第77話 魂壊
「おう、おはようジュルシー」
「おはようございます。ティアーシャさん」
「いやめっちゃ流暢に日本語喋るじゃん…」
楓がジュルシーを連れて来た。と、思ったら若干カタコトだった彼の日本語は日本人ばりに、耳を疑うほどに上手くなっていた。
「いやー、魂を乗っ取られている間は上手く喋れなくって。カタコトになってたわけなんですが」
「なんだよその後付け設定みたいなのは…」
若干痺れる右手で額を抑えた。
「それで?結局アレは何だったんだ?」
「何、と言われると難しいですね。ハッキリとした事は分かりませんから。ただ、簡潔に言えば不安定な魂、でしょうか」
「不安定な魂?」
俺は机の上の小袋を開けて…上手く開けられないので小さく風刃で袋を切って、その中の干し梅を口の中に放り込んだ。
「はい、生きた魂と常世をさ迷っている魂の中間です。要するに、魂単体で生きることが出来ず他の魂や肉体に寄生することでその存在を保っている物の事です。本来、害をなすことは無いのですが私の能力とその魂の性質や生への固執が合わさって体の主導権までを奪われる、そんな魂になってしまったのでしょう」
「なるほど」
言い換えれば地縛霊の様なものか。この世への未練や執着で魂が残ってしまうのと同じで、自分が魂だということを認識できていないからその中間点でずっとさ迷っていることになっていたのだろう。
「じゃあなんで先生に手を出したんだ?魂の苗床があるんだから乗り換える必要は無いだろ」
ジュルシーという魂の苗床があるのにも関わらず、あの寄生魂は先生の魂を奪おうとしていた。わざわざ結界まで貼って。
「…それは多分」
「多分?」
干し梅の包装紙をゴミ箱に放り投げて、身を乗り出して聞き入る。
「あいつも女の人の魂の方が良かったんじゃないですかね?」
「…」
「ティアーシャさん?どうしたんですか?俯いて」
「まともに聞き入った俺が馬鹿だったよ…」
なんだろうな…。酷く頭痛がする。…まだ完治してないのかな?
「ところで…今更なんですけど、ティアーシャさんはどんな力を?私はそれこそ魂を体に憑依させるようなことしか出来ませんが…」
畳の草を伸ばしたり、水を放ったりしてましたよね?と目を輝かせて聞いてくるジュルシー。そう言えばこいつの記憶は消してなかったっけ。
「あれは能力じゃねえよ。俺の体ん中の魔力を削って使う魔法だ」
「魔法…?魔法って、あのウィンガーディアムレビオーサー的なやつですか?」
「ビじゃなくてヴィな。…まあ概念的にはそんな感じだな。ほれ」
俺は指先に炎を発生させ、彼の目の前で軽く振ってみせる。
「ええ…マジックとかじゃないんですよね?」
「ああ、正真正銘の炎だぜ?」
俺はティッシュペーパーを一枚手に取ってそれに火をつけ、すぐさま水魔法でそれを消火する。
「それ、私にも使えるんですか?」
まるで玩具を与えられた子供のように、目を輝かせ口をぽかんと開いているジュルシー。
「さあ?どうだろうな。人間には厳しいかもしれんな」
俺の知り合いでも人間で魔法を使えるやつはいる。けれど、そいつらは先天的に魔力量が多い特殊な存在。神官であり冒険者のスカーナがそのいい例だな。要するに人間の場合、魔法が使えるかどうか否かは努力もクソも無く完全才能の世界なのだ。
人間は魔力量を増やすことが出来ない。だから、それぞれの魔法で消費する魔力量を減らす。効率を上げるのだ。
人間の魔力は一定数の量しか貯めておけない水で、魔法を使うとその蛇口を捻ることになる。他種族はその水の量を増やすことが出来るが、人間の場合はいかに節水ができるか、それによって魔法の適正は大きく変わってくる。
「人間にはって、まるであなたが人間じゃないみたいな」
彼は目元に若干嘲るような笑みを浮かべ、変な冗談はよしてくださいよ、と手を振りながら笑った。
