二〇一四年 五月十六日 吉野倫玖
倫玖の『同じ顔』の男と、ヒロイン登場です。倫玖の家庭環境も出てきます。
二〇一四年 五月十六日 金曜日
「吉野君、本当に、ごめんね。いや、何か、こんな事言ったらアレだけど、堂々と入ったら意外にバレないと思うから、勝手に入ってみて。駄目だったら御免。最悪の場合、俺から説明するし。こんな急じゃなかったら、後輩とかに頼んだのに。今からじゃ誰も掴まんなくて。同学年の友達は就活だし」
「いや、就活じゃ仕方ないスから。俺未だ高校二年だし、キャンパスの雰囲気知れたら良い、くらいの気持ちで。それより、大学三年から就活なんて、尊敬します」
「そう?いやー、やっと、この大学に入学した意義を見出せたよね。やっとこ目的達成って感じだよ」
「え?」
「うちの大学、幼稚舎から持ち上がりとか、そういう人がいっぱいいて。大学からの入学組と、ちょっと毛色が違うから。そういう人は家が結構金持ちなの。いや、全員じゃないけど。特に俺の周りはエスカレーター組も大学から入学組も金持ちが多くて、何か合わなくて、友達付き合いに無理が有ってさ。それが、ちょっとストレスで。でも、就職には大学名フルに使いたいし、頑張ったよ」
「あー。そういう事情が。しんどそうスね、そういうのも」
「そりゃ、いくら、大学が志望校合格したって、就職出来なきゃさ。あ、もう行かないと。あの、本当に、三田のキャンパスでオープンキャンパスやる時は案内するから、夏頃また連絡頂戴ね」
「有難うございます。じゃ、朝倉先輩、就活、上手くいきますように」
「有難う、吉野君。じゃあね」
倫玖は電話を切って、大学の正門を見詰めた。
―…いやー、此のタイミングでドタキャンされたら、流石に、次に連絡する勇気無いって。伝手を作った意味無いし。事情は有るにしてもさ。…先輩には立場上言えないけど。
幸いと言うべきか、土砂降りよりはマシ、と思うべきか、良い天気である。
―うん、良い天気だ。…天気は良い。大丈夫。
現実逃避にならない程度に、無理矢理母親譲りの『良かった探し』をしてから、倫玖は、さて行こう、と気合を入れた。大学内に一人で侵入とは、我ながら大胆だ、と思いながら、倫玖は胃が痛くなるのを感じた。
倫玖に似たターゲットは、普段は神奈川県在住で、偶々(たまたま)倫玖が目指している大学の理工学部に通っている筈である。今日、何か分かると良いのだが。
倫玖は、今日初めて高校を休んだ。実は、此の私大、Kの商学部を指定校推薦狙いなので、出席日数と成績はキープしている倫玖であった。高校には、親から、大学見学の為、と連絡してもらってある。オープンキャンパスは夏まで無い上に、場所が三田キャンパスになる。港北にあるキャンパスの平日の様子を見たいと言ったら、両親も担任も、どうぞ御自由に、と言った。担任には、二年生のうちから、そういう事を考えるとは流石だ、とまで言われた。そう、仮に、倫玖が志望する商学部に入学した場合、共通教養は港北のキャンパス、三、四年生になって専門的に学び始めたら三田キャンパスになる。下見という点では嘘では無かった。
しかし偶々(たまたま)、此の数年、同じ高校からK大学に進学した先輩は居なかった。下見という名目で侵入しようにも、伝手が無い。倫玖の通う都立高校は、多摩地域では一番の進学校であるが故に、指定校推薦枠を使わないで進学する生徒も多いのだ。第一、指定校推薦で進学しても、私大の学費は自分持ちなのだ。特待生になれるわけでは無い。年度によっては私大の推薦枠が余る年も有るのである。実力で有名私大を受けるか、国公立大学を受けるか、といったところである。倫玖の大学受験の時も推薦枠が余ってくれていると良いのだが。
担任に相談したところ、方々(ほうぼう)尋ね回って、朝倉蓮という大学三年の先輩を見付けて、紹介してくれたのだが、構内案内を約束した日に、相手からドタキャンされてしまった、という次第である。無理矢理立て直した気分が、再び萎む。
―…やっぱドタキャンしんどー。当日じゃなくて、もう少し早く連絡してくれよ、せめて。今更帰るのも交通費使ったから勿体無いし。
事情が有るとは言えさぁ、と、更に倫玖は、心の中で不満を言った。
―大体、雑だよ。勝手に入ってみて、って、何だよ、其れ。防犯的に大丈夫なの?
そして一番言いたいのは、「伝手を探した意味が無い」という事である。倫玖は、其の様に、たっぷりと恨み言を言いたい気分ではあったが、抑朝倉という人は、自分より年上の先輩である上に、商学部の三年生で、疾っくに東京の三田のキャンパスに通っているのである。実のところ、態々(わざわざ)神奈川まで出て来てもらうのも悪い気がしてはいたのだ。
―実際、下見を理由にした不審者の不法侵入だしな。就活に比べりゃ、動機も不純だし。…うん、防犯って意味じゃ…。本当に、俺が一番不審者だよな。
其れを思うと、悪口を言いたい気持ちも、シュルシュルと萎んでいく。不平を言いたい気持ちと、申し訳ない気持ちが、天秤の様に交互に倫玖の心を揺らす。
―まあいい。
本来の目的はターゲットの追跡で、大学の下見は、ついでである。不純な動機でも、後戻りは出来ない。割り切って行こう、と、倫玖は気を取り直して校門を潜った。
倫玖が意を決し、大学構内に入ると、よっ、とか、おはよー、とか、気さくに声を掛けて来てくれる人が多くあった。あれ?と倫玖は思った。
―…成程。
『誰か』と間違えられているのである。
こういう感じだったら、授業とか、紛れちゃっても大丈夫なものだろうか、と、倫玖は、少し落ち着いた気分になった。朝倉の、堂々と入ったら意外にバレないと思うから、という言葉も手伝って、倫玖は、更に歩を進めた。
しかし、スラッとした、グレーのロングカーディガンの人物を見掛けた瞬間、倫玖は思わず隠れてしまった。
ターゲットである。
密かに追跡し、授業が始まった辺りで、ターゲットの入った教室に忍び込み、一番後ろの席に座る。出席も、回される名簿に丸を付ける、という形式で、名前も呼ばれないから、授業をサボってもバレないかもしれない、と倫玖は思った。
倫玖は試しに授業を受けてみた。共通教養のフランス語の授業らしい。講師は、なかなか良かった。雑談からの解説の導入が自然なのである。特に、セーヌ川のほとりで読書をしていたら、本の頁を綴じていた糸が切れて、風で、バラバラになった紙が川に落ち、必死に其れ等を拾い集めていたら警官が来て、不審がって紙を拾って捨てようとしたので『C,est mon(僕の) livre(本です)!』という、フランス語初級の、『This is a pen.』並みに使いそうにない言葉を本当に使った、という話は良かった。もしかしたら、毎年披露する鉄板ネタなのかもしれず、教室中の人間が大笑いした。しかし、抑大学の授業などというものに慣れていない倫玖にとって、フランス語の辞書も教科書も無い状態で、手持ちのルーズリーフだけで集中力を保つのには、一授業九十分は流石に長い、と感じたので、結局途中で抜け出した。
