第65話 行こうか
結局、その日はゆっくり休んで明日から神石探索に向かうことにした。
「おっちゃん、鎖帷子のサイズ合わせてもらっていい?」
「あいよ」
という訳で近くの街で装備調達である。いつも服の下に着込んでいた鎖帷子なんてもう穴が空いたり、錆びたりでボロボロである。ここまで来たら修理するよりは新しい物を買った方がお得だし、耐久性にも優れるだろう。
「…随分と慣れてるわね」
そんな俺の付き添いで来てくれたアイビーは呆れ気味に呟いた。
「そりゃ冒険者ですからに」
手早くサイズを合わせてくれている店主のおっちゃんを尻目に皮肉気味に返答する。
「…その男口調は何とかならないの?」
「皆そう言うんだよ。別に良いじゃねえか、慣れねぇんだし」
ことある事に誰かしらに注意されてる気がする。
私、ティアーシャと言うものですわうふふふふっ!よろしく頼みましてよ?
ほら、違和感しかない。
「そのルックスが台無しよ?」
「俺は気にしないから大丈夫だな」
「はぁ…全く…」
そんなに露骨に呆れなくたっていいじゃないか…。傷つくぞ?
「ほれ、サイズ調整できたぞ」
「あ、どうも…。うん、大丈夫。…はい、これお代」
程よく煮詰まり始めた頃に、店主のおっちゃんが割り込み鎮火してくれた。
俺は鎖帷子を受け取り、サイズを確認し、懐の麻袋から金貨を一枚取り出し指で弾いて渡した。
「毎度あり」
「どもー」
鎖帷子を腕に抱え、店を出る。扉の外でまだ店内にいるアイビーを待つ。
「あ、お待たせ」
数分後、アイビーは背中の弓筒の矢を補充した様でそれを胸に抱えて店を出てきた。
「必要な物は揃った?」
「うん、鎖帷子にダガーナイフも買ったし…数日分の保存食も。…あとちょっと面白そうなものを」
「じゃあどうする?取った宿に戻る?」
「…そう、だな。宿でソウカ達を待とうか」
「分かったわ」
ソウカとスカーナは二人で別行動をしている。と、言っても寄る店が俺はたまたまアイビーと同じだった訳で故意にソウカ達と別れた訳じゃないのだが。
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「ただいまー。先帰ってたんだ」
「早めに終わったからね」
宿のベッドで寝っ転がっていると、ガチャガチャと部屋の鍵が開き、ソウカとスカーナが入ってきた。
「おかえりティア」
「…」
ソウカが部屋に入り、椅子に座っているティアーシャの肩を叩く。
「…ティア?」
しかし、彼女はそれに対して何も反応も見せなかった。
不安そうな顔をして、ソウカが私に目を向けてきた。
「大丈夫よ。…魂の中に意識を落としてるんだとか」
「あ、ああ。良かったわ…」
ふう、とソウカが胸を撫で下ろした。
…本当にティアーシャの事になると人が変わったかのように心配症になるのね。
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「…う」
再び、虚無の白色の空間。魂の中。
「お疲れ様でした」
少しぶらぶらと足を運ばせていると、ふと華のような紅茶の香りが鼻腔をくすぐった。
「…ああ、どうも」
俺と瓜二つの解析者はティーカップ片手に小さなテラスな場所を設けて座っていた。そしてそのテーブルを挟んで向かいに。
「…俺がいる」
俺がいた。決して死んだ魚の目をした非リアな主人公がだんだんリア充になっていく世界的大人気小説ではない。
しかし、解説者を挟んで座っている俺は小さく、転生したての俺の容姿とそっくりだった。
「紹介しましょう。この子がテンシア、です」
「…何となく予想はしてたが…」
普通に茶交わしてんじゃねぇか…。
「あなたが、ティアーシャ?」
「…そう、俺がティアーシャ」
椅子に座っていて浮かしていた足を地につけ、てけてけとこちらに歩み寄ってくるテンシア。
「…?」
やばい、ロリが自ずから近寄ってきた。
「…」
「…!?」
彼女は俺の体の前で動きを止めると、ぺたぺたと俺の太ももを触り始めた。しかしロリという種族の力は凄まじく、体が動かない。もしや…究極生命体なのでは??
