第90話 閃光、そして緑になりて
90話
「っぐ、ぅぅぅ……!!」
全身から力という全ての力を魔力と神聖力に組み換え、『天道』と合わせて闇に対抗する。
「くそっ……!!だ、ダメか……!?」
体のあちこちから、変換に溢れた力が湯気のように漏れる。変換が間に合わぬ程、莫大な量の魔力、神聖力を生み出しているのにも関わらず、『天道』は徐々に徐々に押され始める。
「ぐ、ぁぁっ!!!」
口を結んでいても、苦痛故の呻き声が漏れる。肉体も、エネルギーの消耗が激し過ぎる。
「お兄ちゃん!!!!」
大樹の根元の方で、妹の叫び声が聞こえる。
「ティア!!!」
親友の叫び声が聞こえる。
「ティアーシャ!!!」
「……ティールっ!!!」
母親の親友の叫び声が聞こえる。
「ティアーシャ…!!!!」
もう一人の、自分の叫び声が聞こえる。
「……やってやるっ!!!……守ってみせる!!!」
皆の鼓舞を受けたからか、体の奥底からエネルギーが湧き上がってくる。とっくに体の限界など超えているのに、この力は一体どこから溢れてくるのだろう。
「……っ!?」
しかし、ようやく『天道』が闇を押し返し始めたと思った時、闇の中からドス黒い、髪の毛のように細い糸が飛び掛ってくる。
その狙う先は、ティアーシャの喉笛。しかし、両腕を『天道』の発動に割いてしまっている彼女に、それを防ぐ術はない。
「まず……ぐっ!?」
辛うじて体を捻るも、右手上腕に焼けるような痛みが走る。
それに総じて、まるで精神を刺繍針で一本一本突き刺されているかのような感覚に陥る。腕だから致命傷にはならぬものの、それだけで発動に莫大な集中力が必要な『天道』の維持が難しくなる。
「……次は避けられねぇっ…!!」
更に右から三本、左から四本。味をしめたかのように針が飛来する。体をよじろうにも、こう数が多くては避けようが無い。
来る、訪れるであろう痛みに覚悟を決め、歯を食いしばる。
『流石の我でも、見て見ぬふりは出来ぬな』
「っ」
しかし、その痛みは訪れることは無く寸前で頬の横を掠めた何かによって弾かれることになる。
「…っ、これは…」
『主に手出しはさせぬ。そのまま押せ』
大樹の木の枝が伸び、周りを囲っていた線のような針を叩き落としてくれていたのだ。
『この地の生まれでも無く、ただ死んだ母親の旧友が居るからという理由でこの場を守る。何とも馬鹿げた理由だ。しかし、その思いからそれだけの莫大な力が溢れ出てくるというのなら、我も乗ろう』
「ああ…、サンキュな」
これで、『天道』に力を込めることに集中出来る。
体の中心に魔力を集め、腕から手に掛けて神聖力に変換する。そして手の先から世界を包み込むように大きく、満遍なく、闇を包み込ませる。
「行ける!行けるよ!」
背後で楓達の叫び声が聞こえる。
さあ、あと一息。
刹那。
「っ…」
何かが、切れた。
「な、なんだこれ!?」
『天道』と闇の塊。その境界線から空中に大きな亀裂が入り始めていたのだ。
「っ!!ティアーシャ!!!それは次元の境界です!!!今すぐに退避を…っ!!!」
エルティナが喉が張り裂けんばかりの声量で叫ぶ。
「……だ、ダメだ…。今『天道』を切ったら、闇に飲み込まれる……!!」
その間も、刻一刻と二つの間の空間の亀裂は宙を進む。
「……っらぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「ティアーシャ!!!!!!」
一閃。天に光が瞬いた、そう認識した瞬間。
世界が無に包まれた。
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「……」
「先生?先生?……どこか具合でも?」
先生、そう呼ばれた男はその女性の声でハッと我に返った。
「っ……いや、何も。少しぼうっとしてしまっていただけです。何も問題はありません」
