第92話 裏切り
「……エルティナ、流石にこの状況でそれは笑えねえぞ」
「笑える訳あリません。真実なのですから……」
「……嘘だろ」
一瞬目の前が真っ暗になったように感じた。
「本当です。私は途中ソうカさんと合流しましたが……、それもはぐれてしまイました」
「……っ」
じゃあ、ここに来る途中にソウカの白い蛇が息絶えて転がっていたのは、トコルと楓、その二人に襲撃されたからとでも言うのか。
「……ただ、安心してください。彼女達がその意思で私達に牙を向けているわけじゃあリません」
エルティナの一言に、ティアーシャは目を見開いた。
「どういう事だ?」
「二人とも、闇に呑まれているのです。この世界に全員が飛ぶ時、私達の中でも魔力量の少ない二人ガ闇に侵されたのです」
「……つまり、洗脳状態と?」
「簡単に言ってしまえばそうなリます」
なるほど、とティアーシャが相槌を打ち、エルティナはパタンと頭を横に倒した。
「嗚呼、疲れました。少し休ませテ下さい」
「……ありがとう」
ティアーシャは指先に軽く神聖力を纏わせ、エルティナの腹部の黒点をそっとなぞる。
完全な治療は難しいが、多少なりとも侵食は抑えられるだろう。
「エルティナ、三人がどこにいるか分かるか?」
「ええ、もちろん。位置を共有しテおきますね」
「助かる」
エルティナに顔を近づけ、額同士を軽く合わせる。すると頭の中に街全体の地図がマッピングされ、その六箇所に赤い点がうごめていている。
二つ固まっているのがティアーシャとエルティナ。つまりそこがこの学校の避難場所である事が分かる。その他にも散らばっている点があるが、直感的にそれが誰であるかということは理解出来る。
「二人の洗脳は、恐らくは神聖力をその身体に流し込めば解けるはずです。ですガ、特に注意してください。特に、楓さんに関しては」
「……妹だからな」
その点を、上手く使われる可能性がある。
「……ええ」
エルティナは小さく頷いて、ゆっくりと瞳を閉じた。
「本当は大樹の所まで運んでやりたいんだけど、今はここの方が安全そうだな」
「……私は、待っていますよ。貴方が帰って来るのを」
指先でエルティナの額に触れ、睡眠作用のある魔法をかける。すると数秒後に、小さな寝息がたち始めた。
「……あの、大丈夫なの?」
周りを囲っていた群衆を抜け、綾乃が不安げな顔を覗かせる。
「大丈夫。疲れていたようだから寝かせただけだ。……知らせてくれてありがとう」
昔妹に良くやったように、頭をわしわしと撫でると彼女は目を小さく細めた。
「……迷惑かけるけど、こいつを見てやってくれないか?」
「……お姉ちゃんは?」
無垢な表情で、少女は小首を傾げた。
「……俺は、まだ」
「?」
「……俺は、まだ。……仲間が、待ってるから」
小さく微笑みを浮かべて、すぐに踵を返して体育館の出口に足を向ける。
きっと、上手く笑えていないから。この少女に、引き攣った笑顔を見せたくなかったから。情けなかったから。
―――
はあ。
思わずため息が出ました。
何とも簡単な人間なのですね、あなたは。
嬉しいような、悲しいような。複雑な気持ちです。
大した思考もせず、人の言うことを鵜呑みにしているから、こんな事になってしまうのですよ。
そんなあなたが、そんなあなただから、良いんですけどね。
死になさい。己の無力さを悔いて。
生きて。己を信じて。
朽ちなさい。自らの非に嘆いて。
生きな い。仲間と に。
憎みなさい。自分の甘さを。
誇りなさ 。己の しさを。
アんしん、そして信ラい。
あなたなら、き と勝て 。
本当に全てを取りモどシたいのなら、ソんなもノ捨ててしまいナさい。
守っ ください。あなたの隣に る物を。
サア。
さあ。
げームを、はじメましョう?