「冗談じゃないぜ?少なくとも人間じゃないな」
「は?」
俺はその場で立ち上がり、手を水平に横に持ち上げる刹那。ひと風吹いたかと思えば俺の背中からは浴衣を突き抜けるようにして、蝙蝠の物によく酷似した羽根が生え、口を開ければ犬歯が人間では有り得ないほどに長く、鋭く伸びていた。
「俺は吸血鬼だ。元人間のな」
「きゅう、けつ、き…」
彼の目が白黒して口も惚けていた。
「いや、流石に吸血鬼だなんて…えええ!?」
俺がちょいと羽を動かしてみれば、彼は後ろにひっくり返り驚きを隠せずにいた。
「きゅきゅきゅ吸血鬼なんて、空想の生き物じゃないでですかか!?」
「うーん、まあ事実俺という吸血鬼がいる訳だし」
一番手っ取り早いのは、俺が別の世界から来た存在だということを伝えること。だけど、こいつに俺が異世界人であることを伝えてもなんのメリットもないしな。
「はあ…。どうりで異常な身体能力を持っていると思いましたよ…。…てことは伝説通り日光とか十字架とかニンニクはダメなんですか?」
「まあな、日光に当たれば体の先端の方から灰になって消えていくし、水なんかに入れば激痛で死にかねない。別に宗教的なアレがある訳じゃないが、十字架を見るとゾッと寒気がするし体が強ばるし…。ニンニクなんて間違えて食った時には、毒でも飲んだんじゃないかってくらいにのたうち回ったな。匂いだけでも鼻が曲がりそうになるし」
思い出してみて、吐き気がしてきた。人間の時は格別というわけでは無かったが、一男子としてそれなりに好んで食べていたのに、種族が変わるだけでここまで変わってしまうとは。
「それじゃあやっぱり血は吸うんですか?」
「…うん、まあそれなりにな。けど、普通の食事からは普通にカロリーは摂取出来るからそこまで頻度は高くないんだよ。それでも定期的に血を飲まないと血を求めて暴走するモンスターになりかねないからな」
この世界では、まだ食用として人間から血を吸った事は無い。基本はこっそり牧場とかに忍び込んで--馬の血はウマかった--動物の血を頂いたりするぐらいだ。下手に人間に手を出して、手がかりを残してしまえば存在が認知されかねない。
「入るよー。あ、ジュルシーさん。まだいたんですか」
二回、部屋のノック音と共に楓が扉を開けて入ってきた。
「や、荒幡さん…。って…ことは荒幡も吸血鬼なんですか…?」
コーチとしての顔に切り替え、爽やかな挨拶を交わすジュルシー。かと思えば顔を青ざめて囁き声で俺に聞いた。
「いや?楓はれっきとした人間だよ。混じりっけ無しの人間百パーセント」
「人をオレンジジュースみたいに言わないでよね…」
楓が苦笑いしながら俺の隣に座って机の上のコップを手に取って、麦茶をそこに注ぐ。
「じゃあ本当の姉妹じゃ…あ、すみません」
「いや別に。…一応れっきとしたきょうだ…姉妹だよ。詳しいことを言うと長くなるからやめておくけど」
元から戸籍関係上の兄妹だったのだが、俺が転生してから、姉妹という関係は変わらないもののその関係も曖昧なものになってしまっている。とはいえ、俺達の姉妹関係は戸籍云々なんかよりもより深いものだけどな。…シスコンって言うな。
「ん、話を変えるようで悪いんだけど、明日練習してその次の日。だから明後日だね。明後日は海だけど水着持ってきた?」
「ん、んん?み、みずぎぃ?」
なんだいその三文字の言葉は。我が知書にそんな言葉は無いんだよなあ。
「…さては持ってきてないね?」
「…みずぎってなんですか?」
「そんな事だろうとは思ってたよ…。でも安心してね。そんな事だろうと思って持ってきたから大丈夫」
「…はえ?」
…はえ?
「あーあ、自分で持ってくれば露出の少ない水着でも許してあげたのになあー。私が選んだの着るしかないよねー」
この妹…できる…っ!!
