二〇一四年 七月二十日 吉野倫玖
ヒロインとデートです。
二〇一四年 七月二十日 日曜日
倫玖が、正午に、待ち合わせ場所の、渋谷のハチ公前広場に有る緑色の電車モニュメントの前に行くと、ほぼ同時に麻那美が来た。本当に来たのか、というような顔をしている。想定内の反応だが、信頼されていない様子をヒシヒシと感じる。倫玖は、思わず、どうも、と言って笑った。麻那美は、軽く会釈して、言った。
「御機嫌好う。では、行きましょうか」
「え?」
「ランチでしょう?私が行こうと思っていた御店でも構いませんか?」
―まさかの相手主導。
挨拶が『御機嫌好う』の人が実在した事も含めて、倫玖が戸惑っていると、麻那美は、あら、と言った。
「行きたい場所が御有りでしたの?では参りましょう。時間が有りませんよ。午後は十三時始業なのですもの。精々十二時五十分くらいには、此の辺りに戻って来なければ」
「いや」
倫玖は、またもノープランだった。麻那美は、そうですか、と言った。
「安くて美味しいパスタの御店を見付けましたの。宇田川町まで歩いて御一緒しません事?」
「あ、じゃ、それで」
倫玖は素直に従った。黒い日傘を差した、ローヒールの麻那美が、姿勢良く、ツカツカと倫玖の隣を歩く。麻那美は歩くのが早い。でも、楽だな、と倫玖は思ってしまった。
何処行くの?待って、歩くの、早いー、何食べるー?えー、どうしようかなー、御店調べて来てないの?えー、そっちだったら、この御店が良いー、というような、今まで異性間で経験してきた、女の子とのデートでは避けられないと思っていた、必要悪とも取れる、甘ったるい遣り取りの一切が無かった。
慇懃無礼とはいかないまでも、事務的なまでに相手の態度が丁寧なので、色気も何もあったものではないが、時間は有限なのだ。合理的である。
此れが社会人とのランチデート、と感心しながら、倫玖は、此の子年下だったよな?と再び思った。一緒に居ると、如何にも調子が狂う。
しかし、今日も麻那美は綺麗だった。しっかりした感じの鞄を肩掛けにして、黒いカットソーに黒のタイトスカート、黒のローヒールパンプス、という、物凄い威圧感のファッションだったが、暑苦しい感じはしなかった。オフィスカジュアルファッションの女性と街を歩いた事が無いので、倫玖は新鮮に感じた。自分の目線より低い位置で、日傘から少し出ている、美しい黒髪が揺れる。爪にはラベンダー色のネイル、薄めの唇にはローズピンクのリップが塗られ、初対面の日より幾らか血色が良く見えた。あの日はノーメイクだったのだろう。
今日も綺麗だが、本音を言うと、ノーメイクの時の方が、年相応に見えて良かった、と倫玖は思った。服も、あの時の服の雰囲気の方が可愛かった、と倫玖は思ったが、今日の服も似合っているし、薄化粧が社会人のマナー、というのを忠実に守っている様な潔さがあって、清潔感が有ったので、別に、今日の麻那美が嫌だというわけでは無かった。化粧も上手い方だと思う。だからきっと、相手が、大人のような格好をする事に無理をしている様に見えないのだ。故に、つい、自分より年上の、しっかりした人間のように思ってしまうのだろう。相手は、此の春に中学を卒業したばかりだというのに。
―そうか、十五か。
何度も相手の年齢を誤認しそうになるが、麻那美は倫玖より一学年年下なのである。八月七日が誕生日なのなら、麻那美は未だ十五歳なのだ。倫玖の十月十日の誕生日まで、二ヶ月程、一緒に十六歳の期間があるわけだが、やはり、自分より年下なのだ。其れは、ノーメイクの方が自然にもなろうというものである。
其れにしても、晴れだが、今日は多少涼しいな、と倫玖は思った。最近の、此の気候が安定しない感じは、何となく不安になって嫌だが。
辿り着いた宇田川のカフェというのは、なかなか雰囲気の良い店だった。
「…あれ?何か、CMで見た事あるかも、此の店」
「あ、さおりちゃ…友達も、そんな事を言っていましたね」
混み具合は、立地と時間帯にしては少ない方で、女性客ばかりだった。ツーブロックが入ったマッシュレイヤーベースの黒髪に、癖毛風のパーマが掛かった、ワイルドな感じの髭のウェイターが、ギャルソンエプロンで登場した。モテそうな感じの人だな、と思いながら、倫玖は店内を見渡した。女性客が多い理由が分かった気もする。直ぐに席に通された。ウェイターは御冷を出してくれたが、倫玖のグラスだけ端が欠けていた。ムスッとしていて態度も悪い。おや、と倫玖は思った。
―まあいいか。
