吉野倫玖 回想
長くなりましたが、倫玖の回想です。
倫玖は回想する。
今年で高校二年生の吉野倫玖は、三人姉弟の末っ子である。高校教師の父、玖一、母、倫子、そして、高校卒業後、ショップ店員として働いている、三歳上の姉、美紅と、四人で立川市に暮らしている。五歳上の姉、飛鳥は既に嫁いでいて、倫玖には、凛太郎という甥が居る。以前は、祖父の綜一、祖母の紅子も同居していたが、二人共、既に鬼籍に入っている。至って平凡な家庭に育った、と言いたい倫玖であるが、高二にして、既に遺産相続争いと甥の子守り、下の姉のストーカー避けのボディーガード、誘拐未遂を経験している。ついでに、熱中症で死亡した祖父を発見したのも、ヒートショックで死亡した祖母を発見の後に電話で救急車要請をしたのも倫玖である。倫玖が十歳の時、綜一は七十九歳で亡くなった。其の二年後、紅子が亡くなった。倫玖は、今年十七歳にしてはパンチの効いた人生を送って来た気がしている。
十七年という、そう長くもない人生の中で、一番ハードな時期だったな、と倫玖が思うのは、中学三年の頃である。受験生でありながら、子守りとボディーガードという大任を仰せ付かっていた倫玖の身に、誘拐されそうになる、という、更なる災厄が降りかかって来たのである。
受験生という、人生単位でも割と忙しい立場であったのにも関わらず、子守りとボディーガードをしていた理由は、簡潔である。倫玖しか遣る人間が居らず、其れを遣る事でしか自身の居場所を得られないと感じていたからである。
祖父の死後、父と、伊豆に嫁いでいるのだという父の二人の妹との間に、遺産相続が勃発した。祖父の綜一は画家で、作品等の遺産も有ったので、結構ややこしい話になっていたのである。親を世話したのだから長男の玖一が相続すべきだという紅子の擁護もあって、話は拗れに拗れた。倫子は玖一より十八歳年下の妻で、叔母達は、倫子が玖一の教え子だった事も、行き成り長男の嫁に収まって、十九歳で飛鳥を産んだ事も、倫子の母親が早逝していて、父親は蒸発している事も気に入っていなかった。叔母達に家に押し掛けられ、親達の悪口をされる度に、倫玖達姉弟は針の筵だった。
結局、玖一に有利に話が進んだ後、二年後に紅子が亡くなってしまったので、再び拗れた。どのくらい拗れたか、というと、叔母の一人が、腹を立てて、業者を連れてきて、祖父母の仏壇を、無理矢理伊豆の婚家に持って行ってしまったくらい、拗れた。敬愛する祖父母の仏壇を、業者が黙々と解体、梱包して、運搬作業している様子を、倫玖は鮮明に覚えている。叔母の、其の異常とも言える怒りの感情の発露の仕方には、幼いながらに恐怖さえ感じたが、玖一の方は、仏壇で済むなら、と諦めたらしく、為すが儘にさせていた。実際、叔母達は、其れ以降姿を現さないので、今では平穏な暮らしを営んでいるが、長じてから考えても、あの行動は異常である。遺産の前では兄弟が他人になるなどとは聞き及んでいるが、拗れると実家の仏壇を解体される事も有るとは思いもしなかったし、倫玖は未だに自分の家以外で其の様な事例を聞かない。
結局其の後、熱中症とヒートショックという、家の気密性に問題のある症状で両親を亡くした玖一は、家の改築に踏み切った。離れのプレハブは、画家だった綜一のアトリエだったが、熱中症で死者が出た場所だという事も有って、撤去された。前の家とアトリエの跡地には、都内にしては贅沢な三LDKが建ったが、分配後の遺産と土地を基にしても、ローンが多少残った。父に加え、母もスーパーのパートを始めた。叔母達は、両親の留守中に、仮住まいのアパートに押し掛けて来たり、電話で悪口を言ってきたりして、倫玖達に嫌がらせを続けた。両親に心配を掛けまい、と、長女の飛鳥が秘匿してしまった為に、話は余計ややこしくなった。
其の様にして、家は改装中で、近隣のアパートに間借り、親戚との折り合いは悪く、両親共稼ぎ、と、物理的にも心理的にも居場所が無くなってきた頃、飛鳥が、十七歳にして、勝手に居酒屋で働き始め、同僚と授かり婚をして高校中退してしまった。比較的放任主義の両親も流石に大騒ぎした。事情を知った玖一は、叔母達と直談判して嫌がらせを止めさせ、以後、ほぼ絶縁状態。そして結局飛鳥は改築の済んだ実家に一度も住まぬ儘、同じ市内の緑川町に嫁に行ってしまった。
こうして、遺産相続に関する争いは幕を閉じたのだが、如何せん、生まれた甥の凛太郎の面倒を見る人間は足りなかった。だから倫玖は、姉の美紅と交代で、保育園に凛太郎を迎えに行ったり、世話をしたりしたのである。報酬は連絡用の携帯電話だった。
そして、飛鳥が伴侶の転職に伴って稲城市に引っ越し、やっと凛太郎の世話が終わった中三の秋、折悪しく、原宿のアパレルショップ勤務の美紅が、ストーカー被害に遭うようになった。夜道を尾行してくる、郵便受けの中を漁って元通りに偽装する、などというスタンダードなスタイルのストーカーかと思いきや、逮捕後の供述から、美紅がオークションに出品した品を落札して所有する等の癖の有る、なかなか、一本筋の通ったストーカーだった事が判明した。思い返しても生理的嫌悪感が止まらない倫玖である。
次女が、そんな被害に遭ってはいても、両親は共働きで、美紅に四六時中付いている事は出来ない。加えて、そんな大事な時期に放任して、美紅が自暴自棄になって飛鳥の二の舞になる事を恐れ、両親は、倫玖に美紅の警護及び監視を依頼してきた。其の際、倫玖は、昔は柔道を習わせていたから今も幾らかマシだろう、とか、背は高いし体格も悪くないから大丈夫、とか、結構無責任な太鼓判を押された記憶は有る。実際、逮捕された人間の意外な小柄さを見た際には、確かに此れなら何とかなったかも、と思ってしまった事は秘密である。