「…何言ってるんですか…あなたは」
あ、魂の中だからお互いの思考は筒抜けなのか。…はずかち。
「ティアーシャ?」
「…う、うん?なななななんだ??」
テンシアは小さな手を伸ばして俺の手を取った。そして一言。
「ありがとう」
「っ…」
…なんだよ。
やめろよ!!!ロリに手ぇ掴まれるとかァァ!!!俺の心臓壊す気なのぉぉ!?
「…別に、俺は最後の仕上げをしただけだし。お前が頑張ったから生まれた功績だよ」
「ツンデレなんですか…あなたは」
「やかましいわい!!!」
せっかくの良い雰囲気が台無しになったじゃねぇか!!
「…ううん。元はと言えば入れ替わっちゃった私が悪いから」
「…そんなことはねぇよ」
ぽんと彼女の頭に手を置いてやる。
「入れ替わっちまったのはこっちの責任なんだから、お前は何も気にすんな。それに…」
腰を下げ、テンシアと目線の高さを合わせる。
「お前も、大切なもん守っただろ?」
「…大切な、もの。大切なもの…」
テンシアはその言葉を噛み締めるようにして何度も、呟いた。
「なら、胸張って生きていっていいんだよ。何かを壊す生き方よりも、何かを守り続ける生き方の方がずっと難しいんだから」
光の中に何か、物があれば影は簡単に生まれる。しかし、闇の中に光が生まれることはないのだ。
「…お前は、自分の意思を持って行動したんだよ。並の人間にだってできないことだよ」
「ええ、あなたは立派です」
「…」
テンシアはぽてっと、頭を俺の胸に預けた。その顔は鼻先が赤くなり目元もプルプルと震えていた。
「う、うぅっ」
俺が彼女の背中に手を回すと、彼女の背中は小刻みに震えている。
思えば、彼女は何も知らない、なんの知識もない状態で表の世界に飛び出てしまったのだ。それはなんの準備もせずいきなり樹海の真ん中に放り落とされるのと同等だろう。それだけの恐怖、孤独の中で大切なものを作りそれを守った。
「もう、大丈夫だよ」
小さな背中をさすってやる。下手に諭すよりも、こうやってゆっくり触れ合ってやる方が本人も気が楽だろう。
「ひっぐ、う…ぅ、うぇぇぇっ…」
今までずっと押さえつけていた感情が爆発したのだろう。触れているだけでその思い、感情が俺の中にまで侵食してくる。
そんな俺達を見て解析者はうっすらとした目で見て、微笑んでいた。
(そっとしておいてあげましょう)
そしてそう、口の動きで告げた。
俺は苦笑しつつ、頷いてテンシアの温もりを感じていた。
「…寝てしまいましたか」
「相当疲れてただろうし、今はゆっくり休ませてやろう」
「ええ」
俺に寄りかかり、小さく寝息を立てながら目を閉じている彼女を起こさぬように抱え、いつの間にやら作り出されていたベッドに運ぶ。
「…この子の面倒は私が見ましょう。あなたはそろそろ表に」
「んん、そうだな」
テンシアの顔にかかった白銀の髪を手でよけ、後はよろしく、と解析者に頼んで俺はその場で目を閉じた。
「…っ」
頭に魂を叩きつけられたような衝撃と共に俺は目を開けた。
宿のベッドに寝ていた俺はそこからはね起き、周りの状況を確かめる。
「…夜、か」
出窓のカーテンの隙間からうっすらと月光が差し込んでいる。その月明かりに照らされるようにしてソウカの静かな寝顔が写った。よく見れば、それぞれが各々のベッドで横たわり寝巻きを纏って眠りに着いていた。
「…ふっ」
皆、疲れていたのだろう。
俺はカーテンを手でよけて、出窓の外を頬杖をつきながら特に理由も無く眺める。
ぽっくりと、円の中に穴の空いた形をする月が満ちそうだった。
窓の外を飛ぶ蝙蝠達が、一瞬こちらに目を向け、また飛び去っていく。
「みんな、ありがと」
くぁ、と昇ってくる欠伸を堪え改めて、寝息を立てている三人に目を向ける。
