第75話 光と闇の狭間の中で
今回から本編新章が始まります。
番外編は…また今度ネ
「…ねむ」
予めスマホで掛けておいたアラームが枕元でなっている。ぼーっとした頭には嫌に響く電子音で意識が表に引っ張られていく。
「寝不足だなあ」
この体の気だるさが表しているように、ここ数日間。まともに睡眠を取れていなかった。体は疲れ、休息を必要としているのに眠りに着くことが出来ない。
とは言え、休まない訳には行かないので魂を裏に飛ばし体だけでもと休ませている。
「ん、お兄ちゃん。おはよ」
「おー、帰ってたんだ。お帰り」
欠伸を噛み殺しながら、制服姿でスマホ片手にソファーに座っている楓に声をかける。
俺は種族故の夜行性であり、朝方に寝て夕方に起きるという生活を送っている。つまり、人間である楓とはちょうど入れ違う感じで起きて寝ているのである。だから楓が学校から帰ってくる時間帯辺りで起きて、楓が朝起きるタイミングで寝るのだ。
「今ご飯にすっから、ちょっと待ってな」
「大丈夫?だいぶお疲れだけど」
「なんてことないよ…。多分」
黒色のエプロンを部屋着の上から付け、台所で包丁を握る。
「あー、そうそう。お兄ちゃん今日ねー」
「うんうん、あー、確かになぁ…」
俺が飯の準備をしている時、楓が雑談のように近況報告をする。そろそろ反抗期とかもあるかと思い、初めはこちらから声を掛けることを避けていたのだがどうにもこうにも、シスコン(each other)のようで、今では俺からも、向こうからも話しかけることが多くなった。
「はい、お待たせ」
俺が夕飯を乗せた盆を机の上に置き、テーブルを濡れタオルで拭いている合間に楓が食器を並べてくれる。
「よしそれじゃ、頂きます」
「頂きます」
お互いに面向かうようにして椅子に腰掛け、手を合わせて食べ始める。今日の献立は鯖の塩焼き、プルコギとニンニクの芽を合わせて炒めたもの、小松菜のからし和え、昨日余ったひじきを卵で包んで焼いたお残り焼きである。鯖は朝から塩麹に付けてある。少々たんぱく質が多いような気がしなくもないが、育ち盛りの楓にはちょうど良いだろう。運動部だし。
ちなみに俺にとっては朝食なので少し量は減らしている。もう少し軽い物にしても良いのだが、一緒に飯を食うのに別々の物を食うってのも味気無いしな。
「おいしい」
「ありがと」
毎回の食卓でこう言ってくれるもんだから嬉しいもんだ。少し気恥しいものもあるけど。いや、ほんとに良い妹を持ったよ…。俺は幸せもんだ。
「あ、そうだ。お兄ちゃんに頼み事があるんだけど」
「頼み事?なんだ?欲しいものなら何でも言ってみろ?あ、男は少しいたぶって骨の芯まで調教してからにするからちょっと待ってな」
「いや…、そんなんじゃなくて」
「…」
やばい。シスコンブーストがかかって妹への愛がオーバーヒート仕掛けた。抑えろ、俺。いや、愛は抑えたらダメじゃないか?じゃあ抑えなくても。
「…お兄ちゃん…自動車免許って持ってる?」
「…自動車免許?」
確かに前世だと取ってたけど、そもそも車は買ってなかったし(そんな金ないし)、運転する機会もそんなに無かったな。乗らない故のゴールド免許だった訳だし。
「なんで急に?」
「いや…。今度部活で夏合宿行くことになったんだけど、どこの部活もそんな時期だから大型のバスが取れなかったみたいなの。だから顧問の先生がワゴン車出してくれることになったんだけど、少し人数が多くて乗り切れなくて…」
「…ふうん、それで俺に?」
「お願いしてもいい…?」
そんな上目遣いでお願いされたら断ろうにも断れないじゃないか…。まあ、傍から断るつもりは更々無いんだけどな。
「もちろん、そんぐらいならお安い御用さ」
「ほ…良かったあ」
楓が安堵の息を着く。
「で?その合宿って何時なんだ?」
「あと二週間も無いかな。場所は海沿いの民宿になったみたい。予定では海で遊びに行ける時間もあって、計三泊四日だね」
