第81話 旅の始まり
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「はあ…。そんなことがあったのかい。四人ともケガはなかったかい?」
夕刻、家に帰ってきたナーサに事を説明すると彼
女は感嘆の声を漏らした。
「ちょぴっとかすった程度。ほれ、もう治って…ない…」
剣に切られたり、着地した時の擦り傷を見せつけるも完治どころかかさぶたの膜すらできていなかった。
「今のあなたは吸血鬼ではないのですから。傷を負ったらきちんと処置しなくてはなりませんよ。この世界はあなたが住んでいた世界ほど清潔なわけではないのですから。ほら、傷口を出してください」
「むぐ…」
エルティナが俺の傷口に触れ、回復魔法を掛けてくれる。彼女の冷ややかな手が傷口に触れ、ひりりと淡い痛みが走る。
「それで?そのネックレスの宝石が守ってくれたと?」
「信じがたいとは思うけど、そんな感じ」
「ふうん…。これ、いつごろから身に着けてたんだい?起きた時には着けてなかったじゃあないか」
「あー、聞く?それ」
このネックレスを身に着けていたのは、トゥルナの病院から帰ってきた後の事。しかし…、ナーサとトゥルナの関係は現状最悪レベルだしお互いに目も合わせないくらいだし。俺が彼女の店に行ったなんて言ったら殺されるんじゃないだろうか。
まあ、ナーサの圧には耐えられなかったから、結局言うんだけどね。
「あいつの所に…」
てっきり怒ってこの街ごと破壊でもするんじゃあないかと思っていたけれど、予想に反して彼女はいたって冷静だった。
「てっきり怒るかと思ってたからなかなか言えなかったんだよ」
「さすがにあたしも一旦ケリの付いたことをうじうじ引きずるタイプじゃないからね」
ナーサがあからさまな作り笑いを浮かべて言った。
「お姉ちゃん。トゥルナって?」
「それはですね…」
楓がエルティナに向けて小さな声で問うていた。そういえば、楓は彼女のこと知らないんだっけか。まあ、説明はエルティナに任せていいだろう。下手に話を盛ったりするような奴じゃないしな。ナーサも聞こえないフリをしている様子だった。
「もし、あの弓使いがその宝石の持ち主だったんなら一つ思い当たる節があってね」
ナーサは汚れた作業着のポケットの中から何かを取り出して、俺の目の前に突き出した。
「これって…」
「よく似てるだろう?朝あんたがその宝石を持ってるのを見て、なんか引っかかってたんだよ。だからさっき倉庫に行って引っ張り出してきたんだ」
ナーサが手に持つのは、淡い橙色の宝石。色は違えど、形や大きさなどはよくよく酷似していた。
「こいつあ、ティアーシャがあたしにくれたモンだ。あいつが逝っちまった後、あいつの名義で家に届いたんだよ。あいつの形見、っつってもあたしにはあいつの短剣があったから必要ないと思ったし、そんなもん見させられたら虚しくなるだろ?だからしまっておいたんだけどね。もし、他の面々にも同じ様なモンを送り付けていたんなら弓使いがそれを持っていたのもうなずける」
「ちょっと見せて」
「ああ、構わないよ」
俺はナーサの持つその宝石を手に取った。
刹那。
--それは?
--旅の仲間に送り付けるのよ。頑固者の集まりなんだから、これくらいは。五つ全部が一つになれば-------
まるで、ブラウン管テレビの映像が切り替わるようにして、その映像は途切れてしまう。
そして、また別の場面へ。
---せめて、この子だけでも、ティ--だけでも生きて欲しいの。私がいなくなった後、託しても?
---ええ。任せて。
---あなたは、仲間から軽蔑されるかもしれない。それでも?
---その程度、気にしない。
また、変わる。
---彼女が、生存するためにはこれしかありません。この手に賭けます。いいですか?
---ええ。それで生きれるのなら。約束を守れるのならば。
---わかリましタ…
「ティアーシャ?」
「…今のは?」
夢から覚めたような、そんな感覚。一体今の映像は…。
「なにかあったの?」
「…映像が見えた。この宝石に触った瞬間に、この宝石が持っている記憶が流れてきたみたいな…」
五つを一つに集める?何を?この宝石をか?