―いやー、男性名詞と女性名詞か…。Champignonが男性名詞ってのはウケるけど、フランス語、合うかなぁ?初見は流石にキッツいわ。ドイツ語なら、親父の辞書が家に有ったっけね?見てみようかな。しっかし、…いやはや、疲れたなぁ…。
ゆっくりと、大きく息を吐き、倫玖は、構内で発見した自動販売機でスポーツドリンクを買った。普段は、こんな所で出費などしない。倫玖は、何時も家から麦茶をタンブラーに入れて持参するのであるが、移動が長過ぎて、流石に麦茶だけでは喉が潤せなくなってきたのだった。
―熱中症だけは嫌だ。
全部飲み終わった頃、終業のチャイムが鳴った。洒落た校舎なのに、其れに似合わず、陸の王者がどうのこうのという、厳めしい応援歌の様な歌が、何処か遠くから聞こえてきた。理工学部のものかもしれないが、共通教養の聴講も出来たし、構内の雰囲気を知るという点では有益だった。しかし、ターゲットについては特に収穫は無い。帰った方が良いのだろうか、と思いながら、倫玖は、空になったペットボトルを捨てる為に、ゴミ箱を探し、歩き回った。
―暑い。
ジャケットの袖を捲る。去年の誕生日に自分で買った、黒い、小さな革製のボディバッグに、POLOの、黒い二つ折りの革財布を戻す。
―金持ちねぇ。…どんなもんなんだろう。俺は、バイトもしてるし、自分じゃ普通の家の子だと思ってるけど…。でもまぁ、受かれば私立の大学に出してもらえるってんだからな…。感謝はしないとだよな。しっかし、大学構内を見渡す分には、浮く程の金持ちが居るようにも見えないけど。
「あ、いた。俺のドッペルゲンガー」
倫玖は、声を掛けられた方向を見て、我が目を疑った。廊下のゴミ箱前で話し掛けてきた人物は、将に自分が追っていた人物だった。全く気配を感じなかった。其れに、近くで見ると、やはり、自分と似ていた。
「うわー、もう、七割は俺だわ。ほぼ同じ顔。背も横並びだし」
相手は、そう言うと、羽織っているロングカーディガンのポケットから、小さな小瓶を二つ出して、右手に握り直した。一つは、アルマーニの香水瓶だった。もう一つはアトマイザーであろう。
「えっと」
「授業前、今日、俺そっくりな奴が学校にいるって噂を聞いてさ」
―ああ、バレた?
そんなに直ぐに、と倫玖が嘆かわしく思っていると、相手は、ふーん、と言って、倫玖の姿をジロジロ見た。
「…何か、若いね。私服だけど、高校生?聴講?」
「あ、まぁ、そんなところです」
「何?理系?うちの大学受けたいの?」
「そんな感じです」
「ふーん。理工学部だったら、三、四年は矢上のキャンパスだから、あっちも見ておけば?折角だから。此処からなら歩いて行けるよ」
「あ、有難うございます」
実際は商学部志望なので、文系である。サラッと嘘をついてしまった、と倫玖は思った。相手は、倫玖の顔を見ながら、えーっと、と言った。
「名前。…ま、いっか。ドッペル、港北区のゴミの分別って分かる?」
「え?俺スか?ドッペルって」
ドッペルゲンガーみたいに自分に似ているからといって、初対面の倫玖をドッペル、と呼ぶとは。何だか、掴みどころの無い人物であるが、妙に他人の懐に入るのが上手い。倫玖は、すんなりと、此の人物の、他人に対する距離感を受け入れてしまっている自分に気付いた。自分に顔が似ている、というだけでなく、妙な親しみ易さがある。今初めて会ったのに、アッサリ世間話が出来る雰囲気なのである。しかも、容姿の割に目立たない。敢えて自分の存在感を消しているのではないか、と疑う程である。此方が追尾していた筈なのに、気付いたら隣に居た、というのは、考えてみると怖い話ではあるのだが。
しかし相手は、でさ、と、軽い調子で続けた。
「俺、四月に神奈川に越してきたばっかりだから、ちょっと分別に自信無くて」
「…え、其の鞄」
ゴヤール?と、思わず倫玖は呟いてしまった。
―サンルイ。しかもグレー。確か、此の色は特に高かったような。
気になっていた鞄なのでネットで値段だけ調べていたが、当然ながら、一介の高校生に手が出る代物では無かった。相手は、キョトンとした顔で見返してきた。
「あー、高いの?此れ」
相手は、自分の持ち物なのにも関わらず、実に軽く、へぇ、と言った。朝倉先輩の話の意味が少し分かったかも、と思い、倫玖は、信じられない様な気持ちで説明した。
「…中古でも、十万以下では、ほぼ見た事無いスね」
「そうなの?あんまり興味無いから」
美紅がアパレル関係の仕事なせいか、服飾関係の品の値段に早くから興味を持っていた倫玖とは真逆である。倫玖は驚きを隠せず、つい、大きめの声で、興味無くて持つ値段の鞄じゃなくないスか?と言ってしまったが、相手は軽く、そう?と言った。
「親父の御下がりだからね」
「…金持ちなんスね」
ブランドバッグを親父から御下がりで貰う家、というのは、倫玖の知る限りでは今まで聞いた事が無い。少なくとも自分の家では有り得ない。しかし、金持ちと言われても、相手はピンと来ない様子だった。
「うーん?自営業ではあるけどね。年商と実利益って違うでしょ?よく知らない。うちの親父はストレスが溜まると買い物とか、スイーツ食べに行っちゃう人だから、色々買って、飽きると、こっちに服とか鞄とか時計とか回してくるわけ。俺は拘りが無いから、其れを適当に使うけど」
「…お母さんじゃなくて?お父さんの話ですか?」
今日、倫子は今頃、将に、友達とショッピングに行って、御茶して、スイーツか早めのランチを楽しんでいる筈である。相手は、これまた軽く、うん、と言った。
「うちの親父、ショッピングと甘い物が好きだから」
やはり、倫子や美紅と同じである。因みに、玖一のストレス発散は煙草と、数ヶ月に一度の海釣りである。相手の言う父親像は、倫玖の中では女性の家族にしか変換出来ず、倫玖の中の父親像とは随分乖離していた。倫玖は、つい、続けて質問してしまった。
「…疲れたOLじゃなくて?お父さん?」
「オフィスで働いてはいるけど、OLじゃないねぇ。シングルファーザーだから、お母さんの役もやってくれようとしている節は有るけど。スイーツ好きは本人の特性なんじゃないかな」
―シングルファーザーなのか。
何だか、相手に対して特に知りたいわけでは無かった情報ばかりが増えていくな、と倫玖は思った。情報量の割に知りたい事が少ない。