「三泊四日ね、了解」
いいなあ、夏合宿。青春してやがるぜ、全く。
「あ、多分お兄ちゃんも海遊びは強制参加だろうから水着、買っときなよ」
「…へ、み、ずぎ?」
ちょっぴり夏合宿とやらを楽しみにしていた心は、突如正拳突きでバラバラに砕け散った。それはもうドリ〇ンのあばら骨の如く。
「うん、水着」
「みず、ぎ…ねえ…ま、まあ俺は、水に入れないし水着は買わんでも…」
「だめ、買って」
「ハイ…」
何と情けない兄貴なんだろう。己のプライドを捨て去って、水着まで着させられるなんて…。スカートでさえ精一杯だってのに水着なんて…。
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二週間後。
「今日はよろしくお願いします。…えっと、確か荒幡のお姉さんでしたか?」
楓の学校の駐車場にレンタカーで借りたワゴン車を止め、車体にもたれかかっていると楓の部活の顧問であろう女性がこちらに駆け寄ってきて一礼した。
「あ、はい。荒幡楓のあに…げほん。姉の荒幡ティアーシャです。今日からしばらくよろしくお願いします」
「…」
「…あの?」
赤ぶちメガネに、ポニーテルといった凛々しそうな格好をした彼女は俺の顔を見て惚けて硬直していた。俺が彼女の目の前で手をパタパタと振ると、ハッと我を取り戻し頭をブルンブルンと振りながらこちらに向き直った。
「あ…すみません。あなたが美しかったのでつい…見とれてました」
「そりゃども」
「紹介遅れました。この学校のテニス部の顧問の舞原瑠璃子です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
向こうが何度も頭を下げるもんだから、こちらも釣られて数回お辞儀を返す。
「あ、ほんとに失礼なんですが…免許証を拝見させて頂けますか?」
「はい…ええっと…どうぞ」
俺はポケットの中から免許証を取り出し、免許証を手渡す。
「ありがとうございます。ほんとに万一、の為のチェックですので置きにさわりましたらごめんなさい」
「いえいえ、顧問として当然の行動です。気にしないでください」
…とか言いつつも、これ俺が取ったわけじゃ無いんだよね…。流石に二週間教習所に通う気力は無かったので『魅惑』とかなんやらを使って発行していただいた。俺が吸血鬼ということもあり証明写真の写りが悪かったので、いつの間にか手に入れていた『念写』で俺の顔を写して載せている。
普通にアウトな免許証だけど、キラキラのゴールド免許である。…まあ運転する時は解析者に任せるからいいだろう。いつも助かってます、解析者さん。
「あ、生徒達が来ました」
少し離れたところに人影を見つけ、俺はワゴン車の後ろの扉を開け、みんなが乗りやすいようにしてやる。
「うええ!?あれ楓のお姉さん!?…めっちゃ美人さんじゃん」
「しかも恐ろしく綺麗な髪…、妖精みたい…」
「デカい。何がとは言わないけど」
だんだん近づいてくるにつれ、その話し声は徐々に大きくなってくる。なるほど、俺の話題で付きっきりのようだ。
「はい!みんな整列!ほら、早く!」
その中でも、キャプテンと思わしき短髪の少女が指示を出し、楽しそうに談笑する部員達をまとめ並ばせる。
「気をつけ!礼!合宿中、よろしくお願いします!」
「「よろしくお願いします!!」」
運動部らしい、規律の取れた挨拶。嫌いじゃないよ。
「はい、よろしくー。荒幡ティアーシャです。ティアーシャかティアって呼んで下さーい」
「ティアーシャさん…名前も美しい…」
分かるよ、分かる。だって受け継いだ名前だもん。綺麗だよ。かっこいいよ。
「それじゃ、予め決めといた班ごとに別れて車に…って全員ティアーシャさんの所にっ!?」
予め班を決めていたよう…だけど全員俺のワゴン車に集まっている。これは…かなりまずいのでは?