兎に角そうして、学校の後は、原宿に在る勤務先のアパレルショップまで美紅を迎えに行く、休みの日は美紅の買い物に付き合う、という、凡そ受験生の秋とは思えぬ生活を強いられた倫玖だったが、幸いにして成績は良かった。十文字くらいまでの英単語なら眺めているだけで覚えられるし、教科書を読めば、大体一度で内容を覚えられる。其れ程勉強には苦労した事は無いが、流石に、美紅を待つ為に、渋谷や原宿のカフェで勉強はした。報酬は交通費、コーヒー代を含む小遣い、高校合格した暁には御祝いにノートパソコンも買い与えられるという事であった。装備品はスタンガン。何故か母からメリケンサック、正式名称ナックルダスターを渡されかけたが、使用方法が不明だという理由から固辞した。
其の様に、何故か、親から貰った金で、姉の終業時間までカフェで受験勉強をする、という謎の生活を送っていた倫玖は、ある日、道玄坂の落書きを見ながら渋谷をブラブラしていた時、大勢の黒いスーツ姿の男達に取り押さえられた。
ナエンカンサァ、という、謎の単語が飛び交う中で、倫玖は咄嗟にスタンガンを使った。相手が怯んでいると、別の黒いスーツ姿の集団が出て来て、倫玖を助けてくれた。
其れは何故か、大企業、坂本 自動車の現会長、坂本彰二の手の者だった。
実は、祖父の綜一は、戦災孤児だったらしい。鹿児島からの上京後、同郷出身の坂本家に引き取られ、彰二達とは兄弟同然で育ったと聞いている。綜一は、未だ坂本自動車の社名が坂本織機だった頃、デザイナー部門に縁故採用され、事務員として就職した紅子に一目惚れされ、吉野家に婿入りしたのだと聞いている。
そして何故か、其の時、其の坂本自動車の会長、彰二が倫玖を助けてくれたのである。彰二は、ニヤッと笑いながら、渋谷界隈は随時見張っている、という様な趣旨の事を言っていたが、真偽の程は定かでない。揶揄われたのかもしれない。兎に角、そうして倫玖は助かった。
彰二の手の者は、A学院の裏手の方にある、同じ渋谷区の豪邸に、倫玖を連れて行ってくれた。其処には、彰二の兄、坂本自動車前会長の坂本紘一と、祖父の親友だったという、辰ちゃん、という、葬儀等で何回か会った事がある人物が居た。
紘一も彰二も辰ちゃんも、若い頃は男前だったのだろうな、と倫玖は思っている。
彰二はキリッとした俳優の様な顔でガッシリした体格をしているが、紘一は、酷く痩せている。しかし其の痩せた姿は、美しい総白髪と相俟って、枯れた枝に雪が積もるのを見るような、冴えた印象を受ける。不思議な人である。
不思議と言えば、辰ちゃんは不思議な髪をしている。黒と白と金の房がランダムに、メッシュの様に入った、フサフサして綺麗な髪をしている。鼻がツンと高くて横顔が綺麗だ。全員八十代だというが、長生きしてほしいものだと倫玖は思っている。
祖父は二人を紘と辰ちゃんと呼んでいたというので、倫玖は、紘さんと辰ちゃん、と呼んでいた。懐かしい顔に、倫玖は、姉のストーカー被害と、自身の誘拐未遂について報告した。其の後、坂本家の協力で、ストーカーは確保された。
調べによると、何と、居酒屋で働いていた頃の飛鳥と人違いされて美紅が狙われていた事が発覚した。倫子は猛り狂った。倫玖は、其の時メリケンサックの具体的な使用法を知った。犯人がジャガイモの様な顔になった辺りで、呆然としていた玖一と倫玖は、我に返って、倫子を止めた。
こうして事件は解決したが、倫玖の中には、誘拐されかけたという件が何時までも燻ぶっていた。ナエンカンサァ、と確かに言っていた、と訴えたのに、紘一も誰も取り合ってくれなかった。何か知っていて、隠されている様に倫玖は感じた。紘一達には、黒い服の男達に誘拐されそうになった事については口止めされた。
其の後、両親には、大騒ぎになったストーカーの捕物の一件と一緒くたにされてしまい、解決済み扱いされ、誘拐騒ぎの件は其れ以上強く言えなかった。如何やら事件の物騒さが、両親の理解力のキャパシティを越えてしまったらしかった。こうなっては、何を言っても無駄なのは、割と何時もの事だった。抑倫玖は、末っ子で立場が弱いせいか、普段から、あまり家族に話を真剣に聞いてもらえないのだ。悔しさと違和感だけが残ったが、受験勉強に本腰を入れられる環境が、やっと整った事には感謝していたので、倫玖は、粛々と勉強した。
そして、倫玖が無事、家から一番近い私服通学の高校に合格した頃、リビングのエアコンが壊れた。春でも寒い日は寒い。ヒートショックにトラウマを持つ両親は直ぐ業者を呼んだ。
「え、令一?」
やって来た業者の人が、怯えた顔で倫玖を見た。倫玖がキョトン、としていると、相手は、ハッとした顔をした。優しそうな、綺麗な顔をした人だな、と倫玖は思った。
年の頃は精々三十歳前後と思われる、其の男の人の胸に『坂本』というネームプレートが見える。相手は、恐る恐る、といった様子で、倫玖に話し掛けてきた。
「よ、吉野さんって。もしかして、吉野綜一画伯の…」
「ああ、はい。俺、孫なんス」
倫玖は祖父似なのである。有り難い事に、紅子が一目惚れしたというだけあって、写真の中の綜一は相当な男前である。相手はホッとした様な声を出した。
「ああ、驚いた、俺、てっきり」
「…坂本さんって、もしかして、坂本自動車の関係者とか?」
相手は、ギョッとした顔をした。何と無く倫玖は、そう思ったのである。冴えた月の光を思わせるような、端正な顔をした其の人物は、紘一に雰囲気が似ている様に感じた。
―此の人になら聞けるかな。
ナエンカンサァ、って分かりますか、と倫玖が言った瞬間、玄関の方から、室外機見ますか、と言う、倫子の声がした。作業着姿の其の人は、慌てて、胸ポケットから出したメモを千切って何事かを書き付けて、倫玖に渡し、外作業に行ってしまった。