ってかなんだよ露出の多い水着って。流石の俺でも集団で海行くのにマイクロでも着せてきたら顔面に拳を叩き込んでしまうかもしれない。いや、それは兄もとい姉として失格かな。軽く頭を撫でる程度にしておこう。
「ま、まあサイズが違うかもしれないしな!そしたら」「寝てる位に測ったし、下着のサイズとかも把握してるからサイズは完璧だよ。安心して」
「ジーザス」
崖っぷちに立たされていたのが、今や小指だけで崖に掴まっている気分である。殺しに来てるTHE。
「でも俺は吸血鬼だから海辺は」
「逆に私服で海に行くの?変だよ???屋台のおじさんですら水着履いてる人いるんだよ??」
「…そんなに俺を追い詰めて楽しいかよぉ」
小指、崖から離れる。崖の底に真っ逆さまである。
「じゃ、明日の夜に渡しに来るから。おやすみー」
楓が嫌にルンルンな表情を浮かべて部屋を後にする。顔面を蒼白にして絶望する俺と訳が分からず困惑するジュルシーが部屋に残されていた。
「クソっ…エンストとか起きねぇのかよ…」
しかし、こういう時の時というものは早く進むものであってついに夏合宿最終日。ビーチで各々が遊べる日が来てしまった。
「運命には抗えないんだよ、ティアーシャちゃん」
「このッ…!ゲス野郎がッ!!」
俺は悔し涙を流しながらも駐車場にバックで車を止める。
「それじゃ、後でね。私達は先に着替えてくるから」
「お、おう」
「もし着替えずに来たら…分かってるよね?」
「…ハイ」
恐ろしい…。この恐ろしさはナーサがキレた時に匹敵するんじゃないだろうか。
妹に言いくるめられ、ただただハンドルを握りしめ、子犬のようにガクガクと震えることしか出来ない自分が情けない。
しかし、妹に嫌われるか、それとも羞恥心を捨て水着を着るかの二択であれば、選ぶのは必然的に決まっているのである。今の俺が取れる唯一の行動はそれしかないのである。
「覚悟が…覚悟が必要なんだっ!!」
足早に更衣室に向かっていく楓とその友達を目尻に俺はハンドルを握りしめた。見せてやるぜ!!登りゆく朝日よりも明るい輝きの、俺の覚悟を!!
『で、その覚悟がそれですか』
「…覚悟が…道を切り開いたんだ…。なにも言わんでくれ」
着た。結局着た。
妹には逆らえませんでした。すみません。
流石に楓もモラルはあるようで、一応水着と言える水着は買ってきてくれたようだ。
し か し
黒の、しかもビキニである。
そこはさあ、もっと水着初心者に優しくしてくれよ!公衆の面々の前で柔肌を晒すなんて、俺には出来ねぇよ!!
深々とため息を着きながら、誰もいない更衣室の中でそっと灰色のパーカーを身に纏う。そして手に日傘を持って更衣室の、少し古びたドアをそっと押す。
「…」
ドアが開いたその先に広がるは
人 !!人!!!人!!!!!
