第89話 終わりへの序幕
「ようやく、ここまで来たのね」
「っ…」
はっきりと聞き取れる、肉声。
ぼんやりと滲む視界に静かに居座る、白銀の髪。
「……あんたが……」
「……初めまして。かしらね?」
徐々に鮮明に映し出される、その体躯はそれを見る自身のものと極めて酷似していた。唯一違うのは、身長と瞳の色くらいだろうか。
「ティアーシャ……」
「……ええ。ティール」
思わず、顔が引きつった。
「……生きてたのか?」
「…いいえ」
ティアーシャは小さく首を横へと振った。
「勿論、死んでいるわ。これは、単なる残留思念に過ぎない。物に自分の意識を憑依させる術ね。……これを見ているってことは、四つ。集めたようね」
「ああ……。だけどあと一つは一体どこにっ…」
尋ねようとしたその時、おもむろに近づいてきた彼女に唇に指を当てられる。
「それは、私の口からは言わない。……だけど。ヒントならあげるわ。……既にあなたは五つ目の石を持っている。本当にあなたが、大切なものを命を賭して守ろうとした時、その在処に気づくでしょう」
「……そんな、なぞなぞじゃあるまいし…。それってどういう」
「今言ったまでよ。……私の子、ティール」
「お、おい!待てって!!」
彼女は小さく微笑むと、頭を片手で撫でた後まるで空気と同化するかのようにして静かに消えてしまった。
掴み、留めようとしたその手は大きく空振り、宙を切る。
「……ティアーシャ」
ああ、まただ。と、体が浮上していく感覚に陥る。もうこの石に込められた記憶もこれで終わる。
「……まだ、聞きたいこと。あるのに、な」
柄にも合わず、そんなことを口走った矢先、その空間は視界から消え去っていた。
---
「……っ」
「おかえり」
火にくべられた薪の弾ける音ではた、と目が覚める。いや、意識を失っていたのかすら分からないような不思議な感覚。
昼休み終わりの五校時の古文の時間に襲い来る眠気によく似た感覚。
手に握られた少し冷えた藍色の石が、現実感を身に帯びさせてくれていた。
「……会ったよ」
「ティアーシャに?」
「うん、実際に。触ったし、喋った」
正直のところ実感は無かったし、意識だけが飛んでいるのだから実感なんてあるはずも無いのだが。
ティアーシャは懐に藍色の石をしまい、一つ、息を吐き出した。よく冷えた明け方の空気に、白い煙となってその息は散っていく。
「……へえ、良かった。物に意識を込める術は私が教えたものだから、それが成功していたなら良いや」
「……案外素っ気ないのな」
「……別に、術を組んでいる時には私も付き添っていたから、どんな内容なのかは粗方知っているしね」
「へえ」
まあ、正直その辺りの事はどうでも良かった。
地面に突き刺している串を引き抜き、回転させて再び刺す。
身から溢れた魚の脂が、串を伝って滴り落ちる。
「そろそろ出来るな。皆ー!」
「はいはーい、今行くー!」
楓の声が木の内から返ってくる。
「……ふあ、まだ寒いじゃない」
今度はソウカが木の枝の上から物音も立てずに落ちて来る。
何でも、そこで横になっている分には神聖力の影響を受けにくく楽なのだとか。何ともご都合主義である。
「うわ、鮎だあ。久しぶりに食べるね」
「釣ってきたのを保存しておいたんだよ。……漁業権のチケットがワンシーズン分でしか売ってなくて大損した感じもあるけどな……」
それでも、難易度の高い友釣りと呼ばれる漁法で人数分釣れているのだから良い方だろう。まあ、その成功の背後にはエルティナの加護があるのだが。
「あゆ、というの?」
「そう、鮎。他の魚と違って岩に生える苔を歯でこそげ落として食べる珍しい魚でさあ。草ばっか食べてる訳だから臭みも少ないし、内臓もそのまま食べれる」
「へえ……」
他の魚のように餌での釣りが出来ない分、友釣りと言う特殊な方法を使って釣る。鮎は縄張りを持ってその範囲内の苔をこそげ食らう習性がある。そこに自分以外の別の鮎が侵入してくれば、敵対者と見なし体当たりをして攻撃する。
友釣りとは、オトリと呼ばれる鮎を糸に付け泳がせて川を泳ぐ鮎の縄張りへと泳がせて、体当たりを仕掛けてきた所を針にかける、というものである。