紙には『坂本治一』という名前と一緒に、携帯番号とメールアドレスが走り書きされていた。連絡すると、相手は御道化て、倫玖を倫様などと呼んで相手をしてくれた。しかし、ナエンカンサァの事は、あまり教えてもらえなかった。危険だから、誘拐されそうになったのなら、あまり関わらない方が良い、と言うのである。自身も、ナエンカンサァから身を隠しているのだと言う。倫玖と一歳違いの、受験生の娘が居るとも教えてくれた。若そうだったのに、と思うと倫玖は驚いたが、治一は、名前以外は年齢すら教えてくれなかった。如何やら、倫玖が吉野綜一の孫、という事に、何かがあるらしい、とは思ったが、其れも教えてもらえなかった。
今時、LINEですらない、電話と携帯メールのみの遣り取りだったが、倫玖と治一は親しくなった。倫玖は、相手を治さんと呼んで慕っていた。倫玖は、治一には、何でも相談出来た。辛かった事。親に言えなかった事。バイトで起きた嫌な事。振られた事。治一が自身の事を何も教えてくれないから、自分の話題を出さなければならなかったというのも原因ではあったが、ナエンカンサァとは関係無い話だったのにも関わらず、電話の向こうの治一は、其れ等を笑って聞いてくれた。
そんな遣り取りが一年程続いた今年の三月、倫玖はインフルエンザで三日間寝込んだ。全身が痛くて、食欲も無く、大袈裟かもしれないが、死ぬかと思った。三日後、熱が下がってから携帯電話を確認して、倫玖は仰天した。治一からの着信履歴が沢山残っていたのである。何時も連絡は倫玖からしていたので、そんな事は初めてだった。メールまで来ていたので、倫玖は更に驚いた。慌てて内容を確認する。
『苗の神様の奴らに見付かった。危険な目に遭うようだったら迷わず逃げてほしい』
―え?何?…『ナエンカンサァ』って、もしかして、『苗の神様』って書くの?
倫玖は、メールの内容に慌て、急いで治一に電話したが、治一は出ない。何度掛けても出ない。幾ら送っても、メールにも返信が無かった。倫玖は毎日電話した。治一の家に行ってみようにも住所も知らない。やがて、電波が入っていないか、電源が入っていない為、繋がらない、というアナウンスが繰り返し流れるようになった。インフルエンザから完全に回復してからも、倫玖は、毎日電話を掛けた。アナウンスの通り、ただ、電波が入っていない場所に居るか、偶々(たまたま)電源が入っていないだけなのだ、と信じたい気持ちはあった。だから、毎日電話を掛けた。
倫玖は、毎日不安な気持ちで過ごした。そして、もう春休みも終わろうかという頃になって、漸く電話が繋がった。
「はい」
電話に出た声は、治一のものではなく、若い女性の声だった。
「…あの。坂本治一さんの携帯電話でしょうか」
「…もしかして、トモさんですか?」
「は、はい」
「…あの。ニュースを御覧になったかどうか分かりませんが。父は亡くなりました」
倫玖は、頭の中が真っ白になった。
「…治さんが?」
「はい」
電話の向こうで、女性の啜り泣きが聞こえる。
「私は、坂本治一の娘です。今日は、もう、此の携帯電話を解約しようと思っていて。充電が切れていたので、久し振りに充電したところでした。今日御話出来て良かったです」
「あ、あの」
「父は、トモさんの事、気に掛けてました」
「え?」
「高校生くらいの男の子だよって言ってました。如何いう御友達か存じ上げませんけど、もう、父の事は忘れてやってください。あまり、こっちに深入りして来ない方が良いと思います」
「…どういう事スか?」
「…言葉通りの意味です。さよなら。今日御話出来て良かったです。もう、今日で、此の携帯、解約します。最後に御話出来て良かった。父が、最期までトモさんの事を気にしていたのかもしれませんね。御元気で」
其の言葉を最後に、一方的に電話が切られた。倫玖は、信じられない思いで、もう一度電話を掛け直したが、治一の番号が繋がる事は、二度と無かった。
自室で、学習机の前に座って電話していた倫玖は、相手に電話を切られてから、慌てて、電源を入れていた、目の前のパソコンで、ニュースを検索した。
『二〇一四年三月七日、午後十六時頃、東京都あきる野市の路上で、カーブを曲がり損ねた車が…』
坂本治一(あきる野市・三十五)は、トラックで下り坂を走っている最中、春に珍しく降った雪でスリップし、ブレーキが利かず、トラックごと崖の下に転落した。
三十五歳、と思いながら、倫玖は、そっと指で、パソコンのディスプレイの文字を撫でた。若過ぎる、と思い、倫玖は唇を噛んだ。日付は、治一が最後に倫玖に連絡をくれた日だった。倫玖がインフルエンザで高熱を出して寝込んでいた最中の事である。
―事故だって?信じられない。
娘さんという人は、此の事を知っているのだろうか、と思いながら、倫玖は泣いた。
「苗の神様?そうなの?俺を誘拐しようとした奴らに、殺されたの?治さん」
そう言いながら、倫玖は更に泣いた。
「…絶対、暴いてやる。此の儘で終わらせないからな」
そう。危険が自分の身に迫っているというのなら倫玖は自分の身を守らなければならない。其れには、もっとよく知らなければ。『苗の神様』の事を。治一の娘の忠告は、申し訳ないが聞けない。其れどころか、治一の娘さんも危険なのではなかろうか、と、倫玖は心配で堪らなくなった。
倫玖は治一の娘を探し出す事を決意した。事は急を要する。しかし、如何したら坂本治一の娘を見付け出せるというのか。一介の高校生が、常識的な手段を使っていたのでは、到底達成出来る気がしなかった。念の為、紘一にも電話で聞いてみたが、案の定何も教えてもらえなかった。事故ではないのではないかと言っても否定された。倫玖は、益々(ますます)怪しいと思った。
初めて会った日の、治一の反応を思い出す。
『よ、吉野さんって。もしかして、吉野綜一画伯の…』
―…じいちゃんって、何処から来たの?