倫玖は、気を取り直してメニューを開いた。本格的な生パスタなのだが、確かに手頃な値段だった。倫玖は、スープとサラダの付いたランチセットにしたが、麻那美は、食べきれないので、と言って、カルボナーラだけにしていた。
料理が運ばれてきた時、倫玖は確信した。倫玖の料理の皿だけが全部欠けていたのである。そして、運んできたウェイターの態度は相変わらず悪い。此れは、流石に故意であろう。麻那美が驚いた様子で、まあ、と言った。
「取り換えて頂きますか?吉野さん。御皿が…」
「いや、良いよ、別に」
「其れに何だか、店員さんの態度も…今日は、どうしたのでしょう。さおりちゃ…友達と来た時は、とっても感じの良い方だったのですけれど」
「へー、そう」
ははーん、と倫玖は思った。
其れはね、『男連れで来やがって』って意味だよ、と思ったが言わなかった。嫉妬には割と慣れている倫玖である。女の子とのデート中、擦れ違い様に、ぶつかった振りをして肘鉄を食らわせてくる男よりは余程大人しいというものだ。其れに、何せ麻那美の今日のデートの相手は、あのウェイターではなく倫玖なのである。其れだけで、皿が欠けていても飯が美味い(メシウマ)というものだ。ザマァ、と思いながら、倫玖は料理を食べる事にした。
「えーと、あんまり時間無いよね、麻那美ちゃん。急いだ方が良いよね。味には影響ないから。頂きます」
―美味い。
事実、店内の雰囲気は良いし、値段の割に本格的な生パスタで、味も良い。だが、店の混み具合が盛況と言える程では無いのと、女性客ばかり、という事について、倫玖は何と無く、理由が、あのウェイターの態度に有る気がしていた。何と無くだが、男性客がリピーターにならないような事をしているのではないか、という気がするのである。以前は接客のバイトをしていた立場からすると許し難い態度であるが、こういう店は、此の、店の入れ替わりの激しい渋谷の地では長く生き残れまい。事を荒立てるよりは自滅を待つ、というのもオツである。
麻那美は、少し申し訳なさそうな目線を倫玖に送ってきながら、言った。
「ごめんなさい、吉野さん。雰囲気の良い御店だと思っていたのに」
「良いって。本当に、あの店員さんだった?違う人なんじゃない?」
「いえ、あの堅焼き蕎麦みたいな髪型は、見間違えないと思います」
堅焼き蕎麦と聞いて、倫玖は、思わず噎せた。麻那美が、慌てて倫玖の御冷を注ぎ足して勧めてくれたので、其れを飲み、何とか食事を飲み込んだ。
「大丈夫ですか?吉野さん」
「有難う、大丈夫」
倫玖は、堅焼き蕎麦と呼ばれたウェイターが急に可哀想になった。あれは、金と時間が掛かっている髪型である。オールバックにするだけではなく、九対一くらいの感じで前髪を分けてから上げて、流れを作っている筈だ。倫玖には似合わなさそうなので絶対遣らないが、本人は御洒落の心算で遣っているというのに、現実とは残酷である。好みの女の子とランチデートが出来ないどころか、其れを目の前で行っている他人を妬んだ行為に出た挙句、手間暇掛けた髪形に正当な評価を貰えないとは。客観的に、自分の立場だったら惨めだろうと倫玖は思う。ザマァ、などと思ってからそんなに時間が経たないうちに天罰覿面だったので、倫玖は、流行りの髪は御嫌いですか、と麻那美に問いかけたいくらい、ウェイターの事が気の毒になった。
―堅焼き蕎麦扱いは、結構辛辣ですぜ。
ただ、意外と面白い事を言うな、と思い、麻那美自体への評価は倫玖の中で上がってしまった。
―いいや、話題を替えよう。
「えーと、さおりちゃん、っていうの?友達」
「えーと、はい」
麻那美は、頬を染めて俯いた。友達、と言う度に、さおりちゃん、と言いそうになるのが恥ずかしいらしい。其のくらいの事が恥ずかしいなんて、ちょっと可愛いな、と思いながら、倫玖は質問を続けた。
「どんな子なの?」
「良い子です。可愛くて」
麻那美は、パッと明るい顔をして友人を褒めた。瞳が輝いていて、頬は薔薇色である。相変わらず心臓に悪い表情をする人だな、と倫玖は思った。ギャップが凄い。麻那美は、さおりちゃん、という子が大好きなのだ、という事が伝わってきた。倫玖は、其れに、少し感動さえ覚えていた。親友らしい、と美紅がツイートしていたのを思い出す。
―俺の事、潰れた虫を見る様な目で見てきた人と、本当に同じ人?…いや、確かに、二人で居る所は、本当に楽しそうに見えたよな。
「仲良いんだね」
倫玖が率直に、そう言うと、麻那美は、薔薇色の頬をした儘嫣然とした。可愛いな、と倫玖は思った。同時に、再び罪悪感が首を擡げてくる。