「ちょいちょい、流石に全員は乗れないからな?決めていたんだったらそれ通りに乗ってくれ」
「「はあ~い」」
俺の車じゃなかった組は、渋い顔して舞原先生の車の元へ向かっていった。それはそれで先生が可哀想だろ。
「そんなに乗りたいんだったら、帰りは逆にすればいいじゃんか。別にこっちは構わないし」
「「え!?やったぁぁぁぁぁぁぁ!!!早く合宿おーわれ!!!」」
「……ええ」
なんでそうなっちゃうの…。
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「ティアーシャさんは趣味とかあるんですか?」
「うーん、料理とか?」
「ティアーシャさん恋人は!?恋人はいるんですか!?」
「いません」
「「ええー!!」」
詰め込むような形で車に乗せ、やっと車が動かせると思ったらこの有様である。息を着くまもなく質問攻め。しかも基本俺にこれっぽっちも関係ない乙女の会話なので、なんとも微妙な気持ちである。
「ティアーシャさんのルックスだったら絶対モテるのに…。もったいない」
『性格ですね』「性格だね」
「なんで息ぴったりなんだよ二人とも…」
俺の体を経由して車を運転する解析者と楓が口を揃えて言った。そもそも恋人なんて要らねえし不要だし!?悲しくなんてねぇーし!!!
「ところで、ティアーシャさんって楓ちゃんのお姉さんなんですよね?」
「ん?あー、うん。そうだよ」
そんな和気あいあいとした雰囲気の中で一人の部員が口を開いた。
「まあ、血は繋がってないけどねー。一応義理の妹ではある」
「えっ、あ…そうなんですか。なんかごめんなさい」
「気にしてないどころか、それでもこれだけ仲良いんだから誇ってるよ」
質問をしはた子は申し訳なさそうに俯いてしまった。が、俺の苦笑を見てどこか安堵したような顔になっていた。
『後ろ向かないでください。運転の難易度が上がります』
「…すまん」
解析者に怒られた。
…すみません。
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その後、数時間の高速道路での運転を経て目的地である旅館に到着。旅館の大きさはシーカーのよりも小さいくらい。三十人泊まれる位の大きさだろうか。
部活動合宿組はチェックインを済ませ、貴重品等を先生に預け、衣類などの生活用具を部屋に置き、部活着になって旅館外に並んでいた。
もちろん日中での活動が辛い俺は旅館の中から彼女達の様子をのんびりと眺めている。先生の話だと、練習場はここから約五キロほど離れていると言うが…。え、走ってくの?大丈夫?帰り死なない?
そんな訳で旅館を出発した一行(ちなみに先生はワゴン車乗ってた)は列を組んで走り始めた。
「ふいぃ…。ゆっくり出来るぜ…」
日が頂点に達しているこの頃、夜行性の俺からしてみれば深夜なのである。良く寝ずに運転した。俺、偉い。
「…運転したのは私なんですけどね」
「ううおっ、びっくりしたあ…」
急に実態化した解析者が俺の隣で寝転んでいた。
解析者、彼女は俺の体に住まうもう一つの魂。俺をこの体に転生させた神、アダマスに授かった魂で最初は機械的な行動や思考しか出来なかったが、今では一人の人間の魂と同じ思考や行動を取るようになった。彼女は主に俺のサポートに徹してくれる。周辺の敵や罠の有無なんかも調べることが出来る。
俺の体を共有しているだけあって、容姿は俺とほとんど変わらない。髪の毛の色が解析者の場合は薄紫色なのだが、それは彼女が気を使って少し変化を付けているだけであって、別に何色にでも変えられるのだとか。ほおん。七千二百色に変更可能!ゲーミング解析者!