釣りの中でも屈指の難易度を誇る釣り方である。エルティナの力を借りてザッパザッパと釣り上げるティアーシャは、他の釣り客からとても目立っていて、その様子がSNS上に上げられプチバズしていたことは本人は知らない。
「いただきまーす!」
手で背びれを外して、楓が背中から鮎にかぶりつく。
「うん、おいひい!」
「良かった良かった」
もぐもぐと頬張る楓を微笑みながら見て、同様に鮎を頬張る。
「旅してた時に民宿で食べたわ。あの時は焼きたてじゃなかったから若干冷めてたけど……やはり焼きたてが一番美味しいわね」
ガスで直焼きすると、水蒸気が発生してしまうので身がふっくらとしないきらいがある。やはり本当に美味しく食べたいのなら炭火やらが最適だろう。
「へえ……。すごいさっぱりしてるし、内臓は少しこってりとしてるけど、嫌な匂いもしないしほろ苦くて美味しいね。魚の内臓なんで苦くて食べられたもんじゃないと思ってたけど、これなら全然いけるね」
初挑戦のトコルも上々の感想を述べる。
「うるかっつって内臓だけ食べる料理もあるからなあ……。酒に合うんだよなあ……あれがまた」
酒は我慢、我慢と言い聞かせながら自分の頬を平手打ちするティアーシャ。
「じゃ、じゃあ私も……」
周りの様子を見て、ヘデラが恐る恐る口に運ぶ。
「……どう?」
目を閉じて小さく咀嚼する彼女を見て、トコルが顔を覗き込む。
数秒後、ヘデラが飲み込んで目を開く。
「……おいしい。……魚ってもっと生臭いと思ってたのに……」
先程までの抵抗感はどこに行ったのかと思う程に、ヘデラが魚にがっつき始め、その身はやがて骨だけになった。
「……ふぅ」
「……少食とは思えないスピードだったな」
「……ヘデラがこれだけ美味しそうに魚を食べる所なんて初めて見たよ……」
トコルが少し、自信を無くしたように俯く。
「……さ、食べ終わったら早速修行に移りましょう。あまり悠長にしている時間は無いからね」
骨の隙間にこびり付いた小さな肉片をも平らげ、ヘデラが立ち上がった。
「……修行は、キツイわよ」
「んなもん、承知の上さ」
ティアーシャは、微笑を浮かべて魚の身を噛みちぎった。
---
「精神を一定に保って。動揺したらダメ。焦ってもダメ」
「……すぅ……」
「そう、ゆっくり息を吸って吐く。心の中を空っぽにして……」
修行の内容は、簡潔であり、鬼畜。
体の一点からのみ魔力を噴出し、体を浮遊させそのまま動くことなく静止させる。
「なあ……ほんとにこれって意味が……」
「喋らない。無心でやる」
「うええ……」
言ってしまえば、バランスボールに片足立ちして目を瞑っているような状況。全身の筋肉は強ばるし、体のバランスを保つのにだって神経を削ぐ分、無心でなんて以ての外である。
「今日はこの修行をずっと行うわ。……翌日は……」
「……いち、にち……」
キツイのは承知の上、などと言っていたが疲労に苛まれる己の体と向き合ってその言葉を後悔し始めるのだった。
「うっ……げぇぇ……」
『その様子では相当絞られた様だな』
「魔力が枯渇しても魔力を絞りだせ。だなんて……中々無茶苦茶な修行だよ……」
その日の修行を終えたのは、真夜中。他の面々、気を利かせて頑張って起きてくれていた様だが、全員あえなく寝落ちしたようだ。
『まあ、そう言ってやるな。……我も、あの子に神聖力を教えるに苦労したものだ。……本人の学びたいと言う意志と欲は足りておるのに、あと一息上手く行かなくてな』
まるで微笑ましいものでも見ているのかのように、大樹の声は柔らかであった。
『だからこそ、この二日間で神聖力を身につけるなど本当に無茶な事だと彼女本人が一番よく知っている。……それでも、主を信用し、その力を確信しているから、彼女は主に手を貸しているのだ』
「……」
『神聖力は、自分が全ての力を使い切った時、初めてその身に宿るものだ。……つまり、死ぬ覚悟を持って行うのだ』
「……そんなこたあ分かってるよ。俺だって、エルティナだって命懸けだ。あの虚無の空間を何とかしない限りは、俺達の命がいつまでも保証される訳じゃないし」
『その覚悟があるのならば、きっと大丈夫であろう。……彼女の師である我が言うのだ。信じるが良い』
ヘデラ。
柔らかな赤髪を揺らす、長耳族の少女。