「なあ、ナーサ。あんたとティアーシャの居たパーティって何人組だったんだ?もしかして…」
「五人だね」「五人か?」
「「っつ!?」」
俺とナーサはピタリと揃ったその数に驚愕する。それと同時に俺は、謎が紐解けていく快感を感じていた。
「な、なんであんたがそれを知ってるんだい?」
話したことも無いのに。と、ナーサは驚きを隠せない様子だった。
…やっぱりな。あの初めの映像、あれは先代ティアーシャのものだ。仮に、ナーサの言う通り、彼女が宝石を仲間に一つずつ送っていたと仮定すれば、彼女の言っていた「五つを一つに」というものは宝石であると推測できる。
最初の映像が先代ティアーシャのものだとすれば、二個目と三個目のものは一体誰の映像なのだろうか。
「だとしたら、五個集めたら一体何が起こるっていうんだ…。ナーサ、この宝石を受け取ったときなんか起きなかったか?」
「いや…だいぶ前のことだからね。はっきりと覚えてはいないけど、もしなんかあったら覚えてるはずだからね。多分変わったことは無かったんじゃないのかい?」
俺は二つの宝石を手の中で転がした。一回触ってしまえば、あの映像はもう見られないらしい。しかし、ナーサはこれを初めて触ったとき、なにも起きていないという。
「楓、これ持ってみて」
「え?う、うん」
俺は楓に二つの宝石を手渡す。
「なんかあったか?」
「いや…なにも?」
楓がいぶかしげな表情で目を細めた。
「ソウカは?」
楓は二つの宝石をソウカに渡した。しかし、楓と同様なにも起きなかったようで彼女は首を振った。
「最後はエルティナだけど…」
ソウカを促し、エルティナに手渡させてもらう。なにも反応がない。一瞬そのような素振りを見せたが…。
「っつ」
次の瞬間、エルティナの体が跳ねた。どうやら、俺と同じようなことが起こったようだ。
「…今のは?」
「やっぱり見えるか」
エルティナから宝石を受け取る。
この中で、映像が見えたのは俺とエルティナのみ。だとすれば、この映像は俺しか見られないことになる。
「何を見せたくて、こんなめんどっちい事を?」
もしかすると、そこに何か意図があるのかもしれない。そしてそれは、俺宛になるように作られている。
「やってみる、価値はあるな…」
一体、先代ティアーシャは俺に何を伝えようとしていたのか?そもそもなぜ彼女は俺の存在を知っていた?
それを、名前を受け継いだものとして放置しておくわけにはいかないだろう。
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「っ…」
『どうかしたのかね?』
「いや…。なにか、意思を感じました。先に進もうとする意思と、それに相反する意思を」
『我も、それに近しいものを感じたよ。大地を、空気を、木々を、精霊たちを通して感じておるよ。…近い未来、なにか大きな変革が起こるかもしれんな』
少女は、樹齢何年だろうか、人何人分もある巨大な木に手を当ててそっと息をついた。
『もし、変革にそなたの力が必要なのであれば存分に力を貸してやりなさい。…不必要なものであれば…』
「わかっています」
少女は、何もない空間から短槍を取り出して空を切り裂いた。切っ先が通り過ぎたのちに、ひらひらと四等分された木の葉が落ちてきていた。
「その時は、私が」
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「へっくち!」
「ほら、そんな格好してたら風邪ひくよ?ほら、これ着て火によって」
「ありがとう」
彼女は歳のいかない弟の肩に上着を着せ、暖炉に火をくべた。
「こうも寒きゃあ鉄も焼けないねえ。木をくべようにもいかないねえ」
「この冬、どうするの?僕たち小人族が武器を作れないんじゃあ…」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんに任せなって。…考えはあるから」