そんな彼女だが、何度か魂を具現化させて物理的に俺を助けてくれたことがある。魂の具現化にはその魂そのものの魔力を相当消費するので、もって数十秒なのだが。
「今の私は魂を投影しているだけですから、物理的にあなた方に干渉は出来ませんよ」
解析者が俺に向けて手を伸ばすとその手は透けて俺の体を通り抜けて突き抜けた。どうにもホログラムのような特性のようである。
「とはいえ、ある程度ならあなたと感覚を共有して感触等を感じることが出来ますがね。…この畳、寝心地いいですねえ」
解析者らしくないだらけた様子で、ゴロゴロと畳の上を転がっていた。流石の解析者も長時間の運転は疲れたらしい。まあ、普段お世話になってるし俺から何か言うこともあるまいて。
「じゃ、俺も少し寝ようかな…くっ!?」
「っ…ティアーシャ?大丈夫ですか?」
畳に手をついて寝転がろうとした刹那、眉間に針を突き刺したような痛みがあった。慌てて起き上がり、周りを見回すが、特に何か変わった様子がある訳では無い。
「今のは…?」
「単なる頭痛とは違いそうですね…。あまりいい気はしません」
「…」
解析者の言う通り、単純な頭痛とは何かが違う。
背中から何か刃物を向けられているかのような、そんな感覚。
「こりゃ…また寝れねえなあ」
「またこちらに降りてきますか?」
「いや、久しぶりに表で寝たいかな」
俺はアダマスから授かった能力『天道』を開き、その中からティアーシャの短剣を取り出して、ベルトを巻いて腰に刺し、今度はダガーナイフを括りつけてあるベルトを足に巻いた。
「ほらな…予想的中ってやつだよ」
旅館の裏は小さな雑木林になっていて、何かに引かれるようにして俺はその中に足を踏み入れた。すると、そこには目を疑う状況が生まれていた。
あっちの世界の魔獣、ベヒモス。サイみたいな見た目をしていて個体によるけど、気性が荒くて敵性モンスターとして冒険者の間では認知されている。
「なんでこっちにこいつらが…」
しかも一頭や二頭ではない。ざっと見三十頭はいるんじゃないだろうか。
『種族名:ベヒモスに間違いありません。…こちらの世界で発見された、という情報はありません。今ここに初めて、そして塊で現れたようです』
俺の中に戻っていた解析者が解析結果を伝えてくれる。
おかしい。この世界でも、あちらの世界でも、その世界の壁を越えられる力を持つのは俺だけだ。俺の力を経由して世界を超えることは可能だが、どちらにせよ俺が能力を行使しない限りそれは不可能だ。
それに一度に数十頭の、それもベヒモスだなんて俺がやるわけが無い。加えて、時空を越えられる力『天道』はアダマスから譲り受けた物。神から授かったこの力が暴発するなんて普通に考えて有り得ない。
「だとしたら…こいつらが単純に時空を超えてきたって言うのか?」
元々、楓のいるこの世界での一年は、俺がこの体を授かった向こうの世界での五年ほど経過しているという、時の流れの速さが異なっていた。それを俺が最初に越える上でら無理やりにでもそのズレを合わせなくちゃらなかった。簡単に言えば、歯の違うギアを噛み合せるためにその歯を削る、みたいな感じだな。その代償として、俺は一時期記憶を失い、体が幼児化していた。まあ偶然にも楓の元にたどり着いていた訳なのだが。
「もしかして、俺がズレを無理やり合わせたから二つの世界の境界がおかしくなったりとか…」
『有り得なくはない、ですが幾ら二つの世界の距離が近づこうともその間を、越えるのは…ティアーシャ。あなたのその能力が無ければ不可能でしょう』
「…だとしたら。いや、今考えても無駄だな。とりあえずこの大量の魔物を何とかしねえと」
まだ人目につかない所に現れてくれて助かった。どっかの住宅街とかに現れでもしていたら大騒ぎになっていただろう。
「…殺す、訳にはいかねえな。気絶させて向こうに送り返そう」
俺は鞘ごと短剣を持ち、ベヒモスの群れの中に飛び込んだ。
「ふう…。なんとかなんとか」
額に浮かんだ汗を拭い、木にもたれかかって息を着く。とりあえずここにいる三十頭のベヒモス全部をあっちの世界の森林地区に点々と戻してきた。流石に三十頭固めて返してしまったら通りかかった一般人は愚か冒険者も死にかねない。
「この土も何とかしねえとな」
ふかふかで、落ち葉が降り積もった土は踏み荒らされ、見る影も無くなっている。
俺は雑木林の中心に感覚で向かい、そこで地面に手を着いた。
「大地ノ恵」
俺の体から流れた翠色の魔力が、腕を伝い大地を巡り広がっていく。
魔力が流れた地面から順に、ベヒモス達の足跡は隆起して現れた土に覆われ消え、その上にうっすらと草が生え、元よりも緑が目につく土地になっていた。
大地ノ恵。見ての通り、その土地に栄養と生命を芽吹かせる魔法だ。主に枯れた土地や、荒廃した村の畑なんかに使う魔法である。たまに町の作物の実りが悪い時になんかはこっそり使ってたな。魔力の消費も少なく、コスパは良いがそもそもそんなに使う機会がないので持ち腐れていた魔法だ。スカーナにでも覚えさせた方が良かったんじゃないか?