「おおう…」
ほんのちょっぴり「少しでも人が少なければ」なんて思った俺が甘かった。この夏のピークにビーチで人がいないわけなんてないんだ。
「っ!?な、なんだ!?あの娘!?めっちゃ可愛い!?」
「っおっ!?…や、やべ、どストライクすぎて俺の体が消えていく…」「戻ってこーーい!!」
「白銀の髪に、完璧なスタイル、そして俺達をゴミを見るような目で睨みつけるその顔!!…生きててよかった…」
案の定、俺が更衣室を出て日傘を刺して歩けば周囲の反応はこうである。まるでハリウッドスターでも通るかのように、人々は目を輝かせて俺を見つめ惚けた顔を晒しているのである。
「ったく…やりにくいなあ…」
こうも見られちゃあ、目立たないように。なんて不可能な訳で。初っ端から構想していた俺の作戦は海の藻屑になっちまった。
「よおよおそこの可愛い姉ちゃん俺と遊ばな」
「いよ?めんどくさいし。邪魔だからどいてくんね?」
「…ああ?」
そんな群衆の中から金髪のチャラついた男が一人。分けいでて俺の真ん前に立ち塞がる。
「聞こえないか?邪魔だ、どけ」
「くっ…お前、ルックスが良いからって調子に乗りやがって…」
男達は俺との距離を詰め、鷲掴みにするようにして俺の手首を握りしめた。
「お、サンキュー。手ェ出してくれて助かったよ」
「…は?」
どうやら俺の言動に、理解が追いついていないようである。だが、安心して欲しい。これからその身をもって得と体験するのだから。
「ほい」
俺は掴まれている方の腕をグイと後方に引く。当然人間を凌駕している吸血鬼の力に叶うはずもなく、男は大きく前のめりに体勢を崩す。そこを狙って軽く足を突き出してやると、それに足を引っ掛け顔面から砂浜にダイブ、まるで一人芝居でもしているかのようである。
周りの面々からもどっと笑いが怒る。少なくとも、彼らには俺が何かしたようには見えていないだろう。男が勝手に俺の手を掴み、勝手に転んでいるようにしか認識出来ていないはずである。
「やっろぉ…舐めやがって…っ!」
倒れた男を尻目にそそくさとその場を立ち去ろうとした時、後ろから大きく体重が掛けられた。どうやら男は俺の羽織っているパーカーを掴んで立ち上がろうとしているようである。
「お、足元には気をつけろよ?」
「…は?っぐぅぼぉおっ!?」
一瞬、俺が彼の事を見やり軽くウインクすると、彼の足つけていた砂浜が突如緩み、落とし穴のようにして下半身が砂に埋もれたのである。
「なっ、なんだこりゃ!?くそっ!てめえ!!」
「誰かが作った穴にハマっちまったみたいだな?ま、砂風呂だとでも思ってゆっくりして行きなよ」
俺は砂に埋もれる男に背を向け、軽く後ろ足で砂を掛けてせいぜいした気持ちでその場を後にした。
俺の後ろに残るのは、静寂。呆然とした声。埋まった男の呻き声であった。
(軽く、目立ちすぎたか)
俺はうっすらと髪に着いた砂を手で払いながら、楓達の居るであろう方向に--解析者が解析済みである--向かった。
「おーい楓」
パラソルをチャカチャカと広げている楓の姿を見つけ、声をかける。
「お、来た来たって…ヴッ、安定の爆風的な体のスタイル…」
「お前が着せたんだからな?」
「いやはや良く似合ってて嬉しいよ。…でっか」
「なんか言ったか?」
「いや何も?」
楓が遠い目をしてしらを切る。解析者にお願いでもして聞いてもらおうかと思ったが、どうせろくでもないことに違いないので放っておこう。
「それよりも、はい。パラソル出来たよ」
「こりゃどうも」
俺は日傘をたたみ、パラソルの下。正確にはパラソルが作り出している影の中に入る。ここが唯一の安全地帯。ここから出てしまえば俺は塵と化すのである。
「あ、ティアーシャさん。こんにち…こんにち…はァァァァァァァァ!!??」
「ええ…」
しっかり者の部長が俺の元に駆け寄ってきたかと思ったら、突然絶叫して目を手で隠して砂浜を転がり始めた。
「あーあ…。部長、限界化しちゃったよ…。お姉ちゃんが神々しすぎて目にダメージ負ったってさ」
流石の楓もこれには苦笑い。え、なに?俺が悪いの?
ゴロゴロと悶える部長を尻目に、楓が俺の座るレジャーシートの横にコテリと座る。
「どお?水着」
「ん?あー、よく似合ってるよ。部長と同じく限界化しそうなくらいには」
普段髪の毛を低いところでのツインテールにしている楓だが、今日は逆に高めの所でポニーテールにしていた。水着も薄い水色でフリフリが着いている。
いやはや、眼福である。
…あれ?俺よりも全然露出少ないじゃん?