て 。
――
「終わったわ」
「……こんな生き物が居るなんて……」
顔を半分血に染めて、ヘデラが振り返る。その脇には首や身体を失い血を噴水のように噴き出している、元々この世界には存在しえなかった生き物達。
か
「……行こう。人の気配がする。そう遠くない」
「はい」
茂みから出てきた葵を子招きし、己の脇へと寄せる。つい数時間前までは真っ白だった清潔感のある白衣も、木や草にまみれる中ですっかり薄緑色に染まってしまっていた。
「……っ…」
「だ、大丈夫ですか?」
ヘデラが一歩踏み出そうとしたところで、突然左肩を抑えて蹲る。慌てて葵が駆け寄り、そっと肩を撫でる。
「だ、大丈夫。何でもない、わ」
「なんでもない訳ないですよ。見せてください!僕は医者なんですから」
脂汗を額に浮かべるヘデラ。肩の負担があまりに大きいのか、訝しげな表情をしつつも渋々と着ている服から腕を切断した方の肩をはだけさせた。
「っ、これは……」
「どうにも、傷が開いたみたい……」
ティアーシャが行ったのは、あくまで応急処置に過ぎない。いくら傷口を縫い、治癒魔法をかけたとはいえ、これだけ激しく動き回れば傷が開いてしまうのも当然である。
「僕は内科医ですから、大規模な手術は出来ませんが……」
白衣の内側から様々な医療器具を取り出し、慣れた手つきで治療を進めて行く。
「もう、感覚が無くなってるみたいですね。本当だったら激痛で大の大人でも泣いていますよ」
「痛いのは、ずっと慣れているから」
ヘデラは、彼が一体何をして、どのように治療をしているのかは分からない。けれど、それが並外れぬ技術を持ってして行われているということは分かっていた。
「……すごい手さばき、ね。こんな技、見たことない」
「この世界には魔法なんて便利なもの、本の中ではあっても実際には無いですから。その分、自分達にできることを精一杯やっているんです」
「……自分達に、できること……っ」
傷に強く触れてしまったからか、ヘデラが顔を顰める。
「……とりあえず、これでしばらくは大丈夫だと思います。けれど、早いうちにきちんともう一度治療させて下さい。こんな所で治療したので、感染症にならないと良いのですが」
「ありがと……」
ヘデラは服を元に戻し、槍を支えに再び立ち上がった。
「それでもあまり激しい動きをするも傷が開きますよ」
「激しい動きをしなかったら、貴方が死ぬのよ」
「……ぁ」
指摘して、返されて。葵は小さく声を漏らした。
「何よ、そんな事も分かってなかったの?」
「……いえ……、何か、その木の裏に見えたような気がして――」
小さな影が、葵の指差す木の裏で揺れた。それを目尻で確認した後、ヘデラは飛び退くようにきその場から距離を取り、葵を庇うようにして槍を構えた。
「誰?」
鋭い空気が張り詰める。葵もティアーシャから渡されたダガーナイフを抜き構える。
「ま、待ってよ!私だよ!私!トコルだよ!」
その様子を見て、慌てた様子で茂みから飛び出してきたのは小人族のトコル。
「っ、トコル……。無事だったのね」
「……おかげさまで。あなたは大丈夫?」
ヘデラが安堵の息を吐き、槍を構えるのをやめた。それを見て葵もダガーナイフを再びしまう。
「何とかね。にしてもここは何処なの?見慣れない建物ばっかりだし……まるで物語の中みたいだよ。それに、その人間は?」
「それについては後で説明するわ。この人間に関してもね。とりあえず、今は全員合流する事を優先しましょう」
「トコルさん、ですか?葵と言います。よろしくお願いします」
葵の自己紹介に、トコルが耳をピクンと反応させ彼と目を合わせて返答する。
「私はトコル。小人族と人間のハーフだよ。趣味は兵器作り。よろしくね」
「はい、お願いします」
「で、ヘデラ。他のみんなは?もう合流したの?」
「いや、ティアーシャだけは私と同じ位置に居た。だから二手に分かれて皆を探している所よ」
「なるほど……?」
トコルは小さく笑みを浮かべた。
「まあ、皆しぶといし大丈夫でしょ!そう簡単にはやられないって」
「……そうね」
あはは、と乾いた笑いをするトコルに葵が不思議そうな表情を浮かべていた。
「とりあえず、大樹様の所まで戻りましょう。日もだいぶ傾いてきた事だし。一度体制を整えるましょう」
「了解」
「了解です」
歩幅の小さいトコルが跳ねるようにしてヘデラの後を着いていく。
「……?」
刹那、トコルの項に何かが見えたような気がした。しかし、見返してみればそこには何も無い。
