恋しさを量ったら
この短編は、高千穂さん主催「お題リレー」参加作品です。
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「はあ?結婚!?」
土曜の午後の喫茶店。土橋健太は飲みかけのコーヒーを噴き出した。正面に座っている南川浩二が、嬉しそうにニヤニヤ笑っている。
「本当ですか?は…早いですね」
健太は紙おしぼりで噴いたコーヒーを拭きながら言った。浩二が「そうか?」と呟く。
「俺が今年25だから…浩二さん26でしょ?」
そんなふうに年齢のことを話しながらも、健太は動揺を隠すことができずにいた。
実は、健太は浩二が“男”にマジキスしているのを見てしまったことがあったのだ。以来、浩二のことはそういう趣味の人だと決めつけていた。
なのにどうして結婚なのか。浩二はバイセクシュアルだったのか。
いや、それよりも…そのキスの相手、谷村隆一とはどうなっているのか。
「…隆一さんにも報告しました?」
健太は恐る恐る訊いた。浩二がニヤリと笑った。
「昨日言った」
「そ、それで…?」
「おめでとうだってさ」
「…そうですか…」
それ以上何も言えず、健太はすっかり綺麗になったテーブルの上を拭き続けた。そんな彼の様子を見ながら浩二がふふふと笑った。
「だからさ、お前が見たのは幻だってことだ」
健太は驚いて顔を上げた。
健太と浩二は大学の先輩と後輩にあたる。現在、浩二はこの付近の地方新聞社に就職し、健太も地元の高校で物理学を教えているのだが、大学時代は産業工学を専攻し、研究所で共にロボット製作のようなことをしていた。
噂の人物、『隆一』は浩二の同級生である。大学院に進み、今も助手の立場で大学に居残っている。
卒業制作の時期には、浩二ともチームを組んでいた。
制作発表の期限が近付くと連日泊まり込みになるのは例年のこと。
あの日、健太が朝早くに研究室に顔を出すと、隆一は研究室のソファに寝てしまっていた。それは珍しい光景では無く、彼は隆一に上着を被せておいた。
その後、健太は研究室の奥の書棚で試験準備に必要な資料を探した。本棚が三列並び、部屋からは死角になっている場所だった。
本を見つけ、ページを開く。パラパラとめくっているうち、つい書棚にもたれたまま熱心に読みふけってしまった。
誰かが部屋に入ってきたことは分かっていた。それでも健太は気にせずその場所にいた。そして、しばらくして書棚の間から出ようとして…その衝撃の場面に出くわしてしまったのだ。
浩二が、眠っている隆一にキスしていた。
健太は慌てて出そうとしていた足を引っこめた。
心臓がドキドキと鳴る。静かに、静かにしゃがみ込んだ。
あれは何だ?という疑問が頭の中を埋め尽くす。
仲、良かったよな、あの二人確かに…でも…まさかそんな…。
しかし、次の瞬間彼は『見なかったことにしよう』と考えた。言い触れ回って良い話題では無く、覚えておいて楽しい光景でも無かったからだ。そういう判断をした彼は『事なかれ主義』だとも言える。
幸い、数分後に浩二が部屋を出て行ったので、その隙に健太も部屋を抜け出したのだったが…。
「バレてましたか」
「うん。お前が必死で知らないフリをしててくれたのも分かってた」
いつの間にか、浩二のニヤニヤ笑いは消えていた。
二人はそのまましばらく、黙ってコーヒーを飲んだ。健太の勤務先の近くの小さな喫茶店。
客は、二人のほかはカウンタ―で新聞を読んでいる男の一人客のみだった。窓の外の景色は高校の外壁。
日当たりだけは良かった。
王様の耳はロバの耳。
健太は、見てしまった光景を誰にも言えず、それこそ浩二本人にさえ言えず、意外と苦しんでいたようだった。それがやっと終わって、なんだかホッとしている自分に気付く。
そして、今まで誰にも言わないでいて本当に良かったと思った。