「…趣味が良くて若そうですね、お父さん」
「若いよ。三十八だもん」
倫玖は、思わず、おう、と言ってしまった。思っていたより若かった。今年四十一歳の倫子より若い。因みに玖一は今年五十九歳。そろそろ定年である。
「硝子って、燃えないゴミ?未だ中身が有るから、燃えるゴミ?」
相手は、そう言って、右手に持っていた小さな香水瓶とアトマイザーを見せてきた。アトマイザーには罅が入っている。
「ああ、そういや、分別の話でしたね、…アルマーニさん」
倫玖にアルマーニと呼ばれて、相手は、安直、と言って爽やかに笑った。ドッペルゲンガーという呼び名も、安直さという点では良い勝負だと思う倫玖だったが、相手の笑顔が、あまりにも爽やかだったので、倫玖は、急に卑屈な気持ちになって黙ってしまった。下手に顔が似ている分、比較されると嫌だな、と思うくらい爽やかで、美しい笑顔だったのである。他人に対して、そんな気持ちを抱いた事は無かった。アルマーニは倫玖に対して、自分と七割似ている、と言ったが、相手が年上のせいなのか、持ち物が良いせいなのか、其れとも何か相手の内面から滲み出て来る、という様な抽象的なもののせいなのか、アルマーニの方が自分より何かが優れているように倫玖には感じられた。しかし、アルマーニは、倫玖の沈黙を気にした様子も無く、如何しようかな、と言った。
「適当に捨てるのもなぁ、学校だし」
「香水、好きなんスか?」
以前ボディーガードを兼ねて美紅の買い物に付き合ってデパートに行った時、テスターを嗅がせてもらったところ、好みの香りだったので気になっていた物である。香水の方は頑張れば手が出ない値段でもないが、ブランド名の敷居が高過ぎて未だ購入には至っていない。相手は、軽く首を振って、言った。
「いいや、此れも親父の。鞄の中に在ったの、気付かなくて、フランス語の辞書突っ込んだらアトマイザーが割れてさ。鞄の中が全部此の匂い。レモンとミントとジャスミンが混ざったみたいな。大分飛んだけど。瓶の方は空だし、捨てたくて」
「…ゴヤールの鞄の中に辞書突っ込んだって事スか?」
無頓着過ぎはしないか、と思い、倫玖は、問い掛けながら目を丸くしたが、答えるアルマーニの方は、微塵も気にした様子は無かった。
「うん、丈夫だよね。辞書二冊入れても大丈夫だったわ。辞書は試験の時持ち込み可だけど、電子手帳禁止のテストもあるから、紙の辞書の方を買うのが無難なの、重いけど。こういうのも、其のうち全部電子データになるかもしれないけどね」
ブランド品を、其のブランド名は考慮に入れず、丈夫とか、そういった実用性で語れる身分に一度なってみたいと思う倫玖である。よく見ると、メーカーは分からないが、相手が付けているアナログの腕時計も高そうである。捲られたカーディガンの袖から露出する手首に見える、黒っぽい革のバンドに高級感を感じる。倫玖が、そりゃ丈夫でしょうけど、と、呆れて言うと、いいの、と相手は言った。
「鞄は丈夫が一番。沢山入るし。…燃えるゴミかな、やっぱり」
話題は再びゴミの分別の話に戻った。完全に相手のペースである。
「あー…お父さんの物なら、お父さんに返却して、処分も本人にやってもらうのは如何スか。瓶の方が空って事は、アトマイザーに中身を移し替えて、持ち歩いて使ったって事じゃないスかね。今頃、其れを探してないとも限らないし。サイズ的に御試しサイズの瓶スけど」
倫玖の提案に、アルマーニは、それだ、と言った。
「親父に渡そう。よし、そうしよう」
「香水好きなんスか、お父さん」
「うーん、如何かな。匂いには敏感らしいけどね。部屋行くと大体アロマポットかデヒューザーがある」
夜、自室でアロマポットを焚きながらストレッチをするのは美紅の習慣である。倫玖は、如何にも上手く三十八歳男性の姿を想像出来ず、つい重ねて質問してしまった。
「…同棲中の彼女とか、お姉さんの話じゃなくて、お父さんの話なんスよね?」
「うん。ちょっと個性的で、あんまり、『父親』って型に嵌めない方が良い人なの」
また、特に知りたいわけではない情報を知ってしまった、と倫玖は思った。先刻から、三十八歳シングルファーザーの体質や嗜好、趣味に対する知識ばかりが増えていく。
「学食、来る?」
アルマーニは、倫玖に、実に自然に、そう言った。思わず、倫玖は、はい、と言った。学生食堂に向かうに連れて人が増えていく。視線が痛い。そっくりな人間が連れ立って歩いていたら、そんなものかもしれない。目立つのは得策ではないとは思うのだが、成り行き上仕方が無い。アルマーニは、人が多いな、と言いながら倫玖の方に向き直った。
「ドッペル、俺、部室寄って良い?」
「構いませんけど。え?部室?」
「俺、写真部でさ。部室に来る?学食の人が捌けるまで、ちょっとサークルに顔出して、写真提出に行こうかと思って。それか、学食で待つ?後で戻って来るからさ」
「…いや、折角だし、ついて行きます。構内見たいし」
校舎を出ると、露骨に人気が減った。急に、空気が変わったような気さえする。
「どんな写真か、見ても良いスか?」
倫玖が尋ねると、アルマーニは、肩掛けにしているトートバッグの中からファイルを取り出して、中から三枚の写真を出し、手渡してくれた。ども、と言って受け取ると、アルマーニは、曲げないでね、と言った。写真を見て、倫玖は素直に褒めた。
「写真撮るの…上手いんスね」
「自分じゃ分かんなくてさ、そういうの。何か、そう言われて勧誘されたけど」
一枚目は、縦撮りのモノクロ写真で、白っぽい平面の上に、白っぽい二重丸が乗っている写真だった。何が写っているのかは、よく分からないが、抽象絵画の様である。セピア色の部分から、くっきりと浮かび上がる平面と二重丸には、何か静謐な雰囲気があって、何処か引き込まれるものがある。二枚目は、カラーフィルムによる、横撮りの写真だった。カーブミラーに通行人が写っている。その中の一人だけがミラーにデジタルカメラを向けて、ミラーを撮影している。カメラで隠れているので、グレーのロングカーディガンと腕くらいしか見えないが、腕に、今日と同じ腕時計をしているのを見ると、この人物はアルマーニなのであろう。道の角がY字に見えるところに、カーブミラーの、オレンジ色をした丸が、真ん中にスッポリ納まっている。雑踏の中で一人だけミラーの方を向いて撮影している人物が、妙に印象に残る。三枚目は、またカラーフィルムによる撮影写真だった。如何という事の無い、藤棚の写真なのであるが、上手く切り取られているというか、横画面の上から三分の二が、長い藤の花房で紫色に染まっているように見える。ハッとするくらい、淡い紫が目に入ってくる。眺めていると、倫玖は自分が藤の中にいるような気持ちになった。