白衣姿に身を包んだその医師は、シャッターカーテンを指で開け、窓の外を覗き込んでいた。
「……ただ、少し胸騒ぎが」
「へえ、珍しい事もあるもんですね。あ、そろそろ次の患者さんがいらっしゃるので準備お願いします」
「……ああ」
数台型落ちのパソコンや、カルテ、ボールペンや付箋が散乱している机の上に置かれた既に湯気のたっていない冷めたコーヒーに目をやる。
地震も、強い風による揺れもない。それなのに、深い茶色の液体の表面にはしきりに波紋が立って消えない。
「何も、無いといいのですが」
白髪の混じった髪の毛を掻きむしり、半ばやけになったようにコーヒーを胃に流し込んだ。
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「先生、ありがとうございました」
「お大事にどうぞ。あと、お酒はなるべく控えるようにお願いしますね」
「年寄りの楽しみをそう奪わないでくださいよ先生……。それでも、もうすぐひ孫の顔が拝めそうだし……少しばかり控えようかね」
「ええ、それが良いでしょう。元気な顔でおひ孫さんに会って見せてください」
「そうだね……。そうするよ」
腰の曲がった老人が、杖をつきながら看護婦に背を押され診療室を出ていく。その小さな背中を見つめながら、彼は小さくため息をついた。
「なんか……、やな感じなんだよな……」
どうしても、先程から同じ場所ばかり気になる。窓の外、この病院から十数分で辿り着く小さな山の山頂。直感ではあるものの、何かがある気がするのだ。
先の診療にも、そのせいで若干集中力が欠けていた。まだ老人の定期検診だったから良かったものの、インフルエンザの検査なんて来てしまったら鼻の置くどころか喉の遥か先まで綿棒を突っ込んでしまいそうである。
「ダメだ!!集中できるか!!こうなったら直々に確認してやる!!」
彼は椅子から立ち上がり、ハンガーにかけて合ったコートを身にまとった。
頃合良く、別の医師と交代の時間だ。こんなに集中出来ないのなら、直々に確認しに行くまでである。
「やあ、荻野先生。お疲れ様」
「お疲れ様ですっ」
「お、お疲れ様……」
交代で入ってきた別の医師を吹き飛ばさん勢いで裏の出口に向い、扉を開け放った。
冬の良く冷えた空気が、顔を殴り付ける。吐いた息がぼうっと空に舞い、やがて消えていく。
「行こう」
コートを深く着込み、若干の早足で気になる山に向かう。
その山は、対して高くも無いし観光スポットな訳でも無い。何か有名な遺跡がある訳でもない。ある程度に山道を舗装され、所々に灯りが灯る小さな山。
子供の頃、良く山に登って迷子になって怒られたっけ。と、彼は感嘆の息を漏らした。
薄暗く、木の根を階段の代わりにした山道は、診療室に篭もり気味だった彼の膝にかなりの負荷を与える。
途中途中、木に身を預け息を整えるも決して登ることを諦めようとはしなかった。自分でも何故かは分からないのだが。
「はあ、はあ」
冬には似合わない額に滲む汗を拭いつつ、ようやく坂が終わる。そこには申し訳程度に置かれた山頂を表す立て看板が地面に刺してあり、その先からは街灯も何も無い、星明かりだけで照らされる闇が広がっていた。
「……なんだ、なんにも無いじゃないか……」
もしかしたら、ここに心躍る何かがあるんじゃないか。と、坂を登りつつ心密かに思っていた。しかし、案の定そんな期待は叶うはずもなく、数年前とほとんど姿形変わらぬ木々の数本生えた何の変哲もない山の一角に過ぎなかった。
「無駄足かあ」
ズボンが汚れることなど頭の隅にもおかず、その場で尻もちを着いて地面に座る。手を後ろに着いて天を扇ぐ。
久しく見ていなかった様々な種類の星々が、まるで自分を笑うかのようにチラチラと輝いている。
「まあ、いい運動にはなったか」
医者である自分が運動不足で生活習慣病にでもなったらお笑い草だ。これからは定期的に運動でもするか、そう心の中で密かに思った時だった。
「っ!?」