互いのカップが空になると、浩二がぼそぼそと話し始める。それを聞いて、ますますその思いを強くした。
「噂になっても仕方がないと諦めていたんだ。お前が研究室から出ていくのに気付いた時。そうしたら、リュウにもバレる。もう終わりだと思った」
「……」
初めて、健太は先輩二人の関係を正確に把握した。恋がワンサイドなものなのかどうか、よく分かっていなかったのだ。
「隆一さんは、知らなかったんですか。その…浩二さんの気持ち」
健太が訊くと、浩二は口の端を歪めた。
「あいつが気付くはずないだろう。女がアプローチしてきても気付いてなかったような超鈍感男だぞ」
「…そうでしたね…」
「でもさ、お前もリュウには憧れてたんだろ?」
突然、そんなふうに自分に話を振られて、健太は目を丸くした。
「え!?」
「隆一さん、隆一さんって、めちゃくちゃ慕ってたじゃないか」
「そりゃ…あの頃、研究室のメンバーはみんな慕ってましたよ。俺だけじゃなく」
隆一は、成績も性格も良く、後輩から慕われていた。
「でもお前が一番露骨だったぞ。ま、リュウもお前を一番可愛がっていたけどな」
「え?そうなんですか?」
隆一と一番仲の良かった浩二にそんなふうに言われ、健太はなんだか嬉しくなった。
へへへと照れていると、浩二が「こら、赤くなるな」と茶々を入れる。
「まあ、お前が一番真面目だったからなぁ、あの頃のメンバーでいうと」
「そんなことないですけど…」
健太はそう返事をしながら、研究室のメンバーのことを思い出す。結構、みんな研究とは無関係な仕事に就いてしまっているように思う。目の前の浩二も例外ではない。新聞社で、理系の記事にも関わっているというが、実際に機器制作をしているわけではない。
だんだん、離れていくんだなあ…。
しみじみと思い返していると、浩二がひょいっと立ち上がった。
「じゃ、俺行くわ」
「え?あ、はい。じゃあ俺も」
健太も慌てて立ち上がる。コーヒー代を、浩二が払った。
「ごちそうさまです」
店を出て、健太が礼を言うと浩二は笑った。
「今までの口封じ代にしちゃあ、安過ぎるけどな。ごめんな」
「…いえ」
そうか、浩二はこれを言いに来たのだな、と健太は気付いた。浩二は、今まで健太が黙っていたことを知っている、感謝していると伝えに来たのだ。結婚の報告のためだけにわざわざ後輩の自分に会いに来るなんて、変だと思っていたのだ。
駅へ向かって歩き出す浩二に、健太は小さく頭を下げた。最後はお互い笑顔だった。
浩二の結婚式の二次会、健太は隆一の隣に座った。
知り合いが経営するレストランを貸し切りにしての二次会。そんなに広くはない店内に70人ほど集まって、ゴチャゴチャになっている。でも、そういうのが希望だったのだろう。新朗も新婦も楽しそうに飲んだり喋ったりしていた。
それを、隆一と二人、やや離れた場所から眺める。隆一の顔が酷く赤い。
「隆一さん、だいぶ飲みました?」
「うん。披露宴で。強くないの知ってるのに、あいつが一気飲みさせるから」
隆一がふふふと笑う。烏龍茶の入ったグラスを持つ手の指が白く、頼りないほど細かった。その指先の柔らかい動きに、健太はドキリとする。…この人にはこんな色気があったんだ、とその時初めて気が付いた。目が離せなくなる感じがして、慌てて目を擦る。
「浩二さんが結婚しちゃって、寂しいですか?」
思わず、そんな質問までしていた。目もとまで真っ赤な隆一が、ん?と健太を見た。
「結婚は寂しくないよ。それより、東京行ってしまうのがなぁ…」
「東京?」
「あいつ、この春に転職するんだ」
そう言って、隆一は視線をグラスに落とした。
「東京行くんですか…知りませんでした」
健太がそう言うと、隆一は顔をあげて、離れた場所にいる新郎を眺めた。
「中学の時、あいつがロボコン部作ったんだよ。それからの付き合い。…高校の時は本気でチャレンジしたけど、高専のやつらに勝てなくてさ。やっぱちゃんと勉強しなくちゃダメだってんで、大学決めて」
