二〇一四年 七月十九日 吉野倫玖
倫玖と『同じ顔』は他にも二人いる事が判明します。ヒロインとも邂逅します。
二〇一四年 七月十九日 土曜日
青梅の、とある都営住宅の前まで来ると、盛夏の蒸し暑さに、倫玖は溜息が出た。住宅前の公園では、少ない人数ながらも砂場で子供達が遊んでいて、元気なものだと倫玖は感心した。
此の、公園付近に在る都営住宅の一室に、倫玖の曾祖父であり、祖母の紅子の父にあたる、吉野紅紫の親戚の住まいが在るのだ。脚を悪くしている吉野博志と、其の妻、郷子が住んでいる。此処が、青梅に住む親戚の家、である。青梅市の中ではK駅が一番の最寄り駅とは言え、K駅からは徒歩二十分程度の距離が有る。K駅で降りた方が、ついでに買い物がし易いので、家族共々、電車で親戚宅に行く時はK駅を使う事が多いのだが、実際は、立川駅から見て一駅手前の、羽村市のO駅からでも、そう距離が変わらない。だから倫玖は、今日はO駅で降りて、徒歩で都営住宅にやって来たのであった。
博志夫婦は、祖父同様御茶農家だったが、博志が身体を壊し、負債を抱えた後、畑を手放し、借金返済後は、年金で夫婦共々細々と暮らしている。子供が居ない夫婦なので、紅紫達の死後も、玖一が気にしていて、時々付け届けを贈るのだ。今度の綜一の七回忌に、博志夫婦は来られないそうなので、今日は偶々(たまたま)、倫玖が、バイトが無いと朝食時に言ったら、御中元を手渡しがてら、様子を見てきてくれと玖一に頼まれたのだった。玖一が幼い頃、相当可愛がってくれた親戚なのだという。倫玖達にも優しい親戚で、今日も、ただ届け物をしただけだというのに、郷子が倫玖の為にアイスクリームを用意して待っていてくれた。会う度に、郷子が縮むのか倫玖が伸びるのか、身長差が開いていく。恐らく両方なのだろう、と思うと、祖母の紅子を思い出して、何となく寂しい気持ちになる倫玖である。郷子の、白髪染めの色が抜けてきた栗色と灰色の混じった短い髪が、曲がった腰と連動して、歩くと少し動くのが、何と無く、小さな鳩の様に思える。住居内は小綺麗にしている方だが、老いは確実に、此の、人の好い親戚夫婦を蝕んでおり、玖一が気にしている理由が分かる気がする倫玖である。今日も、何と無く、頼まれもしないのに、玄関の、切れかけの電球の交換を買って出てしまった。郷子は恐縮しながらも、大きくなったねぇ、と言って、嬉しそうに笑ってくれた。
倫玖は、畳敷きの居間に出された座布団に正座し、カップのアイスクリームをスプーンで食べながら、博志と向かい合った。出されたスプーンが、何時もの『鉄人28号』と書かれた、古いスプーンなのが懐かしい。よく、こういうのを大事に取ってあるなぁ、と、倫玖は毎度感心する。多分、玖一の幼少期頃から在る物と倫玖は推察する。子供の居ない夫婦だから、きっと、玖一達を喜ばせる為に買って、取っておいてくれていたのだ。スプーンのキャラクターに塗られた色は殆ど残っていない。此のスプーンを見ると、何だか此処だけ時間が昭和で止まっているように倫玖には感じられる。古惚けた扇風機が、比較的新しいエアコンと併用されているが、其れ程涼しくは感じられない。他人事ながら熱中症が心配になるな、と思いながら、倫玖は、出された麦茶とアイスクリームを、博志にも勧めた。倫玖の経験上、何故か此の年代の人々は、あまり水分を摂らないからである。そう、勧めなければ、遠慮も要らない自分の家に居るというのに水分を摂ってくれないのだ。倫玖には其れは深刻な問題である。だから、倫玖は素直に、熱中症を心配している旨を伝えた。すると、大袈裟だねぇ、と言って、博志は何故か嬉しそうな顔をして、麦茶を飲んでくれた。
倫玖が、アイスクリームを食べながら、O駅から徒歩で来た事を告げると、博志は嬉しそうに笑いながら、若い者は元気だなぁ、と言った。
「いやー、綜一さんが生き返ったみたいだなぁ。背が高くて、随分体の丈夫な人で」
会えば、綜一さんの若い頃に、そっくりだ、などと、嬉しそうに博志に言われるのは毎度の事だったが、今日の倫玖は、其の言葉を複雑な気持ちで聞いた。
「そんなに?」
倫玖の言葉に、博志は、胡坐を掻いている矮躯を更に前屈させて、すっかり少なくなった歯を見せながら、ケラケラと笑った。倫玖には、博志が更に縮んだように思えたし、其の優しい笑い皺が刻まれた顔は、年々萎んできているように思える。
そっくりだぁ、と博志は言って、ニョッと首を伸ばし、倫玖の顔を、ジッと見た。
「殆ど同じ顔だよぉ。良かったな、祖父さんに似て男前で。ありゃあ、男から見ても綺麗な顔しとった。紅子ちゃん、ベタ惚れでなぁ。飛鳥ちゃんは昔、芸能事務所入ってなかったかね?流石、綜一さんの孫だと思ったもんだ。倫君も入らんのかね?」
「や…俺、向いてなさそうだから、興味が持てなくて」
飛鳥の幼少期に、周囲から容姿を褒められていたので、試しに事務所に入れてみたが、結果、性格的に向いていない事が判明したので退所させ、下の子供二人は最初から入れなかったというのが倫子の弁である。長女故には/か、見掛けに寄らず、意外に生真面目な所が有り、大人の言う事を聞いて撮影等の大人しく臨んだ筈の飛鳥に向いていないという事は、当時引っ込み思案だった美紅や、当時奔放な性格をしていた倫玖には無理だと判断したのであろう。一度も、そう言う世界に興味を持った事はない倫玖だったし、今となっては、苗の神様の関係者に顔を売りたくないので、当時の母の判断を、倫玖は有難いと思っている。恐らく、今後も興味を持たないであろう。望むのは普通の生活である。誘拐などされないような。
博志は、そうかぁ、と言って、更に笑った。