突如、木々がしなり始め、地響きが鳴り、周囲が揺れ始めた。
「じ、地震!?」
それも、かなり大きい。横揺れか、縦揺れかなどというよりも、ボウルに蓋をしてひっちゃかめっちゃかに振り回したかのように。世界その物が揺れているようだった。
「……長い!!」
十秒、二十秒、三十秒、一分、二分と揺れは続く。揺れも強く段々と気分が悪くなってくる。
気分悪さに耐えかねて、空の星々に目をやる。
「は?」
しかし、そこには明らかな違和感があった。
月でもない、しかし太陽でもない。辺り一面を明るく照らす球体のような物が徐々に徐々に落下してきているのだ。
「これがUFOかよ!」
あまりにも長時間続く強い揺れのせいで頭がよく回っていなかったというのもあるだろう。それでも、空に浮かぶ謎の巨大な発光体、と言われたら咄嗟に思いつくのはUFOだろう。
しかし、宇宙人が乗っている未確認飛行物体をUFOであると定義するのであれば、それがUFOでは無いことは、はっきりと分かった。少なくとも、彼の目には。
「人間だ、女の子だ…」
その発光の中心に居るのは、確かに人間の影。光が強くてハッキリとは目視できないが、それでもそれが人の形であることは一目瞭然だった。
「……一体、何が……っ!!」
そんな様子を、気の抜けた顔で傍観していると突如空の空間に卵のヒビのような亀裂が入り、光が消滅した。
「消えた…っ!?」
刹那、轟音が全ての音をかき消したのであった。
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「……っ」
顔に舞い落ちた柔らかい木の葉の感触で目を覚ました。
「……ここは……」
ズキズキと鈍器で殴りつけられたかのような頭痛を感じ、手で頭を押さえつけながら体を起こす。
手で触れている感じ、地面は土。ゴツゴツと、そして軽く湿気を含んでひんやりとしている。
「何が……」
目を開ければ、そこに広がるのは……。
「は?」
思わず目を丸くした。その先に広がっていたのは、青空の元に広がる様々な大きさのビルや建築物。この建築物は、あの世界には無い、荒幡ススムとして生きていた世界の物だ。
ただ単純に世界を超えてしまった、それだけの事だったらこんな声は出なかっただろう。
「……なんだよ……、これ……」
目の前に広がるのは、様々な大きさのビルや建築物。しかし、そのほとんどが大きく傾き地面な埋もれるように沈んでいて、それぞれの隙間の空間には、この世の終わりをも想像させる巨大な亀裂が走っていた。
極めつけには、まるで何百年も経過したかのように。それらの物に青々とした緑が絡み付いていたのだ。
「……ティアーシャ、起きた?」
「っ、ヘデラ?」
「ええ、…大丈夫?怪我とかは……」
視界の端から映り込んできたのは、燃えるような赤髪を揺らす長耳族、ヘデラ。
若干土埃で体を汚してはいるが、特にその他に怪我は見られない。ティアーシャはほっと胸を撫で下ろし、続けた。
「ああ、大丈夫。他の皆は?」
「……分からない」
ヘデラが暗い顔を浮かべて首を横に振った。
「分からないって……っ」
多大な魔力の消費による影響か、まるで貧血でも起こしたかのように顔を青く染めバランスを崩すティアーシャ。そんな彼女をヘデラは両手で受け止める。
「……っ、無理しないで。一度休みましょう」
「……」
本当なら今すぐにでも駆け出して他の仲間達を探しに行きたいところではあるのだが。今の自分に、それだけの体力があるとは思えず力無く彼女は頷くのだった。
「……でも、休むってどこに?」
「……ほら」
ヘデラが薄く微笑んで指指す先に目をやると、彼女は再び目を丸くしたのであった。
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「大樹さんも来てたのかよ」
『ぬ……。主か、先の戦いは見事であった。賞賛しよう』