今まで一度も考えた事の無い疑問が、倫玖の頭を過った。考えてみたら、倫玖は、出身地以外、祖父の過去を、ほぼ知らないのである。
家族に聞いても大した収穫は無かった。戦災孤児だという綜一は、殆ど過去の話をしたがらなかったそうである。倫玖は益々(ますます)、何か怪しいものを感じた。倫玖のルーツに、何かあるのだろうか。
危険が及ぶ可能性を考えて、倫玖は、もう彼女は作らない事にした。新学期に入った頃、以前少しの間だけ付き合っていたが、受験を理由に倫玖を振った夕花里という女の子が、受験が終わったから遊ぼう、などと連絡を寄越してきたが、相手にしない事にした。抑相手の方から別れを告げてきたのだし、今更身勝手な話である。優しくて相手に都合の良い人間を演じている時間は無い。其れより倫玖には、遣る事があるのである。今後、倫玖の家族に危害が及ばないとも限らないのだ。例えば美紅が誘拐されないとも限らない。其の時、再び坂本家が助けてくれるかは分からない。実際、治一は、坂本家と無関係とは思えないのに、死んでしまったのだ。家族が危険な目に遭うのは嫌だ。何とかしなければ、と、倫玖は、謎の存在を恐れながらも考えた。
しかし、こんな話を信じてもらえるだろうか、とも倫玖は思った。最初に誘拐されそうになった時も、両親には相手にされなかったのだ。坂本治一という人が亡くなったという事と、倫玖が抱えている危機感について説明したところで、解決はしなさそうである。抑倫玖本人にさえ、自分が何故誘拐されそうになったのかが分からないのだ。倫玖自体に何かが有るのか、倫玖ではなく、祖父に何か原因が有るのか。祖父の存在自体に何かあるのなら、美紅も飛鳥も、玖一も危ない。伊豆に住んでいるのだという、叔母達、従姉達も危ない。
言っても誰も信じてくれないのなら、倫玖が家を、家族を守らなければなるまい。
今は稲城市に住んでいる飛鳥の結婚相手は警察官だから、飛鳥の事は、倫玖が警護を考えるよりは、飛鳥の伴侶の働きに期待しつつ、あまり接触を取らない方が得策かもしれない、と倫玖は考えた。警察関係者の家族に何かあれば、非常に目立つであろう。
なるべく家に居られるような、調査に時間を使えるようなバイトを求め、倫玖はバイト先を変えた。時間が自由に使えるように、知り合いの所有するテナントビルの清掃に入る事にしたのだ。其れ程時給は高くないが、好きな日、好きな時間に入れるという点は有難い。知り合いの御蔭である。立川駅付近のデパートが近い事もあり、通い易く人通りも多い。シフトも変則的なので、シフトを調べられて仕事上がりに女子から待ち伏せされる可能性も減った。これまでは、其のせいで、カフェもコンビニもバイトが続かなかったのである。考えてみたら変則的シフトは誘拐除けにも良さそうで、偶然だが、良い一面もあるものだな、と倫玖は思った。
やがて倫玖は、あきる野市の、治一が勤めていた工務店を探し当てたが、吉野、と名乗っただけで何故か社長だという人に門前払いを食らった。倫玖には、如何いう事なのか分からず、面食らった。しかし此れでは、あきる野近辺を探し回っても空振りに終わりそうである。もう少し下調べをしないと徒に金と時間を失う可能性が有る。先ずは、家で調べられる事を調べてみよう、と倫玖は思った。
『苗の神様』について検索していくと、倫玖は、とある人物に行き当たった。Twitterのプロフィールに黒い背景と『苗の神教撲滅』とある。如何いう事なのだろう。
『清掃員(@chavah53gdieT)』
―Twitterアカウント、ハヴァ?ハヤー?いや、…イヴかな?
旧約聖書の創世記で、知恵の実を食べてしまった御婦人の名前をヘブライ語表記にしたものの様なアカウントである。確か、「呼吸する」みたいな意味だ。元カノが矢鱈其の辺りに詳しかったので、そんな単語でも、十文字以内だった事もあり、覚えてしまっている、自分の記憶力の良さに、倫玖は少し腹が立った。もうEveで良くね?などと、他人のアカウントに対して、如何でもいい事を思いながら、倫玖は、過去ログを見た。ツイートは怨嗟の声で溢れていた。曰く、小さい頃から大事にしていた親戚の女の子が儀式で酷い目に遭ったのだという。
―儀式。
はて、と思いながら、倫玖は読み進める。知るのが怖い。しかし、読まなければ。頑張って読んでみたが、儀式の具体的な内容は書かれていない。
―…怪しげな宗教に謎の儀式。
人身御供とまでは行かずとも、一般常識的に有り得ない何かが行われており、其処で女の子が酷い目に遭った、という事しか類推出来ない。しかし、其れだけに、読んでいる間中、何とも形容しがたい不安が、ずっと倫玖の体に纏わり付いてくる様な不快感がある。
―苗の神教。多分苗の神様の事だよな。得体が知れない。此の『清掃員』っていう人は、苗の神教と、如何いう関係?其の、親戚の女の子が儀式に参加した理由は?