「いや、でも、自分に似た子が子孫に居るのは、綜一さんも嬉しいと思うよ。勇二がいたら、こんなだったかなぁ」
「あ…」
思わず目を見開いてしまった倫玖の反応に、博志は、悪い、と言った。倫玖も、いえ、と言った。
吉野勇二は、僅か十九歳で、バイク事故によって亡くなったのだという、玖一の弟である。三十八年前の夏に亡くなったというので、会った事は無いが、倫玖には叔父に当たる。写真を見る限り、勇二は綜一に酷似していた。恐らく、倫玖よりも。勇二の夭逝による不在が、長い間、祖父母と父を苦しめてきた事を、倫玖は知っている。綜一も紅子も、亡くなる其の日まで、勇二の位牌に語り掛け、御仏飯を供えていた。玖一は、仏壇を妹に持ち去られた今も、勇二の写真を書斎に飾っている。玖一を可愛がってくれていた、という事は、其の弟の勇二の事も、博志は性格上可愛がってくれていた筈で、発言に、懐かしさ以外の他意は無かったであろう事は倫玖にも分かっていた。だが、其の名前を出されると、何時も何か、相手が自分の顔立ちに向ける感情が、倫玖をすり抜けて、自分が一度も会った事の無い、吉野勇二という人物に向けられるように倫玖には感じられるのだった。相手の眼差しも何もかも、其の時は、倫玖に向けられたものではない、と感じる。其の様にして、早逝した人間と同じ顔、という事実は、何時も少しだけ、倫玖を困惑させる。自分でも、如何捉えて良いか分からない事実なのだ。そんな時、ついでのように容貌を褒められると、倫玖は更に困惑する事が有る。十人並みでない容姿の人間が、そんなに何人も存在する、という事が、果たして有り得るのだろうか、と。
顔が似ている、というのは如何いう事なのだろう、と、何時も倫玖は思う。
大好きだった祖父と似ていると言われる事は嬉しいが、倫玖には何と無く、其れは、遺伝子に刻み付けられた呪いにも思えるのだ。長い時間が流れても、子孫に、何人も、同じ顔が生まれるのだ。同じ顔。祖父と叔父と同じ顔なのだとしたら、自分の此の顔は、元々は一体誰の顔なのか。自分の大元になる、自分そっくりの同じ顔は、誰の顔なのか。
そうだ、と倫玖は思った。
―居たじゃないか、俺と同じ顔の奴。もう一人。…あいつは一体何だ?
念の為に、博志達にも、綜一の過去について尋ねてみた。
鹿児島の人だったらしいなぁ、と、博志は、右手で胡麻塩頭を擦りながら言った。
「鹿児島の…何処だったかねぇ。鹿児島市かな?それで、戦災孤児になったって。酷かったらしいからな。あそこも、当時は繁華街が焼け野原になったらしい」
鹿児島市、という言葉に、倫玖は、『53gのダイエット』という言葉を思い出した。
「その…鹿児島には、もう、じいちゃんの身内っていないの?」
「どうかねぇ、居たら、態々(わざわざ)東京まで出て来ないと思うがなぁ。一度も帰ってないって言っていたし。当時は、場所によっては田舎の方が食べ物も有っただろうし。相当の距離だよ。線路沿いを何日も、食うや食わずで、歩いて上京して来たって聞いたからなぁ。半月かかったとか」
「え?そんなに長い距離、歩いて?」
徒歩での移動、というのは初耳だった。驚く倫玖を他所に、博志は話を続ける。
「途中、船は乗ったとか何とか。四国を経由して、本州に渡ったって。でもまぁ、戦災孤児なんて、当時は珍しくも何とも無かったからなぁ。食える為なら何だってやったと思うね。要は、郷里に居たって食えないって、見切りをつけたってくらいの理由で出てきたのかな、と。あの頃身寄りが無くなったら、そんなもんだったろうなぁ。ギリギリ従軍出来るくらいの年だったって聞いたよ。今で言うと子供だ。其れが、思い切って、何処かに行けば仕事が無いか、と思ったとか、そんな理由なんじゃないかと思う。思い出すよ。どの駅前にも、腹を空かした、ボロボロの服の子達が屯してなぁ。でも、こっちも当時は、何か助けてやれるわけじゃ無い。手持ちの食べ物渡しても、其の場凌ぎで。其れを食べ終えたら、また、あの子達は食べ物が無い。手持ちの食べ物も…家が農家だったから他所よりはマシだっただけだ。芋が有ったら御馳走だ。闇市でブドウ糖買って。甘い物っていうと、其のくらいで。日本中が、そんなだったよ。戦災孤児で身寄りが無くなるなんて、何も珍しい不幸じゃなかった」
博志は、悲しそうな顔をして、もう溶けてきているであろう、自分の分の、未開封のカップアイスを見詰めながら、何処も酷かったよぉ、と言った。
「どんな気持ちで故郷を出て、東京まで来たのかね、綜一さんは。妙に育ちの良さそうな所が有ったなぁ。俺より幾らか年上で、優しくて。…そうだなぁ、知らんと言うより、聞けなかったな、過去の事は。あの人の絵が、あんなに綺麗だったのは、辛い物を見過ぎたからじゃないのかな、と思う事が有ったな。剽軽な人だっただろ?」
そうだった。明るくて、子供の様な所が有って、大好きな祖父だった、と倫玖は思い返した。倫玖は、ゆっくりと頷いた。そうだったよなぁ、と博志は寂し気に言った。
「元から明るい性分だった、というのはあるだろうけど、見てしまった、怖い事や、汚い物の事を、もう口に出して言いたくなかったのかな。だから、あんなに明るい人だったのかもしれない、と俺は思っていたな。ほら、繊細な絵を描く人だっただろう。綺麗な。ああいう人が、辛い目に遭って、無神経ではいられまい、とね。…なのに、勇二まで亡くなって。あの人が、どれだけ傷付いただろうかと」
ごめんな、と博志は言った。
「綜一さんとは仲良くしていた心算だったが、俺は、其処までは、あの人に踏み込めなかった。相手も、自分の話はしなかった。知られたくなかったのかもしれない。だから、よく知らない。あとな、此れは御願いだが」