気のせいか、と割り切って葵は二人の後を追いかけた。
――
「暗くなってきたな……」
ふと空を見上げれば、既に日は傾き空が橙色に染まりつつあった。
あと数十分経てば、完全に日が落ちきるだろう。そうなる前に、さっさとエルティナのくれたマップを頼りに一人くらいは見つけなければなるまい。
「っ、近い……」
一つ、脳内の地図内で赤い点がすぐ側にまで近づいていた。その点が表すのは……。
「楓、?」
「その声は……お兄ちゃん?」
背の小さい木を掻き分けて現れたのは、妹である楓。その目元は明らかに疲れが見て取れ、全身もくまなく汚れていた。
「良かった、お兄ちゃん。無事だったんだね?」
よろよろと千鳥足で近づいてくる楓。
「ああ、お前こそ。良かった、無事で」
近づいて、抱き締めてやろうとした所で数十分前のエルティナとの会話が脳裏に浮かぶ。
『楓さんと、トコルさんです』
『特に注意してください。特に、楓さんに関しては』
「っ」
とっさに、差し伸べた手を引っ込めた。そしてその手を、腰のベルトに刺している短剣に伸ばす。
「……お兄ちゃん?」
「忘れてた……」
鞘から引き抜かれた短剣の刃が、夕日の光を浴びて淡い橙色に輝いたのを見て楓の顔が蒼白に染まった。
「……来るなら来い、楓」
その短剣の切っ先は、紛れもない。自分に向けられている。
楓はその事実に驚愕し、一歩下がった。
「お、お兄ちゃん!?どうしたの!?」
「エルティナから聞いてるんだ。お前は、本当のお前じゃない。洗脳されてるってな」
「エルティナさんが……?」
楓が目を丸くした。エルティナが元々ティアーシャの補助の為に神アダマスから使わされたというのは彼女だってしている。それ故に、判断を謝ることは無かったし、その知識量の多さからもいつだって周りの助けになって来た。
「エルティナは楓とトコルに襲撃されたって言ったんだ。……今なら攻撃しない。さっさとこっちに来るんだ。そしたら治してやる」
「お兄ちゃん……さっきから何を言ってるのか……分かんないよ」
「……仕方ない。楓の為だ。……ごめん、すぐに終わらせるから」
「っ…!?」
再び剣を構え直した彼女を見て、楓は直感で自分が殺されかけているのだと悟った。そして反射的に踵を返し、転がるようにして元来た道に飛び込む。
「っ、楓!!」
辺りはもう暗い。完全に日が沈みきった。吸血鬼としての力を失っている今、夜目も効かず危険も大きい。だが、ここで彼女を諦める訳にも行くまい。
「……絶対に助けてやる!!」
剣を鞘に落とし込み、地を蹴って楓の後を追った。
――
「楓……」
「……お兄ちゃん……」
互いに切れかかった息を整えながら、楓は逃げきれないと悟り立ち止まり振り返り、ティアーシャも少し距離を離して立ち止まる。
「どうして……?どうして私を追うの……?」
今にも泣きそうに潤んだ瞳。けれど、決して泣くまいと唇を固く結びティアーシャの目をじっと見据える。
「……俺は……」
そんな妹の姿を見て、迷いが生まれた。
楓の洗脳、というのは既に解けているのでは無いか?楓は、本当の楓なのでは?という。
「……。なあ、楓、お前本当に」
そう口を開こうとした刹那。
「カエデと口を聞いてはダメ。その子は操られてるわ」
「っ……。その声は……」
脳内のマッピングに映るその名と、声が一致する。
背後から茂みを掻き分けて出てきたのは。
「ソウカ!」
「ええ、私よ。大丈夫?カエデに何もされてない?」
「……俺は、大丈夫」
「……そう、私はこの子に追われて逃げていたの。……その後辺りを散策していたら足音が聞こえて来たから付けてみたらあなた達とは、ね
楓が目を見開いた。
「ソ、ソウカさん、まで……」
絶望、という意味で。
その場に膝と手を付き、崩れ落ちる。
信じていた仲間、そしていちばん信用していて、大切な存在のティアーシャに裏切り者、と扱われる事に対しての絶望。
「さあ、ティア。さっさと済ませてしまいましょう?」
腰の短剣に手をかけるソウカ。
「なあ、ソウカ。本当に楓はお前を攻撃したのか?」
「妹相手だからって甘くしたらダメよ。そういう甘さを付け狙ってくるものなのだから……」
「……」
ソウカが短剣を引き抜く。
「何で短剣を抜くんだ?」
「裏切り者なのよ。警戒しない訳には行かないじゃない」
「おい、ソウカ」
口調はゆったりでも、その行動は素早い。ジリジリと楓との距離を詰め、剣を振りかぶる。
「ソウカ!!!!」
思考よりも先に体が動いていた。飛び込むように、楓の上に覆いかぶさりその身で剣を受ける。
