〈はひふへほ〉からの……
俺の名前は丸小高至。
某商事会社に勤めて今年で三年になるサラリーマンだ。
同じ部署に、中道さんという三年先輩の社員がいて、俺はこの先輩に公私共々お世話になっていた。
仕事ができ、なおかつ人当りもいい中道さんは、男女どちらからも好感を持たれており、上司からも一目置かれる存在だった。
そんな非の打ち所がない中道さんの唯一ともいえる欠点が酒癖の悪さだった。
お互い彼女がいないので、週末の会社帰りによく二人で飲みに行くのだが、そこでは必ずと言っていいほど説教が始まる。
その内容は大体決まっていて、仕事やプライベートで散々世話になっている割には、それに対する感謝が足りないという感じのものだった。
俺はその度に「そんなことないですよ。中道さんには本当に感謝しています」と反論するのだが、中道さんは「いや、全然していない。そもそも、仕事にしてもゴルフにしても、誰のおかげで一人前になったと思ってるんだ。俺の熱心な指導があったからだろ」と、まったく聞く耳を持たなかった。
中道さんは口にこそ出さないが、仕事やゴルフで俺がグングン成長しているのを、脅威に感じているのだろう。
普段隠しているその本音の部分が、酔っ払うとつい出てきてしまうのだろう。
そんなある日、今まで負けてばかりいた営業成績で、俺はついに中道さんを上回った。
中道さんは「おめでとう。まさかお前に追い抜かれるとはな。でも、俺もこのまま黙って引き下がるわけにはいかないぞ。次はまた俺が上にいくからな。はははっ!」と笑顔で祝福してくれたが、その目はまったく笑っていなかった。
俺は、ついに中道さんに勝ったと、喜びに浸るとともに、一抹の不安を覚えた。
次の飲み会の時に、中道さんがこのことをネタに、さらに説教がひどくなるんじゃないかと……
その悪い予感は残念ながら当たってしまい、俺は居酒屋の個室で、今まで以上に中道さんにカラまれていた。
初めのうちは、俺も丁寧に応対していたが、途中で面倒くさくなり、前々から考えていたある作戦を実行に移した。
「おい、丸小! お目が営業成績で俺を上回ったのは、元はといえば俺の指導が良かったからだぞ。そこのところ、ちゃんと分かってるのか?」
「はあ」
「いや、分かってない。そもそも、お前は普段から生意気なんだよ。そういう態度を取ってると、部長に言って子会社に飛ばしてもらうぞ」
「ひいっ!」
「はははっ! どうだ、驚いたか? バカだな、お前。そんなの冗談に決まってるだろ」
「ふう」
「でもな、その子会社のある場所が海の近くらしくてな。一年中いつでも新鮮な魚が食べられるらしいぞ」
「へえ」
「過去にそれ目当てで、わざわざ本社から異動した人もいるみたいだしな」
「ほう」
俺は中道さんへの返答をすべて〈は、ひ、ふ、へ、ほ〉で通したが、彼はまったく気付いていなかった。
ある程度分かっていたことだが、中道さんは酔っ払うと、相手の言ったことをほとんど覚えていないのだ。
翌週、前回の飲み会で味をしめた俺は、再びある作戦を立てて飲み会に臨んだ。
「おい、丸小! お前最近、仕事にしてもゴルフにしても、どんどん俺に追いついてきてるな。自覚はあるのか?」
「まあ」
「それはお前の錯覚だ。お前はまだまだ俺の足元にも及ばんよ」
「みいっ!」
「まあ、いつになるか分からんが、早く俺に追いついて来いよ。でないと、俺も張り合いがなくてな」
「むう」
「そういえば、お前の同期に小平という奴がいただろ。噂では、あいつ来月主任に昇進するらしいぞ」
「めえー!」
「ばーか。そんなの、ウソに決まってるだろ」
「もう」
前回よりさらにハードルを上げた〈まみむめも〉がうまく決まり、ほくそ笑んでいると、突然中道さんの怒号が鳴った。
「おい! お前今、俺への返答を全部ま行で通しただろ!」
「なんだ、バレてたんだすか。ちなみに、どこで気付きました?」
「『み』と『め』だ! どこの世界に『みい』やら『めえ』やらの、訳の分からないリアクションをとる奴がいるんだ。ふざけるのも大概にしろ!!」