「え?」
「誰かに似ている、と言われる事を、嫌がらないでいてくれないか。誰かにとっては、居なくなった大事な人と同じ顔の子が生きているという事が、救われる事でもあるから」
博志の優しい目は、其れは呪いではない、と語っていた。倫玖は、上手く返事が出来ず、ただ頷いた。
博志宅を辞してから、倫玖は、都営住宅付近の踏切を渡らず、其の儘線路沿いを、K駅方面へ向かって歩いた。此の儘帰るのも何だし、駅前のデパートで涼みがてら、折角なので、久し振りに、例のマンションの見える連絡通路まで行ってみようか、と思った。ターゲット『まなみ』が、今日在宅とは限らないが。
―何時になったら接触出来るやら。…あーあ。珍しく、こっち側から歩いて来たし、偶にはクレープ屋にでも寄るかな。そう、あの子の家の近くじゃない方の。
そろそろ、接触方法を考えるべき時期に来ているのかもしれない。そんな事を思案しながら、倫玖は歩を進めた。
気温は其れ程の高さでも無いが、兎に角蒸す。キャップを被ってくれば良かっただろうか、と思いながら、線路沿いの道を歩いた。針金で出来た網のフェンス越しに線路を見詰めながら、倫玖は、祖父の事を思い出した。
―線路沿いを歩いて、東京まで来たのか、じいちゃんは。
祖父は昭和二年生まれである。終戦時は、奇しくも、倫玖と、ほぼ同じ年くらいだった事になる。自分だったら、食うや食わずの状況で、途中船を使ったにしても、徒歩で鹿児島東京間を移動出来る気がしない。小学校の六年間、親に護身用だの体力作りだのと説き伏せられて、無理矢理柔道を習わされていたせいか、体力は有る方だとは思うが、高校の選択授業では剣道を選択してしまうくらい、柔道は合わなかった。以来、中学校でサッカーを少し遣ったきり、高校では帰宅部で、自転車通学と体育の授業以外で、特別な運動はしていない。
―じいちゃんの十代の時は、どんなだったのかな。
遠い、戦時中の事に思いを馳せながら、K駅方向に向かって線路沿いを歩いて行く途中の小学校付近で、倫玖は、驚きに、思わず足を止めた。
白いオフショルダーのコットンワンピースを着た少女が、黒い日傘を差して線路沿いに佇み、針金で出来た網のフェンス越しに、線路の方を眺めていたのである。
―あのワンピースだ。美紅の店の。
そう、あの顔は見間違えない。『まなみ』だ、と倫玖は思った。
傘から黒髪が垣間見える。艶めく髪が、鎖骨に、胸元に、剥き出しの肩に、首から後ろに、サラサラと流れていて、其の隙間から、透けるような白い肌が覗く。色白で白い服を着ているので、曇り空の下、黒い日傘、黒い髪とのコントラストが強く、何処か人形じみても見える。血の気を感じない頬は、遠目からでも青白く見える程で、弱々しい表情で俯く横顔からは、長い睫毛が影を落とす、大きな瞳が見えた。
倫玖は、思わず傍に寄った。相手は倫玖に気付かない。傍に寄ると、相手は、想像していたより華奢だった。
倫玖は、思わず、其の姿を見詰めた。自分の目が、相手をスケッチし始めるのを感じた。そんな事は生まれて初めてだった。絵なんか嫌いだと思っていた倫玖は、自分で自分が信じられなかった。此れが、目や心に刻む、という感覚で、自分がもし天才だったら、其れは創作意欲と称されたかもしれないものなのだ、と、倫玖は、感じた。
其の儘相手を見詰めていると、倫玖は自分の胸の辺りに、微かな浮遊感を感じた。稍あって、ターゲットは、手にしていた何かを取り落とし、涙を流し始めた。落とし物をした事に、本人は気付いていない様子だった。唇が、何かを囁く様に微かに動く。倫玖は、思わず、もっと傍に寄って、相手が落とした物を拾ってやった。落とし物は、見事な造花だった。デニム地で出来た高価そうな花である。何処かで見たな、と倫玖は思った。
―そうだ。アイコンだ。『まなみ』のTwitterのアイコン画像の花だ。此の子、やっぱり。
倫玖は、意を決し、声を掛けた。
「此れ、落としたよ」
相手は、倫玖が声を掛けて初めて、倫玖の方を向いた。やっと倫玖に気付いた、という様子だった。そして、何か、信じられないものを見た顔をして、慌てたように涙を拭った。まじまじと、此方の顔を見てくる、涙で潤む大きな瞳は、驚きで見開かれていた。
倫玖は、其の、見返してくる瞳の美しさに、吸い込まれそうになりながらも、予想はしていたが、此処まで驚かれるとは、と、戸惑いながらも、言った。
「…あの。俺、その…あっちの、都営住宅の者で」
倫玖が、ポロッと嘘をついてしまいながら、今自分の来た方向を指差すと、相手は、顔面蒼白で、はぁ、と言った。倫玖が差し出す造花を受け取りもしない。驚き、というよりは、恐怖を感じられているという事を相手の表情から見て取ると、倫玖は焦って、言葉を続けた。
「あ、あのさ、良かったらなんだけど、ちょっと、どっかで、何か飲まない?一緒に」
「え?」
「えーと、水分摂った方が良いよ、湿度が高いと、曇りでも熱中症になるし。そんな所に居たら服も汚れるし、蚊も来るし、その…髪の長い白い服の人が線路沿いに、ずっと居たら、訳有りみたいじゃない?踏切にでも飛び込みたいのかなって。かなり長い事そうしてない?オマケに、泣き出したから、気になって。怪談みたい」
倫玖は、言うだけ言ってから、ハッとした。つい口が滑って、女幽霊みたい、というような言い方をしてしまったので、自分でも焦った。幾ら何でも初対面には失礼な言い方だったかもしれない。俺、こんな性格だったっけ、と思い、倫玖は、より焦った。如何してか、相手を褒めるような、上手い言葉が何も言えないのである。