「お兄ちゃん!!」
「っぐぅ……!?」
何の躊躇いもない攻撃。背中にやけるような痛みが走り、悶絶故の苦悶の声が口から漏れる。
「ティア、どいてよ。カエデを殺せないじゃない」
「……っ、ソウカ……。お前……っ」
振り返ると、そこにあるのは冷たく自分達を見下ろす親友の顔。
しかし、彼女の首にはどこか見覚えのある黒い染みの様なものがチラついた。
「っ……。本当に操られてんのはソウカかよ……っ」
その黒い染みは、ヘデラの腕にあった物と同じだ。それは『闇』と何か関わりがあろう物。その染みがソウカにあるということは、彼女の言動とは逆にソウカが洗脳されている可能性が高い。
……だとしたら、エルティナは単純に間違えた?いや、そんなことを考えている余裕は無い。
「楓、逃げるぞ……っ」
「う、うん!」
刺されたのは右の脇腹。激痛で叫びたくなる気持ちを何とか押さえ込み、楓の肩を借りてその場を走って逃げる。
「……私から、逃げられると思っているの?」
尻目で彼女のことを顧みると、彼女は剣を手に持ったままこちらを見据えて動いていなかった。
おそらく、自身の能力である細胞から生み出した蛇を使って追跡を行うつもりなのだろう。
「……っち」
悪態を吐き捨てたい所だが、ここは我慢して必死に棒のようになった足を動かす。
今は何がなんでも、この場から逃げて傷を治療することを優先しなければなるまい。
「お兄ちゃん……」
「っ……!?」
血がダラダラと流れる腹部に、柔らかく楓の手が触れる。するとそこから翠色の光が溢れ、温かさと共に傷の痛みが消えていく。
「これは……回復魔法……。いつの間に……」
「お兄ちゃんが神聖魔法の練習をしている時に、大樹さんから。……少しでも皆の役にたてたらって」
「……」
楓の魔法は回復魔法が不得手であるティアーシャより性能が上回っていた。
ほんの数秒治療しただけで傷は完全に癒え、痛みも消えた。
「……楓、ごめん」
「え?」
背後からソウカが追ってきていないのを確かめると、ティアーシャは足を止め楓に向き直った。
「……エルティナの言った言葉だからって、鵜呑みにして信じちまった。大切な……大切な妹なのに……。本当に、ごめん」
きり、と唇が噛み締められる。己の不甲斐なさを恨み、手が震える。
そんな手に、そっと暖かな手が重ねられる。
「っ」
「……ううん。私がこういう演技をして、お兄ちゃんを騙してたかもしれないし。それに、お兄ちゃんはその身で私を守ってくれた」
「……それは」
もし、楓が本当に操られていて。剣を取って戦わねばいけない時、同じ事をしていたかもしれない。
いくら操られていたとしても、大切な妹を斬ることなんて千差万別。出来るわけが無い。
「……だから、私は大丈夫。それよりも、ソウカさんをどうにかしよう」
「……ああ」
既に月は昇った。何の変哲もない、少し欠けた月。そこから放たれる優しい光が、最愛の妹の勇気と慈愛に溢れた表情を照らしつけていた。
――
「っ……!!」
「あれ?ヘデラ、もうおしまい?」
「……冗談でやってるんだとしたら、キツイわよ……?カハッ……」
泥と血に塗れたヘデラが、大地に体を叩き付けられる。その手から愛用の短槍は離れ、少し離れたところに柄が真っ二つにへし折られた状態で転がっている。
「人間の君は……、どうしようかな。私はそんなに趣味が悪いわけじゃないからさ、いたぶるつもりは無いんだけども」
同様に傷を負い、木を背にして気を失っている葵。
それが一体誰によってなされたのか、それは。
「トコル、大概になさい……。本当に……」
「い や だ ね」
「っ……!!」
咄嗟に体をよじって地面を転がる。すると先程までいた場所に深々と、彼女愛用の槌がめり込んでいて小さなクレーターが出来上がっていた。
「……本気、なのね」
「もちろん、全力で行かないとこっちが殺されちゃうからね」
震える体に鞭を打ち、膝に手を着いて体を持ち上げる。そして腰から非常用の短刀を手に取り、体を低くして構えるの。
「小人族の馬鹿力に耐えられるか分からないけど、時間を使わせれば……」
既に日は落ちている。ティアーシャはもう大樹の元に戻っているはずだ。だとしたら、ヘデラと葵が居ないことに気がついてきっと探しに来る。
それまでの辛抱、それまでの耐えなのだ。
しかし、相手は鉄を打つ小人族。その腕力は計り知れないものがあるし、そんな彼女の持つ武器は槌。本来鉄を打つために使う道具であり、そんなもので人を殴れば当たり所が良くて重症、悪くて即死であることは目に見えている。