しんしんと窓の外に出来上がる雪景色を見て、彼女は弟に見えない角度で薄汚れた皮の手袋を身に着けた。
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「ちょっ!!!ティアーシャ!!!一度休息を!!!」
「俺たちと来るんだろ?だとしたら体の動かし方をマスターしねえと話になんねえだろ?」
「スパルタすぎますうううううううううううううううううううううう!!!!」
街の裏山。木々が生い茂る中、その間を慣れぬ体で走るエルティナ。そしてその後ろを追いかける俺。
「きちんと走れる様になるにゃあ、これが一番だ!ペース上げていくぜ!!」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!」
木の上を伝い、幹を蹴って自らの体にも負荷をかける。エルティナと同時にトレーニング、という訳だ。
「お、ティアーシャ。相変わらずスパルタだねえ」
ふと、木の上から声を掛けられる。目線だけそちらに向ければ、そこにいたのは淡い赤色の髪を揺らすアイビーだった。そして、彼女にはあることを手伝ってもらっているのだが。
「おう、そっちも助かるよ。わざわざ悪いな」
「任せなさいって。あなたの頼みならね」
彼女には楓の稽古を付けてもらっている。俺がやっても良かったのだが、下手な所で甘えを掛けてしまいそうだったので彼女に任せている。
「さ、カエデさん。木刀を取って、遠慮は要らないわ」
「はい!」
彼女の足元には、木刀を手に構えを取る楓が居た。なんせ俺の旅に着いてくるなんて言うもんだから、それ相応の修行は付けなくてはならない。楓もそれに対して己の覚悟を見せてくれた。
「じゃあ、ティアーシャ。あんたも程々に、ね?」
「程々に追い込むつもりだよ。じゃな」
軽く手を振って、木々の間を跳ぶ。
エルティナは俺の体の中にいた存在。魂そのものとして、体を動かす方法を知らずとも俺の体の動かし方は身についている。多少スパルタでも、体の動かし方を一度覚えてしまえばそこからは早いだろう。
楓の場合、体の動かす方法は知っていても体の動かし方は知らない。純粋な人間である彼女にアクロバティックな動きは難しいと考え、とりあえず今は武術を叩き込んでもらう事にした。まあ、現代で武器を取る事なんてないしこれに関してはゆっくりと慣れてもらう他ないのだが。
「スピード上げるぞー、エルティナ」
「分かりましたっ!!」
「お…」
エルティナがぐん、とスピードを上げる。根と根、木と木の隙間を的確に選び走り抜けている。これなら動けるようになるまでさほど時間はかからなそうだな。
「なかなか走れるようになって来たじゃん。いい調子だな」
「ええ!!元々はあなたの中に居たのですから!!走り方自体はっ!?」
彼女が一瞬意識をこちらに向けた刹那、その体は横倒しになった丸太に激突する。
「ああ…気を抜くから…」
「面目…ありません…」
数秒ふらふらと足を動かした後、ベチャリと大地の上に倒れ込む。
「あら、大丈夫?」
「ええ…なんと、…か…」
エルティナは、俺に手でも差し出されたとでも思ったのだろうか。何かに掴まって立ち上がろうとした所で、目を丸くして絶句していた。
「あ…ソウカさん…でしたか」
再び地面にへたり込んでしまうエルティナ。そう、彼女の目と鼻ほどの先の距離しか無い所にあったのは蛇化したソウカの鼻先だったのである。
「ああ、ごめんごめん。驚かせちゃった?」
彼女は蛇化を解き、人間体でエルティナに手を差し出す。
「すみません、ありがとうございます。…やはり知っていたとしても急に目の前に大蛇が現れると恐ろしいものですね…」
「お褒めに預かりまして」
ソウカの手を借り、起き上がるエルティナ。彼女は俺の方をちらりと見て再び走り出そうとする。
「いや、一回休憩にしよう。そこの川場で飯にしようか」
「え、ああ。分かりました…」
彼女は緊張していた体を解き、木を降りる俺の体を支えてくれた。
「っていうか、凄い走れるようになってのね、エルティナ」