通り名を、『罪人の子』。
彼女が生まれて間もない頃、その家族は幸せな毎日を送っていた。
長耳族は長寿ゆえに、子が出来にくい。出来たとしても、多くの場合は死産に至る。そんな低い確率を乗り越えて、生まれてきてくれた彼女を家族は大いに喜び涙した。
そして、彼女に『未来永劫の愛』という念を込めてヘデラ、と名をつけた。
家族は笑顔に溢れ、周りの家族もそんな家族を羨んだ。毎日、毎日が幸せな日々だった。
しかし、天の神は非情にもそんな日々を断ち切ってしまった。ヘデラが物心ついて間もない頃、事件は起こる。
狩りに出かけていた夫が家を開けていた時、その妻とヘデラだけが残る家が襲われたのだ。
幼きヘデラと、その母親を人質に取りその家族の全てを奪おうとした。
そんな行為は、風に乗ってすぐさま父親の耳に届いた。颯爽と狩りから戻り、家族を人質に取る強盗を説得しようと試みた。
けれど、言葉で解決できるほど甘くは無い。痺れを切らした強盗が、妻の後頭部を床に叩き付けたのだ。
最愛の家族に手を出されて、その夫は震える手で弓を手に取り男の顔目掛けて矢を一矢放った。
長耳族の掟に、こんなものがある。たとえ如何なる理由があれど、同族を殺せばそれは死罪になる。と。
強盗に入った男は、長耳族だったのだ。
妻子を守りたい、それ故の正当防衛だ。一般的には、その言い分が成立するだろう。
されど、ここは長耳族の住まう地。ヘデラの父親が長耳族の男を殺したという事実のみに焦点を当てられるのだ。
結果、ヘデラの父親は死罪。母親は一命は取り留めたものの、植物のように動かなくなり、自分の意思で動くことが出来なくなった。
まだ小さなヘデラは特に罪を受けることも無く、母方の親戚の家へと引き取られた。が、そこでの彼女の扱いはとても良いものとは言いきれなかった。
扱いは、罪人の子。毎日毎日冷ややかな視線を向けられ、ひたすらにこき使われ、食事も普通廃棄されるような物ばかり出されていた。あくまで、生かされている、そんな状態。それでも彼女は必至に毎日を生きていた、のだが。
--ヘデラが、笑みを浮かべているのは久しぶりに見る。……やはりあの子に、悲観的な顔は合わぬ。この娘に感謝しなくては、な。
ヘデラは基本、感情を表に出さない。本人が言っていたが、どれだけ嬉なことがあっても心の底から動かされるということは無い。ということだそう。
けれど、そんな彼女がティアーシャと会ってから時折笑顔を見せるようになった。口数も増えた。
恐らく、彼女らがこの地に留まるのはほんの数日の事なのだろうが……ヘデラの笑顔を。年相応の若々しい表情を、もっと見たいものだ。と、大樹は枝葉を揺らした。
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修行、二日目。タイムリミットまであと二日無い。
刻一刻と時が迫る中、ティアーシャは昨日と同じ修行をひたすらにこなしていた。
「……なあ、神聖力の修行って……。ほんとにこれで良いのか?」
「……」
ヘデラは答えない。槍を地に着き、そのうっすらと開いた瞳で彼女をじっと見つめているだけ。
「なあ、ヘデラ!」
「……」
「家族の命がかかってんだよ!!分かってんのか!?」
ティアーシャは、身を浮かす魔力の噴出を止めヘデラの胸ぐらを握りしめ、引き寄せた。
「……家族を失う気持ちなら、理解している。……救う難しさも」
「……何を?」
「……短剣を抜きなさい。ティール。……あなたにその覚悟があるのかどうか。見せてみなさい」
表情を一切変えずに、ティアーシャを突き放し短槍を片腕で構える。
「ま、待てよ。そんな傷を治したばっかりの状態じゃ…っ」
「来ないの?……なら、容赦はしないわよ」
困惑するティアーシャに、ヘデラは体を一歩前に突き出し槍を振るう。
「くっ……!?」
殺意は感じない、されど情も感じない槍先がティアーシャの腹部を目掛けて切り裂く。
瞬間にバックステップで回避するも、槍が動かす空気の流れのみで服は裂け、身に浅く傷が入る。
「……へえ、避けるの」
「……ちくしょう。やるしかねえみてえだな……」
唇を噛みながら、腰の鞘から短剣を引き抜き体勢を低く構える。
「逆手持ちなのね」