それに、小人族は名の通り体格が小さい。故に攻撃が当たりにくい上に、すばしっこい動きで威力の高い一撃が飛んでくる。普段のトコルが手袋に取り付けたパチンコ兵器や、他の様々な武装を駆使して戦う癖がある為すっかり頭から抜け落ちていたが、彼女の本来の交戦距離は超至近距離の肉弾戦。
少し長いリーチを得手に、距離を取りつつ戦う短槍使いのヘデラからすれば最も戦いにくい相手である。
「その人間はヘデラを殺してからでも遅く無さそうだね!」
「やってみなさい!やれるものなら!」
振られた槌と短刀がぶつかり合い火花を散らす。しかし、ヘデラの短刀はあくまで非常用であり耐久性には優れない。まともにやり合えば、ものの数分で折れてしまうに違いない。
だから、ヘデラは短刀を少し横に動かしトコルの槌の力を受け流す。トコルの持つ槌の最大の弱点は刀のように刃が着いていないことにある。故に打撃にてインパクトを起こさなければ相手にダメージを入れることは出来ない。
横に流された力はそうそう止めることは出来ない。槌は空を打ち、前傾姿勢になり大きく体勢を崩す。そこにすかさず腹部に目掛けて膝を叩き込む。
「ぐっ!?」
体重が軽いのもあって、トコルはピンポン玉のように吹き飛び何度かバウンドした後土煙を立てて着地する。
「けほっけほっ、ああ……いったあ」
「っ……」
トコルの余裕そうな笑顔が表情から消えた。代わりに、踏まれて今にも死にそうにヒクヒクと震えている蟻を見るような冷酷な目付きでヘデラの事を見据えた。
今まで見たことも無いような彼女の表情に、ヘデラは思わず息を飲み、背筋を震わせる。
「今ので仕留められなかった事、きっとすぐに後悔するよ」
「……っ!?」
トコルが体勢を低く構えた、と思った瞬間にその姿が消える。まるで瞬間移動でもしたかのように。
「ヘデラさん!!後ろです!!」
有り得ぬ動きに困惑していると、葵のはち切れんばかりの声が静寂を貫いてヘデラに届く。
その声を聞き、とっさに振り返るとそこには、目と鼻の先程の距離で槌を振りかぶるトコルの姿が。
「っ!!」
「ダメだよ、油断したら」
この距離では、回避は出来ない。
すぐさま体を逸らし、致命書だけは避けようとする。
「うぐっ――――――!!あ、ああっ!?」
頭部を狙っていたトコルの槌はヘデラの咄嗟の行動により外れることとなる。しかし、その先にあったのはヘデラの腰。
鈍い音と共に激痛が腰を中心に全身に駆け巡る。
「ヘデラさん!!」
意識が飛びかねんその激痛に、ヘデラは唇を血が滲むほどに噛み締め、何とか食い止める。
しかし、打たれた右の腰の激痛から、右足が言う事を効かず立ち上がる事が出来ない。
「くっそおおおおお!!!!」
痛む全身に鞭を打ちながら、葵が短剣を抜いてヘデラを庇うようにしてトコルに立ち塞がる。
「……逃げ、なさい。早く……逃げ、て」
「逃げませんよ……。少なくとも、あなたを置いてなんて……」
ティアーシャから貰ったダガーナイフを持つその手は震えている。けれど、目線はしっかりとトコルの事を見詰めていた。
「あなた……馬鹿よ」
「分かってますよ」
「三十秒、三十秒だけ。時間を稼いで。それで、私は動けるようになる」
ヘデラが右手で、攻撃された骨盤に触れ治癒を始める。それを葵は尻目で確認して、小さく頷いた。
「分かりました。全力で、耐えてみせます」
「ただの人間が、生き残れると思ってるの?」
トコルは槌をグルグルと回転させる。
距離を取り過ぎれば、ヘデラを攻撃される。距離を詰め過ぎれば、槌の餌食になる。
その距離の見極めが非常に重要になってくる。
葵は地を蹴って、トコルとの距離を詰める。
「あれだけ戦いを見ておいて、詰めてくるの?」
「……攻撃をする必要は無いんですからねっ!!」
ダガーナイフを振り上げる。
「そんな攻撃、当たるとでも!?」
この動きはフェイク。
振り上げたと同時に白衣を脱ぎ、トコルに向かってそれを投げつける。
「うっんん!?」
てっきり攻撃を受けると思っていたトコルは、飛んできた白衣を交わせずにそれを覆い被さることになる。そして種族故の身長の低さが悪さをし、完全に体全体を覆われることとなる。
「はぁぁぁぁあ!!」
視界と行動を奪ったトコルに、葵は渾身のタックル。視界を奪われたトコルにこれを避ける術はなく、為す術なく受け後方に弾き飛ばされていく。
「やるじゃない……、葵……」
「はあ……、はあ……」
実際に、命のやりとりをするのはこれが初めて。一歩間違えたら、死んでしまう。