「…モノクロの写真が一番良いスね。好きなのはミラーの写真スけど」
「そう?モノクロの方は暗室にあった洗面器だけど」
「え?」
「先輩が、何か試しに撮りなさいって言うから、洗面器を壁に立て掛けて撮っただけ。記念すべき一枚目」
「洗面器?分かんなかった…」
「何か凄く褒められて、其の儘入部したけど。入部してほしかっただけかもね」
「…いや、此れ、良いスね。いや、初めてで此れって、凄いスよ。俺も、写真の事、何も分かんないスけど」
倫玖は、アルマーニの撮った写真から受けた印象によって、相手に好感を抱き始めていた。しかし、写真を返そうとして顔を上げ、アルマーニの表情を見ると、背筋が凍った。気付けば、辺りには誰も居ない。倫玖とアルマーニだけが、校舎の裏手にいた。
「…そういや部室って…何処ッスか…?」
そう尋ねながら、倫玖は、自分の冷や汗が止まらなくなっているのに気付いた。アルマーニは、氷の様な目をして微笑みながら、倫玖の方を見て、言った。
「俺を殺しに来たの?…此の顔の人間の存在は不都合?」
そう問いかけて来る、アルマーニの、明るい瞳の色が、恐ろしい程美しく見えた。五月の陽光を受けて、其の、色素の薄い髪も瞳も、内側から発光しているのかと錯覚する程の、蜂蜜を思わせる様な、暖かな色の光を湛えて輝いているというのに、其の光は、倫玖には酷く冷たく感じた。
「…殺すって?一介の高校生捕まえて、何言って…」
倫玖が、やっとの事で、そう言うと、アルマーニは、クスッと笑った。其の笑顔も、また美しかった。顔立ちが多少似ているからと言って、自分は、こうまで美しくは微笑めまい、と倫玖が思うくらいだった。
「冗談だよ。自分のドッペルゲンガーに会うと死ぬって言うじゃない」
そう言ってクスクスと笑うアルマーニは、もう恐ろしくは見えなかった。倫玖はホッとした。礼を言って写真を返すと、アルマーニは笑顔で受け取り、ファイルに写真を入れてトートバッグに仕舞うと、ジーンズのポケットから銀色の細長い箱を取り出した。
「ガム食べる?」
「…いや、毒でも盛られたら嫌だし、いいっス」
アルマーニは、ああ、バレた?と言って、また笑った。揶揄われているだけなのか、本気で言っているのか、倫玖には全く分からなかった。再び血の気が引く。
「俺、もう帰ります」
「そう?じゃあね」
倫玖は、そっぽを向くと、其の儘アルマーニの方を振り返らずに、ダッシュで校舎を出た。怖い。迷わず駅に向かう。
多分、アルマーニから、此れ以上の情報を聞き出す事は出来ない、と倫玖は思った。自分より何枚も上手なのである。
―其れに、あの目。
倫玖は、思い出して、ゾッとした。良く言えば、喧嘩慣れしている感じがする。悪く言えば。多分、倫玖は殺されていたのではなかろうか。そんな気がする。動物的勘、とでも言うべきものであろうか、此の世には、真面に相対しない方が良い存在、というものが在り、多少は格闘技めいたものを申訳程度でも習わせてもらった、長身の倫玖とて、其の存在に対して鈍感ではいられない。震えが止まらない。
―あんなのが居るのか。志望校変えようかな。でも、俺が入学する頃にはキャンパスの場所が違うか。…まぁ、抑受かれば、の話だけど。
倫玖は、駅に着くと、再びスポーツドリンクを購入してしまった。震えは止まったが、喉がカラカラである。一言で言うと怖かった。
家に帰った倫玖は、ホッとした。今日は平日で、玖一は杉並区の私立高校勤務故に夕方まで不在、倫子はパートの朝シフトの後、友達と車で遊びに行くというので、夕飯まで家に居ないが、美紅が休みで家に居たのである。良かった、と倫玖は思った。情けない話だが、何と無く心細く、今日は一人で家に居たくなかったのである。二階の自室に向かって鞄を置いてジャケットの上着を脱ぎ、階下に降りてリビングに行くと、上下、フューシャピンクのスウェット姿の美紅が、スマートフォン片手にウロウロしていた。美紅が倫玖に気付き、軽く片手を上げて言った。
「お帰りー、倫。どーだった?大学見学」
「ただいま。…遠かった」
隣の県に在るキャンパスだという意味では物理的にも遠いが、心理的にはシベリアに居た、くらいの気持ちになっていたので、倫玖は本心からの感想を言った。しかし、美紅は不思議そうな顔をして、そりゃそうだ、と言って、リップラインボブの前髪を掻き揚げた。美紅は、以前は脱色し過ぎてパサパサの長い髪をしていたが、飛鳥に間違われて酷い目に遭って以降、髪を切って、髪色も黒に戻した。余程怖かったのだろうと思うと気の毒になる倫玖である。髪を掻き揚げる美紅の手の、ショッキングピンクのジェルネイルについたラインストーンは、右手の親指だけ取れてしまっていて、倫玖には、みすぼらしく思える。美紅の髪の間から、両耳に一つずつある、ダイヤを模したジルコニアの小さなピアスがキラリと光った。美紅が休みの日も欠かさず付ける、バサバサした付け睫毛の下から、グレーのカラーコンタクトが見える。夜から、何人目かは失念したが、彼氏と出掛けるのであろうか、濃い目のリップも付けていた。倫玖は、ネイルアートもピアスも付け睫毛もカラコンも、其れ程好きではない。別に嫌いでもないが、美紅を思い出してしまい、何と無く、気持ちが少し萎えるのだ。
「そだ、この前、あんたの好きそうな子達が御店に来たよ。ゴールデンウィークの最後の日かな」
美紅が、ずっと見ていたスマートフォンの画面から顔を上げて、冷蔵庫から麦茶を取り出す倫玖に話し掛けてきた。
「ん?好きそうな?」
如何いう事?と倫玖は思った。好みの女性のタイプを美紅に教えた覚えが全然無かったからである。美紅は尚も続けた。少しポテッとした厚めの唇に塗られたリップの色が、爪の色と近い。美紅には似合うが、目がチカチカする配色だと倫玖は思う。
「ほら、清楚系っていうの?美人の」
美紅の、其の認識は誤りである。そして、倫玖は、清楚系を好みだと公言した記憶も無かった。確かに倫玖は、遍く美人は好きである。其処に、好みの系統などというものは実は存在しない。強いて言えば胸より脚派で、年上が良いが、声を掛けてくれた美人へ感謝こそすれ、食わず嫌いも好き嫌いも選り好みも無い。清楚系『も』好みである。倫玖は、美紅が何を言っているのか分からず、尋ねた。
「清楚系って?」
「髪黒い子」
倫玖は、え、そんだけ?と、思わず聞き返しそうになった。美紅の中での清楚系の基準が異様に低い。いや、清楚系という単語に対する定義が広過ぎる、と言うべきか。
「え、髪が黒いだけで清楚系だったら、美紅も清楚系だろ?」
「は?清楚でしょ?私」