「……?」
「惚けてたら殺されるわよ?」
刹那、体の左側へと振られる槍先。右手の逆手持ちで短剣を握るに取って防ぎにくい場所。
「うっ……くぅ…っ!?」
何とか刃で受け止めるも、力押しされ槍先が肩に食い込む。
「っ!」
無理に押し返せば、更に深く突き刺される危険がある。槍先へと力が込められたタイミングを見計らい、右足を軸として体を回転させ槍の力を受け流す。
手押し相撲のフェイントと同様、支えがあると確信して行われる攻撃を受け流されるとその行きどころを失った力故に大きく体勢が崩される。
ヘデラも同じだ。体勢を崩した所にすかさず足に向かって蹴りを放ち、転倒させる。
そのまま体を固めて拘束し、終わらせる。そう考えていたのだが……。
「なっ……!?」
槍を勢いのまま地面に突き刺し、それを軸にコンパスのようにして回転。遠心力により増幅された鋭く重い蹴りが飛びかかってくる。
咄嗟に左腕でガードするも、衝撃が骨まで響き鈍い痛みが腕全体に走る。
しかし、ここで距離を取ってしまっては槍と短剣では勝敗は目に見えている。せっかくここまで距離を詰めたのだから、それを利用しない手は無い。
ヘデラが槍を地面から抜く一瞬の隙を付いて腿のベルトからダガーナイフを取り出し二本、投げつける。
「くっ…」
いくら近距離戦闘用に切り詰められた短槍だとしても、至近距離で投げられたナイフを捌くのには手を焼くはずだ。案の定、彼女はナイフを捌く、ではなく避ける。という判断に至った。
「そこだっ…!!」
「なっ…!」
ナイフを避けるに当たって踏み出した一歩。
次の瞬間、その足が泥沼に踏み込んだかのように地に深々と突き刺さる。
すぐさま地を蹴って背後に回りこみ、短剣を振るう。
「……甘いのよ」
「……っ!?」
しかし、ヘデラは腰を大きく捻って回転を付け背後に向かって槍を投げ付けた。
宙に鮮血が舞い散る。
「……チェックメイト」
「…………」
ヘデラの髪に、血が滴り落ちる。
それは、彼女のものでは無い、旧友の血。
喉笛に突きつけられた短剣の切っ先からも、同様に鮮血がこぼれ落ちる。
「……貴方……」
「……覚悟さ。これくらいでもしねぇと、意味ねえのは分かってる……っつ」
深々と左肩に突き刺さり、貫通している短槍。
「わざと当たったの?避けられたのに」
「……さあな。……っく、がむしゃらだったもんで……なにもっ…」
膝が崩れ、手に持つ短剣が地に転がり落ちる。
「……無茶苦茶よ。……ティアーシャ」
「へっ、……お褒めに預かりまして」
肩の槍を引き抜こうと、無事な右手を伸ばす。しかし、吸血鬼では無いにしろ持ち前の自然治癒能力の高さ故に槍の柄が肉に捕らわれて引き抜くことが出来ない。
「……っぐ、ううっ…!?」
多少なりとも槍は動いてはいるが、その度に精神の一本一本を針でつつかれているような激痛に苛まされる。
「……抜けねぇ……」
「……無茶よ。当てるつもりは元から無かったのだから、全力で投げてしまったし……。治癒のしようも、槍が刺さってしまっていては方法が無い」
「……はぁ。……荒療治なんだがなあ……、やるしかねえか」
ティアーシャは懐から血に濡れた手ぬぐいを取り出し、それを猿轡のように口で咥える。
「……んっ……んぐっんぅっ!!??」
そして、魔力の塊を槍の柄の先端に圧縮し、放出。限界まで縮められた力が瞬間的に解放され、膨張。その勢いで槍を弾き飛ばし、貫通させ、引き抜く。
「……んっ……ぐ、ぅああっ!!」
しかし、一回では上手くいかない。一メートル三十センチ程ある短槍の柄の先端の十数センチという所で止まってしまう。
「……ぐ……うっ……」
額から滝のように脂汗が流れる。背筋が凍るかのように震え、焦点が定まらなくなる。
「……っ、ティ、ティアーシャ」
そんな様子を見て、ヘデラが思わず体を支えようと手を伸ばす。
「手出すんじゃねぇ!!!」
「っ……」
しかし、その手はティアーシャの怒号によってピタリ、動きを止めてしまうのだった。
「こいつあ、俺の覚悟ゆえの傷だ。……それでくたばるなら、そこまでの覚悟だったって事だ。……こいつは、自分で抜く。……抜いてやる」
「……」
ヘデラは思わず息を飲んだ。