「…ん、すっかり夕方だな」
集中していたからか、時の流れが早い感じがした。やはり殺すよりも生け捕りにする方が体力も精神力も消費する。威力を下げれば非殺傷になる電気魔法の『雷電』にはお世話になった。
「確か六時くらいに練習終わるって言ってたよな?」
俺は左手の内側に付けている腕時計を見た。短針は五を指していた。あと一時間ほどで練習が終わる予定のはずである。
「…迎えに行ってやるか」
『楓ちゃんの練習姿が見たいだけなんじゃないですか…?』
図星である。
「ん…ぐ。さすがは解析者…」
俺の体を共有していても、思考を読まれないようにはならないんですかねえ。まあ、普段の俺と一緒にいたらこれくらい誰でも分かるか。
『天道』からタオルを取り出して、軽く肌の出ている場所を拭いて俺は駐車場に向かい、レンタカーのエンジンを掛ける。
「じゃ、よろしくー」
『…人使いが荒いですね。全く』
「とは言いつつ、楓に会いたい癖に。いやー、ツンデレ解析者だなあー」
『なっ…なぜ私の気持ちを…』
解析者が俺の思考を読めるように、俺もゆっくりとだがそれが出来るようになってきた。とはいえまだ感情を感じ取ることくらいしか出来なかったが、それでも彼女が喜の感情を抱いているのは明白だった。
「ツンデレだー!ツンデレだー!」
『う、うるさいですねっ。さっさとシートベルト締めてください!行きますよ!』
珍しく恥じらいを感じている解析者を見てニヤニヤしながら俺はシートベルトを締めてギアを入れた。
「良いもんだな…解析者」
『これが眼福と言うやつですか…って!何言わせてるんですか!!』
練習場に到着し、少し離れたフェンスの外からボールを打ってラリーする少女達を見つめる。栗色の髪の…ほう、練習中はポニーなのか。楓を見つけ、見守る。
「うおし!その甘い玉でっ…おお!良いボール!うわっ、今のギリギリの球取るのか…よしよし落ち着け。かえでも、俺も。粘れ粘れ…よし!そこだ!!」
楓の打ち返したボールはネットの上ギリギリを通り過ぎ、シングルスコートの縁ギリギリに突き刺さった。
「よっしゃ!!良いぞー!楓!!」
大人らしくなくコート外でぴょんぴょんと跳ねる俺。いやー、いいものである、テニスは。俺はテニスとか卓球とか、個人戦の球技が好きだった。己のミスが敗因に繋がるし、己の良いプレーが勝利に直結するからな。
「あ、お兄…お姉ちゃん来てたんだ!おーい!」
どうやら楓もこちらを見つけたようで、俺に向けてラケットを持った手で手を振る。俺もそれに答えるような形で手を振り返す。
「あ、ティアーシャさんいらしてたんですか!」
そんな楓の視線を見て、舞原先生もこちらに駆け寄ってくる。
「ちょっと気になっちゃって。練習見に行こうと思って」
「なら打っていきませんか?ほら、見てるだけってのも味気ないですし」
舞原先生が人差し指で手招きする。
「ええ?でも邪魔じゃないですか?」
俺は幼い頃はテニスをやっていたので---だから楓に教えて、今に至る---別に出来ないことはないのだが。流石に合宿に混ざるのはまずいだろ…。
「いえいえ、別に構いませんよ?ほら、どうぞ入ってきて下さい」
「…ふう、まあ久しぶりにやるか、な」
俺は手招かれるがままにコートに入り、シューズに履き返され(借りた)、そのままコートに繋がる更衣室にぶち込まれた。
「おー、なんか懐かしい」
舞原先生の練習着の別着を着させられ、俺はラケットを持って(これも借りた)、コートに足を踏み入れる。
オムニコートの砂の感触がテニスシューズの底を伝わってくる。持ち手の部分の少し破れたグリップに手を添わせ軽く振ってみせる。
「うわー、ティアーシャさん似合ってるー!」
すると部員達がワラワラと集まってきた。うん、まあ想定の範囲内ではある。