寝言は布団の中で言えよ、と罵倒しそうになってから、倫玖は、はた、と気付いた。
「…あ、美紅、清楚系なの?髪黒いから?」
「うん」
あ、これ本気のやつだ、と思い、倫玖は愕然とした。美紅の中では、黒髪イコール清楚であり、髪色を戻した美紅も、美紅の中では清楚なのである。
―…姉よ、其れは事実の誤認というものである。清楚系というのは、髪色だけではなれないものなのだ。清楚の意味を辞書で引いてみるが良い。
俺が、もし何かの伝説の石板とかに生まれていたら、御前の脳に直接、何らかの能力で、其れは違う、と語り掛けてやったのに、と、倫玖が悔やみそうになるくらい、美紅と倫玖の『清楚系』という概念に対する認識には隔たりが有った。但し、何かの伝説の石板に生まれた場合、美紅とは血縁ではないので、そんな御節介な進言も出来ないが。倫玖は、美紅に、如何言おうかと逡巡した末、美紅との間の認識の違いを埋める事を放棄し、適当に会話を続けた。此の姉に真面目に何か言おうとすると正直疲れる時があるからである。此の世には、良くも悪くも、真面に相対しない方が良い存在、というものが在るのだ。
「へー、そんで、清楚系の子達が店に来たの?」
「そーそー。二人共、凄い美人だったよ」
「ふーん」
其の清楚系美人とやらが二人だったのも今知りましたけど、そうなんスねー、と思いながら、倫玖はコップに注いだ麦茶を飲み干し、更に適当に、最早内容すら無い相槌を打った。
美紅は楽しそうに続ける。
「何かね、一人、凄く丁寧な対応の子がいてさ。何か、こっちも丁寧にしてもらって嬉しかったよ、自然で。御嬢様なのかな?友達に、キャラじゃない服着せられて、ちょっと困り顔だったけど、可愛いから似合うの。もう一人は、凄いスタイル良くてー」
「へー」
同性に対して、そうまで美紅が言うのは珍しかったので、本当に、何だか美人で良い印象の子達が来店したのであろう、と倫玖は思った。此の姉は、同性に対して点が辛いのだ。倫玖は二杯目の麦茶をコップに注ぐと、グッと飲み干した。
―美味い。
今日は疲れたな、と倫玖は思った。美紅は、まだ話を続けている。
「可愛かったー」
「で、何で俺が好きそうって思ったわけ?」
「だって、今までの彼女、全員髪黒かったし。んで、モデル体型の子が多いよね。あと、倫、スゲー面食いだよね。どっちの子も、見たら絶対気に入るって」
マジか、と思って、倫玖は思わず目を剥いた。親にも知られた事は無いのに、美紅には、過去に何人か彼女が居た事があるのはおろか、好みのタイプまでバレてしまっていたらしい。結構油断出来ないな、と倫玖は思った。深淵を覗く者は深淵からも覗かれている、というわけだ。あれは何人目の彼氏だ、などと美紅に対して思っている時には、相手も倫玖の事を知って、似た様な事を思っているのである。
努々(ゆめゆめ)、自分の方が相手より賢く、物事を隠し果せているなどとは思う事無かれ。
隠す技術も研鑽していくべきだろうか、などと思案する倫玖を余所に、美紅は、未だ余韻に浸っているような顔をして、ニコニコしながらスマートフォンの画面を見ている。
「あー、可愛かったー。あーいう子達、また来てくんないかなー」
「そんなに可愛かったの。良かったね。で、何で、そんな話になったわけ?」
「今、仕事で、Twitterに、其の子達の写真上げ中なの」
「仕事?」
「そ。今日は休みの日だけど、御店のアカウントでね。何か、ゴールデンウィーク明けに急に辞めちゃったわけよ、前のTwitter担当の子が。そんで、急に押し付けられたっていうか。だから、ツイートしないといけない写真が溜まっちゃって、マジムカつく。今頃ゴールデンウィークの話上げないといけないし、意味分からん」
「そりゃ大変だね、休みの日に」
倫玖は、一応、小匙一杯程度の気持ちは込めて、労いの言葉を掛けた。美紅は、うーん、と言いながら、再び、スマートフォンを持ってリビングを歩き回り始めた。休日にまで業務が差し挟まれるとは、どんな仕事も、働くとは大変な事の様である。倫玖自身は、将来、営業、マーケティング、あわよくば金融関係とか、そういった職種への就職を考えているが、楽な仕事など無いのだろう。入試は兎も角、就職活動が上手くいくか如何かは分からない、と思うと、少し暗い気持ちになる倫玖である。しかし、今考えなくても良いか、と思い直した倫玖は、気分転換する事にした。
―暑かったし、シャワーでも浴びよう。
倫玖がシャワーを浴び終え、Tシャツとジーンズに着替えてリビングに行くと、美紅は夕飯の準備を始めていた。倫玖は、テレビの前のソファーまで移動して、足を組みながら座り、スマートフォンでゲームを始めた。稍あって、美紅が、あれっ、と言った。
「卵古い。ねぇ、倫。出汁巻き作ってよ」
「…自分で作れば」
「倫の方が上手いから」
其れは事実である。美紅は卵焼きが上手く巻けないのだ。
「いや、だからさ。何時も俺が遣ると、美紅、何時まで経っても出来るようになんないよ。俺、大学行ったら一人暮らしすんだからね?何時までも作らないよ?」
「逆だよ。出汁巻きぐらい作れ。私、これから豚肉の霙煮と味噌汁作るから。大根下ろすか出汁巻き作るか、どっちかはやりな。何、自分ばっかゲームで遊んで。一人暮らしするなら、一通りの料理は作れるようになれ」
倫玖は、スマートフォンをジーンズのポケットに入れて、渋々立ち上がった。受験生に凛太郎の世話をさせた罪悪感で、飛鳥は倫玖に比較的優しくなったし、受験生にストーカーからのボディーガードをしてもらったという感謝で、美紅は多少倫玖を立ててくれるようにはなったが、所詮末っ子、まだまだ立場が低い。何時も、姉達には最終的に従う倫玖である。卵焼き器に、畳んだキッチンペーパーで油を引きながら、倫玖は、何時もの話を美紅にする。
「だから、美紅は、強火で作るから巻けないの。最弱火だったら出来るからさ。俺だって、白出汁の瓶の裏見て、出汁巻きの分量調べて、出汁薄めて卵溶いて、混ぜて、弱火で焼いて、そんだけだからね?出汁巻きって」
「テレビでは強火でパパッと焼くでしょ」
其れは、プロユースの銅の卵焼き器の話である。此処までが、何時もの遣り取りである。此の後、倫玖が熱伝導の話を幾ら説いても、因数分解で理系分野とは縁を切った美紅は、何時も絶対に聞き入れてくれない。強火で焼くのが出汁巻きの正解なら、一体、倫玖が、じっくり弱火で焼いている、何時もの行為は何だと思っているのであろう。やはり此の姉に真面目に何か言おうとすると、時々疲れる時がある。そう、此の世には、真面に相対しない方が良い存在、というものが在る。其れは、幼少の砌から、骨身に染みているのだが。倫玖は、味付けした卵液を卵焼き器に流し入れながら、溜息をついた。