周りの木々がせいぜい十数メートルなのに対し、その中に一つに突出している巨大な大木が一つ。
どうやら彼女達と共に、この大木も共にこの世界に飛ばされていたらしい。
「一体……何が起きたんだ?」
『我にも分からぬ。ただ、普通の事ではあるまい。何千年も同じ場所にいた我からすれば、この大地が今までの大地とは異なること位なら分かるがな。……それにしてもなんだこの空気は。空気の隅々まで毒素に犯されきっているではないか。……呼吸がしにくいぞ』
廃棄ガス、光化学スモッグやらなんやら、こちらの世界の空気は遥かに汚れているだろう。
「そりゃそうだ、俺だってキツイもん」
この場は大樹の他にも木がある。先程見た感じ、山の上なのだろうか。
それでいても、空気が悪い。鼻の奥への通りか悪く、匂いも重鈍な感じがする。
『とりあえず、我の中に入って休むがいい。他の者も、そう簡単に果てるような筋では無いことなど、主が一番分かっているだろう?』
「ああ……、さんきゅな」
ヘデラの肩を借り、大樹の中へと入り込んだ。
大樹の中にはこじんまりとした空間がある。床は土のままだが、周りは木の幹が覆ってくれている。
元々、ヘデラが生活していたということもあり、必要最低限の生活用品は揃っている。とは言っても常人からすれば、明らかに足りないものの方が多いのだが、この際屋根があるだけでもマシだろう。落ち着いて身を休めることができるだけで、贅沢は言えない。
「っふぅ……」
地面から隆起している木の根を椅子替わりに腰掛け、一呼吸着く。
「大丈夫?」
「大丈夫、軽い貧血だよ。……、で、何があったんだ?」
部屋の天井を仰ぎながら、大樹に語りかける。
『我にもハッキリとした事は分からぬ。詳しい事は、もう一人いる博識な方の主に聞かなければ分からぬであろうが』
エルティナの事だろう。明確に分裂した事など伝えては居なかったのだが、既に見抜いていたようだ。
『はっきりと言えることは、主の神聖力と相手の闇。存在せしえぬ虚無と、存在するかどうかすら怪しいのに多くの生物から存在を信じられる神々の力の一端である神聖力。その二つの矛盾がぶつかり合ったが故に、異なった二つの世界が捻れ合い、重なってしまった。と言うべきか』
「重なった……」
『ああ、二つの異なる色の粘土を互いに混ぜ合わせて一つに固めた。そのような感じだろう』
つまり、この世界に突如現れた大量の木々や草は、ナーサやルントが暮らすあちらの世界から来ている事となる。
「不味いな……。これだけ大規模に別世界の存在が揶揄されると、それぞれの世界での常識が狂う」
それどころか、世界の秩序すら崩れかねないだろう。
それに加え、もしも魔物やモンスター諸共世界を移動してしまったとしたら。自己の防衛や戦闘能力に乏しいこちらの世界の人間に、どれだけ多くの被害が出るかすらも怪しい。
「早急に、なんとかしないとな……。……それで、あの闇はどうなったんだ?俺が飲み込めたのか?」
闇と対峙し、巨大な爆発が起きた所までは覚えている。しかし、それ以降アレがどうなったのかまでは分からない。
「あくまで私の直感ではあるけれど……。まだ存在している。けれどかなり力は弱くなっている。まだ先のような巨大な『口』を開くエネルギーは無いと思う」
『我もヘデラと同意見だ。奴は今体力を回復している。その間は攻撃を仕掛けることは出来ないだろう。……その間に主は体勢を整え、再度闇を封じるのだ』
「封じるっつったって……。また捻れが起きたら……」
『起こさせないのだ。完全に主が圧倒した力で奴を飲み込むのだ。さもなければ、次何が起こるかは分からない』
大樹がティアーシャの声を遮った。
「……エルティナ無しじゃ、分からねぇか……」
いくら大樹が博識であり、長年生きているとはいえ、これまでに起きていないことを完璧に予想することは出来ない。
ここは『元解析者』であるエルティナの力を借り、何としてでも対策方法と解決法を明らかにしなくてはならない。