薄気味悪さからくる寒気を堪えながら、倫玖は更に読み進める。自然と体が震える。
コメントには、通りすがりの人間の同情の声が散見される。其れと、正論、及び、言いたい事は分かるが今此の人に言って如何する、と、他人事ながら倫玖の方が言いたくなる様な親切な正論。反吐が出るな、と倫玖は思った。
やれ、此処ではなく警察に相談しろ、だの、此処で言っても何も始まらない、だの。
警察に言って動いてもらえるのか、分かりもしないのに、こんな事を言われて、と思うと、倫玖は『清掃員』が気の毒になった。倫玖など、自分の誘拐未遂すら、身内に信じてもらえていないのだ。当事者ではない『清掃員』に出来る事は、そんなに多くは無いという気がする。大体証拠を揃えて提出するにしても、『酷い目』の内容によっては、告発する事を、其の女の子が喜ばないかもしれないではないか、と思うと、同情を禁じ得ない。
―で、プロフィールに、『苗の神教撲滅』ねぇ。
しかし、読み進めても、『清掃員』が、苗の神教撲滅の為に何をしているのか、倫玖には判然としなかった。
―そう易々(やすやす)と手の内を世界配信しない(呟かない)、って事かねぇ。
そして、『清掃員』のアカウントを消せ、と何故か攻撃しまくってきている、幾つかのアカウントがあった。攻撃用のアカウント(捨て垢)らしく、フォロワーゼロ、フォローゼロで、アイコンもプロフィールも無いのが、倫玖には酷く恐ろしかった。
清掃員のツイート自体には、苗の神教の名前は暈されて書かれている。そして頻繁に『S集落』という単語が出てくる。九州のK県に在るそうである。Twitterアイコンは、真っ黒な背景に、白い字で『53gのダイエット』と書かれていて、其の字の上部に、愛らしい顔をした黒い山の様な形のキャラクターが箒を持って微笑んで立っている。『53gのダイエット』とは独特な文言だが、キャラクターの方は、何かのゆるキャラだろうか、と倫玖は推察した。フォローはゼロ。フォロワーは数名。
倫玖は、フォロワーを確認してみる。そして、おや、と思って、其の中の一つのアイコンを確認した。黄色と緑色をした山の形のキャラクターが、箒を持っている。背景は黄緑だった。清掃員のアイコンは、此のアイコンの色を反転させただけの様である。
『庭師(@TohTa53gdiet)』
―おや。
不思議に思い、倫玖が『53gのダイエット』で検索すると、清掃員と庭師のアイコンは、鹿児島市のゴミ収集車に描かれているキャラクターだという事が判明した。
―九州のK県。…K県は、鹿児島?…じいちゃんは、鹿児島出身。坂本自動車の人達は同郷。鹿児島。
倫玖は、『庭師』のツイートも確認する。フォローは清掃員のみ。フォロワーゼロ。プロフィールには何処かの里山の風景写真と『鹿児島』とある。
『清掃員』と『庭師』は同一人物か、リアルで知り合いなのかもしれない、と倫玖は思った。『庭師』の過去ログを追う。庭の花の報告以外は大した内容は無い。『清掃員』とは連絡を取り合っている様ではある。もし世界が百人の村だったら、という内容の、古い絵本を自宅で見付けた、という内容のツイートもあった。『清掃員』が、其れを珍しくリツイートしていた。其れ以外は、写真の一枚すらない。『庭師』のツイートを漁っても、此れ以上の収穫は無さそうである。
倫玖は再び、『清掃員』の過去ログを当たった。更に読み進めると、如何やら、『内部告発』らしい、という事が倫玖には知れた。
―成程、苗の神教の信者?親戚の女の子、というのも、信者なのかな。
少なくとも、『清掃員』という人物は、S集落に住んでいて、S集落は、何か、苗の神教に関係しているらしい、という事が分かる。
―…接触してみるか。
正式なアカウント(本垢)での接触は、ちょっと怖い気がしたので、倫玖は、中三まで使っていた別のアカウント(裏垢)の方で、『清掃員』にDMをしてみる事にした。
昔、ゲームがしたかったのに子守りで出来ないストレスをぶつける為に、定時に、凛太郎と見たアニメの感想を呟くアカウントを作っていたのである。当時の凛太郎が大ファンだった某イースト菌に守護された英雄アニメや、某英国発祥機関車アニメ等の感想を、毎日定時に呟いているだけなのに、フォロワーが三桁くらいついた。人間、定時に呟かれていると、つい見てしまうものらしい。定時にタイムラインに上がってくるというのは、其れなりに効果的なのであろうか、其のツイート自体が定時に更新されるコンテンツと化すのかもしれない。
そう言えば、特に某機関車アニメについては、英国労働者の悲哀の様なものを感じ、思った儘を書いていたら、結構コメントも貰えたのだった。但し、裏垢だし、という事で、コメントは返さずフォローもゼロにしていたら、定時に感想を上げるBOT扱いされていた。今は全く更新していないが、懐かしい。
しかし、『清掃員』側も『THOMAS(@yeasthero(イースト菌のヒーロー)_hisfriends(愉快な仲間達))』という、見たアニメの感想のみを呟き続ける、目隠しされた某機関車のアイコンの、謎のアカウントからDMが来たら警戒しそうだな、とは倫玖も思った。だが、怪しいのは御互い様という事にしてほしいものである。
其れにしても、流石中学生のセンスである。ほんの数年前なのに、自分の考えた物とは思えない弾け方である。いや、逆に今なら思い付かないアカウント名かも、と思いながら、倫玖は、恐る恐る、苗の神教の事について知りたいという趣旨のDMを送った。
暫くすると、『清掃員』から返事が来た。
『渋谷、練馬。瀬原集落』という短い文章の返信と、謎のURLが二つ。
URLを行き成り踏むのが怖いので、倫玖は、一応スクリーンショットを取った。
DMの内容の意味が分からなかったので、真意を問おうと、再びDMしようとすると、『清掃員』のアカウントは削除されていた。
倫玖は驚いた。確認すると、『庭師』のアカウントも同様に削除されていた。
―…怖い。
情報の危険度、重要度共に、倫玖の中で急上昇した。怖いが、URLを確認しないわけにはいかない。
URLをクリックしてみると、一つ目のリンクは、疾っくに更新が止まっている古いサイトであった。
今時、ブログではなく、HTMLでタグ打ちされた様なHPである。サーバーがサービスを停止したら消えてしまいそうな程古い。コメントすら書き込めない。書いていた人間がパスワードでも忘れて、スペースデブリみたいに電脳空間を漂っているだけの存在になっているのではないか、という印象を受けるくらい、見た目も古い。
―こういうの、大昔に授業で作ったけど。小、中学生が練習で作ったのか、と思うくらいショボいな。
しかし、其のHPの見た目の簡素さが何故か、素っ気無く見えるせいなのか、妙に倫玖の恐怖を掻き立てる。寒気がして読みたくないが、読まなければ。
HP名は、『瀬原集落聞書』。
―此の字で、せばる、しゅうらく、って読むのか。…S集落の事かな。
『N様とは、瀬原集落と、その周辺の集落でのみ見られる石像。魔除け、五穀豊穣、子孫繁栄の神であると伝えられる。石像には碑銘は少なく、いつの年代から作られてきた石像なのか、正確なところは不明。碑銘に刻まれた年号から推察するに、江戸末期には、確実に作られていたと思われる。一番新しいものは平成の初期の製造。材質は、石灰岩。基本的には人間のような姿の石像が多く、N様は田の神、山の神信仰から派生したものではないかと推測されるが、正確なところは不明。他にも、山伏のような服を着た人間の姿、仏像のような姿の石像がある。製造年代が下るほど、地蔵に似た姿で製造されることが多い。日輪や梵字が刻まれただけの石にも、N様と称されるものがある。土地柄、廃仏毀釈が強硬に進められたが、N様の石像は廃仏毀釈の対象になっていない』
―N様??