今夏流行りのオフショルダーワンピースの白が、盛夏の昼下がり、曇りだというのに、花弁の内側から陽光を受けた花のように輝いて見える。其の姿には、肩と鎖骨と腕のみが露出した、健康的な美しさがあった。そうか、此れが清楚というのか、と、倫玖が、思わず膝を打ちたい様な気分になったくらいの美だった。
何か話さないと、と、倫玖は言葉を探した。
「あ、ごめん。兎に角、何か飲んだ方が良いって」
「…御財布、持って来ていないので。あの、有難うございます、拾って頂いて」
相手は、弱々しい声で、そう言いながら、そっと造花を受け取ってくれた。
「大丈夫、奢るから。あの、そうだ、あっち、直ぐ近くにクレープ屋が有るんだけど。行かない?えーと、怪しい者じゃないから。ほら、学生証」
倫玖は、畳み掛ける様に、そう言いながら、相手に学生証を差し出した。
―苗の神教関係者なら、俺の名前を見て、如何思うかな。
賭けだな、と倫玖は思った。アルマーニと似た顔。吉野綜一と同じ名字。相手の出方によっては、何か分かるかもしれない。
倫玖が差し出した学生証を受け取ると、相手は、益々(ますます)怯えた顔をした。
「よ、吉野さんという御名前なのですか?」
「うん、倫玖。吉野倫玖」
相手は、震えながらも、そっと学生証を倫玖に返してくれた。何を其処まで怖がられているのだろう、と思うと、倫玖は益々(ますます)焦った。吉野姓には、やはり何かあるのだろうか。何か聞き出したい、と、倫玖は更に言葉を探した。
「あ、そんなに警戒しないで。…困ったな。えっと、吉野綜一って画家、知らないかな」
吉野綜一だよ、と倫玖は思った。苗の神教と何か関係が有るのなら、多分其れは祖父なのだ。さぁ、如何出る、と倫玖が心の中で構えていると、相手は意外にも、少し落ち着いた顔を見せて、言った。
「…知っています。有名な方ですよね」
「あ、本当?」
吉野綜一が画家だった事の方に食い付かれるとは、意外な反応だった。苗の神教と関係する相手に、祖父の名前を出して受ける反応としては、あまりにも、世間話のように一般的で、倫玖は些か拍子抜けしたが、少し安心した。然程構え過ぎなくても、普通に話が出来る子なのかもしれない。倫玖は続ける。
「若い子は、あんまり知らないかと思った。俺、画家の吉野綜一の孫で…って言っても、信用してもらえないか。…困ったな」
倫玖は、つい本音で、困ったな、と言ってしまった。相手が少し警戒を解いてくれた様子だからと言って、上手い事が言えるわけでは無い。如何したものか、と思っていると、意外にも、相手の方から、躊躇いがちに話し掛けて来てくれた。
「え…えっと、あ、赤毛のアンとか、名作絵本シリーズの吉野綜一画伯ですか?本当に?」
「あ、詳しいね。そんな古い作品、分かるなんて」
其の点は倫子よりは余程話せる、と思いながら、倫玖はK駅の北口方向を指差した。
「其処の、中央図書館、在るでしょ?あそこに寄贈してあるから、司書の人に頼んだら書庫から出して見せてもらえると思うよ」
「まぁ」
相手は、ほんの少しだけ頬を染めた。其処に、喜色が滲んでいるように倫玖には思えた。先程覚えた浮遊感が、少しだけ蘇ってくる。何だか、話さなければ、という意気込みと、もっと話したいような不思議な気分が同時に起って、倫玖は言葉を続けた。
「親族だけだと管理が大変だから、アトリエも引き払って、絵も殆ど売っちゃった。遺品も、木の箸置きが幾つかと、何かルビーの髪飾りみたいなのくらいしか残ってない」
「…如何して、其処の図書館に寄贈なさったのですか?晩年の地は立川だと伺っておりますが」
「え?本当に詳しいね」
此の年で此の子、まさかの吉野綜一ファンなのか?と驚きながら、倫玖は、差し障りの無い範囲での説明を試みた。
「あの、吉野家のルーツは青梅でさ。じいちゃんは入り婿だからアレだけど、昔は、青梅に吉野村ってあってね。じいちゃんが立川にアトリエ移したってだけで、元は青梅に所縁の有る画家だから。途中で地元の画家グループを抜けちゃったから、あんまり知られてないけど。未だ他の親戚も青梅に結構いるよ。吉野って、此の辺じゃ、そんなに珍しい名字じゃないし」
青梅市の都営住宅在住というのは嘘でも、昔は青梅に吉野村があった、という話は本当である。但し、吉野家が青梅に在った頃の住所は霞村というらしい。若干場所にはズレが有るが、嘘ではない。因みに、此の駅周辺は、布の産地だった事から、調布村と呼ばれていた様である。戦後、霞村は、青梅町と調布村と合併して、東京都の青梅市になったと紅子から聞いた。
巧い嘘の付き方、というのが有る。沢山の真実の中に、嘘を、そっと忍ばせるのだ。
気は咎めるが、住所まで教えるのは得策では無い気がする。だが、相手に、倫玖に対する情報が増える事は大事だ。其処は、自分から開示して、親近感を持ってもらいたい、と倫玖は思った。リアリティの有る内容により、信憑性が増せば、多少は相手も、此方を信用してくれるかもしれない。此れで良い、と倫玖は思った。
―兎に角、開示する情報を調整しよう。そして、嘘は少な目に。
そして倫玖は、少々強引に行こう、と決意した。会話のネタが切れる前に場所を移動しなければ。如何にかして、何かを聞き出したい。幸い、祖父に興味が有る様子を相手が見せた事が、倫玖を勇気付けた。
「兎に角さ、どっか入ろう?ムシムシするから。名前は?」
「…『しみずまなみ』です」
相手は、躊躇いがちに、愛らしい声で、そう答えた。やはり此の子が『まなみ』か、と思うと、倫玖は、心の中でガッツポーズをした。
「じゃ、行こうか、『まなみ』ちゃん」
相手は、戸惑った様子を見せながらも、倫玖と連れ立って歩き始めた。