『であれば、ヘデラに探しに行かせるが良い。主はここで体力を』
「いや、俺も行く。この世界はお前達のいた世界じゃ見当もつかないような摩訶不思議な文明があちらこちらにある。……それらを無視して街を進めるほど、甘くは無いと思うぜ」
「しかしティール、貴女は……」
心配そうに眉を窄めるヘデラの肩をティアーシャは立ち上がり、鷲掴みにする。
「大丈夫。ただの貧血っつっただろ?魔力さえ大量に使わなきゃ、支障は無い」
『うむ、確かに。知無きものがその領域に飛び込むのは無謀だ。それに効率も悪い。であるからして主がヘデラと共に行くのは合理的だ』
「だろ?話が分かるねえ」
「しかし……」
『ヘデラよ。主は布切れ一つ纏わず、男ばかりいる酒場に足を踏み入れるか?そういう事だ。ここは知識ある物と力を合わせることこそ合理的だ』
「分かりました……。大樹様」
腰の横で拳を握りしめつつも、ヘデラは目を瞑って小さく頷いた。
『だが、今すぐにと言うのは許さん。二人とも万全の体勢で望むがいい』
「……ああ」
今すぐにでも飛び出していきたい気持ちを押さえつけながら、ティアーシャは体の緊張を緩める。神聖力に保護されているこの場所なら、存分に身を休めることが出来るだろう。
拠点と言える拠点が無い今、大樹を仮拠点として皆との合流を図ることにしよう。
「ふあ……」
「眠い?」
「……んん」
身を縛っていた緊張感が緩んだのと、大量の魔力を一度に消費してしまったのとで全身に倦怠感が伸し掛る。
事実、目元が蕩け焦点が定まらず、頭も上下に揺れてしまっている。ヘデラの質問に対しても曖昧な受け答えしか出来ていない。
『寝かしてやるが良い。昨今の戦いや修行は身を蝕んでいるだろう』
「……ええ、分かっています」
遂に近くの壁を背に眠りに落ちてしまったティアーシャにボロボロになった自身の使っていた毛布をかけてやる。
目元に掛かっている白銀に輝く一筋の髪の毛をそっと手で掻き分けてやる。
「……、外の警戒をしてきます」
『……ああ、分かった』
そのままそこに居ても良いのだぞ、と大樹は言おうとした所でぐっと口を噤んだ。彼に口と言うものがあるのかすら分からないが。
ヘデラは入口側に立てかけてある自身の短槍を手に取り、軽く振ってから大樹の外へと出ていくのだった。
これが、違う世界なのか。
ヘデラは小さくそう思った。
いつものように大樹の中で夜を越し、外に踏み出せばそこにある景色は目を疑う程に違っていた。
そもそも自分が街に降り、冒険者として生活していたのはほんの数年間の事だったから自身が世間知らずだということは己で自覚している。そんな自分でも異様だと思うのだから、そうなのだろう。
まず、建物が異常なまでに高くて大きい。それに、なんだかカクカクと角張っている。
木の上や地の上に木を切って建てる家しか知らぬ自分からすれば、どのようにしてこの建物が作られているのか、検討すらつかない。
そんな建物が、青々とした緑に覆われ、地面に飲み込まれている。
年端のゆかぬ子もこの世界にはいるだろう。そんな無知なる者共を、自分は巻き込んでしまったのか。何も物言わぬ緑は、静かに自分にそんな事を語りかけているような気がしてならなかった。
「……」
ヘデラは首を振った。今はそんな事を気に病む必要は無い。
心に雑念がある時は、槍を振るうに限る。
片手を失ってしまい、まだ元のように槍を振るうことは出来ないが、それでも槍が空を切る振動や感触は未だにこの手で感じる事が出来る。
「っ」
そんな彼女の洗練された槍術故なのか、槍先から伝わる空気の振動に違和感を感じた。
ピタリと槍を伸ばして動きを止め、意識を空間に集中させる。
「……出てきなさい」
静寂を貫く、冷ややかな一声。
「……」
「……場所は分かっています。何もせずに出てくれば何もしません」
ヘデラの槍先がゆっくりと近くの草むらに向く。