―こんな、自分より年下で、大好きな友達と一緒に居るのが嬉しいような、未だ十五の子に、嘘ついて、騙して。
麻那美は、倫玖の罪悪感には気付かぬ様子で、話を続ける。
相手の輝くような微笑みは、しっとりとした色気を含んでいる様にも、幼い許の子供の様にも見えて、倫玖の中で、麻那美の印象が再び揺れる。
「優しくて、頭の良い子で。看護科の有る高校の特待生で、入学料免除だったそうです。授業料は免除じゃないそうですけど」
微笑んだ儘、そう言う麻那美の声が、自分の事では無いのに何処か得意気で、倫玖を益々(ますます)感動させた。
「そっか、良い子だね。自慢の親友か」
「…怒ると怖いですけどね」
そう言うと、麻那美の顔から表情が消えてしまったので、倫玖は驚いた。
「そんなに怖いの?」
「…私は、もう二度と絶対に、あの子を怒らせるような状況が起こらないで欲しいと、切に願って止みません」
「な、何か、怒らせたの?」
「いいえ、私が怒らせたのではなく、私や自分の事を守ろうとして、捨て身になってくれたのです。普段怒らない人が怒ると、あんなに怖いのだという事を、私は学びました。あの子が、捨て身で私を守るような状況が、二度と来ない事を私は願っています」
―重い。
傭兵か何かだったの?親友って、と倫玖が思わず尋ねたくなるくらい重い話だった。意味は分からないが。
―そいつは一体どういう状況だ。
倫玖は、未だ他人を捨て身で守った経験が無かった。想像が全くつかない。渋谷の雰囲気の良い店でデートをしながら、欠けた皿で海老クリームパスタを食って、如何して、こういう話に?と、倫玖は、ちぐはぐし過ぎた状況に、少々混乱した。
―あの、美脚の『さおりん』の話だよな?
しかし、倫玖には、麻那美が嘘をついている様には全く思えなかった。ついていけない話題は、変えるが吉である。倫玖は、言葉を選びながら会話を続けようとした。
「そっか、でも、あれだね、頭が良いって。今は、楽しく高校に通って。いや、偉いよ、特待なんて」
麻那美は、友人が褒められるのを聞いて、再び微笑んでくれた。パスタは食べ終えたらしい。麻那美が、そっと口元を拭う仕草でローズピンクのリップが落ちて、紙御絞りに付いてしまうところを、倫玖がボンヤリ眺めていると、麻那美が、そう言えば、と言った。
「学生証を見せて頂きましたけど、吉野さんは、都立高校の生徒さんでいらっしゃいますよね」
「あ、うん」
素性を根掘り葉掘り聞かれるのだろうか、と思うと、倫玖は、心の中で身構えた。住所は嘘をついたが、名前も学校も特に嘘をついていない。素性を此れ以上知られるのは危険なのだろうか。如何しても麻那美が危険だとは思えない倫玖だが、何処まで、何を喋って良いか、時々分からなくなる。しかし、続く麻那美の言葉は意外なものだった。
「関東圏の学校の偏差値は存じませんが、公立に通われている、という事は、努力なさったのでしょうね。尊敬致します」
「あ、有難う」
相手のストレートな尊敬の情が伝わってくる。思いがけず褒められて、倫玖は少し照れた。そして、照れた自分に驚いた。こんな事で照れる様な性格だっただろうか、とまで思った。
しかし、えー、T高?頭良いねー、という褒められ方をしない、というのが、こんなに気分が良いとは思いもしなかった倫玖である。そうだよな、と倫玖は思った。実は、頭が良いから良い高校に受かった、と言われている気がして、そう言われる事が少し複雑だったのである。勉強に関して決して良好とはいえない環境で都立高校に受かる為には、倫玖なりの頑張りもあったのだ。何故か今、其の頑張りの部分を汲んでもらえたような気がした。
麻那美は、尚も続ける。
「私は、高校進学を考える様な生活をしてきませんでしたので、進学のために努力されたのなら、素晴らしい事だと思います」
「そうかな。俺は、働くって、偉い事だと思うけど」
倫玖が、そう言うと、麻那美は、照れたように俯いた。こんな顔もするのか、と思い、倫玖は感心して、麻那美の長い睫毛が伏せられる様子を眺めた。今日はマスカラも塗られている様だが、元々の睫毛も長かった。双眸の上で扇状に広がる、美しい黒い影を、何時まででも眺めていられそうだと倫玖は思ったが、甘い気分になりそうなのを振り切って、質問する言葉を探した。
―そろそろ、苗の神教について聞かないと。
「…えっと、麻那美ちゃんは、如何して上京したの?」
麻那美は、顔を上げない。あれ、と倫玖は思った。
―答えてくれない…?
