第六話
翌日、出社してすぐ退職願を出した。突然のことできっと迷惑がかかるだろう。
しかし部長はいつもの仏頂面を少しも変えず、汚い字面と歪んだ書類を見て、あとの事については追って伝えるとだけ言い俺を送り出した。
仕事自体は大変でつらい思いもたくさんしたけど、慣れた仕事だっただけに心残りはある。だが必須であるパソコンが感情の振れ幅だとか力加減を誤るだけで壊してしまうのでは別の生き方を探った方が良い。隠し続けて迷惑をかけ続ける方がマズい。
「これで晴れて自由の身ですわね」
「何が自由だ。たった1日で日常を失ったぞ俺は」
無理なく働いて、ゲームして寝る。この流れをもう長く長く続けてきたというのに終わりというのは突然だ。
公園でベンチに座り、缶コーヒーを傾けながら雑踏を眺める。格好が私服だからまだマシだがスーツなら完全にリストラにあったサラリーマンのイメージそのもの。
「そもそもなんで俺なんだ?たかだか8年ゲームやってる人間なんて他にもたくさんいるだろ」
「たまたま目に入ったのがご主人様というだけです。ラッキーですわね」
「ラッキーって…というか俺はお前の主人になった覚えはない」
「いいじゃないですか。人の世で流行っているのでしょう?メイド」
「メイドの流行りはもう何年も前に終わったぞ。今は多様化してるし移り変わりも早い。あと落ち着かないからその似非メイド服絶対着替えさせるからな。俺の貸そうとした服には全部ケチつけやがって」
「ご主人様の服のセンスはちょっと、分かりませんわね。あれ等はレディに着せる服ではないかと」
「あのな、俺は一応男女兼用のを渡したんだぞ。センス云々じゃなくて趣向の違いだ。良いだろ和柄。俺は刺繍が好きなんだ」
そんな話をしていると、見覚えのあるスーツ姿が目に入った。こちらに手を振って歩いてくる。
「あれ、部長どうしたんすか。仕事中でしょ」
「いやなに、お前が窓からちょろっと見えて、ほっとけんて。なんかあったんやろ。急用言うて抜けてきたから話しや」
そういえば会社のビルから丸見えだった。書類のコピー取る時、皆手持ち無沙汰で外眺めて暇潰してるのは知っていたのに。そんなことも気が回らないなんて、一周回って自分は落ち着いているように思っていたが実はかなり現況に動揺しているのかもしれない。
「その、なんといいますか」
「言いにくいんか。まぁ儂も若い頃は色々バカやってたから人に言えないことのひとつやふたつなぁ」
「言うのも恥ずかしいんすけど、キーボードが打てなくなったんすよ」
「あー………彼女にこっぴどくフラれたとかそういうんを予想してたんやが斜め上やな」
「学生じゃあるまいし恋愛くらいで辞めませんよ」
「しかし冗談にしたってもうちょっとなんかあるやろ」
「ですよね」
「ははは!そうやろ!」
バンバンと背を叩かれる。気遣ってくれているのだろう。
「まぁ今は話せんでもそのうち電話でもなんでもええ、誰かに言いや。仕事でもそうやがお前一人で抱えて持ちすぎや」
「その節はお世話になりまして」
「今は職場じゃないんやから畏まらんでええよ。とにかく、お前はしばらく有給消化になるやろ。その間に相談したいことがあれば声かけぇ」
「ありがとうございます」
「あと今日の夜空けとけ。メシでも奢ってやるから来い。場所は後で連絡するけえ」
「気ィ遣ってもらってすんません。じゃ、めっちゃ高いとこでお願いします」
「馬鹿野郎、通りの屋台や」と言い残し、俺の隣にコーヒーを置いて部長は来た道を戻っていった。
置かれた缶に目をやる。ビル内にある自販機の中で一番マズいと評判の奴だ。くく、と笑みが漏れる。
「へえ、現代には珍しく善意に満ちた方ですわね」
「そう言うお前は人の話の途中に割り込まない程度に良識があるんだな」
「そう邪険にしないでくださいまし。そうですわね…ご機嫌を直していただくためにもひとつお役に立ちましょうか」
「どうせその"役に立つ"にも取引だなんだって言うんじゃないだろうな」
「さすがにそこまで野暮ではございませんわ。さきほど部長さんですけども」
「何言われても驚かねえぞ」
「もうすぐ亡くなられますわ」
「は?」
「ちょうど今日の夜ですわね」
こんな非日常な言葉が出ても街の雑踏はいつも通り平和で変わりない。