酔っているのだろう。普段ほとんど自分のことを話さない隆一が、健太相手によく話す。
「中学から知り合いなんですか」
「うん」
それは初耳だった。
…浩二さんの片思いもかなり年季が入っていたのかも知れないぞ、と健太は考えた。なんであんな場所で大勢に囲まれて『新朗』なんてやっているのか…それが不思議な光景にすら思えてくる。
「大学で、今何やってるんですか?」
健太はわざと話題を変えた。
「ん?秘密」
隆一が真顔で言う。冗談を言っているのかと思った健太は「なんですか、それ」と言って笑った。隆一も、つられたように少し笑った。
「企業との合同研究に参加させてもらってるから。だから内緒」
「ああ、そういうことですか」
と、そこへ浩二が乗り込んできた。
「おまえら、二人でしんみり飲んでないで、俺に飲ませに来いよ」
そう言いながら、隆一の前に跪く。健太は慌てて立ち上がった。
「浩二さん、ココ座ってください。新朗なんだから」
そう言って、浩二を座らせようとしたが、彼は動かなかった。
「いいんだよ、ここで」
チラッと健太を見て、いつものようにニヤリと笑う。そして隆一の膝に手を乗せた。
「なあ、リュウ、俺行ってくるぞ」
そう言った時、もう浩二の顔は笑っていなかった。真剣な眼差しで、隆一を見上げていた。
健太は、何かの儀式を見ているような気がした。
結婚式の日の、別の儀式。
「うん。頑張って」
隆一は微笑んでいる。
「お前もな。それから、アレはもう捨てろよ」
「まさか。あれを作るために院まで行ったのに、捨てられるか」
「馬鹿だな。あんなのできるわけないだろ。あんな、中坊のラクガキ」
「できるかどうか、やってみないと分からないだろう」
しばらく、健太が理解できない会話が続いた。どうやら二人で作ろうとしていたものがあるらしい。
浩二は大学を出た後、工学とは無関係な仕事に就いてしまったから、大学に残った隆一だけが続けているのだろう。
あきらめろと浩二が言う。
続けると、隆一が宣言する。
二人の関係において、隆一の方が浩二に固執しているようにも見えた。しかし、それは『ロボットを作ろう』という夢に関してだ。恋しさを量ったら、そんなもの、隆一は一ミリも持っていないというのが明らかだった。
浩二の心境を想像すると、健太まで切なく胸が締め付けられるようで辛くなった。
自分の恋心に気付かずどこまでも寄り添ってくる隆一から、浩二は逃れようとしていた。
同性同士という、ただ一つのネックのために、浩二は好きな相手から逃げる。
好きな人から逃れて、その先に何があるのだろうか。
自分なら、どうするだろう。自分なら…想いだけは、なんとか伝えようとするかもしれない。それまでの関係が壊れるとしても―。
「浩二さん、まだ隆一さんのことが好きなんですね」
数日後、浩二から電話がかかってきたとき健太がそう言ったら、携帯の向こうで浩二は笑った。
『馬鹿。そりゃ俺のヨメに失礼ってもんだろう』
確かにそうだった。健太は慌てて謝った。
「すみません。撤回します」
『うん。もう忘れてくれよ、ホントに』
少々真剣な声で言われて、健太も真面目に「はい」と答える。すると、浩二が更に真剣な声で呟いた。
『それとさ…あいつのこと、頼むよ』
「え?」
『お前だったら、いいよ。変な女とくっつくよりよっぽどいいよ』
何言ってるんですか、俺はそういうんじゃないですよ、と健太は言った。
けれどもほんの少し、気持ちを見透かされているようでドキドキした。
確かに自分はあの人に惹かれる。けれども、荷が重い。
数秒間の沈黙の後、携帯の向こうで浩二の笑う声がした。その意味は、健太には分からなかったが、なんだか『いつかはお前もリュウに落ちてしまうよ』と言われているような気がした。