確かに、ターゲットに近付く為に、狙って自宅周辺を嗅ぎ回っていたのだから、全くの偶然とは言えないであろうが、此処までの事は、幸運としか言い様が無い、と倫玖は思った。倫玖は、胸の奥に、僅かに心地良い浮遊感を抱えた儘、『まなみ』と思われる少女を、直ぐ近くの、自身の行き付けのクレープ屋まで案内した。
先程まで泣いていたせいか、顔は少々疲れているようにも見えるが、相手の肌は美しく、日傘から垣間見える部分だけでも、しっとりして見えた。決して太っているわけでは無いし、骨が細そうと言おうか、実に華奢な子なのだが、餅肌のせいか、何処か肉感的でもあり、オフショルダーのワンピースから覗く丸みを帯びた白い肩は、連れ立って歩いていると、齧ってみたくなるような、柔らかそうな質感を感じた。白いコットン地のワンピースが、相手が歩くと、ふわりと翻り、其の繊細な凹凸のある生地から垣間見える、華奢な黒いミュールを履いた細い足首の白さは、殆ど日光を浴びた事が無いのではないかと倫玖が驚く程だった。倫玖の鼻孔を、仄かなシャンプーの香りが擽る。倫玖は、時折一種異様なまでに美しく見える、背筋の伸びた少女の、凛とした姿を見詰めた。
―綺麗な子だとは思うけど。
間近で『まなみ』を見たら、何だか、自分とは全く違う世界から来た人間なんじゃないか、と思ってしまう程、今まで倫玖が会ってきた女の子達とは、相手の様子が違った。つい、うっとりとしたような気持ちで見詰めてしまう。
―此れが、苗の神教に関係する女の子の特徴?
宗教で容姿が決まる、などと言う事は起こり得ようが無い話ではあるが、『さおりん』も綺麗な女の子だったのである。苗の神教の得体の知れなさや、相手の持つ黒い日傘、高価そうな造花と相俟って、隣に居る少女の美貌は、倫玖には、ただただミステリアスに見えた。其れに、コサージュの類なら兎も角、財布ではなく造花を持ち歩く、という行為も、よく分からない。しかし、其れを持って泣いていた、という点は留意しておいた方がいいかもしれない、と倫玖は思った。今、相手は不安定な状態なのである。卑怯だが、其処に付け入るしかない。クズの知は健在である。
オマケに『まなみ』は、表情で印象が揺れるのである。
弱々しく可憐なローティーンにも、二十歳ぐらいの華やかな女性にも、生活に疲れたアラサーにも、不倫に疲れた四十路女の様にも見えるのだ。そういう雰囲気が一人の人間の中に同居している事が、倫玖には何とも不思議だった。
―よく、こんな子が俺と一緒にクレープ屋に行こうって気になってくれたな。
最初は警戒心が強そうな、というか、倫玖に怯えているような印象を受けたのに、何とかなって良かった、と倫玖は思った。学生証はおろか、祖父の名まで出して、情けない話ではあるが、接触には成功したのである。相手が画家の吉野綜一について知っていて、多少気を許してくれた様子になったのは、単なる幸運であるが、何せ、話を聞いてもらえない事には、何も始まらない。
―其れにしても此の子、アルマーニとは如何いう関係?
アルマーニと似ている自分に如何してついてくる気になったのか、と、自分で誘っておきながら、何と無く、腑に落ちないような、面白くないような気持ちになって、倫玖は歩を進めた。
駅前北口の、『まなみ』の住むマンションの近くに在るクレープ屋は、ファンシーな店構えで盛況なのだが、ほぼ販売のみであるのに対し、倫玖行きつけのクレープ屋は、一応地図的には北口寄りであるものの、駅とは少し離れていて、人気が少ない。イートインスペースがあり、飲み物持ち込み可で、小規模展覧会や作家物の器の販売の御知らせ等が置いてある、御洒落な雰囲気の店なのだ。博志宅からの帰りには時々寄る店なのだが、此処に女の子と来た事は無かったな、と倫玖は思った。涼しい店内は、クレープの焼ける甘い香りがする。
「…へぇ、OLさんか。一人暮らし、偉いね」
御互い、クレープを食べながら、向かい合って話をする。パリパリした生地が美味いクレープなのだが、今日は何故か、よく味が分からない気がする。
相手の語る所によると、こうである。
中学卒業後、春に鹿児島から上京。縁故採用で五月から渋谷の不動産会社に就職しており、此の七月で試用期間が終わり、八月から契約社員になる。今後は、宅健の資格を取って不動産業のサポートをするか、情報システム要員として、パソコン管理やデータベース管理、サーバー管理の仕事を行っていくか迷った挙句、無駄になる事は無いと考えて、上司に教わって宅健の資格試験の勉強をしている、との事である。
聞きながら、何て?と倫玖は思った。
内容としては、ストーキングの成果も有って、知っている内容も有ったわけだが。年下だったよな?と思い、思わず首を傾げそうになりながら、倫玖は話を聞いた。要約すると、内容は、キャリアの方向性に関する悩みのようなものだったからである。今まで身辺にキャリアの方向性に関する悩みを持つ女の子は存在しなかった。此れが社会人という事か、と、倫玖は感心した。
倫玖は、汗など掻いた事が無い様な綺麗な顔をしてレモネードを飲んでいる、向かいに座っている少女の顔を見た。
其れにしても、視覚から入ってくる情報は、目の前の人間に対して、倫玖より年下の綺麗な女の子、という情報のみを伝えて来るのに対し、耳から入ってくる情報は重厚で、其の情報のテンションの違いに倫玖は混乱した。そして、此れではいけない、と思い直した。何か、話を広げなければ、と、倫玖は必死で会話の糸口を探った。
「あ、ストラップ、可愛いね。ランド?シー?」
造花と一緒にテーブルの片隅に置かれた、革製の手帳型ケースの付けられた真新しいスマートフォンに、例の鼠の、手の形をしたチャームの付いた、革のストラップが付いていた。おずおずと、ランドです、と言う愛らしい声が返ってくる。