自分自身の血で、全身を深紅色に染め上げ息を切らしている彼女。しかし、その口元は薄ら何か意味を孕んでいるかのように、吊り上がっていた。
「……んぐぅぁぁっ!!!!!!がっ…!!!ぁぁっ!!!!」
刹那、魔力の塊を放ち短槍は彼女の後方へと転がり落ちる。
槍が抜けると同時に大量に流れる血液が、短槍を隠した。
「……ってぇ…。……く、そ……」
繋ぎ止めていた糸が切れたマリオネットのように、体がぐらりと前方に傾く。
「…っ、ティアーシャ!」
すかさず手を伸ばしたヘデラ。今度は怒声が飛んでくる事も無く、静かにその腕の中に収まった。
「……ば、か。手、出すなって」
掠れる、聞き取れるかどうかすらも怪しい声でティアーシャが言う。
「見捨てるわけ、無いでしょう」
ティアーシャには、見えていない。
「これ以上、あなたを。見捨てたりなんて」
しかし彼女の髪に幾度も、雫が滴った。
---
『で?どうだったのだ?彼女の神聖力への適正は』
傷を癒し、脇ですうすうと寝息を立てて寝ているティアーシャを一瞥して、ヘデラは小さくため息をついた。
「全く、と言っていいほどに。適正がありません。仮に今は人間として生きているとしても、元は吸血鬼の血を色濃く低く子ですから……。しかし、この子と槍を交えてみてわかったことは」
一息おいて、ヘデラは首を持ち上げた。
「この子の中には、誰にも負けぬほどの闘志と精神力があります。悪くいってしまえば、自己犠牲の気が強いとも言えますが……。それでも、私は彼女の中に、ひと時だけ神聖力が生まれたのを感じ取りました」
『その時、というのは?』
答えをわかっているだろうに、大樹は薄ら微笑んだような調子の声で尋ねた。
「心に、覚悟を決めたとき。そうとだけ言っておきます」
熱の籠る木の中とは違い、一歩外に足を踏み出せば染み入るような空気が肌を掠め過ぎていった。
「……」
近くの地面から隆起している大樹の根に腰掛け、天を仰いだ。
(守りたい、ね)
口から吐いた息が闇夜に湯気となって立ち上っていく。
(私には……)
気が付いた時には、何もかも失ってしまっていた。母も、父も、故郷と呼べる場所も。
自分が、長耳族に生まれていなければ……。家があって、帰れば父も母もいて暖かい夕食を共に囲んで暮らしているのだろうか?何度、何度考えただろう。しかし、そのビジョンが脳裏に浮かんでくることはなかった。どんな妄想も空想も、結局は木の元で一人静かに暮らす自分に代わってしまうのだ。
だから、きっとこれは運命なのだろう。そう割り切ってこの十数年は暮らしていた。
そして、心の底から分かり合える仲間に出会った。ほんとうに、何でもない小さな野暮用で人里に下りた時に出会った四人組。初めは新手の盗賊や、人攫いかと思ったものだが周りの者達からの信用具合を見てみれば、そんなちゃちな存在ではないことなど容易に理解できた。
大樹からは、たまには人里に降りて人間らと関わりを持ったほうがいい、と忠告を受けていたが故にほんの軽い気持ちでその四人組に導かれるがままついていった。
さすればどうだろう。そこにあったのは、今までの自分にはこれっぽちもない友情や、信頼。会う人会う人を警戒して生きてきた彼女にとってそこは自分にとって唯一の気持ちを落ち着かせられる場所になった。
己の性格が故に、あまり表情には出ていなかったであろうがそれからの日々は幸せだった。色に満ちていた。
共に冒険者として過ごす毎日。たまには羽を休めて私服で街を散策する日々。五人の内の誰かがへまをこいて危険な目にあった日も、どれもこれも光に満ち溢れていた。
それまでの人生の中で感じたことのなかった充実感。いつまでも、そんな毎日が続けばいいと思っていた。
しかし、そんな幸福な毎日も終わりを迎える。
メンバーの友、ティアーシャの妊娠が発覚した。それ以前に故郷に帰らねばならないといけないといって何年も顔を出していなかったから不審に思うところがあったのだが。
パーティーのメンバーがそれを知ったのは、彼女の娘が既に物心ついていた時。それと同時に彼女が身を隠していた街に吸血鬼が潜伏していると発覚してしまった。
その街からの脱出を図ろうとした時、ティアーシャが身を挺して娘を守り、