成程、此れは『瀬原集落』というキーワードを知らないと、『ナエンカンサァ』等で検索しても出て来ない情報なのだ、と倫玖は思った。
―田の神、山の神、ね。
HPは、里の変わった生活習慣を幾つか記載して終わっていた。曰く、宗教関係者で組織された集落で、住民達は外部との接触を、なるべく絶って生活している、所謂『隠れ里』なのだという。
―…隠れ里?今、平成ですぜ。
此の御時世に外界と接触を絶って暮らせるものなのか、と訝しく思った倫玖だが、HPの内容が其処で終わっているので、仕方なくブラウザを閉じた。情報は以上である。苗の神教の薄気味悪さが、ただ増しただけである。
因みに、『瀬原集落』で検索してみると、掲示板の類に、妙な噂が引っ掛かって来た。
『隠れ里。戦時中人体実験が行われていた』
『隠れ里みたいな場所、って言ったらいいのかな。ほぼ交流が無い。過疎地ってやつ?使わないからか、地図にも載ってない』
『小学校、中学校は集落内にあって、いまだに百戸は辛うじてあるって噂』
『山を、ずっと下っていくと、奥に、筍の採れる竹林がある。そこの奥辺りが瀬原だと思う。でも、かなり下る。俺も行った事ねぇ』
『幽霊が出る噂もあったけど、崖下みたいな場所に在るらしくて、肝試しに行った話すら聞かない
『髪が長い、着物姿の若い女を、若い男が背負って歩いてるのを見た人がいるらしい』
―人体実験?…地図に載ってない、隠れ里?…どれもこれも怖いな。
倫玖は、更に検索を続けたが、どの掲示板も、スレッドが立つと噂の火消しが来て荒らされて立ち消え、を繰り返している。妙だな、と倫玖は思った。ネットの情報は玉石混交なものだ。どれが本当で、どれが噂か分からない。しかし、火消しが出てくるという事は、逐一『瀬原集落』についての情報を監視している人間が居る筈である。瀬原集落自体の話が出るのが不味いか、噂のどれかが内部告発なのであろう。
―…結構、不味いネタなのかな。
思い返すまでも無く、『清掃員』のアカウントも幾つかの捨て垢から攻撃を受けていたのである。要は、此れ以上情報を呟くなという脅しだ。察するに、内容が真実なのだろう。スレッドの文字の羅列に、更に恐怖心を煽られながらも、倫玖は検索を続ける。
『女の子を誘拐したって聞いたよ』
『誘拐して集めた子に子供を産ませるって』
誘拐、という単語に、倫玖は身震いした。
―…俺も誘拐されそうになったよな。男だけど。
儀式、誘拐、という、関連性が有るのか無いのか分からない情報だが、倫玖には、自分の経験との妙な符合が、気持ち悪かった。
更に検索するも、『瀬原』では地名が出て来ない。『せばる』で検索すると、鹿児島市の『催馬楽』というバス停が出てくる。其れだけである。煙に巻かれた様な気分になる倫玖である。
―マジで地図に載ってないのか…?いちいち怖いな…。
もう一つのURLは、不動産会社の紹介だった。此方は最新のウェブサイトである。パッと見、普通の会社だけど、と思いながら、倫玖はサイトの内容を読み進めた。
『実方不動産グループ 本社 福岡。会長 実方向子、社長 実方岐顕、代表取締役 実方宗顕』
鹿児島にも支店は多いが、十年程前に東京に進出したらしく、戸越銀座等にも支店があるらしい。名古屋や関西にも幾つか支店がある。
―渋谷店は…ああ、南口に一応あるのか。
調べてみたが、練馬には支店が無い。後は、採用情報等、倫玖からすると、何の変哲も無い内容しか掲載されていない。
―如何して『清掃員』は、此のURLを送って来たのかな。
兎に角倫玖は、渋谷と練馬を調べる事にした。
先ずは、渋谷駅の南口に行ってみよう、と倫玖は決めた。渋谷は誘拐されかけた場所だから、個人的な印象は最悪だが、他に手掛かりが無いのだ。『清掃員』の寄越した情報を信じて行くしかない。
そして春休み最終日の四月六日、渋谷の南口を張りながら、倫玖は驚いていた。
―…黒いスーツの男、普通に居る。
改めて注目してみると、結構居るのだ。其れも其の筈。よく考えれば、サングラスに黒いスーツというだけなのだ。先ず、国籍が日本では無さそうな黒いスーツ姿の人間も居る。人種も性別も様々である。流石渋谷である。どれがビジネスマンで、どれが怪しい人物で、どれがSPで、どれが駐在大使館役員だか分からない様な状態だった。
ああ、成程ね、と倫玖は思った。此れが渋谷の普通の光景なのだ。木の葉を隠すなら森、という気がする。仮にスクランブル交差点に、どんな格好の人間が居ても、渋谷ならそうかも、と思ってしまうのだ。
しかし、其の儘暫く南口を張っていると、黒いスーツ姿の男達が数人、若いカップルを取り囲んでいるのを倫玖は見付けた。
―…どういう状況?