「……五秒。五秒だけ数えます。それまでに出てこなければ、槍を投げますよ」
ヘデラが槍を投げの構えに直す。
「一、……二、……三、……四。良いんですね、投げますよ」
ヘデラが槍を持つ手に力を込めた刹那。
「ああ!!分かったよ!!出るから!!出るから槍をしまってよ!!」
槍を向けられている草むらから情けない男の声が飛び出す。
「……良いでしょう。出てきなさい」
それを聞くとヘデラは投槍の構えを崩し、元のように脇に柄を挟み構え直した。
「……槍を持ってる人の前にみすみすと出ていくわけが無いでしょう……。さっきから訳分からない事ばっかりで、一体なんなんだよ……」
草むらから姿を見せたのは、白衣に身を包んだ中程度の身長の男。髪には所々白髪が残っていて長い後ろ髪を背後で一つに束ねている。
「……貴方は?」
「そ、そういう時には自分から名乗るという掟が……」
無様にも両手を垂直に天に掲げながら、引きつった顔で物申そうとした刹那、首の薄皮に槍先がくい込み血が滲む。
「ーーっ。……分かりましたよ。五十嵐です、五十嵐 葵です。僕の名前は」
「私はヘデラ。勝手な所申し訳ないけれど、ここから先は入らないで貰える……?友達が疲れて寝ているの」
「……友達が?こんな山奥で……?」
自らを葵、と名乗った男は小首を傾げた。
「こんな辺鄙な山に休む場所なんて無いですよね。それだったら下山してどこか宿にでも泊まった方が……」
ヘデラは目を丸くした。もしやこの男、この世界に起きている惨事をまだ見ていないのか。
「……貴方、山の下がどうなってるか分かって言ってる?」
「は?山の下は普通に……木が多くて……ビルが草に覆われて……………………………え?」
振り返るとそこにあるは、自分の記憶とはあからさまに異なる景色。一面の緑緑緑。
「こんな状況でわざわざ山の下まで降りて身を休める方が危ないでしょう」
「え……あ……」
葵は完全に言葉を失っていた。それはそうだろう。目が覚めたら、つい数時間前まで勤務していた病院が草に埋もれ、そのシルエットのみを残しているのだから。
「……貴方、もしかして……帰る場所が無いの?」
「……………わか、りません」
あの緑の内は、一体どうなっているのだろう。中は無事なのか?それとも、中まで木々たっぷりなのだろうか。だとしたら、同じく医者の同僚や患者、医院長は?あの中にまだ居るのだろうか。
頭が真っ白になり、まともな思考が出来なくなる。
「……いか、ないと」
「……?何を言って……」
まるで砂漠で何日もさ迷った挙句オアシスの蜃気楼を目にした者のように。
手を前に伸ばして、ゆっくりと千鳥足で前に進む。
「……ちょっと、今行くのは無謀過ぎる。街の様子なら後で私達が確認しに行くから……。ろくに戦えもしないであろう貴方はじっとしてなさい」
「……じっとしてろって言ったって、僕は医者ですよ……?患者を見捨てろって言うんですか?」
自分が受け持っている患者は、御年寄から年端のゆかぬ子まで様々な人がいる。
治療してもらえると、治してもらえると信じて赴いてくれた彼、彼女達の気持ちを無下にするなんて、医者としてやっていい事なのだろうか。
「……真面目なのね、貴方は」
ヘデラは呆れたようなため息を着いた。
「……確信したわ。貴方は敵じゃない。……付いてきて、身を休められる場所を提供するから」
「……身を休められる……場所?」
この山は、少なくとも他人よりかは知っている。何度も何度も登っているから。
しかし、知名度のある山のように山小屋がある訳でもないし、そこまで高い山である訳ではない故に休憩所など設置されているわけも無い。
それなのに、彼女は休める場所と言ったか?
「……置いていくわよ」
「……あ、はあ……」
しかし、状況が理解出来ていない自分の頭ではこれ以上考えるのは無謀だ、と彼は踏んだ。
今は唯一出会った、耳の長い染めたにしては自然な赤髪の彼女に着いていくしか道は無いと悟った。