処刑、されたのだ。自身がその街に現れた唯一の吸血鬼だと証明する為に…。
後、名を街に馳せていた冒険者パーティは解体された。
ナーサ、そしてルンティアは記憶をトゥルナによって記憶を改変され、ティールの事も記憶から抹消された。
トコル、ヘデラはそれぞれの故郷に戻り、トゥルナは細々と医業を営んで生計を立てていた。
「まさか、とは思ったけれど」
鮭が自分の生まれ育った川に戻り、子孫を残すのと同じように。まさかティールが自分達の元に戻り、その思いを継ごうとしているなんて。
『思い、というのは受け継がれていくものだ。ヘデラ。それは、お前だってそうだろう』
「……ええ」
ヒラヒラと、羽毛のように優しく落ちてきた葉が彼女の頭の上を撫でるように乗る。
『命を掛けて、大切な物を守る。……きっと、お前の両親も今のお前を誇りに思っているさ』
「……そう、なのかな」
何も無い、天に向かって手を伸ばした。何も無いのだから、何も掴めない。
手の背景に映る満天の星空は、何故だか先程までよりも数が増えているように見えた。
---
翌日、朝日が木漏れ日へと変わる頃。各々が大樹の中から身を乗り出した。
「いつつ……」
「大丈夫?お兄ちゃん」
「傷は塞がってるんだけど……痛いものは痛いものなんだよな……」
槍が刺さったのが左肩で良かった。短剣を持つのに支障が出る所だった。
「……それで?神聖力は使えるようになったの?」
ソウカが訝しげな表情で顔を覗きこませる。
「全く」
「そっか、なら……は?ま、…全く???」
「……へ??」
ソウカ、そして楓の目が点になる。
「じゃ、じゃああの修行の意味は……?」
「……俺も分からん」
二人とも、唖然。まさに、開いた口が塞がらない、状況にある。
「……意味が無いわけじゃない。この子は神聖力の才能が無いから、魔力を無理矢理にでも神聖力に変換して使うしかない。だから、この二日間、ひたすらに魔力量の底上げを行った」
ふと、空気のように気配も無く横からすっと現れたヘデラが二人の正面に立つ。
「……それに、あなたなら出来る」
「そんな確証もない……っ」
ソウカが半分呆れたように言い放とうとした時、ティアーシャの目を見て息を詰まらせた。
「……やるよ、やらねぇといけねえんだし」
目が、本気だった。半分おちゃらけたような、余裕のある目では無い。その光を帯びた片目からは力強い確信と自信が感じ取れた。
「信じてる……ティール」
ヘデラは腕を持ち上げて、ティアーシャの頭の上に手をやった。そのまま髪を梳くように手を流し、その手はやがて彼女の頬に到達した。
「……生きて、戻って」
「っ……。死んでたまるかってんだ」
その手を、片手で受け止め、そっと離させた。そして踵を返して数歩歩く。
「神聖力、緩めてくれ」
『嗚呼』
ティアーシャの声に、大樹が呼応する。あの闇の空間は常にこの面々を手に掛けようとしている。それを大樹の放つ神聖力で押さえつけ干渉出来ぬようにしているだけのこと。つまり、一部分でも神聖力の空間に穴を作りそこに人が入れば、真っ先に食らいついてくる可能性が高い。
「……来たぞ、奴さん」
大樹がティアーシャの周りの空間の神聖力を緩めて数秒後。空間の真ん中に染みのような黒い点が着いたかと思えば、瞬く間にそれは大きくなっていった。
そしてそれはほんの数秒でティアーシャよりも大きくなり、まるで魚を捕食するイソギンチャクのように全身で包み込むようにして体を肥大させた。
「エルティナ……!!待ってろよ…!!」
ティアーシャは大きく息を吸って、満を持してその闇の中へと飛び込んだ。
---
暗い。いや、暗いという事すら分からない、深淵。
自分が今、何処にあるのかすら分からない、前も見えない。
「くっ……こりゃ、長居は出来ないな……。エルティナ、何処にいるんだ?」
『……』
トコルから貰った通信用のガラス玉を介しても、エルティナからの返信は無い。
しかも、この中にいるだけで体力と精神がゴリゴリと削られて行っているのが分かる。長居をしてしまえば、戻った時に常人で居られるとは到底思えない。早急にエルティナを見つけ、早急に脱出を行わなければ。
「……くそっ、見つからねえ……」
