第71話 --おかえり
「な、なんなんだよ…。お前」
男は少女が急成長するという超現象を目の当たりにして、動揺を露わにしていた。それでもいたって冷静を装っているようだったが。
「よう新橋、久しぶりだな」
口調とは別に、白銀の髪の女性はその深紅色の瞳で男のことを睨みつけていた。
「ひ、久しぶりだとお?」
男は床に転がっている果物ナイフを手に取り、震える手でそれを構えた。
そんな男の様子を見て、女性は苦笑を浮かべて言った。
「果物ナイフ、ねえ。懐かしいもんだ」
そして、そっと腰に刺さった一本の短剣を鞘から抜き男に向けた。
「俺は、守るべきものの為にはこの剣を振るうって決めたんだよ。そんな果物ナイフの一件をまだトラウマに抱えてるほど、ビビりじゃないぜ」
短剣を向けられた途端、男は水を被ったネコのように飛び上がり震え出した。
女性はゆっくりと、男との距離を詰める。
「く、来るなっ!!」
「さっき楓も同じ言葉言ったよなあ?それでもお前、やめなかっただろ?」
彼女は懐から一匹、蛇を取り出して床に放った。
「簡単に死ねると思うなよ?」
地面を這う蛇は一匹、二匹、四匹、八匹と次々と数を増やしやがては数えられないほどにまで増殖した。
「死なない程度に痛めつけてやれ、ソウカ」
「あ、あぁぁぁっ」
蛇の波に飲み込まれる男。そしてその中からは絶叫が聞こえ時々血飛沫が上がる。
「…さて、そのカス野郎はそちらに任せて。…楓」
短剣を握って、私の腕を縛る結束バンドを切りつけ外してくれた。
「…お兄ちゃん、なの?」
そして真っ先に、そんなことを聞いてしまった。
「ああ、正真正銘、お前のお兄ちゃんだよ」
柔らかい、暖かい笑みをこちらに浮かべるお兄ちゃん。
「…声、聞こえたの?」
「…。うん、聞こえたよ。俺を呼ぶ声が」
お兄ちゃんに差し出された手を掴んで立ち上がる。そして蛇に襲われる男に対してお兄ちゃんを挟んで隠れる。
「なに、そんなに怖がることないさ。…アイツには死より恐ろしい罰を与えてやるからさ。…ソウカ、もういいぞ」
「了解」
お兄ちゃんが蛇の集団に向かって声を掛ける。
すると蛇が、男を襲うのをパタリと辞めワラワラと一箇所に集まり始めた。やがてその蛇は人型となり、翠色の髪をなびかせる少女になる。
「な、なにが起きてるの…」
私の脳の許容値はとうに限界を超えていた。科学云々じゃ語れない領域の話までたどり着いてしまったのではないだろうか。
「あ、こいつはたっぷり神経毒入れといたからもう動けないよ」
ソウカ、と呼ばれた翠色の髪の少女はうーんと伸びをしながら仰向けに倒れる男の事を指さした。
男は既に満身創痍。全身噛み傷だらけになっていて、呼吸も苦しそうだ。けれど不思議なことに可哀想だなんて感情は出て来なかった。せいぜい哀れ、程度までだった。
「安心しろ、これからお前はその身を持って楓をなぶった罪を償うんだ。良かったな、死ぬ前に反省させてもらえるだなんて」
お兄ちゃんは魔物の様な狂気じみた笑顔を浮かべた。
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正直、さっさとこんなやつ殺してやりたい。しかしあの世界とは違い人の死にこの世界は、特にこの国は敏感なのだ。下手にここで殺してしまえば楓にすら何かしらの影響を及ぼしてしまうかもしれない。
ならどうするか、簡単な話だ。
この世界以外の世界に追放すればいい。
「『天道』」
指を鳴らし、近場の壁に手を当てる。
するとその壁の手を当てている部分の周辺が圧縮されるようにして消滅し、その先には真っ黒な暗黒空間が広がっている。
『天道』。
アダマスから授かった俺の願いを叶えてくれる魔法だ。
能力としては、『時間、世界、次元をも超えることが出来る穴』を作り出すことが出来る。消費する魔力量も少なくはないが『業火』に比べてしまえば大したものでは無い。
そして今作ったこの穴はどこに繋がっているのか、と言うと。
どこにも繋がっていない。
俺が何年も過ごしてきた世界でも、楓の住むこの世界でも無く。
所謂、虚無。
何も無いのである。
「たっぷりと反省するんだな?」
俺は新橋の足を掴んで穴の中に広がる虚無へと放り投げる。
「ーーーーっ!?」
声にならない悲鳴が聞こえる。こんな奴の悲鳴なんて聞いた所で何も得はないのだが。
「ほら、冥土の置き土産ってやつだ。受け取れ」
俺は地面に転がる果物ナイフを新橋に向かって投げつけた。
「お前のこれまでの行動、全部恥じて朽ち果てていけ」
そうして俺は『天道』の入口を閉じた。これでヤツはこの世界から、いや他の生きとし生けるものから隔離された状態になったのだ。
「…ふう」
なんとも、呆気ないものだ。何年も時間をかけて、何度も死にかけてようやく戻って来た、と思ったらほんの数分で目的を成し遂げてしまった。
達成感は、ないと言えば嘘になるんだろうけど心の中の曇りは完全には晴れていなかった。
「…ッ!」
「…お、お兄ちゃん?」
その瞬間、力がプツンと抜けその場にぶっ倒れた。
「ちょっティア!?」
「あー、大丈夫。…少し疲れただけだから、寝る…」
体が望むがままに目を閉じて、力を抜く。
目が覚めたら、全部夢でした。なんてことはないよな?
ほんの少しだけ、不安を抱きながら闇の世界に堕ちて行った。
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「…ん、お兄ちゃん?」
「…ん、んん」
なんだこれ、天国か?ふかふかの布団が暖かい…。安心感、やべえ…。溶ける…。
「お兄ぃちゃん」
「…ん、あ、ああ。楓」
俺の名前を呼ぶのは妹、楓。
…良かった、夢じゃ無かった。
「おはよう」
俺の顔を覗き込む楓。寝起きでぼんやりとしかその顔は見えないが、確かにそこには満面の笑みがあった。
「おはよう」
だから、俺も満面の笑みで答えてやった。
そして
「--ただいま」
そう、一言だけ、付け加えた。