―此れだけは言うまいと思っていたが。今日はもう少し、踏み込んでみるか。
「でもさ、美紅。俺より下手だって自覚があるなら、聞いてよ。強火で慌ててやったら巻けないよ。ゆっくり火を通したら、慌てないから、絶対卵焼き巻けるって」
「あ、ご飯炊けた」
「美紅、聞いてねーだろ俺の話」
結局、倫玖の決心は無駄になった。そして、炊飯器が、米が焚けた事を示す音を発し始めた頃、倫子が、玖一と一緒に帰って来た。車で駅まで迎えに行って、玖一を乗せて帰って来たらしい。長身で瘦せ型の夫婦で、年の差は有るが意外に御似合いの、基本的に仲が良い夫婦である。玄関で、ただいま、と言う声がする。
「お帰りなさい」
大根を下ろしていた美紅が、そう言うと、倫子がリビングに、総菜の入ったビニール袋を持ってやって来た。倫玖も、お帰り、と言った。御土産だと言って、倫子は総菜を食卓に置いた。大盛りの野菜サラダと茄子の煮浸しと胡瓜の浅漬けが入っていた。渋い御土産だな、と倫玖は思った。そう、倫玖達に、というよりは、玖一の酒の当てなのである。仲が良い夫婦である。倫子と玖一が着替えに行ってしまうと、じっくり出汁巻きを焼く倫玖に、美紅が、大根を擂り下ろしながら、ねぇねぇ、と話し掛けてきた。腕捲りをしているダボッとしたスウェットに、エプロンを付けている美紅のシルエットが、ちょっとミシュランマンみたいだな、と思いながら、倫玖は、んー?と生返事をした。
「える、あんたの事、好きなんじゃないかなー。良いね、可愛い。妹みたいでしょ」
える、というのは、美紅の友達、有紗の妹で、小六の有絵瑠の事である。
「え…?俺は、もし自分が、あの子の兄貴とかだったら、俺は止めとけって言うけどね」
声が思わず真剣なトーンになってしまった倫玖である。もし倫玖が兄なら、今年の春からストーキングが日課の奴と、可愛い妹を交際させはしない。
美紅は困惑した顔をして、言った。
「…あんたって、偶に怖い事言うよね、何か。そんなさー、小学生の可愛い話くらい、適当に流しなよ。十二なんて、まだ子供だし」
倫玖は適当に、そーぉ?と言った。『まだ子供』にだからこそ自分は推奨出来ないのだが、と思いながら。
しかし、事情が有るとは言え、女の子達をストーキングしているとまでは流石に言えない。特に、美紅には。ストーカー被害に遭った親族が居るにも関わらず、其れを遣ってしまっているのが倫玖のクズな所だと思う。罪悪感が消えない。無知の知、ならぬ、クズの知、である。自らがクズである事を自覚する事こそが、真の認識に至る道である、と、ソクラテスは言わなくても倫玖は言う。追い回している女の子達が可愛いのが、これまた洒落になっていない感じがして、本当に嫌だ。
―…確かに、好みだわ、あの子達。
隠し事して、遣りたくも無い追跡行為をして。しんどいな、と倫玖は、出汁巻きを作りながら思った。
家族全員がリビングに揃うと、赤い甚平姿の倫子が、目を細めながら、うちの子達は、どの子も良い子だわ、と言った。オレンジっぽいカラーリングにした髪に僅かに白髪が混じり始めている。其れを、雑に一つに括って、食卓の椅子に座っている様子は、実に満足そうである。そろそろ始まるな、と倫玖は思った。其れは、玖一命名に寄るところの『良かった探し』タイムである。『症候群』と呼ばないのは、倫子本人が其れを現実逃避に使っていないからであるが、相当な苦労をしてきたらしい倫子は、現在の生活に対する感謝の言葉を、毎日の様に口にし、時には感極まって涙するのである。知らず知らずのうちに自分にも此の癖が移ってしまっているのは、其の様に育てられたのであるから諦めている倫玖だったが、某名作児童文学作品を、玖一は読んでいて、倫子は読んでいないところが、多少滑稽だとは思っている。時々、俺の時代の翻訳は主人公の名前はポリアンナではなくパレアナだった、等と、子供達に本の思い出を語る父に対し、翻訳の違いも何も、読書習慣すら無い幼少期を過ごした母が、はぁ?と言うのを聞くにつけ、此の二人が、高校時代の数学教師と教え子という接点以外の何で婚姻するに至ったのか、倫玖には理解が出来ない気持ちになる。仮にも思春期に、別段両親の馴れ初めなど、敢えて聞きたくも無いので聞かないが。思春期以前も、興味が無かったので聞いていない。加えて、父は兎も角、母の過去は、何と無く、怖くて聞けない。母親に比べたら、恐らく自身は絶対に苦労している筈が無く、そんな自分に、何のコメントも出来ない、と思うからである。
―其れにしても、じいちゃんが児童文学の挿絵やってた時期も有ったんだし、其の関係で、図書館に寄贈前は、じいちゃん挿絵のエレナ・ホグマン・ポーターの本が二冊は確実に家に在った筈なのに、記憶にも無いらしいからなぁ。現実逃避じゃなくて、辛い事を受け止めた上での幸せな『良かった探し』だから偉いとは思うし、救われるようなもんだけどさ。…何だろう、年々、親と何の話をして良いか分かんなくなるんだよなぁ。特に、母さん。
母親を、真面に相対しない方が良い存在、とするのは流石に気が引けるので、其れすらも、口には出せないのだが。そして案の定、倫子は、感謝の言葉を口にし始めた。
「御飯有難う。姉弟仲も良いしねぇ、良かった」
「別に仲良くないし」
賞味期限が明日だから、という理由で、卵六個分を出汁巻きにするよう強要され、少し苛々していた倫玖は、ムスッとして、そう言った。大体、倫子の言う『良い子』は、妙に基準が低い気がして、言われると倫玖は、何時も複雑な気持ちになるのである。しかし、倫子は、仲良いよ、と言って、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「バス停で兄弟を突き飛ばして、怪我させたのを、其の儘放っておいて自分だけバスに乗って学校に行くようなのが、仲悪いって言うの。うちの子達は、そんな事、しないでしょ?階段から蹴り落とすとか。うちでは無いから、本当に嬉しい」
缶麦酒のプルトップを開けた黒い甚平姿の玖一と、キッチンから持ってきた御盆から全員分の味噌汁を配膳している美紅の顔が、サッと青褪めた。切り分けた出汁巻きを載せた皿を二つ持って、食卓に向かっていた倫玖は、思わず目をパチクリさせてしまった。
「…え、其れは、兄弟喧嘩の話?傷害じゃなくて?」
倫玖は、姉二人に対してどころか、未だ他人を突き飛ばして怪我をさせた覚えが無い。他人を階段から蹴り落とした事も無い。
「あんた。障害っていうのは刃物出してからの話よ。兄弟喧嘩は兄弟喧嘩」
倫子が、そう言って、右手をヒラヒラさせながらケラケラ笑うと、食卓は、御通夜の様な空気になってしまった。