「その、春に、さお…友達と行った時に買いました」
「そっか、キャラ物好きなの?ジブリとか?」
相手は、少し困ったような顔をして、倫玖に質問し返してきた。
「…あまり知らなくて。ディズニーとか、ジブリ、御好きですか?」
「上の姉ちゃんはディズニー好き、ジブリは下の姉ちゃんが好きだね。ほら、七月にUSJにハリポタの新エリアが出来るじゃない?俺、あっちの方が気になるな。大阪行った事一回も無いけど」
「…ごめんなさい、あまり知らなくて」
「えっと、金ローとかさ。あの、テレビね」
倫玖の言葉に、相手は、更に困ったような顔をして言った。
「…あまり、テレビって見せてもらえなかったのです。公共放送の子供番組くらいで」
倫玖は、そっか、と言いながら、内心、嘘だろマジか、と目を剥きそうになるくらい驚いた。ジブリもハリポタも知らない、年の近い女と、此れ以上何を話せば良いと言うのか。何時もの会話で話題にする、相手が興味を持ちそうなツボ、というのが、悉く外れるので、倫玖は困惑した。
しかし、何だか特殊な感じもするが、そういう家の子なのかもしれない、と思い直し、倫玖は言った。
「何ていうか、しっかりした良いおうち育ちだね」
相手は否定したが、そうなのだろうと思う。いちいち丁寧で、言葉遣いが上品なのだ。最初は、何も其処まで畏まらずとも、と思っていた倫玖だったが、話していくうちに、恐らく、此れが相手の常態なのだ、という事が、倫玖にも分かってきた。美紅の話を回想する。此の対応の丁寧さを、接客業の美紅が気に入ったというのは有り得そうな話ではある。成程、と思いながら、倫玖は会話を続けようとした。
「そっか、テレビはイマイチ?音楽とかは?最近何聞いた?」
「…ヤッシャ・ハイフェッツです」
「ん?えーと、ハ、ハイフェッツ?」
「ユダヤ人のヴァイオリニストなのですけれど、その」
相手は、そう言いながら頬を染めた。まるで、先端だけ赤を濃く滲ませた様な、赤から白までの美しいグラデーションを持つ花の様に愛らしい其の様子に、倫玖は再び混乱した。
―いや、可愛いけどさ。今の話で、頬を染めるポイント、何処だった?
分からない、と思いながら、倫玖は尋ねた。
「…あー、クラッシック?なの」
「ええ…その、録音技術が発達してから登場した演奏家の中では一番、という話を聞いて、昨夜、ついネットでCDを購入してしまいまして」
答えてはもらったものの、相手が実に恥ずかしそうに、そう言う理由が、倫玖には全く分からなかった。
―そ、そんなにハードなクラッシック好きさんなの?
益々(ますます)、何を話せばいいのか分からなくなり、倫玖は、困った。持てる限りの知識を総動員して、仮にバッハの旋律を夜に聴いたせいで、どんな心になったのだとしても、倫玖は夜中にクラッシックのCDをネット購入しない。
其れにしても、心臓に悪い恥ずかしがり方をする人だ、と思い、倫玖は相手のトロンとした目を見た。何かに酔った様な、夢を見ている様な目をするのである。実に気品のある外見とは裏腹に、其の様子が、ほんのり頬が染まる白い肌と相俟って、煽情的で、どこか官能的ですらある。 其処までクラッシックが好きなのか、と思うと、其の表情を、如何解釈していいのか分からなくなる倫玖である。
―いや、話を続けよう。何かは聞き出さないと。
「…あー、ダウウンロードじゃなくて、円盤買っちゃう感じなのかな?他には?」
「リヒテルですね。スヴャトスラフ・リヒテル」
「んー?リヒテル?」
「ええ、二十世紀最大のピアニストと称されているとかで。有名かも知れませんが」
そう言うと、相手は恥ずかしそうに、少し俯き加減で微笑んだ。本日初めての微笑みである。
―いや、可愛いけどさ。恥ずかしがるポイント、何処なの?
こいつは御手上げだ、と倫玖は思った。珍紛漢紛である。先ず、スヴャトスラフが上手く発音出来ない。
「そっか、クラシックが好きか。他には?何か、好きな物ある?」
「花ですかね」
「花」
「ええ、実家に沢山植わっていたのです。駅前のデパートの御花屋さんは苦手で、あまり生花は買えないのですが」
―クラシックと、花。クラッシックと、花。
触れた事が無い文化過ぎて、倫玖は、脳が其の知識を得る事に拒絶反応を起こしかけているのに気付いた。倫玖は、大体の事は一回で覚えられるのだが、絵画等、其処まで興味の無い事だと多少弱い。しかし、此処までの拒絶反応は人生初である。
そう言えばTwitterのアイコンも花だったしな、と思いながら、倫玖が暫く眼を瞬かせていると、あの、と相手が言った。
「そろそろ戻ります。御馳走様でした。レモネードもクレープも、美味しかったです」
相手が椅子から立ち上がり、御馳走様でした、とカウンターに声を掛けると、ボーイッシュで、いなせな感じすらする女店長が、有難うございましたー、と言った。
「あ、待って。連絡先、交換しない?」
未だ肝心の話を聞き出せていないのに、帰られては堪らないので、我に返った倫玖は、慌てて、そう言った。咄嗟に、相手が手にする前に、テーブルの脇に掛けてあった日傘の柄を掴む。此れで帰れまい、と思いながら、相手の顔を見上げると、『まなみ』は少し嫌そうに、愛らしい顔の眉根を寄せた。可愛いな、と倫玖は思ってしまった。実は、愛らしいだけの顔より、少しツン、とした様な、キツい、と言うか、意志の強そうな顔立ちが好きなのである。顔は『さおりん』より此方の方が好み、という失礼な第一印象は、恥ずかしいくらいに当たっていた。
「付き合ってよ」
思わず、そう言ってしまった倫玖に対して、相手は、酷く驚いた様子で、何故ですか?と返してきた。
―そいつは御尤も!