「違うよ、私の事じゃなくて。そっち」
「そっち…?ああ、俺の事か」
楓が呆れた表情で指を指すので、その指の指す方向に目をやる…と思ったら俺だったらしい。
「恥ずいことには恥ずいけど…。まあパーカーも着てるし、周りも似たような格好してるからな。そこまで気にならなくはなってきた」
朱に交われば赤くなる、ってな。別に全裸な訳では無いのだから、案外着てみれば何とかなるものである。…とはいえ、自分から着ようとは思わないが。
「で、お兄ちゃんは結局パラソルの下から出られないんだよね?」
「おうよ、出たら砂と同化してお陀仏だぜ」
「そんなに誇らしげに言うことなの…?」
「だって、ほら」
俺は指先をそっと日向に出す。これで痛みと共に指先が灰になって消えていく…。
「…え?」
「消えてないけど…?」
楓は愚か、当人の俺ですら目を丸くして疑った。指先が、太陽に当たっているはずの指先が、灰にならないのである。
「…????バグった…?」
もう一度、恐る恐る指先を日に当ててみる。
灰にならない。それどころか、この体になって感じたことも無かった日の温かみというものを感じている。
「…」
しかし、ここで油断してはならない。ゆっくりと、ゆっくりとパラソルの下から腕を出していく。手が全部出た。特に変化なし。肘まで出た。変化なし。肩まで出た。変化なし。次に足、足先、変化なし。膝から太ももまで、変化なし。
「…ええいままよ!」
俺は思い切って日向に飛び出す。確認はしているものの、やはり本能的に恐れを感じているのか、ギュッと目を瞑ってしまっていた。
「…お兄ちゃん…、出れたじゃん!」
まるでピーマンを克服した子供を扱うように、楓が軽く手を叩きながら俺の手を取る。
「究極生命体になっかもしんねぇ…」
右手を上に突き出すも、流石にそれがリスに変化するなんて事は無かった。
「解析者、どうなってる?」
『…』
「解析者?」
『…えっ、あっ、はい。…そうですね。数々の戦いの中で日光に対する能力が向上したのかも知れません。…しかし』
「しかし?」
『日光耐性を持っているからと言って、ここまで何も感じないということがあるのでしょうか。ナーサさんやトゥルナさんの話を聞いた限りでは、ティアーシャさんは灰にはならずとも、そのダメージは確かに蓄積していた様ですから。しかし…今のあなたには日光は完全無害。どこにもダメージを負っている様子は無いんです』
「…はぁ。ま、とりあえず今の俺は日傘無しで出歩いても大丈夫、って事だな?」
『ええ、恐らくは。しかし何があるか分かりませんので、私は原因について解析してみます。…精一杯遊んできてください』
「…さんきゅ。よっし、楓!遊ぶぞぉ!!」
「うぇっ!?お兄ちゃん!?…っ…うん!」
俺は楓の手を握って、お日様の光を浴びて熱を帯びた砂を蹴って走り出した。
---
「太陽の光…何年ぶりだってばよ…」
俺は人気の少ない海辺の岩場に腰掛け、さんさんと照りつける陽の光を全身で感じていた。
「そのセリフは引きこもってた人のセリフだよ…」
半ば呆れたような表情をしつつも、微笑んで俺の隣に座ってくれていた。
「みんなの所行ってきても良いんだぞ?別に俺に構わなくたって…」
「いいよ、ここで」
「…。そっか…」
俺は軽く微笑んで、海の方に向き直る。
荒く削れた岩に並がぶつかり、水しぶきを上げる。少し生臭いような磯の香りを感じつつ、そんな磯辺の事を眺めている。と。
「…ぶっ」
「お兄ちゃんっ!?」
岩にぶつかり大きく跳ね上がった並に、全身が飲み込まれる。完全にぼけっとしていた為、目を閉じることも叶わなかった。
「ゲホッゲホッ…!?目、目が…」
塩水は目に染みる。風呂で目は開けれようとも海だけは絶対に開けられないだろうな…。
「はははっ…あれ?…え?お兄ちゃん、水ダメなんじゃないの…?」
突然波に飲み込まれた俺を見て笑っていた楓がふと我に返る。
「え?…あ、確かに」
目に明らかなダメージはあれど、水が触れた所に痛みは現れていない。試しにそこら辺に溜まっている水溜まりに手を突っ込んでみる。
「…痛く、ない」
前に水に投げ込まれたソウカを助ける際、水に飛び込んだことがあった。あの時はほんの数十秒水に触れていただけで全身が激痛に襲われ、体力という体力を根こそぎ奪われたというのに。
「…俺は吸血鬼を辞めるぞッ!!楓ェッ!!」
だとしたらやることは一つ。着ていた鼠色のパーカーを脱ぎ捨て、波打つ海に向かって体を丸めて岩肌を蹴った。
「ちょ、ちょっと!?」
後ろでは目を丸くした楓がいるだろう。しかし、ずっと触れられなかった海に入ることが出来るのだ。もしかしたら一時的な物かもしれないし、躊躇している時間はない。
吸血鬼特有の身体能力で大きく飛び跳ねた俺は、楓の立つ岸から十メートルほど離れた所に着水しそのまま沈んでいく。
(すげえ…!すげえ…!海だ…!)