―あー、うん。絶体、苦労もしたんだろうけど。…怖いんだよなぁ、自分の母親が、どんな交友関係だったか知るの…。
そう、だから一つは、倫玖は、倫子が一体如何いう半生を歩んできたのか、未だ聞く勇気が無いのである。そして其れは、飛鳥も美紅も同じらしく、倫子の三人居る子供のうちの誰も、一言も其れについて口にしない。
「あ…はい。仲、良いです」
倫玖が、調子に乗ってマジすんませんした、と思い、青褪めながら、そう言うと、倫子は、ねっ、と言って笑った。玖一と美紅は、青褪めた顔の儘、食卓の椅子について、手を膝に置いて、黙って俯いている。
倫玖は、其の空気に耐え兼ねて、玖一に話し掛けた。
「…父さん、出汁巻き焼いたよ」
「…お、おー、有難う。美味そうだな」
玖一は、左手で、痩せ型なのに麦酒腹になりかけて来た腹を擦る癖を、無意識に披露しながら、引き攣った笑いを浮かべて、倫玖に礼を言った。美紅も玖一と同じ表情をした。
「あ、そーだ、大学の事、二人に話してあげたら?」
美紅は、倫玖に向かって、そう言いながら、玖一の右手から缶麦酒を取り上げ、玖一のグラスに麦酒を注いだ。玖一は、心持ち大きな声で、おっとっと、有難う、と言った。気不味い。だが、顔は兎も角、姉弟三人共、暴力や犯罪に対する感覚は玖一に似たのは幸いな事らしい、と倫玖は思った。倫玖は、出汁巻きを食卓に置き、席に着くと、美紅に向かって、分かった、と言った。
全員で、頂きます、と言うと、倫子が、で?と言った。
「如何だった?雰囲気、合いそう?」
「うん。一、二年の時通うキャンパスを見て来た。良い感じだった。ちょっと、先輩怖いなって思ったけど」
実際は、商学部の先輩でなく、理工学部の先輩が怖かったのだが。詳細は言えない。倫子が、あー分かるわー、と言った。
「先輩って、こう、幾つになっても逆らえないよね」
「あ…そう?そういうもん?」
逆らえないレベルの怖さなの?と思った倫玖は、何と無く先輩との上下関係のニュアンスが母親と違う事を感じながらも、あはは、と躊躇いがちに笑った。倫子は続ける。
「うんうん、最初に色々教えてくれたり、足抜けの時に庇ってくれたり、御世話になったから、やっぱり。随分会ってないけど未だに足向けて寝られないしね、こっちも」
倫子の笑顔に、何からの足抜けなのか聞けずに、倫玖は力無く笑った。今度は玖一が助け舟を出してくれる番だった。
「倫玖、えっと、商学部だったよな、行きたいのは」
「あ、うん。指定校推薦狙いだけど、一応、実力でも受ける心算…ごめんね、行きたい所が私立で。公立の方が良かった?」
倫玖が、そう言うと、玖一が、いいや、と言った。
「小中公立で、高校は都立に行ってくれるとは、親孝行な子だよ。学費を気にしているのは分かるが、大学は好きにしたら良い。商学部も多分実力でも受かると思うぞ、御前なら」
玖一は、千葉に在る国立大学の大学院で数学を専攻していたが、将来を考えて、数学研究を諦め、結局高校の数学教師になったそうである。現在は杉並区の私立高校教員だが、以前は千代田区の都立高校勤務だった。倫玖よりも背は少し高いが、見た目は畑で大根でも作っていそうな、素朴な顔立ちの眼鏡のおじさんなのに、意外とインテリなのである。基本は放任主義だが、一応信念あっての方針らしく、子供には、好きな事を遣ってほしい、と言うのが口癖である。倫子が、父子の遣り取りを聞きながら嬉し泣きを始め、言った。
「大学から一人暮らししたいからって、御金貯めるってバイトして、塾無しで成績も落とさないし。美紅も家に毎月御金入れてくれるしねぇ。飛鳥には孫も見せてもらっちゃったし。ああ、良い子達。あたしが、あんた達くらいの頃は、こんなじゃなかった」
美紅が、照れ臭そうに、お母さん、と言った。
倫玖は、倫子の『良かった探し』タイムが真骨頂を発揮していく気不味さに耐えきれず、急いで豚肉の霙煮と白米を掻き込んで、小松菜とシメジの味噌汁と、麦茶で流し込み、御馳走様、と言って食器を下げると、二階の自室に逃げた。去る背中に、美紅が、サラダも食べな、と声を掛けてきたが、振り返らなかった。親に褒められるのも、母親の涙も、母親と自分の感覚の違いを目の当たりにするのも苦手である。
自室で一人になった倫玖は、やれやれ、と思いながら、ロフトベッドに上り、ジーンズのポケットからスマートフォンを出した。寝そべりながら、そういえば、と思い、美紅の店のTwitterアカウントを見た。
―どれどれ、どんなツイートしたのかな、美紅は。
「えっ、嘘だろ」
Twitterの画面を見て、倫玖は思わず独り言を言ってしまった。美紅のツイートに添付された二枚の写真は、倫玖にとって非常に重要な情報だった。
『GW 原宿店に、さねかた さおり(左)ちゃん しみず まなみ(右)ちゃん が来てくれました 親友だそうです! さおりちゃんの#白のオフショルダーのトップス まなみちゃんの#白のオフショルダーワンピース #色違いパーカー#双子コーデ #新入荷#在庫有り』
顔こそスタンプで隠されているものの、左のスラッとした美脚の子と、右の華奢な雰囲気の子には見覚えがある倫玖だった。
―成程。…確かに好みだわ。
二人共、美紅が言っていた通り、胸元までの長さのサラサラストレートロングヘアだった。美脚の子の方が前髪有り、華奢な子の方が前髪無しである。
―似た髪型を、ちょっと変えている様な、仲が良さそうな、此の感じ。
そして二人共、スタンプで顔が隠れていても可愛いのが分かるくらい可愛い。店側が撮影許可を取ってアイテム紹介に使いたくなるわけである。一枚目も二枚目も、二人の立ち位置は同じだった。二枚目の、二人で、色違いのパーカーを着ている姿を見て、倫玖は確信した。右の華奢な女の子の着ている、ベビーピンクのパーカーと、白いカットソーと、ブルーのスキニージーンズの組み合わせに見覚えがあったのだ。
―おや、見付けた。『しみずまなみ』。
つい二時間程前にTwitterに上げたばかりという事も有ってか、リツイートが比較的少ない。倫玖は、リツイートのアイコンの中に、女の子が二人、首から下だけが写っているアイコンを見付けた。プリクラかな?と思いながら、倫玖は、アイコンをジッと眺める。二人の指を合わせて、真ん中にハートマークを作ってポーズを取っている。小さいが、すらっとした美脚の子が黒いショートパンツを穿いているのと、其の子よりは少し小柄で華奢な子が、花柄のシフォンワンピースを着ている姿が見える。
―…どっかで見たな、此の服。
此れかな、と思い、倫玖は、其のアイコンのアカウントを確認した。
『さおりん(@0807snkt)』
―おお、『さねかたさおり』ちゃん?