「おう、俺のレッスンの賜物だな」
「それは…」
「それ自分で言ったら意味ないんですよ…」
エルティナが苦笑を浮かべ、俺達二人は声を上げて笑った。
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「ここら辺でいいだろ。よいしょっと」
川水がチロチロと流れる脇の丸太に、腰を掛けて一息つく。
「ここ、懐かしいですね」
「ああ、だろ?」
エルティナが俺の傍に座りながら言った。俺がこの世界に来て間もない頃、森で魔法の練習をした帰りなどよくここで休んだっけ。森の深いところだから、そうそう人も来ないし。
「やっぱり、私はこっちの世界の方が落ち着くわね。あっちの世界でいろんな場所を巡ってたからよく分かるわ。あっちでは蛇の生きる場所は、薄汚れた家の下とか、屋根裏とかばっかりだもの。あっちの方が便利で人間としては快適なのだけれど、やっぱり私は自然に囲まれたこの世界の方が好きだわ」
俺をエルティナと挟むようにソウカが腰掛け言った。俺も、どちらの世界が好きかと言われたら、こっちの世界、と答えるだろう。楓を見つけた以上、俺は元の世界に固執する理由は無くなったわけだしな。目的を果たした以上、こちらの世界でゆっくりと毎日を満喫しようかと思っていた所だった。まあ、先代ティアーシャの意志を知りたい、という新たな目的が出来てしまった以上、それについてはこの目的を終えてから考えるとしよう。
「さ、飯だ飯。あんま食いすぎて動けなくなるなよ?」
『天道』に手を突っ込み、中から繊維で組んだ籠を取り出す。
中を開ければ、大きな笹の葉で包んだお握りとサンドイッチが顔を出す。
「おおー、これティアが?」
「まあな、楓の弁当作ってたから得意なんだよ」
それぞれを二人に手渡し、手を合わせる。
「「「頂きます」」」
「うん、サンドイッチ美味しいわね!これは卵?」
ソウカがたまごサンドを頬張りながら感想を述べる。
「そそ、たまごサンド。ソウカは卵好きだろ?」
「え…なんで知ってるの?」
「え…蛇って卵丸呑みするだろ?って痛え!!」
嘲るように軽く笑いながら言ったら、脳天に手刀を叩き込まれた。
「流石にこの姿だと丸呑みはしないわよ。しかも蛇化した状態だと味覚が、人間体よりも遥かに劣るから何食べても美味しくないし…」
ネズミなんて美味しくないわよ、臭くて。と付け足しながらもサンドイッチを頬張るソウカ。
「蛇女とはいえ、やはり人間の食事の方が美味しいですか」
鮭(もどきの魚のほぐし身)のお握りを手に取りながら、エルティナが呟いた。
「まあ…そうね。野生の肉食雑食の肉はどうも美味しくないのよ。けど草食動物って逃げ足が速いから捕まえにくいし…。それに比べたら人間って便利よ?食べようと思えばいつ何時でも食べられるもの。命懸けで狩りをせずとも、なんとか食いつなごうと思えば出来るじゃない」
「なるほど…。味も大切だけど利便性も必要ということですね」
「まあ、私は美味しければいいかな」
「どっちなんですか…」
エルティナは苦笑を浮かべ、お握りを口に運ぶ。崩れないように食べるのに、少し苦労しているようだった。
「お、ティアーシャ。休憩中?私らも混ぜてよ」
「疲れたあ…お兄ちゃん…」
しばらく談笑に耽っていると、晴れ晴れとした顔のアイビーと汗をダラダラと流した楓が木々を抜けてやって来た。
「おう、よくわかったな。ここが」
「長耳族を舐めないでちょうだい。森が教えてくれたわ」
「ほへえ」
アイビーは俺達の座る丸太の端に座ると、懐から林檎のようなまん丸で真っ赤な果実を取り出し、皮の上からかぶりついていた。
「アイビー、俺達の昼飯食う?果物だけじゃ足りねえだろ」
追加で作っておいたサンドイッチとお握りを取り出し、アイビーと近くにいた楓に手渡す。
「ああ、別に気を使わなくても良かったのに。ありがとう、有難く頂くわ」
彼女は林檎のような果実を食べつつ、並行してサンドイッチとお握りを食べ進める。
…合うのか?