倫玖も、何故だと言われると困る、と思ったが、今更引き返せない。
「えーと、前好きだった子そっくりで、放っておけないっていうか、運命感じたっていうか。…駄目?彼氏居る?」
口から出任せにも程がある上に、歯が浮きそうだった。しかし、此の場を上手く収められるような、良い言葉が、他に全く浮かばなかった。こんなに口下手だっただろうか、と倫玖は、自分の言動に驚いた。冷や汗が出そうである。
―嘘八百だ。
こんな綺麗な子に似ている子と会った事など無いのだから。其れこそ、二人と居ないであろう、十人並みの容姿ではない美貌である。イートインスペースに居る客は自分達だけで、女店長が此方の会話を聞かないように努力してくれているのが、無言でクレープの具材用と思しきバナナを切っている横顔から、ありありと分かるのが、倫玖の居た堪れなさに拍車をかける。機会が有ったら、有絵瑠辺りに、運命とか平気で口に出す奴は一回疑えと教えてやった方が良いかもしれない、などと、倫玖は、動転し過ぎて、明後日な事を考えた。其れでも、言ってしまったものは仕方が無いので、相手の反応を待つ。
相手の反応は意外だった。泣き出しそうな、酷く傷付いた顔をした後、潰れた虫でも見る様な、不快感を露わにした目をして、此方を見てきた。え、俺、引っ叩かれるのかな、と思い、倫玖が覚悟した時、相手は、宜しいですよ、と言って、席に座り直した。
「彼氏など居りませんから。御付き合い致しましょう。了承致しましたわ」
―え、いや、好みの表情だけどさ。交際を了承する時の表情って、其れで正解なの?
「link1010(イチゼロイチゼロ)…」
交換したLINEのIDの一部を、相手が読み上げる。携帯に触ろうとすると嫌そうな顔をされたので、結局、メモ用紙を千切って、自分のLINEIDを書いて渡す事で交換する事にしたのだった。
「ああ、俺の誕生日。十月十日」
中学校くらいの時に適当に作ったIDなので、改めて見ると、ちょっと恥ずかしい気がする倫玖である。リンクは、倫玖という名前を音読みにしただけの当時の渾名だ。
―確かに当時もゲームは好きだったけども。もう如何にもゲームのキャラだよね。
流石中学生のセンスである。当時作ったTwitterのアカウントと、其れ程違いの無いIDにしてしまったのだ。作った後何年も使う想定が出来ていないIDである。
「二進数みたいですね…十かしら」
相手に、そう言われて、倫玖は、持参したタンブラーから飲んでいた、何時もの麦茶を、思わず吹き出しそうになったが、堪え、努めて平静を装って言った。
―何故其れを。
「あ、本当?二進数とか、うちの、数学教師の親父に言われたきりだな。詳しいね」
「…仕事で、ちょっと」
「ぎょ、業務で二進数必要なの?」
「…私も、必要だとは思えないのですけれどね」
如何いう事?と思いながら、同時に、倫玖は、あー、吃驚した、と思った。
飛鳥の誕生日は一月十一日で、0111とすると、二進数で七。美紅の誕生日が十一月十日で、1110とすると、二進数で十四。倫玖の誕生日を1010とすると、二進数で十なのだ。玖一の誕生日が七月十日、倫子の誕生日が七月十四日。此の数字の偶然に、玖一は、倫玖が生まれた時、揃った!と言って喜んだらしく、倫子と紅子を大変気味悪がらせたそうである。長男誕生のエピソードとしては不穏だ。綜一だけは、二進数って何?と言ってきて、玖一が説明すると、良かったね、と言って笑っていたらしい。此の様に、綜一のエピソードは、心が和む明るいものが多い。
相手からLINEが入ったので、倫玖も、交換したLINEの情報を見る。頭の中の、『しみずまなみ』が『清水麻那美』に漢字変換された。
「えーと、あ、此のID、もしかして、八月七日生まれ?『なのか』って読めるよね」
倫玖が、御道化た様に、そう言うと、麻那美は、一瞬悲しい顔をした後、穏やかに微笑みながら、ええ、と言った。
―あ、俺、多分、何か地雷踏んだわ。
しまった、と倫玖は思ったが、麻那美は何も言わずに、穏やかに微笑んでいる。
―いや、表情は可愛いけどさ。
俺が何か嫌な事を言ったんなら、嫌って言ってくれても構わないのに、と思うと、倫玖は申し訳ない気持ちになった。
「…それでその、御付き合いというのは、具体的には?」
麻那美の問いに、倫玖は、思わず、うーん、と言った。連絡を取り付ける事に必死で、具体的なプランは全く考えていなかったのである。
「えーと、デートとか?うーん、その、渋谷、とか行く?仕事帰りとかに」
御気遣いなく、と麻那美は言った。
「未だ学生さんでいらっしゃるのでしょう?失礼かとは存じますが、手元不如意でいらっしゃるでしょうから、御無理なさらないで。此の辺りで御話するだけでも宜しいじゃありませんの」
あまりにも分からなさ過ぎて、マンションの前まで送って行った麻那美と別れて、直ぐ『てもとふにょい』をスマートフォンで検索してしまった倫玖は、立川行きの空いた電車の中で、座席に座りながら、思わず頭を抱えてしまった。とても婉曲に、未だ学生さんで御金が自由にならないだろうから無理しないで、と気遣われていたのだ。良い意味で、如何いう育ち方をしてきたのか聞いてみたいくらい丁寧である。
―…あの子、俺より年下だったよな?