プロフィールを確認する。画像もプリクラ風である。
『A学園/看護/一年/練馬 数学頑張る』
―練馬。ビンゴ。はいはい、あの制服、A学園ね。
フォロー、フォロワーは、共に十人前後である。倫玖がTwitterを確認すると、フォローにも、フォロワーにも、インディゴブルーの大輪の花がアップになったアイコンがあった。他のアイコンは、大体加工した自撮りの写真だった。念の為、美紅のツイートをリツイートしているアカウントも見てみる。同じアイコンがあった。
おや、と思い、倫玖は、其のアイコンのアカウントを確認した。
『まなみ(@n0a8no7ka)』
―ん?『まなみ』?
プロフィールには画像も無く、『青梅』とだけあった。見付けたかも、と倫玖は思った。幾つか、アパレルショップの公式アカウントをフォローしているが、其れ以外は『さおりん』とやらの事しかフォローしていない。フォロワーも『さおりん』だけである。友達の交友範囲は狭いらしい。少なくとも、A学園の学生ではなさそうである。ツイートも殆ど天気の内容である。此処からは、そんなに拾える情報は無さそうだ、と倫玖は思って、『さおりん』のフォローとフォロワーを確認した。
―スゲーな、鍵垢が一人も居ねぇ。
倫玖は感心した。本人達は純然たるコミュニケーションツールの心算なのだろう、承認した相手以外に情報を非公開にしているアカウント、即ち、鍵付きアカウントが一人も居ない。オマケに『まなみ』とやら以外は、アイコンに自身の写真を使い、アカウント名に本名や誕生日を使い、プロフィールに学校名や住んでいる場所の地名を記載している。彼女達は全世界に向けて個人情報と友達との御喋りを垂れ流している事に気付いていないのだ。他人事ながら怖いな、と思いながら、倫玖は『さおりん』のフォロワーをジックリ見る事にした。気が咎めるが、千載一遇のチャンスであるからして、何か情報を見付けなければならない。良心の呵責に何処まで耐えられるかが、作業の進捗を左右する。
『さおりん』の『まなみ』以外のフォロワーは、全員A学園の一年生女子だった。
―お、寮生。
『みのりん☆実里(@m1n0m1n0m1n0r1adach1)』
―あー、そうそう、足立実里。
倫玖は、知り合いを見付けた。多分、中学校が一緒だった、一つ下の後輩である。
―確かA学園は江戸川区だけど、寮に入る程遠いかな。
ちょっと其の辺の事情は分からないな、と思いながら、更に見ていくと、寮生同士は仲が良いらしく、実里は、寮生繋がりのフォロワーも多かった。
もっと見ていくと、倫玖は、とんでもないものを見付けた。
『きゃりぃ(@12lucia6eucalyptus)』
アイコンの写真が、元カノの古窪夕花里だった。
ああ、アカウントも何か、そんな感じがするな、と倫玖は思った。オーストラリアに両親が新婚旅行に行った時のハネムーンベイビーだという事から、コアラの御飯のユーカリを文字って夕花里という名前になったとか言っていたのを記憶している。渾名は、ゆかり、が、ゆきゃり、になり、最終的に、『きゃりぃ』になったのだ、と聞いた。倫玖自身は夕花里ちゃんと呼んでいたので『きゃりぃ』という愛称に然したる思い入れは無いが、記憶には残っていた。クリスチャンで、洗礼名が聖ルシアから取られたとか。そう言えば、誕生日も、十二月だった気がする。十二月まで交際が続かなかったので記念日的な事は何も無かったが。『さおりん』の友達だったらしい。うーん、危なかった、と倫玖は思った。『まなみ』のマンションと思われる建物の前で観察するのではなく、黒いスーツ姿の男達の目を掻い潜りながら『さおりん』の追跡をしていたら、多分、遠からず元カノの夕花里と鉢合わせしていたわけである。面倒な状況が更に面倒になるところだった。
しかし、本来のターゲットは『さおりん』と『まなみ』である。二人の遣り取りの過去ログを漁った方が良さそうだ、と倫玖は思った。Twitterはメインの遣り取りでは殆ど使っていない様子だが、渋谷、不動産屋、など、断片的な情報は幾つか拾う事が出来た。我ながら堂に入ったストーカーぶりだ、と思い、倫玖は自嘲した。
『まなみ@n0a8no7ka 四月一日 消費税が5%から8%に』
『まなみ@n0a8no7ka 四月二十七日 八王子で停電が有ったらしい。一人の時停電は怖そう』
『まなみ@n0a8no7ka 四月二十八日 肌寒い。東京は寒いので、つい気温を気にしてしまう』
『まなみ@n0a8no7ka 五月一日 メーデーらしい。警戒の人がニュースに出ていた。流石、東京は人口が多い。今日は25℃くらい。暖かい』
『まなみ@n0a8no7ka 五月二日 四谷で人身事故らしい。電車が止まっているそうだ。今日は暑いくらいの日。気候が安定しない。体調を崩しそう』
『まなみ@n0a8no7ka 五月三日 今日も少し暑い』
『まなみ@n0a8no7ka 五月五日 朝五時十八分、地震。一分くらい揺れていて目が覚める。都心は震度五。一人の時揺れると怖い。余震は無かった。沖縄が梅雨入りのニュース』
『まなみ@n0a8no7ka 五月六日 折角の御出掛けなのに雨で寒い。もう御昼なのに12.5℃。車で渋谷まで乗せてもらう』
『まなみ@n0a8no7ka 五月六日 不動産会社の事務所で雨宿り。午後は雨が止んで、友達が迎えに来てくれた』
『まなみ@n0a8no7ka 五月八日 風が強くて飛ばされそう』
『まなみ@n0a8no7ka 五月十日 また強風。春に雹だなんて』
『まなみ@n0a8no7ka 五月十二日 また強風。本当に飛ばされてしまう。渋谷に就職初日なのに、凄い風』
『まなみ@n0a8no7ka 五月十三日 また地震。此の辺りは震度2らしいけど、品川は震度4。気候は初夏らしくなったけれど』
『まなみ@n0a8no7ka 五月十三日 アイコンを変えてみる。デニムピオニーというそう。不動産の仕事、上手く務まるかしら』
『まなみ@n0a8no7ka 五月十五日 朝は雨。昼から曇りになって良かった』
舞台である2014年は、まだTwitterのアイコンが丸くなかったり、「いいね」ではなく「お気に入り」だったりします。2015年から「いいね」に変更されたようですね。