「お兄ちゃん、お握りの具何?」
「んー?秘密」
「梅干しはー?」
「もちろん入れてある」
「よしっ!」
皆が、それぞれ話を続ける中突如姉妹の会話を繰り広げる俺達。(ちなみに楓は俺が漬けた梅干しが好き。激酸っぱ激しょっぱのやつ)
「姉妹って良いわね。ほんとに血繋がってないの?」
アイビーがポツリと呟いたのを見て、俺と楓は顔を見合わせて苦笑した。
「血は繋がってなくても、心では正真正銘繋がってるのさ」
「うわ、なにそのキザなセリフ」
「実際そうだろ。そこらの姉妹よりは遥かに仲はいいだろ」
一息ついて続けた。
「だからこそ、今回俺達に着いてきたいっていうお前の気持ちは尊重したい。けど、こっから先は俺達の世界だ。血に汚れた泥まみれの世界だ。今までの暮らしを棄てて、こっちに来る覚悟はあるのか?」
俺は、無垢な彼女の目を見つめて言った。ここから先は今までの彼女の暮らしとは正反対の方向だ。邪魔者が居れば葬るし、行く手をはばむものは切り捨てる。そんな世界だ。彼女が突っ込んでいるのは、ほんの片足にしか過ぎない。
「元の、世界が嫌な訳じゃないよ。…楽しいし、便利だし。でも、なんか…なんて言うのかな。空っぽなの、それだけしかない。でも、こっちにもお母さんもお父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんもソウカさんも居る。私のたった一つの家族はこっちにしか無いんだから」
「…」
事実、楓の実の兄を葬ったのは俺なのだ。アイツが人間としてのクズで殺人を厭わないような奴でも、一応楓とは血を分けた兄妹なのだ。彼女の家族を奪ってしまった原因は、俺にもある。
「毎日が楽しいことだらけじゃなくてもいい、むしろ辛いことなんて吹き飛ばしちゃうよ」
楓は俺の目を見返した。その力強さを、決意に満ちた瞳を見て、俺は頷いた。
「なら、沢山食って沢山寝て沢山動いて。旅に出られるようにすっぞ」
「…。うん!」
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数週間後。
「行くか」
短剣を腰のベルトに刺し、後ろを振り返る。
うっすらと朝靄の中、出ていく。…懐かしいな。
俺がこの世界を出て楓を探す旅に出る時、それを止めるナーサと一戦交えたあの時の情景が思い起こされるようだ。
「楓に、エルティナ、ソウカ。準備はいいか?」
「…ええ、大丈夫よ」
若干の欠伸を噛み殺しながら、ソウカは頷いた。
「大丈夫です。不備はありません」
長い薄い紫陽花色の髪の毛を一つに束ねたエルティナは、二三度軽くその場で跳ねて返した。
「…大丈夫。行けるよ」
少し緊張の色が見える楓。それでも、あの時から見せた目の色は変わっていない。
「皆、忘れ物ないかい?」
「…遠足に行く時の親かよ」
家の前で見送ってくれるナーサ。今回は、彼女と戦うような事は無い。
「カエデ、よくお聞き」
ナーサは楓の目線に合わせるように少し膝を折って話し始めた。
「あんたは、今から汚れた世界に足を踏み入れるんだ。ドロッドロに血にまみれた世界にね。…私は、あんたの全部を知ってる訳じゃないから、何か言うことは出来ないけど…。…ここには、あんたの家があるんだから、何時でも帰っておいで。私もルントも、ルントの客も。皆あんらを待ってる」
暖かく、そして柔らかな声色で楓にそう言い、ナーサはぎゅっと彼女を抱きしめた。
「あんたは、この世界に染まりきらなくていい。あたしは止めない。けど、迷いがあるなら…」
「…迷いはないよ。私は、この道を進むって決めたの」
「…。そうかい、兄妹でよく似るもんだね…。分かった、なら行っておいで。そして帰っておいで」
「…うん、ありがとう。お母さん」
楓もナーサの体を強く抱き締め、やがて静かに離れる。
「ティアーシャも、エルティナも、ソウカも。元気でやるんだよ」
「ああ、しばらくの間留守にするけど悪いな。緊急の事があれば『天道』で何時でも駆けつけるよ」
一呼吸置いて、ナーサが言った。
「…行ってらっしゃい」
「行ってきます」
空を切り裂くようにして『天道』を作り出す。そして俺達は振り返ることをせず、その中に消えていくのだった。