其の瞬間、何処かでアラームが鳴った。麻那美が慌てて自分のスマートフォンを手に取って操作し、アラームを止めた。
「あ。時間です」
え、タイマー付きのデートって初めて、と倫玖は思った。仕事の日に無理を言ってランチデートしてもらっているのだから詮方無い事ではあるが、完全に相手のペースである。そして、肝心の、聞き出したい話は聞けないのに、妙にディティールの細かい、情報量の多い、美脚の親友の話ばかりが続いてしまう。
何か前に、こういう事が何処かで有ったな、と倫玖は思ったが、思い出せなかった。
麻那美に、サッサと、当然のように割り勘され、店を出ると、麻那美が、あら、と言ってスマートフォンを見た。
「ごめんなさい。今、上司からの連絡が入って、此の儘郵便局に行かなければならなくなりました。郵便局に行ってから職場に戻るまでは御昼休憩は伸びましたけど、如何なさいます?」
「え?何処の郵便局?」
「宮益坂の郵便局です。二十四時間営業だそうですね。基本的には其処を使っています。明日出しておくように、と、預かった手紙があったのですけれど、今から速達で出してほしいそうです」
「そう。じゃ、ついていく」
歩いていると、路上に赤い染みが有った。あー、血痕だろうな、と倫玖は思った。以前、交通事故現場跡のニュースで見た路面と似ている。夜半に喧嘩でもあったものか、物騒な話である。だから渋谷は嫌なんだよ、と、倫玖が、繁華街の治安の悪さを心の中で嘆いていると、麻那美も、あら、と、一瞬、不思議そうに赤い染みを見遣った。しかし、続く言葉は、倫玖の想定外の内容だった。
「ワインかしら」
「…うーん、どうだろう」
―どんな上等な赤ワインかね。此処で溢す理由有ります?
視覚から入ってくる血痕の不穏な感じが、急に情報が書き換えられてしまって、ヨーロッパの様にホットワインの立ち飲みが路上でされているかのようなイメージが倫玖の頭に浮かんだ。一瞬だけ渋谷がシックな街になったような気がしたが、いや、やっぱり血痕だろ、と思った。良い意味で、如何いう育ち方したの?と、やはり聞いてみたくなる倫玖である。
「…あのさ。いっつも、渋谷で何する?仕事以外だと」
「そうですね、南口の本屋さんには行きますけど。仕事が終わったら帰りますね」
―うーん、赤ワインと本屋さんの街かぁ。あと、何だ?郵便局?