実は前世でも、海に潜った事の無かった俺は海中に潜って、その光景を目の当たりにして感激していた。
もちろん塩水の中で目を開ける訳にはいかないのだが、風魔法を応用して目の表面にうっすらと空気のコーティングを施している為海水が目に浸水してくることは無い。その空気の膜がレンズのような役割をしてくれているおかげで、まるでゴーグルをしているかの如くくっきりと鮮明に海中を見ることができるのだ。
割と深い水深十メートル程の海底まで泳いで向う。ゴツゴツとした岩肌に、深い紫色のトゲを生やしたウニや、得体の知れないぶにぶにとした海藻の様なものも生えている。小さな魚の群れが俺を避けるようにして逃げていく。
(昔魚事典読み漁ってたからな…。こうしてお目にかかれるとは…)
しかし、海に潜れると分かった以上前々から考えていたやりたいことがあるのだ。
(いたいた…。こいつこいつ)
岩の隙間にひょっこりと身を潜ませているトゲが細く鋭利なウニ。ガンガゼ。
このウニのトゲには毒性があり、しかも刺さると非常に折れやすくなっているため、一度刺さってしまうとトゲを完全に肉から抜くのは至難の業である。
ウニとして食べれるわけでも無く、ただただ海水浴場に遊びに来ている客たちに取っては踏んだらヤバい海の地雷のような物なのだが。俺にとってはかなり価値のある生き物である。
直接触る訳にはいかないので、水魔法で水流を作ってウニを浮かせ『天道』で作った空間にホイホイと放り込んでいく。
(…っく、息が)
潜り始めて三分くらいした時だろうか。流石の俺でも十分間の無呼吸運動は出来ないようで息が苦しくなった。俺は海底を足で蹴りつけ、勢いよく浮上する。
そしてあと少しで水面に辿り着く。その時。
(…っ!?)
グンと体の浮上が止まり、体が止まってしまう。何かと思って下を見れば、足にまるでワカメのような海藻が絡まっていたのである。
(なんだ、こりゃ…)
急いで『天道』から短剣を取り出してその海藻を切りつける。しかし、かなり強靭な海藻のようでなかなか切り込みが入らない。
(しかも…登ってくる!?)
かと思えば、その海藻は足首辺りから順々に胴体の方に登ってくるではないか。
(不味い…水刃っ)
このままでは息が詰まりかねない。浮上を最優先にし、水魔法と風魔法とを融合した魔法でその海藻を切りつける。
しかし、またもや傷一つ入らず、なんなら第二第三の海藻が両手足をがんじがらめに拘束してしまった。
「がっ…はっ!?」
動揺で息が漏れ、冷や汗が走る。今ので俺が水中で活動できる時間は大幅に減ったと思われる。
『その海藻は敵です!しかも…この世界のものではありません!あちらの世界の【スパゴルイガメ】です』
(この世界のものじゃない…?いや、そんな事よりも敵なんだな?ならっ)
さっさと倒してワカメスープにしてやろう。昆布ならばダシにしてやろう。
(解析者っ!頼む!)
「ええ、任せてください」
両手足を拘束されている以上、望む方向に魔法が撃てない俺はすぐさまに解析者を実体化させる。
(行くぞっ解析者!)