直感で体を前に進められているのは分かる。だけれども、エルティナが見つかる気配は一切無い。
『……シャ……』
「っ、エルティナか!?」
その時、耳元に近づけていたガラス玉から小さく弱々しい囁き声が漏れる。
「エルティナ!今、何処に!?」
『……わ、たし、は……』
「なっ……!?」
刹那、ガラス玉に亀裂が入り、粉々になって散ってしまった。
この空間に、ガラス玉のような小さな物体はどうにも耐えきれなかったようである。
「くそっ、……何としてでも、見つけねぇと……」
右手の人差し指の指先が、ゆっくりとだが消えかかっている。どうやらそう悠長にはしてられないらしい。
(落ち着け……こういう時、焦るのが一番ダメだ。……何か、何か落ち着いて策を練るんだ……)
焦燥する心を押さえつけながら必死に考える。何かアイデアは無いか、と頭の中をフルに回転させる。
「……そうだ、神聖力。エルティナは、神聖力で身を保護してるって言ってたな」
残っている右目に魔力を集め、『魔眼』を発動させる。するとどうだろう、このどす黒い空間にの金色の一線の跡が残っているでは無いか。
「これを辿っていけば……」
エルティナに会える。
そうと分かれば、やる事は一つ。体から魔力を噴出させ、ジェット噴射のように勢いを付けて神聖力の力の元を辿っていく。
「急がねぇと」
右手が完全に消えてしまった。手の感覚はあるが、見えなくなってしまっている。手が無くなっている訳では無いのだろうが、着実に肉体を闇が蝕んで来ている。
「……っ、あれは……」
ふと、視界の隅に薄ら輝く何かが映る。咄嗟に魔眼を解除し、目を細めそれを凝視してみる。
「エル、ティナ……」
見間違いでは無い。魔眼で確認してみても、確かに神聖力の筋はその光から伸びている。しかし、その光は弱々しく今にも消えてしまいそうな程に儚かった。
急いでその元に近寄り、手を伸ばす。
「エルティナ、エルティナ!」
「……っ、……ティアーシャ、ですか?」
「ああ、俺だ。大丈夫か?」
微かだが意識はあるようで、薄らと開いた目でティアーシャのことを見つめた。
神聖力により保護されていた為か、体の侵食は激しくはない。しかし、体の所々が見えなくなっていて、彼女の神聖力がそう多くないことを表していた。
「早くここを出よう。俺の『天道』で……っ!?」
片手で空を切り天道を開こうとした時、異変は起きた。
「な、なんだ……体、が……」
まるで何本ものピアノ線を巻き付けられ、引っ張られたかのように、体が動かなくなる。
「ティ、ティアーシャ……」
「っ、くそっ、なんだこれ!」
左手を前に出そうとすれば、激しい力で引き戻される。一歩踏み出そうとすれば、ピクリとも足が動かなくなる。
「うっ、く……」
そのまま、ズルズルとエルティナから距離を離され、やがてピタリと動きが止まる。
「……っ!?」
その体勢は、嫌に覚えがあった。以前に拷問と処刑と際してされた、あの体勢。
「十字架のつもりかよ……ちくしょう……!」
両腕を水平に横に伸ばされ、足を垂直に拘束。ナーサの元で暮らしていた時に教会で行われた物に酷似していた。
「……ティアーシャ!あなた、だけで、も!!」
エルティナの神聖力も刻一刻と弱まってきている。もう、そう長いことは持たないはずだ。しかし、こうも拘束されてしまえば出来る事は限られてしまう。
そんな中、ティアーシャが柔らかい口調で口を動かした。
「……お前は、俺だ」
「……え」
「……お前が、昔に言っただろ?お互いが、自分以上に大切な存在なんだって」
消えかかっていた手に、暖かな光が宿り始める。
「……それは……」
エルティナが目を丸くして驚嘆する。
「お前を残して逃げるなんて、出来ない。いや、そもそもする訳が無い」
手足を拘束していたドス黒い何かの力の様なものが緩んだのを確かに感じた。
「……ええ、そうでした」
それを見て、エルティナは小さく笑みを零しティアーシャの方へ手を伸ばした。
「……あなたは、そうでしたね」
光すら無い深淵で、一筋の眩い閃光が生まれた。
---
「ティア!!」
「帰って、来た、ぜ……」
「お兄ちゃん!!」
『天道』が開き、大樹の神聖力の結界の中へ二人の影が倒れ込む。
「やった、やったのね?」