けれど、そんな恐怖も彼の背中を後押ししていた。
「……よし、肩を貸して。逃げるわよ……」
「はい……!」
近くの木を支えにヨロヨロと立ち上がったヘデラを肩で支え、二人は茂みの中に逃げ込む。尻目で確認すると、まだトコルは葵の白衣に飲まれ動きを封じられているようだ。これで距離を取れれば。
「ヘデラさん、今のうちに全力で逃げますよ……!」
「えっ、ちょっ!?」
葵はヘデラの足も抱え、所謂お姫様だっこでヘデラを抱えて全力で走る。額から滲んで垂れてきた汗を顔を横に振って吹き飛ばしながら走って前に前に進んでいく。
目指すは、大樹の元。あそこまで戻れば、ティアーシャ達と合流出来るかもしれない。
――
「はあっ……はあっ……」
何とか山を登りきると、そこに見えるは巨大な大木が。
「大丈夫?お兄ちゃん」
「大丈夫、楓の治療が効果てきめんだよ」
「よかった……」
楓はほっと胸を撫で下ろした。それと反面、悪寒がしていた。ティアーシャの傷は治った所で、ソウカの件については何も解決していないのだ。さっさと解決せねば事態はより悪化するのだろう。けれど、そんな事はティアーシャも分かっているだろうし、敢えて言おうとする気は起きなかった。
『っ、見つけたか。一人』
ガサガサと大木が揺れ、低く響きのある声で語りかける。
「いや、三人見つけた。一人は避難所で休ませてある。ただ、もう一人は……」
「私達に攻撃をしてきました」
『……ふむ。闇の影響か』
ソウカの事で言葉を詰まらせたティアーシャの代わりに楓が説明する。すると、大樹が枝葉を揺らしまるで事を知っているかのような素振りを見せた。
「分かるのか?」
『ああ、あの闇は人の憎悪や悪意を固めたような物だ。それに触れれば少なからず精神に影響も受けよう 』
「じゃあ何で俺達は?俺達は影響を受けてないんだ?」
『全く影響を受けていない訳では無いだろう。判断力の変化や感情の起伏の変化などの影響は受けていたはずだ。それでも大きな変化がなかったのは、潜在的な魔力量が多いからだろう。……いやはや、主の妹に簡単ではあるが魔法を教えておいて心底ほっとしているよ』
「……そうか、確かにソウカの魔力量はそこまで多くは無いし……。ってことは楓がああならなかったのは大樹さんのお陰か……。ありがとう」
『我は頼まれたから教えたに過ぎない。我に感謝は不要だ』
「それでも礼は言わせてもらうよ」
楓もありがと、と零し肩を借りていた楓から少し離れる。
流石に長時間自分よりも身長の大きい女性を担ぐのは疲れたのか、楓も肩を伸ばして息を吐いていた。
『とりあえず、仲間が見つかっただけでいいだろう。それ以降の事はのちのち考えて……』
そう言った所で、大樹の枝葉が揺れるのを止め、言葉を詰まらせた。
「大樹さん?」
『どうやらあの二人も戻ってきたようだ……。しかし……』
「しかし……?」
刹那、木の影から飛び出した一つの影。白衣を着ていない薄い青色のシャツを身にまとった葵と、それにお姫様抱っこで担がれているヘデラ。
「ちょ、ちょっと……!降ろして!皆が見てる……!」
「とは言ってまだ走れる状況じゃないでしょう!!皆さん!!逃げて!!!」
葵が切羽詰まった様子で言うのを見て、ティアーシャの体がピクリと動く。
その瞬間、二人の背後から槌を片手に目を血眼に染めたトコルが飛び出し追いかけて来た。
「っ、トコルもか」
その一瞬で状況を理解したティアーシャ。すぐさま腰の短剣を引き抜き、二人を庇うようにしてトコルの前に立つ。
「楓!二人を頼んだ!!」
「分かった!!」
尻目で楓が大樹の中に二人を詰め込むのを確認すると、迫り来るトコルに向けて目を見開いた。
「どうやらこっちはエルティナの言う通りみたいだな……!!!」
「やあ!!ティアーシャ!!!早速だけど、死んでもらうからね!!!!」
「おうおう、おっかないこと」
トコルの振る槌を体を逸らして交わし、腕を掴んで地面に叩きつける。
「うっ…ぐぅっ!」
咄嗟に受身を取って飛び上がり、その体の小ささと素早さを活かして背後に回り込む。
「対策済みだよ。『空砲』」
しかし、その行動は既に見切っている。背中で魔力を圧縮し、トコルが触れた瞬間に圧力を解放する。
まるで壁に投げつけられたスーパーボールのようにトコルが弾き飛ばされ、やがて大樹の木の幹に激突する。
「かっはっ!?」
流石にその勢いは消せなかったのか、肺の空気が漏れ、幹に寄りかかって立ち上がろうとする。