「はい、合わせますよ!」
(業火)『業火ッ』
本来なら高々に火柱を作り出す魔法、業火。しかし今回はそれを応用して俺の周りに球体の炎の壁を作り出すことに成功する。しかも解析者と共に出しているため、単純計算で威力は二倍。水の中で炎の球体が存在しているという、一見矛盾しているような状態だった。
(よし、焼ききれたっ)
剣や水刃では傷一つ入らなかった海藻も、この火力には敵わなかった様で、文字通り海の藻屑と散っていく。
その隙に、俺は『水砲』で勢いを付けて海底に向う。
(こいつが…海藻の持ち主か…)
そこに現れたのは、巨大なウミガメのような見た目をした生物。背中の巨大な甲羅に生い茂った海藻がゆらゆらと揺らめき再び俺の方に向けて飛んでくる。
(もう喰らわないぜっ)
再び水砲でブースト。亀と海底の隙間に滑り込み、巨大な『天道』を展開する。
(くっ…魔力の消費がえげつねえ…)
『天道』に落とし込むようにして、その亀は海底から姿を消した。しかし、息をついている余裕は無い。急いで海底を蹴り、浮上しようとする。
水砲を放てる程の魔力は残っていない。今は何としてでも自力で海面まで上がらなくては…。
(やべ…息が…っ)
しかし長く水中に居すぎた。完全に息が詰まり、だんだんと意識が遠のいていく。
「ティアーシャ!」
(解、析者…?)
ほんのあと数秒。数コマで意識が途切れそうになった刹那。今度は体が水面側にぐいと引かれ、体が水面に持ち上げられる。
「がっ…がはっがはっ…げほっ…!」
肺にまで到達していた海水を咳き込んで吐き出す。涙目になりながらも、何とか息を吸い全身に酸素を取り込む。
「大丈夫ですか!?」
「…げほっ…だ、大丈夫…。ちょっと水中で戦ってて…って…」
よく見ると、俺は海面ギリギリのところで浮いていた。正しくいえば、がっちりと抱えられていた。というのが正しいか。
「…ジュ、ジュルシー?」
「ええ、楓さんに言われて速攻で駆けつけてきましたよ。…一体何してるんですか…」
俺が顔を見上げるとそこには海パン一丁で、筋肉隆々な上半身を輝かせるジュルシーが居た。
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
「…おう、すまん。楓、ありがと…」
海辺から楓がこちらに手を振っている。俺は軽くそれに手を振り返した後、ぐったりと俺を支える何かに身を委ねた。
「んまあ…言っても分からんだろうが、でっかい亀と戦ってたんだよ…。危うく溺れかけた…けほっ」
そういえば、何故俺はジュルシーの顔を見上げているのだろう。抱えてくれているのは分かるが、どんな抱え方を…?
「…へ?」
実際、確認してみると…。
うん、お姫様抱っこでした。
「なっ…なああっ!?」
羞恥心を超えた羞恥心が俺を襲った。体の中心から順に茹で上がったタコの様に赤くなっていった。
「ちょっと、あんまり暴れないでください。こっちだって泳いでるんですから」
「じゃあお姫様抱っこじゃなくたっていいだろうがァァァァ!?」
ヤバい…。目が合わせられん…。
シテ…コロ…。…数年前の俺が見たらなんて思うだろうか。
しかし、抵抗するだけの体力も無く為す術なく俺はお姫様抱っこをされたまま、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる楓の待つ岸へ運ばれていくのであった。
---
「ふぅ…つっかれたぁ…」
家に着くや否や、玄関のマットの上でゴロンと寝転がる。
「お疲れ様、お兄ちゃん」
「おう…」
結局、調子に乗ったことを大いに反省した俺は大人しく砂浜で生徒の監視役に回って一日を過ごした。幾年ぶりもの日光をずっと浴びていたせいで肌がヒリヒリとして薄皮がうっすらとめくれてきている。日焼けする吸血鬼ってなかなかレアだと思う。