如何見ても、SPに囲まれるカップル、という感じなのだ。一人は、真新しい何処かの紺ブレザーの制服を着た、スタイルの良い、スラッとした可愛い女の子だった。
―何処の制服だっけ。
ブラウンのパイピングのある紺ブレザーに、グレーのプリーツスカート。黒いチェックのネクタイ。セミロングの髪はサラサラで、全体的に色素が薄く、黒のハイソックスを履いた足が、長くて綺麗だった。
―お。男の方はS高だ。頭良いな。制服、学ランだよな、あの学校。
男性の方は巣鴨に在る進学校の制服を着ている。
―…何だか、治さんを思い出す顔。
何処が似ている、とは上手く言えないのだが、あれ程は美形でないのにも関わらず、優しそうな雰囲気や、清潔感のある、小綺麗な雰囲気が似ている、と倫玖は思った。
―御坊っちゃんって感じだな。そして、あの顔、何処かで見たような?
何と無く、直感で、学生服の男性は、苗の神教と無関係とは思えない、と思った倫玖は、更に観察した。全員、ある建物に入る。
看板の文字を見て成程、と倫玖は思った。繋がったかもしれない。
『実方不動産グループ東京支部渋谷支店 情報システム部』
学生服のカップルは、建物から出て来て、二名程度の黒いスーツ姿の男と、副都心線に乗り込んだ。倫玖も後をつける。
三十分程電車に乗っていただろうか、地下鉄の、小さな駅で二人は、男達と降りた。
―此処は…練馬区。成程…。
二人は、男達に見守られながら、駅から徒歩五分程の所に在る、同じアパートに入って行った。
―あれ?もしかして兄妹?
黒いスーツ姿の男達が去るのを持ってから、倫玖はアパートの表札を確認した。表札は、『佐藤』となっている。日本一多い名字なので、こうなると、流石に瀬原集落との関連は分からない。今日は此処までにしよう、と倫玖は思った。
四月二十六日。普段は纏まった時間が取れなかったので、ゴールデンウィークに入ってから、倫玖が練馬のアパート付近を散策していると、行き成り誰かに声を掛けられた。
「やだ、元気だった?久しぶり。裏の家の、民生委員の小野よぉ。覚えてる?」
前歯の掛けた初老の女性は、倫玖を、誰かと勘違いしている。倫玖は、どうも、と言った。御団子頭を揺らしながら、蟹股歩きの自称民生委員は、尚も続けた。
「凄いじゃない、K大学の理工学部に現役合格でしょ?今、神奈川で一人暮らしですってね。偉いわぁ」
倫玖は取り敢えず、有難うございます、と言った。
―…よく分からないけど、完全な人違いだな。そんなに俺そっくりの奴がいるって事?
「お父さんの御仕事も手伝っているって聞いたわよ、渋谷の不動産会社だって?」
おや、と倫玖は思った。試しに、ええ、南口の、と言ってみる。相手は、そう、駅の近くなのよねぇ、確か、と言った。
「そうそう、何とかって。九州が本社ですって?」
「実方不動産グループ?」
「そう、それよ、覚えられなくってぇ。ごめんなさいね。でも、凄いわ、S高からK大学でしょ?頭良いわよね。佐藤さんのとこの男の子の先輩でしょ?二人共凄いわぁ」
おや、と思った倫玖は、そうですか?と相槌を打った。相手はニコニコしている。
雇い主から、従業員が休みの時程、テナントビルの清掃のバイトに入ってほしいと言われ、結局半分以上バイト漬けで過ごしたゴールデンウィークだったが、最終日の五月六日、南口を張ると、倫玖は、また、黒いスーツ姿の男達に囲まれた、あの女の子を見付けた。ショートパンツから覗く足が凄く綺麗である。
―モデルか何かなのかな。前、読モと付き合ってたけど、此の子の方が綺麗かも。
見張っていると、足の綺麗な女の子は、一度不動産会社の中に入ると、彼女よりは少し小柄な、花柄のシフォンワンピースの上にペタルピンクのカーディガンを着た、大きな瞳が美しい女の子と一緒に、建物から出てきた。
可愛いな、と、倫玖は驚いた。
―取り敢えず、スタイルは足の綺麗な子の方が好みだけど、顔は、隣に居る小柄な子の方が好みかも。
相手にしてみれば失礼な話だろうが、現在、外見しか二人の情報が無いので、倫玖は、仮に、美脚の子と美人の子、という、身も蓋も無い名前を二人に付けた。二人の髪が、胸元の辺りでサラサラ揺れているのが、遠目からも分かる。倫玖は、怪しまれない様に、二人の後ろ側に回った。
美脚の子の、色素の薄い髪が、背負っているアネロの黒いリュックの上で、陽光を受けて、鳶色に光る。美人の子の、ペールブルーの革製ショルダーバッグが、持ち主の動きに合わせてフワリと揺れるシフォンワンピースの裾を一部分だけ押さえていて、其れによって、シフォン地の裾が、楽しそうなリズムを刻んでいる様に見える。二人の仲が良く、談笑しながら歩く事を、御互いに心から楽しんでいる事が、離れた場所からでも充分に分かった。其の、似た髪の長さの、前髪の感じや髪色だけ違う感じが、如何にも学生らしい年齢の愛らしさを醸し出している。其の雰囲気が、純粋に楽しんでいる友達同士其のもの、という気がして、倫玖は、其の時間を勝手に垣間見ている事に対して、急に罪悪感を覚えた。少なくとも、二人を見ている倫玖の側には、其の様な純粋さは無いのだ。抑純粋な人間とは何ぞや、と、普段の倫玖なら、其の問いが頭に浮かんだ時点で、鼻で笑うであろうが、今日此の時は、自身の事を素直に気持ち悪いと思った。純粋な人間とは、其れが人間である以上は多少の屈折を持っている事は許されるにしても、他人を『美脚』『美人』といった、性的な魅力を持つ部位に関する命名をしない存在であろう、と思うのである。純粋とは言い難い自分という存在が、脚が綺麗だ、美人だ、と思いながら、名前も知らない女の子二人を追い掛けている事自体が、倫玖の気持ちを暗くさせた。
―…俺、ストーカーっぽい。
