてもらえなかっただけよ。あんたが嫌な事とか、大事にしている事とかね。そういうものは、其の子達には重いの。だから、何かに忙しくなると、中身が重たくなったバッグが邪魔になるだけ。其れか、新しいバッグが欲しくなるの。でも、あんたはバッグじゃないから、そんな女気にしなくて良いのよ」
分かったような、分からないような、と思いながら、倫玖は、はぁ、と言った。
イブキは、遠い目をして、続けた。
「そういう点じゃ…今の彼女は、良いと思うけど。頭も良いし。あんたが突飛な事言っても、一応は聞いてくれると思うわよ?あの裏垢みたいな内容の話でも」
「え?俺、デート中、あの美人に、『アンパンマン』や『機関車トーマス』の考察語る勇気無いスけど?『どうしなすった』じゃ済まない事故でしょ」
相手も、初対面では何故か造花を持ち歩いていた、という点では相当個性的だとは思う倫玖だが、其れは流石に出来る気がしない。イブキは、そう?と言った。
「いや、あの機関車アニメの主人公を、未成年労働者程度の精神年齢設定だと仮定した視点から述べる、古いイギリス労働社会の問題点に関する呟きは、なかなか卓見だったわよ。『チャギントン』との類似点と相違点とか。其れと、焼き立てなのに煙突内を通過して飛来したパンが、自分の顔を食べさせる事についての衛生面の考察とか、素材がパンである顔を焼いて取り替える頻度及び賞味期限の考察も良かったわね。確かに、焼成したパンは常温で数日持つけど、中に餡子が入っている場合」
「いや、態々(わざわざ)内容を此処で言わないで、しんどい」
倫玖は、イブキの言葉を途中で遮りながら、顔から火が出そうだった。あのアカウント削除しよう、と倫玖が思っていると、良いじゃない、とイブキが言った。
「あんたの、そういう所を面白いと思ってくれる子も居るかもよって事。其れか、あんたが何を言っても流してくれるとかさ。理解はしなくても、否定はしないかもしれないでしょ。そんな、ハニートラップなんて、裏の有る関係じゃなくて、何かが凄く上手く噛み合ったら、良い関係になれると思うのに。だって、あの子、OKしてくれたわけでしょう?付き合うの」
「え?まぁ」
「そうよね、高校生くらいじゃ、『付き合ってください』『はい』が最初に有るのが交際でしょうよ。だから…ああいう、ギリギリまで泣くのを我慢しちゃうような子が、あんたと付き合っても良いかもって思ったって事が重要だと思うのよね。ああいう子に、泣く場所が出来れば良いなって…」
泣く場所、という言葉に、倫玖はハッとした。初対面で、麻那美は泣いていた。結局其の理由は知らない。
「…あの子と知り合いスか?イブキさん」
「…一般論よ。印象って言っても良いかしらね?強がりそうな顔の子だわ。意志が強くて我慢強そうな。賢くて聞き分けが良くて。如何にも育ちが良さそうで。そういう子って、抑制されちゃうか、反動で奔放になるかの何方かよ」
言われてみれば何と無く、そんな気がするから不思議だ、と思いながら、倫玖は、そう語りながら俯いてしまったイブキの横顔を見詰めながら言った。
「その…苗の神教の儀式で酷い目に遭わされた女の子って、今何処に?」
「さあね」
「え…でも調べたでしょ?其の子の事。イブキさんが大事に思って、助けたい子でしょ?」
「そうよ。だからね、あんたみたいな、女の子を大事にしない奴も、あんたの、其の顔も苦手よ」
「や、だから、顔は関係無いでしょ」
そう答えながらも、倫玖は、ギクリとした。
―女の子を大事にしない奴。利用する奴。
「その…大事にするって、意味よく分かんないスけど」
「ま、若い子…高校生くらいの子に何言っても無駄よね。沢山傷付いたり傷付けたりして学ぶものよね。あたしが口出しする事じゃないわね。…でも、相手が、あんたの事が少しでも好きで、其れでハニートラップ仕掛けられたらって知ったら、如何?其れって傷付ける行為じゃないの?自分の妹とか、大事な人が、そんな扱い受けたって考えてみて」
「…いや、あの子は…俺の事…そんな風には思ってない気が」
自分で言いながら、何故か自分で少し傷付きながら俯きかけた倫玖に、イブキが、気の毒そうな顔を向けた。
「…うーん、あたしも実は、そう思うわぁ。あんたみたいな流行りの顔が好みじゃない気がする。せめて、もうちょっと、大人っぽい感じっていうか」
「な、何なんスか。本当に、あの子の事知らないの?あんた」
大人っぽい、という言葉に、倫玖は、アルマーニの顔を、つい思い出してしまった。何と無く、傷口に塩を塗るなと言いたい気分になって顔を上げた倫玖に、イブキは、優しく微笑みかけて、言った。