「俺の交戦距離とお前の交戦距離はほぼ同等だ。リーチの長いヘデラには有効かもしれないけど、俺には接近戦では勝てないぜ?」
「っくぅ……」
トコルがおもむろに、腰に着けた皮のポーチから緑色のガラス玉を取り出し、革手袋の手の甲に付けられたパチンコにそれを装填する。
「っ」
「ティアーシャにはまだ見せてなかったよね。この攻撃は!」
魔力で生成されたパチンコの糸を引き、そのガラス玉が射出される。
「知らなくても対策は出来るけどな」
咄嗟に『天道』を開き、その入口を己の正面に展開する。そして、その出口を反対にトコルの顔面へと開く。
「なっ……!」
認識した時には既に遅い。緑色のガラス玉はトコルの目と鼻の先程の距離で炸裂し、同じく緑色の気体がばら撒かれる。
「がっげほっげほっ」
「ふうん、催涙系かあ。大樹さん、今だ!」
「さ、させないよ!」
トコルが腰のベルトから一丁の回転式拳銃を取り出して、こちらに銃口を向けた。そして何の躊躇いもなくトリガーは引かれる。
「っち」
トコルが拳銃を所持しているのは、完全に頭から抜けていた。その拳銃が見えた瞬間に体を捻らせるも、大腿部を鉛球が貫く。
「さ、足を奪ったよ。これからこれから」
トコルが拳銃のハンマーを倒し、次弾を篭める。
『いや、主はもう詰みだ。小人族の娘よ』
「なっ……!」
意気揚々に突きつけられた拳銃が空を舞う。その事実に気がついた時、トコルの体もまた同様に宙に浮かんでいた。
『やるぞ、ティアーシャよ』
「おうよ、後は頼む」
「な、何をっ!!ぐっううううぁぁっ!?」
地面に這いつくばっているティアーシャが小さく苦笑を浮かべると、大樹の枝が応えるようにして畝った。
トコルを浮かせているのは、大樹の枝。四肢にまとわりつくようにして絡んでいるその枝は早々簡単に逃げられる物じゃない。
そして更に一本、枝がトコルの項に穴を開けて体に潜り込む。
「……見てて愉快なもんでも無いがな」
その痛みに、トコルは断末魔かと思うような壮大な悲鳴を上げる。しかし、無慈悲にもその枝は止まることを知らず進んでいく。
「ぐっぁぁぁぁぁぁ!!!!」
やがて枝の動きが止まると、その枝を通してトコルの体内に神聖力が注ぎ込まれる。
まるで全身に強烈な電気を浴びたかのように体を痙攣させながら、トコルが苦しみに喘ぐ。
「ぐっうぅあっ……ぁ……」
『……終わったぞ』
やがて、トコルの体の動きが止まると大樹は彼女を拘束していた枝の力を緩め、優しく地面に降ろした。
既に己の治癒魔法で大腿部の傷を治癒したティアーシャはその元に駆け寄り、その小さな体を抱える。
「……大丈夫だ。……この体から、闇は消えてる」
『しかし治療において傷を追わせてしまった。主の妹に治療を頼もう』
「……ああ」
なるべく揺らさぬようにトコルを抱えて歩き、幹の中に入る。
中では壁を背に身を預けているヘデラと、なけなしの医療器具で腕の擦り傷を治療されている楓の姿があった。
「っ、終わった?」
楓がこちらに気づいて目を向けてくる。
「大丈夫。楓、トコルの治療を頼めるか?」
「うん、任せて」
葵にありがとうございます、と小さく頭を下げてトコルの元に向かい、その胸に両手を当てて魔力を込める。
「凄い傷だね……」
「洗脳はこうでもしないと解けないみたいだ。体の中に直接神聖力をぶち込むでもしないと。他にも方法はあったけど、当の本人が交戦体勢に入ってるからな……。これが最善だろ」
ティアーシャも楓の手の上に自分の手を重ね、魔力を落とし込む。
「……そう言えば……、楓はなんで葵に消毒して貰ってたんだ……?」
そう言えば、何とも奇妙な絵面であった。回復魔法に長けている楓が葵に傷の消毒を受けるというなんとも不思議な状況。
「あー、それはね……」
楓は苦笑を浮かべて葵の方を見た。
「楓さんの治癒魔法、どうにも自分の傷は治せないらしいんですよ……」
「……クレイジーなダイヤモンドじゃん……」
「ヘデラさんは寝てるし、今治癒魔法使える人が居なくて……。って事」
「トコルの治癒が終わったら俺が治すよ」
「ありがと」
楓が満面の笑みを浮かべた。
妹の可愛さに、ティアーシャが吸血鬼だったらそのまま浄化していたであろう。
――
「っ」
暗転していた世界から、意識が戻った。
どうやら寝ていたようである。
「……みんな、疲れてたんだな」
なけなしの薄汚れた毛布をかけられたトコル、その脇で腕を枕にして寝ている楓。トコルの毛布の隅を指先でちょこんと握って寝ているヘデラ(ヘデラはどうにもこの毛布無しには寝られないらしい)、壁に背を付けて俯いて寝ている葵。