倫玖の渋谷のイメージと齟齬がある。何せ、自分は渋谷で誘拐されそうになったのだから、本来なら、来るのも少し怖い。
―本屋くらい何処にでも有らぁな。
其れは渋谷でなくても良いのでは、と、倫玖が突っ込みたい気分でいると、麻那美が、ラブホテルの看板を見て、あら、と言った。
「此方でもアフタヌーンティーが。夕方くらいからだと、ハイティーでしょうか」
倫玖の頭の中に、突然、大量の疑問符が、瀑布の様に流れた。
「ん?イギリスの習慣が?渋谷区に?」
やっぱり此処はヨーロッパだった?という、見当違いの疑問が倫玖の頭に沸いた。
「だって、御休憩って書いてありますよ、看板に」
無邪気と言っても良い様な麻那美の声音に、倫玖は青褪め、思わず、小さな声で、見ちゃいけません、と言って、看板が見えないような位置まで、麻那美の差している日傘の石突部分を右手で掴んで、引っ張って誘導した。麻那美は、キョトンとした顔をした。倫玖は、石突を離すと、再び麻那美の隣に立って歩き出しながら、頭を抱えたい様な気分になって、問うた。
「えーっと、麻那美ちゃん。何の話?」
「休憩の御話ですよ。宿泊以外の利用ですと、レストランとか、バーとか、ラウンジとかで、御茶をしたり、スイーツを頂いたりするでしょう?そういう意味で書かれているのではありませんの?」
「え?待って。ラ、ラウンジ?」
「ええ、最近ですと、六本木に連れて行っていただきましたけど」
御前の言うホテルと俺の知るホテルは多分違う、と、思わず言いそうになったが、倫玖は堪えた。丁寧に解かなければならない誤解だと判断し、説明を試みる。
「あ、あのね。此処は、そういう豪華なホテルじゃないの」
「でも、五、六千円くらいでアフタヌーンティーって、頂けますでしょう?ホテル側が敷居を下げて、入り易い様にして、サービスを提供してくださいますから。宿泊以外の利用で休憩って、ディナータイム前とかっていう事なのでは?」
いかん、と倫玖は思った。話が通じない。多分麻那美は五つ星ホテル等の話をしている。
―マジか。此れ、説明しないと分かってもらえないのか。俺は今から往来でラブホの休憩について説明しないといけないのか。
業の深い話である。業の深いデートを何故渋谷でしなければならないのかは不明だが、其れも此れも日頃の行いが悪いからであろう、と思い、倫玖は観念して、言った。
「…あのね、普通、ホテルは看板に休憩って書いてなくて、宿泊だけなの。ラウンジも無いし、ティータイムも無いの。態々(わざわざ)休憩っていう文字が看板に書いてあったら、気を付けようね」
目的地に向かいながら一頻り小声で説明すると、麻那美の瞳から次第に輝きが失われていった。
あー、俺、汚物ですわ、と倫玖は思った。今なら、あの、潰れた虫を見るような目で見られても仕方が無い。何の申し開きも出来ない、と思いつつ、倫玖は、やっぱり此の子は年下だな、と、今日初めて思った。今年十六なら、色々知らないのも無理は無い。罵倒されるのを覚悟していた倫玖であったが、想像と違い、麻那美は、何かを諦めたような顔をして、成程、とだけ言った。
二人の間の空気が気不味くなる前に郵便局に到着出来たので、倫玖はホッとした。
其れにしても、路上に零れているのは赤ワインで、本屋と郵便局くらいの物しか無くて、ラブホも存在せず、気軽な値段でアフタヌーンティーが頂ける、クリーンな街とは、麻那美の中の渋谷の治安が良過ぎる。
―何処の平行世界の話だろう。
其れとも、今まで倫玖の見てきた渋谷の方が虚構の世界で、此れから、麻那美の見ている世界に迷い込んでしまうのだろうか。其れか、立川駅からの乗り換えで後を付けて、一緒に青梅線に乗った時、此の美少女と、既に、今までとは違う世界に乗り入れてしまったのであろうか。
などと、またしても明後日の事を考えながら、倫玖は、相手の事が少し心配になってきていた。
―何か、口説く時は口から出任せで言ったけど、ちょっと放っておけない子ではあるな。
しっかりしてはいるが、やはり、中学卒業後に行き成り上京して就職、というのは大変なのだろう。
―本当に、こんな御嬢さんみたいな子が、如何して家を出て上京してきたのかな。
其れに、賢いのだろうが、知識が偏っていて、純真というか、世間知らずの域を出ていない気がする。怖いな、と倫玖は思った。ラブホテルが如何いう物か知らなければ、誘われても、目の前の人間は簡単に休憩という言葉に騙され、本当にアフタヌーンティーを頂く気で一緒に行く可能性が有ったのだ。此れが自分の姉妹や娘だったら、と思うと、軽蔑されるのを覚悟で教えて良かった、という殊勝な気持ちになる程ゾッとする倫玖である。