「いや、まぁ、一般論よ。ああいう若い子からしたら、自分より世間を知っているように見える人間が魅力的に見えるものなの。道を踏み外す事無く、経験によって自分を正しい道に導いてくれるかも、守ってくれるかも、っていうね。其れも、殆どは投影だろうけどね。お父さんの延長っていうの?其の人間の年代によって良い男の基準って変わるから、あんたも、あと五、六年は年取ったら可能性あるかもだけど。未だ、誰かの泣き場所になってあげられる程の包容力なんて期待する方が気の毒な年だからね、高校生じゃ。まー、条件的には職場の先輩とか上司なんか気を付けた方が良いわけよ、コレ」
「…何処の世界の一般なんスか」
そうは言いつつ、分からんでもない、と思ってしまう自分が悔しい倫玖だった。未だ包容力というものを持とうと思った経験自体が無い。イブキは自嘲地味に続けた。
「ま、あたしの世界の常識が世間の非常識だって自覚は有るけどね。外見と話し方が合ってないって思った?驚いた?」
「いや…何か、慣れてきたから別に良いスよ。寧ろ顔とは話し方が合う気もするし」
結局、此処まで話しても、倫玖には、相手の性別も年齢も分からなかったのだ。国籍は日本の様に思えるが、其れも倫玖の推察に過ぎない。別に、相手が何でも、自分に実害が無いなら構わない。倫玖を誘拐しようとしないなら、相手は広義の意味では良い人の括りに入れても良いと思っている。ただ、中学校の頃の裏垢のツイート内容を記憶されており、目の前で語られるのは実害、という気はするが。変な話かもしれないが、相手の素性より、そっちの方が気になる倫玖である。イブキは、また少し驚いた顔をして、言った。
「そう?…あんた、ちょっとは良い奴ね。変わってはいるけど。個性的ね。あ、褒め言葉よ、コレ」
「褒め言葉?」
「善悪の判断基準が完全に自分なのね。あんたがシロだと思ったら、クロも、あんたの中ではシロなの。…勿体無いわね」
「…何がスか?」
「あの女の子と、ちゃんと付き合ったら良かったのに、って事。あんた、気付いてないと思うから言っておくけど、あの子が、あんた好みの美人じゃなかったら、ハニートラップなんて抑思いついたかしらね?」
「え?」
そう言われると、何となくギクリとしてしまう倫玖である。
―無いとは…言い切れない。
麻那美と一緒に居て、楽しい部分が少なからず有るのだ。相手が可愛くなかったり、会話が続かなかったりしたら、さぞ苦痛だっただろうと思う倫玖である。実の姉に太鼓判を押される程の面食いなのだから、と、倫玖が恥じ入りそうになっていると、イブキが、暗くなってきたわね、と言った。
「もう行くわね。ツレに、あたしが楽しみにしていたチーズ、全部食べられちゃう。あんたと夕飯食べないなら帰らないと。良い?楽しく暮らすの。苗の神教の事なんか忘れなさい。好みの女の子と付き合える事に満足して、感謝して暮らすのよ」
「待ってください。俺が誘拐されそうになった理由、知らないスか?」
「…思い当たる節は多々有るけど、今の段階じゃ、あたしの推測に過ぎないわね。あたしもね、其れ程万能じゃないから。でも知らなくても良い事よ。誘拐なんて、人生に於いて、そう何回も起こらないわ」
「もう誘拐されない…って、本当に、そう言えます?苗の神教は…もう安全なんスか?」
「…努力するわ。あたしなりに。確実に撲滅させてみせる」
「…努力って…やっぱり、撲滅させようって事は未だ有るし、何か危険が有るって事じゃ無いんスか?あの、亡くなった…坂本治一さんって人の事、分かります?」
「え?何で、其の名前…」
驚きに目を見開くイブキを見て、やはり無関係ではなさそうだ、と思いながら、倫玖はイブキに詰め寄った。
「俺、あの人の死は、事故じゃないと思うから。如何にかして真相を突き止めたくて。あの人の娘さんにも、自分の身に危険が迫っているかもしれない事を教えたくて」
「止めておきなさい」
イブキは、そう、キッパリと言った。
「そんな事、今更何になるの」
「人が死んで、其の娘さんも危ないのに、そんな事?見過ごせない。うちの親も聞いてくれないし、誰も信じてくれないけど、事故じゃないって俺は証明したい」
「あんたが意外に正義感の強い御人好しだって事は分かったけどね。もう遅いのよ。其れは、『終わってしまった事』なの。そんな事を証明しても誰も生き返らない。良い?忠告はしたわよ。高校生に何が出来るの?娘さんを見付けたからって如何するのよ。其の娘さんの保護?何処で如何やって?」
倫玖が思わず口を噤むと、イブキは、溜息をついて、言った。
「もう関わらないの。危ないと思うなら、態々(わざわざ)首を突っ込まないの。賢い人間の遣る事じゃ無いわ。其の人達が、あんたと、どんな関係が有るの?良いとこ、話した事が有るだけの閼伽の他人でしょ。血縁でも何でもないでしょ?」