いや、完全にストーカーだ、と思うと、倫玖は更に暗い気分になった。情けないゴールデンウィークの使い方である。もしも母親に知られたら、メリケンサックの正式な使用方法によって野菜似の顔にされてしまうかもしれない。尤も、親に手を上げられた記憶は無いのであるが。だが、今回其れが初になりそうな程度には、犯罪に近い案件である。しかし倫玖は、気を取り直して、頑張って二人の後を追ったが、黒いスーツ姿の男達に見付からないようにするのは至難の業である。最強のナンパ避けだな、と、倫玖は、いっその事感心した。あんなに可愛い女の子が二人、渋谷から原宿までの距離を、まさかの徒歩で移動しているというのに、あれではナンパどころかスカウトも寄って来るまい。
結局原宿の手前辺りで二人を見失ったので、倫玖は紘一宅に寄ってから帰る事にした。不意打ちなら会えるかも、と思ったので敢えて連絡はしなかった。ところが紘一は留守だった。帰ろう、と思い、倫玖は渋谷駅に向かった。『気疲れ』という言葉がピッタリのゴールデンウィーク最終日だった。
しかし、クタクタの気分で乗った中央線を、立川駅で降りた時、倫玖は一瞬、身体がビクリと震えるくらいの衝撃を受けた。
―…あの美人だ。
見失った筈の、大きな瞳の美人を見付けてしまったのだ。思わず後をつける。
―あ…青梅線に乗り換えか、あの子。
身長は小柄な方だが、結構人目を惹く。ペタルピンクのカーディガンの裾から広がる、花柄のシフォンワンピースが優美だ。何人かが、振り返って、其の女の子を見ている。可愛いからな、と倫玖は思った。多分、一度見たら見間違えない顔をしている。遠目だが、絶対に、あの子である。肩に掛けている、ペールブルーの、財布程度しか入らなさそうなサイズの、高価そうな革製のショルダーバッグにも見覚えが有る。
後を追って、倫玖も青梅線に乗る。夕方の帰宅時間に差し掛かりそうな時間帯にも拘らず、連休中で通勤客が減っているせいか、車内は割合空いている。しかし、女の子は、座席に座らず、意外な体幹の強さで、吊革もポールも掴まず、軽く足を開いてドアの前に立ち、車窓を流れる景色を見詰めていた。車体の揺れを、伸ばした背筋と両足で上手く受け流し、ドアが開く度に、他人の邪魔にならない様に位置を変えながら、美人の子は、只管、駅のホームや、流れる景色を見詰めている。比較的近くの席で、其の様子を盗み見ながら、倫玖は、次第に不思議な気持ちになっていった。
見慣れた、シルバーの車体にオレンジ色の入った青梅線の車両は、ほぼ中央線と同じである。そして其の車内も見慣れているのにも関わらず、ただ、背筋を伸ばし、何にも凭れ掛からず、何にも捕まらず屹立している美少女が居る、というだけで、知らない世界に迷い込んでしまった様な、妙な感覚になる。暫く、倫玖は、そうして、美人の子を、コッソリ観察していた。
―あれ、此処、親戚の家の最寄り駅だな。
青梅の、とある駅で、美人の子は電車を降りた。倫玖も一緒に降り、後を付ける。駅前北口の大きなマンションに、女の子が入っていく。咄嗟に、倫玖は、北口に在るクレープ屋の前に出来ている列に混ざった。
―…家も見付けちゃった。
先程の様な、偶然見付けた結果の発見ではなく、積極的に尾行した挙句の成果なので、倫玖は忽ち、本日一番の、物凄い罪悪感に襲われた。
―…でも、此処を張っても良いかも。
渋谷よりも立川から近い上に、何故か黒いスーツ姿の男達の姿も見掛けないのだ。そう、此の辺りなら、親戚の家が在る関係から、多少土地勘も有る。
―…あの連絡通路、使えるな。
倫玖は、クレープ屋の前から、上を見上げた。
五月十日は土曜日。学校もバイトも休みだったので、倫玖は、渋谷の南口を、もう一度張ってみた。風が強い。天気は良いが、帰りたくなるくらいの物凄い強風である。元々強風なのに、其れ等が渋谷の建物群にぶつかるせいで、更に強まって突風になってしまっているのだろう。
倫玖が帰宅を決意しかけた時、何か、目の端に、長身の人物が颯爽と歩く姿が見えた。
倫玖はハッとして、目を凝らした。
―…あれあれ?うわ、あいつだ。絶対あいつだ。居た、俺に、そっくりな奴。
遠目からだと、完全に自分、という感じがした。何処かの軍の払い下げかと思うくらい形の決まっている、高そうなMA-1を着ている。よく見ると、倫玖より大分色素が薄い。遠目から、光に透ける髪の放つ、艶の輪の様な物が見えた。
―…多分、あれが、佐藤さんのところの男の子の先輩で、S高からK大学の理工学部に現役合格して、現在神奈川で一人暮らしをしつつ、父親の仕事を渋谷の不動産会社で手伝っている奴、だな。
倫玖は思わず、小声で、超人かよ、と呟いた。だがしかし、そうと決まれば、此方も追い掛け様がある。やはり、其の人物は実方不動産グループの建物に入って行った。此の日は、其の人物が、なかなか出て来ないので、倫玖は、追跡を諦めて帰った。
結論から言うと、帰宅は正解だった。強風は続き、都内の一部の場所では雹の降った場所も有ったのだという。
そして、今日、五月十二日。そろそろ立川と渋谷を往復する交通費も辛くなってきたので、学校帰り、比較的近い青梅で張ってみたところ、ターゲット二人がマンションの前で話しているのを見た、というわけである。やはり黒いスーツ姿の男達は居ない。如何いう訳か、倫玖に似たターゲットと、美人の子は、黒いスーツ姿の男達に囲まれて生活していないらしかった。いや、そんな男達に囲まれて生活しない方が普通というものだが。
―…うん。青梅ね。張るには良い場所なのかもしれない。
次話投稿方法が分からず、かなり手間取ってしまいました。作業に慣れておりませんが、頑張ります。御読み頂き、有難うございます。