皆が起きないように、音を立てずにそっと立ち上がり大樹の外へと出る。
陽の光が木の葉の隙間から垣間見え、ちらちらと視界を照らしていた。
「いい朝だな」
世界が壊れかけている、というのに出てきたのはそんな感想だった。
朝日を浴びてぐっと伸びをしていると、顔の脇な大樹の木の枝が一本伸びてきた。
『起きたか、よく眠れたか?』
「ああ、夢も見ないくらいにはぐっすりと」
体のあちこちにあった傷の調子も良い。魔力もすっかり回復している。
「さ、朝飯でも作るか」
朝故に少々寒かったので、『天道』の中から薄い上着を取り出して羽織って近くの小枝を集める。
「あー……、この枝って大樹さんのだよな?薪として使っていいわけ?」
『我は一向に構わん』
「お、おう……」
ティアーシャは苦笑を浮かべると、近くの枝を小脇に挟んで集めていく。途中途中大樹の枝が伸びてきて数本の木を取ってきてくれていた。
『今日の朝食はなんなのだ?』
「大樹さんは食べないだろ?」
『食べなくても気になる物は気になるのだ。主の作る飯は我の興味を唆る』
「うーん、そうだな……」
適当に『天道』の中に手を突っ込んで、中の在庫を確認する。
「俺がストックしてた分も大方使い切り始めたんだよなあ。流石にこの人数の分を賄うだけの量の持ち合わせはすぐに無くなっちまった」
かといって可愛い妹にそこらへんの虫食わせたくないしなあ、と頭を掻きむしる。
『幾分かは我の木の実で飢えは凌げよう。昔のヘデラはずっと食して生きてきたから、主らでも数日間であれば大丈夫だと思うが』
「果物かあ」
確かに飢えは凌げるだろうが、それで空腹を凌ぐのは少し無理がありそうだ。
『不服か?』
「いや、有難いんだけども……。どうにも俺らはそれじゃキツそうだ」
こりゃ食料調達も考えねぇとな、とティアーシャは髪を掻きむしった。
「っし、仕方ねぇ。食料調達に行ってくる。大樹さん、皆が起きたら伝えてくれ」
『一人で大丈夫なのか?もし何かに襲撃でもされたらどうするつもりだ』
「ま、そんときにゃそんときにな」
じゃあよろしく、とだけ言い残してティアーシャは逃げるようにして山をかけ降りていった。
『全く……我はあの者がヘデラの親友の娘だとは信じたくは無いぞ』
吐く口も持たぬが、大樹のため息が森の中に響いた。
――
「はああ……こりゃひでえや」
街に降りて十数分。パッと目に付いた大規模スーパーに足を運んでみたものの、結果は予想通り中までびっしり木、木、木、少々草。
陳列棚に並べられている生野菜や、肉、魚などの生鮮食品が植物によって養分を吸い取られでましたのか、まるで数日間干したかのように枯れきってしまっている。
しかしどうやら電気の方は生きているようで、人っ子一人居ない、緑で覆われた空間に照々と照明が落とされているのは少し不気味ではあった。
「ま、俺の考えはそんなに浅はかじゃ無いんだけどね」
あらかたスーパーの内部を回り、全ての生鮮食品がダメになっているのを確認すると、とある陳列棚の方へと歩を進めた。
そこは、レトルト食品の棚。いくつかは生えてきた木の枝に貫かれてお陀仏になっているものもあるが、それでも多くのものは無事である。ティアーシャは心中でガッツポーズを掲げた。
「忙しい時の味方はこういう時も裏切らないってね。やはりレトルト様は偉大なのだわ」
一人暮らし時代(前世)において大変お世話になった相棒は永遠の友なのだ。どんな過去も無意味なんかじゃない。そう立証された瞬間である。
棚からいくつか拝借させていただいて、流れ作業の如く『天道』の中に放り込んでいく。
そうしているうちに、ティアーシャが不自然にピタリと手を止め、ゆっくりと首を動かさぬままに口を動かす。
「……来ると思ったよ」
「あら、どうして?」
誰もいないはずの店内に、もう一人の声。
ティアーシャは腰から短剣を抜き、そちらの方を振り返った。すると、生い茂る木々の隙間から、数匹の蛇を這わせて現れたのは、誰でもない。
「ソウカ」
「一人なの?無用心なのね」
「むしろこうなるだろうと思ったから一人で来たんだよ」
ふう、と息を吐きその縦に割れた瞳孔を睨みつける。
いつもと何の変哲もない、彼女の姿。しかし、その背後にはうっするとどす黒い何かがチラついているようだった。
「お前との勝負、他のやつらにやらせるなんて勿体無いだろ」
「いつぶりかしらね、殺り合うのは」
お互いの歩が進んだ。双方合わせて二歩分距離が進む。そして気がついた時、二人の姿は既にそこには無かった。