俺が着ているのは舞原先生の練習着のスペア、青色のシャツに白色のショートパンツ。テニス着に共通していることだが、全体的にゆったりとしていて風通りが良い。この着ている時の爽やかさが体に懐かしさを覚えさせた。
「あれ、ティアーシャさん経験者ですか?フォアとバックの構えもちゃんとしてるし…」
「んん?あー、まあ多少は」
彼女の言うフォアとバック、もといバックハンドは持ち方が異なる。フォアは利き手の片手打ち、バックは両手で打つ、と思っている人も多いだろうが実は握り方が根本的に異なっているのである。フォアはラケットの面が地面に水平になっている状態で上から包み込むようにしてグリップを握る。対してバックハンドはラケットの面をを地面に垂直になるようにして縦に握る。いわゆる包丁の握り方である。
この握り方をコンチネンタルとか、ウェスタンとか言ったりするのだがそれはまた別の機会にしよう。
「二球打ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
俺は部員から二個、放り投げられたテニスボールを受け取り一つをポケットにしまった。
コートの一番後ろ側、ベースラインに沿うようにして立ち地面にボールを付く。
他人によってルーティンは異なるが、やはりテニスプレイヤーにとって気持ちを落ち着ける代表的な行動はこのボールを地面に付く動作であろう。こうして毎回同じ状況を作り出してやることで、気持ちに余裕を付けるのである。
「…っ!」
左手で垂直にボールを上げ、膝の力を使ってラケットを振る。
「んっ」
ジャストミート、感覚的にはかなりいい所に当たったと思うのだが、やはりブランクのせいか。ボールはネットを掠り、サービスコートを越えて通り過ぎていった。
「…ふぅ…」
もう一球、ポケットからボールを取り出してボールを再び付く。
そしてボールを放る。先程はパワー重視のサーブだったのに対して、今度はラケットの面をするようにして打つスライスサーブである。
わあっと周りから声が上がる。俺のスライスサーブは急速な回転を受け、横向きに弧を描くようにして飛びサービスコートのラインちょうどを貫いた。
「ええ…。絶対多少じゃないじゃないですか…。大会レベルですよ、この鋭いサーブは」
先生が唖然とした顔でこちらを見ている。まあ、部活でやってたからな。大会にはそれなりに出ていたし、この体になってから力の入りもいい。前の体だったとしたらぽわわーんのぽよよーんな球しか打てねえだろうな。
「おに、ゔゔん。お姉ちゃん、やる?」
手に残るボールを打った感触を確かめていると、楓が俺のすぐ側にやって来た。
「ん?お前さっき打ち合ってたじゃん。大丈夫なのか?」
「うん、相手の子も大丈夫だって」
「よっしゃ、久しぶりにやるか!」
「ワンセットゲームね。負けた方は…ジュース奢りで」
「そりゃ負けらんねえなああああ?やったるでぇぇ」
俺達はそれぞれコートに入り、ネット際で一礼してラケットを回してサーブ権を争う。
結果的にサーブ権を取ったのは楓の方だった。先行は楓。
そしてサーブ権を取れなかった俺にはコートを選ぶ権利がある。俺が沈む夕日が背中側を向くようにしてコートを取った。
「「勝負だっ!!」」
何年振りのテニスで、何年振りの兄妹対決だろう。こうして楓と何かができるってだけで、ボロボロになってでもこの世界に戻ってきてよかったなと思う。
「…楓ちゃんのお姉ちゃん、楓ちゃんが絡むと暴走するタイプだね…」
「俗に言うシスコン…。けどどっちも可愛いから尊みがヤバい…。ティアーシャさんとか、ほらっ。スタイルヤバくない?デカくて細いとか、反則でしょ…」
「しかも、見た感じほとんどお化粧してないんだよね。は?化粧してなくてあれ??流石に意味不明…」
「ティアーシャさんのちょっと兄貴感も良いよね…」
「あんな優しいお姉ちゃん居たらいいなあ」
「「「良いなあ…」」」
何故か…、意図せぬ間に俺の株が上がっていた…。