「それは…」
治一と自分の関係。直接会ったのは一度だけだ。後は、メールと電話の遣り取りだけ。其れを一年程続けただけだ。年も近くは無い。倫玖にとって、治一は友人でも、イブキから見たら他人に見えるのかもしれない。
「もう行くわね」
イブキが、そう言いながらベンチから立ち上がったので、倫玖も思わず立ち上がった。
「自分だって、危ない事に首突っ込んでない?其れって賢い行動なわけ?」
「此れは、あたしの問題なの。どうか、あんたには関係ないって思って頂戴。如何しても、あたしには許せない事が有る。だから努力するの。成功を祈って頂戴」
「いや、待って…親戚の女の子っていうのは、如何して儀式に参加したの?」
「騙された様なものよ。誰も止められなかったの。知っていたら止めたわ」
「如何いう儀式?」
「…言う義務は無いわね。此れも、終わった事だもの。言う意味は無いわ」
「結局俺、其れじゃ、何も分からない」
「あのね。暴くって言ったって、其の女の子が、其の儀式でされた内容を他人に知られたいか如何かっていう事も、考えた方が良いわよ。正義を笠に着て、何でも白日の下に晒す、公開させる事が善だ、なんて傲慢は、今日可燃ゴミの袋の中にでも捨てなさいよ。時には正義感って、喜ばれないし、暴力にもなるのよ」
そう言えば、儀式の内容は、ツイートでも伏せられていたのだ。知られる事が恥になるような事が、其の子の身に起ったのだとしたら、と思うと、倫玖は、素直に引き下がった。分かった、と倫玖は言った。
「詮索は止める。あの…また会えます?」
「…生きていたらね」
イブキの悲しげな顔に、倫玖は寒気がした。日は既に暮れて、気温は確かに下がっていたが、鳥肌が治まらないのは、其のせいでは無かった。
「…やっぱり危ないって事スか?だったら、何で続けるの?其の子の為?終わった事じゃ無いの?…ねぇ、あんたも、正義感の強い御人好しなんじゃないの?」
イブキは、返事をせず、黙って立ち去った。倫玖は、寒気がして、暫く体が動かなかった。やっとの事で、倫玖が図書館の入り口まで追い掛けた時には、イブキの姿は既に無かった。
「あんたも死ぬのかよ。やっぱり嫌だよ、他人だって、話した事が有る人間が死ぬのは」
倫玖は、K駅の方向に向かって、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。家路を急ぐ人々は、誰も足を止めない。まるで、イブキという人間など、此の世に初めから居ないように思えるくらい、世の中は、何時も通りの、夜の始まりの時間だった。
―イブキさん、やっぱり忠告は聞けない。
情けない話だが、ハニートラップは続行である。
『さおりん@0807snkt 七月二十六日 前いた所は今日お祭りだな。今年暑いけど、浴衣着たい まなみ@n0a8no7kaさんがコメント 七月二十六日 良いですね 今度一緒に着ましょう』
『吉野@link1010tom 七月二十六日 夏の浴衣美人っていう単語の持つ清涼感は異常。字面だけで涼風が来る 水森@shin_mizumori0516がコメント 七月二十六日 お前、何か呟きだと結構危ない事言うけど、その意見には賛同しかない。頷き過ぎて首がもげそう。もうヘドバン』
『さおりん@0807snkt 七月二十七日 35℃。明日は31℃だって。暑過ぎ。27時間テレビ、SMAPだ』
『まなみ@n0a8no7ka 七月二十九日 土用丑の日。32℃らしいけど、風が強くて乾燥した感じの涼しい日だった。強風で網戸が二回はずれた』
『さおりん@0807snkt 七月二十九日 五日市警察署近くのゴミ屋敷がテレビ放送中!…凄い』
『まなみ@n0a8no7ka 七月二十九日 黒柳徹子さんのユニセフ報告を見る。大事な事だ』
『まなみ@n0a8no7ka 七月三十日 気温は昨日と同じく32℃。でも、湿度が高くて今日の方が辛い』
『吉野@link1010tom 七月三十日 ネイマールが来日するから姉ちゃんが嬉しそう。好みが分かりやすい 水森@shin_mizumori0516さんがコメント 七月三十日 お前の美人の姉ちゃんとネイマールの話がしたい。お前の美人のお母さんとでも可 吉野@link1010tomさんがコメント 七月三十日 ごめん、身内をそういう風に言われると無理。御前の好みは分かるけど。しかも母ちゃん可とか、レンジ広過ぎない? 水森@shin_mizumori0516さんがコメント 七月三十日 お前は姉ちゃん二人共美人だし、お母さんも若くて良いよな』
イヴは同じシリーズの他の作品の主要人物なのでキャラが濃い目ですが、かなり好きです。あと、水森君は本当に女性の好みの範囲が広いです。