―そんな世間知らずな事じゃ、何時か誰かに騙されるぞ。
例えば俺とか、と思い、倫玖は、自分の事をクズOFクズ(くずの中のくず)、と思った。抑嘘から始まった交際なのである。恐らく、此の人間を、上京後最初に騙したのは他でもない自分だ、と思うと、益々(ますます)倫玖の罪悪感は増した。
結局、其の後は他愛の無い話をして、別れ際、麻那美の仕事が不定休なので、木曜日の仕事上がりと、土曜の夕方には、青梅の、麻那美のマンションの近くで毎週会うように約束を取り付けた。我ながら必死だな、と倫玖は思った。
帰りの電車で、倫玖は小さく溜息をついた。結局、今日は、苗の神教について知りたい事は何も分からなかったのだ。
―此れは、しんどい。
交通費等の金が掛かるのに、苗の神教に対する情報はゼロなのだ。しかし、交際には至れたものの、此れから如何したものだろうか。見込み違いなのかもしれない、とも思う。麻那美経由で探っても、綜一のルーツも、治一の娘についても何も分からない可能性は有る。其の時、何処で撤退するか、倫玖は思案した。
苗の神教の事が知りたいだけなのに、と倫玖は思った。此れでは単に、好みの美人と身銭を切ってデートしただけである。ラブホの説明以外は、色気も、へったくれも無かった。良い雰囲気にすらならず、皮肉にも、真剣交際の様相を呈している。手すら繋がぬ清い仲である。
ふと思い立ち、倫玖は、Twitterで麻那美のアカウントを確認してみた。更新すら無かった。そう言えば、麻那美がデート中、全く写真を撮らなかった事を、倫玖は思い出した。
楽だな、と、また倫玖は思ってしまった。
美味しそう!写真撮っちゃおー。で、彼氏は手だけフレームインして、デート写真、といった、何時もの遣り取りが一回も無かった。顔写真の掲載を許可した事は一度も無いが、腕と私物の映り込み回数でいくと、なかなかの回数投稿されている倫玖である。
しかし今回、デート時の写真を撮らなかった、と言う事は、Instagram等も同様であろう。検索しても麻那美のものらしきアカウントは発見出来なかったが、仮にアカウントを持っていたとしても更新するまい。麻那美は、承認欲求が少な目とでも言おうか、食べた食事の内容や、彼氏とデートした事を顕示しない性格らしい。
―まぁ今日は、パスタの写真を撮るにしても、あの皿だし、良い写真にはならないけど。
パスタの盛られていた欠けた皿からの連想で、堅焼き蕎麦、という単語を思い出したら、倫玖は、電車の中なのに、思わず笑いそうになった。
―あれが堅焼き蕎麦なら、色が焦げ過ぎだろ。
認めたくは無いが、今日は結構楽しかった、と倫玖は思った。焦げ堅焼き蕎麦ウェイターに冷遇を受けるような、タイマー付きの、業の深いデートだったという総括なのに、妙な話である。
『まなみ@n0a8no7ka 七月二十日 涼しいと思っていたけど、風のせいだったらしい。実際は29℃あったようだ。明日は海の日。親友の女の子が御泊りに来てくれる』
『さおりん@0807snkt 七月二十日 夏休みだから、久しぶりに親友に会える!御泊り会初めて』
『吉野@link1010tom 七月二十日 可愛い女の子が二人で御泊り会 っていう字面、控えめに言って最高 水森@shin_mizumori0516さんがコメント 七月二十日 お前、鍵垢だからって自由に呟き過ぎだろ? ちょっと引くわ… あ、そういや、この前足立に会ったか?何か、カッコ良かったとか、とかピーチクパーチク鳴いて 俺家近所だからあいつマジうるせぇ 吉野@link1010tomさんがコメント 七月二十日 エンカウントはした 水森@shin_mizumori0516さんがコメント 七月二十日 エンカウントうけるwww あいつ、ゲームのモンスターより、トイストーリーのリトルグリーンマンに似てね?』
『まなみ@n0a8no7ka 七月二十二日 梅雨明け。暑過ぎて、最近一日に二回ぐらいシャワーを浴びている気がする』
渋谷の話は、六割くらい実話で、宇田川町の、料理の皿が男性の分だけ全て欠けているパスタの店も実在しましたが、流石にもう無いかもしれません。渋谷の南口の本屋も、2018年に閉店しましたので、書いていて非常に懐かしかったです。