「エルティナ、ティアーシャ、大丈夫!?」
「え、ええ。何とか……」
地面に背を着き、呼吸を整える。
消えかかっていた手も、見えるし感覚もある。
「エルティナを中に!」
ソウカと楓がエルティナを抱えて大樹の中へと連れ込む。
「ティアーシャも……」
「……いや、俺は、 ……がふっ…!?」
咄嗟に口を抑えるも、喉の奥から湧き上がったきた血の勢いは止められず指の隙間から鮮血がほとばしる。
「種族の相性的に、神聖力は負荷がデカいのよ。……その様子なら、無事に神聖力を扱えたようね」
「そんな風にはニッコリ笑うなよって……」
初めて見るかもしれぬヘデラの満面の笑みに、ティアーシャが引きつった顔で答える。
ヘデラは軽く鼻で笑ってから、片手でティアーシャの体を持ち上げ背中に背負った。
「……でかくなったわね」
「重いってこと……?」
「トコルなんてずっと変わらないもの」
「なんでこっちに飛び火してくるのさ!」
後ろから支えているトコルが顔を真っ赤に染めて声を荒らげた。
しかし、暗く、重い声がその団欒の時を切り裂く。
『……皆、今すぐにこの場を離れるのだ』
「……大樹様?」
笑みを浮かべていたヘデラの顔が真剣に切り替わり、大樹のことを見上げる。
『どうやら奴は、我の神聖力の結界を面倒に思ったようだ。結界ごと、丸ごと食らうつもりだ』
「っ…!?」
ティアーシャがヘデラにおぶられたまま振り返ると、そこには今までに現れた『闇の穴』とは比べ物にならないくらい巨大な闇が広がっていた。それはまるで先程までいた闇の中のように。
「大樹様ごと飲み込むつもりなの……っ!!」
『ヘデラ、皆を連れて逃げるのだ。……我は神聖力に満ちている。皆が飲み込まれる前に逃がすほどの時間稼ぎなら出来る』
「そんな、そんな事出来るわけ!!」
大樹は、ヘデラが持つ唯一の家族といっても過言では無い位に大切な存在だ。幼少期に全てを失った彼女からすれば、その存在は大きかっただろう。
『行くのだ。我は動けぬ。それに、長く生きた。……しかし、お前はまだ若いしまだまだ沢山の者に出会える。その命を、無駄にはさせぬ』
「しかし……!!」
「ヘデラ……」
「……置いてかれる方の気持ちってのも、考えてやれよ」
『……ほう?』
掠れる声で、小さく呟いた。
「生き残って、でも何か犠牲を払っての生還で。残された方は、癒えない傷を負うんだよ。楓だって、俺はアイツを残してこっちに来ちまった。……残された楓が、どんな気持ちだったのか。俺はハッキリとは分からないけど……」
『……だとすれば?主はこの状況で何をする?』
「……俺は、な……」
下唇を噛み締めた。
「こうする」
ヘデラの背中から飛び降り、地を蹴って結界の外へと飛び出る。
「なっ、ティアーシャ!?」
咄嗟にトコルが引き留めようとするが、既にその姿はそこには無く、空を背景に瞬く間に小さく写っていた。
『……』
「……やってやる!!絶対に、守ってやる……!!」
体の周りから、神聖力が感じられなくなる。それと同時に目の前に、いや視界全体に光をも通さぬ漆黒の黒が広がる。
「『天道』…!!!!」
魔力を、最大出力で。更にその上から神聖力を重ねがけして。
巨大な金色に輝く魔力の流れと、闇の塊が空中でぶつかり合う。
「……お前が俺達を飲み込もうってんなら、その上から飲み込んでやる……!!」
ぐん、と『天道』の力が増す。大樹の結界を覆いつくそうとしていた闇が『天道』に押され、後退りする。
「……ヘデラさん!一体、何が!?」
エルティナを置いて、大樹がら飛び出てきた楓、ソウカ。トコルと共に天を扇ぐヘデラは、小さく口を動かした。
「…る」
「……え?」
「……戦ってる。……闇と」
「……じゃ、じゃああの光は……」
ソウカがわなわなと震える手で口を抑えながら言った。
「……ティアーシャの、『天道』、だよ」
重苦しそうにトコルが言う。
「っっ…!?そんな馬鹿な!!あれだけの規模で使ったら、魔力なんて残るはずが……!!」
「ティアーシャは、死ぬつもりは無い。そう言った。今の私達はここで見てるしか出来ないけど、今は、見守ろう」
「くっ……」
ソウカが固く拳を握りしめる。
「……お兄ちゃん……」
楓が、無意識に手を胸の前で結んだ。