その後、レンタカーですっかり疲れきってすぅすぅと寝息を立てる生徒達を尻目に若干羨む気持ちを抑えつつ、コーヒーをがぶ飲みして眠気を抑えつつ学校で解散となった。帰り道ついでにレンタカーも返してきて、ようやく帰宅して今に至る。
「…今日は、風呂入って寝るか。夕飯は…ルントの所にでも行って食べてこよう」
「ルントさんのお店?やったあ、久しぶりに食べたかったの」
「なら良かった」
俺は思い体を持ち上げつつ、『天道』を開いて楓と共にその中に入っていく。
その後の記憶はかなり曖昧だった。それだけ疲れていたと言うことか。飯食う前に寝てしまったような食べて寝てしまったか、どっちかはっきりはしなかった。まあ、楓は明日休みだし。元来俺は気ままに依頼をこなして金を稼いでいるだけだから、休みも出勤もクソも無いのだが。だが、今日はナーサの家に厄介になることにしよう。…ただひたすらに、眠い。
俺は手招く睡魔に、抗う事無くその身を委ねた。
「…あ、寝ちまったのかい…。まあ大分疲れてたみたいだし仕方ないかね」
「私が無理言って、お願いしちゃったからなあ。結構無理してたのかな…」
「あんたは気にせずともいいよ。楓。この子は妹に会いに行くために世界の一つや二つ。簡単に越えようとしちまう子だよ?…妹の為にしてやったことに、後悔なんて無いだろうさ…。さ、この子は寝かしておいて、あたし達は食べよう!今日はお得意さんからいい肉を貰ったんだよ!ちょうど二人で食べるんじゃ味気ないと思ってたから来てくれて助かったよ!」
「はーい、二人ともお待たせ。今日は肉づくしだぞー」
「うわあ、凄い美味しそうです!」
「たんと食べな。どうせこの子が寝ちまったんだ。今日は帰れないんだろう?泊まっていきな」
「なんならここに住んだっていいんだよ?俺達にとっちゃ、二人とも娘みたいなもんだから」
「…うん。ありがとうございます。もしかしたら、いづれはそうなるかもしれないけも、今は、まだ…」
---
「んん…」
久しぶりに熟睡出来た。まるで昔のRPGのように寝て時間を飛ばしたような心地である。
「んんー!いい朝だこと」
寝ていたベッドは、家の物ではない。これは俺が数年前まで使っていたベッド。つまりはナーサの家のベッドである。
すっかり寝ちまってたみたいだな。
「ふああ、おはよう」
俺は体の感覚に任せて、欠伸を噛み殺しながら談笑する声の聞こえるリビングに足を運ぶ。どうやらちょうど朝飯の時間らしい。
「あ、お兄ちゃん。おは、よ…う…。え?だ、誰?」
「誰って、俺だよ、俺。ティアーシャだよ」
しかし、いざ扉を開けて入ってみると、三人とも頬いっぱいに飯を詰め込んだままこちらを見て硬直していた。
「…ティアーシャ、?」
「…ナーサまで?」
「…??え、もしかして気づいてないの?」
「気づいてないって何に?っておい!なになになに!?」
俺は制服のままこちらの背中を押す楓に無理矢理洗面所の鏡の前に立たされた。
「おいおい、俺は吸血鬼だから鏡には写りにくいんだよ。ぼんやりとしか……、ん?」
俺は鏡の中にいる一人の少女に目が止まった。俺じゃない、誰か。
「…お前、誰だ?」
鏡に手を当て、まじまじとその顔を眺める。するとなんということか、その少女も鏡に手をついてこちらを眺め始めたのだ。
その少女は深紅色の髪を揺らし、左側のお下げをまとめていた。若干寝癖で髪がボサ付いていて、服もだらしなく白色のシャツが体から垂れていた。目は黄金色で肌は色白。
「…え、いや、ほんとにだ、れ…。え、待てよ?これ、俺?」
「それ以外無いでしょ…お兄ちゃん」
え、だって俺にはあの綺麗な銀髪が…。
俺は手をうしろにやって、髪の毛を手に取った。
「ぇぇぇぇえええええええええええええ!??」
その毛は、血に濡れたように赤かった。