頭の中に疑問符が沢山出現してきてしまった倫玖だったが、今更後には引き返せない。取り敢えず、年下の、美人の社会人の彼女が出来た。事情を知らない人間から見たら、ナンパしたのと表面上ほぼ変わりが無い状況だという事実が、倫玖に、より強い疲弊感を覚えさせた。
怪しげな宗教団体について調べているだけなのに、妙な事になったものだ、と、倫玖は、考え込みながら、頭を抱えた儘、なかなか顔を上げることが出来なかった。
―…兎に角、明日渋谷で会って、一緒にランチする事になったし。何とか此処まで漕ぎ着けた。あとは連絡をマメにして、出来るだけ会おう。具体的な事は其れから考えよう。
夕飯の前に、勉強机に向かいながら、倫玖は、ふと、昼に千切って麻那美に渡したメモの切れ端の残りに、目に焼き付けた麻那美の姿を、ボールペンで描き付けた。誰かの顔を描いてみようと思った事など一度も無かったので、其の行為自体が、倫玖を戸惑わせた。酷く衝動的で、何かの熱を帯びた行為だった。
描き上がった顔は、倫玖には意味が見出せなかった。
―此れは絵じゃない。
祖父の絵は、写実的だったが、写真では写し取れない何かがキチンと含まれていて、あれは絵だった。絵でなければいけない何か、というものが存在していた。此の絵には其れが無い。写真で代替可能なものだ。
やっぱり絵は嫌いだ、と思って、倫玖は、自分が描いた絵を見詰めた。
此の絵を見ても、倫玖が麻那美の髪を美しいと思ったとか、正体の知れない浮遊感を胸に感じながら麻那美の姿を見詰めた、という事が、誰にも伝わらない、と倫玖は思う。
祖父の言葉を思い出す。
『画家の孫なのに絵が下手、って、揶揄われちゃったって?それで、絵が嫌いになった?俺は、倫玖は結構絵が上手いと思うけど、嫌いじゃ画家は無理だねぇ。上手いか如何かより、好きで、描き続けられるか如何か、っていう事の方が大事だからね』
『揶揄われたくらいで嫌いになるくらいなら向いてない。抑食っていけるか如何かも分かんない様な仕事だから。それなら他の仕事を探した方が幸せだよ、普通の仕事』
やっぱり向いてないな、と思い、倫玖は、絵を丸めて捨てようと思ったが、麻那美を描いた紙、と思うと、何と無く気が引け、捨てられなかった。だから、小さく畳んで、ペンケースに投げ込み、其の儘忘れてしまった。
倫玖は、衝動的に絵を描いた、という経験を経て、自分が絵画に興味を持てない理由に思い至った。自分自身が、自分の絵と祖父の絵を無意識に比べてしまうのが嫌なのだ。絵に興味を持ち、其れに関わってしまうと、祖父という存在は、如何しても、越えるべき対象になってしまうに違いなかった。其れは酷く面倒な事だった。そうだったのか、と、倫玖は、麻那美と出会う事で、思いがけず自身の内面を知った。絵を描くのは割と上手いと褒められる事はあったが、画家の孫だからだろう、と揶揄われたり、画家の孫の割には下手だ、などと言われたり、何を描いても祖父と比べられる事を避けられないで来たので、絵を描く事や、祖父の絵を含む絵画自体に、其れ程興味を持てなくなってしまっていたのである。
ボンヤリと、目と心に刻まれた麻那美の姿を思い出して、倫玖は、こんな事じゃいけない、と思った。
相手の麗質に目を奪われているようではいけないのだ。そんな事で目を曇らせていては、肝心の、苗の神教について、何も聞き出せないではないか、と思い、倫玖は、気を引き締めていこうと誓った。まさか、こんなにボンヤリするなんて、一目惚れでもあるまいし、と思い、倫玖は自嘲した。面食いの自覚はあるが、そういうものは信じていない。
―其れにしても、あの造花。普通持ち歩く?
麻那美の涙の理由も、結局今日は分からなかったのだ。アルマーニとの関係も。
いかん、と思い、倫玖は気分転換の為に、庭に出た。そして、何気なく、手にしていたスマートフォンで、倫子が世話している向日葵の花を撮った。肥料が良かったのか、一本、倫玖の身長くらいの高さに育ってしまったものが有るのである。大味で、可憐な風情と言ったものとは無縁だが、大きく咲いた花は、花火の様で、見事ではあった。
―あの子は花が好きだよな。
倫玖は、夕飯の後、麻那美に、何となくLINEで写真を送った。向日葵が、結構恥ずかしい花言葉を持つと知ったのは、相当後になってからの事である。程無くして、可愛らしい敬語のスタンプが二つ麻那美から返って来ると、たった其れだけの事なのに、胸の辺りに、再び、軽い浮遊感を覚えた。何と無く、自分が、たった其れだけの事に、感情が動きそうになった事自体が癪に触って、倫玖は、ロフトベッドに上り、ベッドの枕の下に携帯を突っ込んで、再びベッドから降り、猛然と机に向かって勉強した。
―別に、嬉しくないし。もう、絶対、うっとりして見ないし。
『さおりん@0807snkt 七月十九日 思い出のマーニー、今日が初日だって。ちょっと気になる』
『吉野@link1010tom 七月十九日 手元不如意の意味が分からなさ過ぎて調べたら、同じタイトルの曲が引っ掛かった。良い曲 水森@shin_mizumori0516さんがコメント 水森@shin_mizumori0516 七月十九日 お前本当に謎。中間は三位で、期末は五位だったよな?そういうの、何処で勉強するの?』
2014年の7月19日って映画『思い出のマーニー』初日だったんだ…と、書きながら、凄く懐かしくなっていました。