「…俺も、寝よっかな」
体が疲れてしまっているのだろう。夜行性の吸血鬼からすれば、人間でいう昼寝にあたるのだろうか。
ゆっくりと自分のベッドに足を運ぶ。
…けれど俺は、その途中で足を止め、ソウカの隣に横になった。
月明かりに照らされる彼女の髪をそっと撫でながら、俺はそっと目を綴じた。
「…おやすみ」
どっと疲れが出てきた。意識が深い深い闇の中に吸い込まれるようにして、消えていった。
この夜は、夢も何も、見なかった。
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「…おはよう」
「おはよ」
数回肩を揺すられ、引き戻されるようにして意識が覚醒する。
接着剤で貼り付けたかのように重い瞼を持ち上げる、とそこには超至近距離のソウカの顔が。
「…なんで私のベッドで寝てるのよ」
「なんでだっけ…」
はっきりとしたことは覚えていない。まあ、俺の事だから多分なんとなくであって、そこに理由なんてないんだろうけど。
「うぅーっ…。…体調は?」
「万全よ」
俺は体を起こし、手を組んで思いっきり伸びをする。
腰を捻るストレッチをしつつ、残り二人に目をやる。
「あと十分程したら起こしてやろうか」
「ん。その間に私達は準備、ね?」
ソウカが微笑を浮かべながら覗き込んできた。
「察しが良くて助かるよ」
俺はちょいと肩を竦めてみせて、ベッドから降りて着替えを済ました。
「いまさら聞くのもなんだけど…ちゃんと神石の位置は追えているのよね?」
「もちろん。俺の【解析者】さんは優秀だから」
『私は優秀ですから』
短剣の鞘をベルトで腰に巻きながら返す。途中、ルンルンな解析者の声が聞こえたような気がしたが…気のせいだろう。
「相変わらずぶっ飛んでるのよね…」
ソウカが呆れたようにため息をついた。-私もそんな能力欲しいわよ-なーんて零していたし。
「位置は把握出来てるから、詳しいことは行ってみてからだな。罠とかギミックの解析もして貰おう」
「ダンジョンマスター泣かせじゃない…」
ダンジョンマスターとは簡単に言ってしまえばダンジョンを制作した人物の事を指す。入ってきた人を最深部に辿り着けさせない為に作った仕掛けを一発で、しかもダンジョン外からバラされてしまったら…。それはもう台パン不可避であろう。
「まあ解析者無しでもいいんだけどな??テンシアが表に出てきてから体の調子が色々と変わっててさ」
『私の解析無しで行くなんて無謀過ぎます。まだ誰も足を踏み入れたことの無いダンジョンなのですよ?』
「冗談だよ」
おどけた様子で返してみる。それに解析者は深々と呆れたようにため息をついた。
『ようやくテンシアがベッドで寝付いたんですから…少し休ませてくださいよ』
…ママじゃん。
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その後、起床したアイビーとスカーナの二人とソウカとで朝食を済ませ各々の最終準備を済ませ、目的地となる森に再び赴いた。
「…で?場所は?」
ナーサから貰った一振りの剣を鞘から抜き、刃の表面をしげしげと見つめるソウカが言った。
「この辺り、なんだがな」
『ちょうどこの位置ですね』
解析者が作った脳内マップには、今いるここに印が付けられている。…しかし、到底ダンジョンらしい入口は見られない。
「ま、そんなに簡単に見つかったら未発見なわけないからな」
とりあえず辺りの様子を見回してみる。
よく乾いた太い幹を持つ木々、それから落ちたであろう少し色づいた葉がうっすらと湿った大地の上に覆いかぶさっている。木々の間に位置する大きな岩が三つ、それぞれ等間隔でひっそりとそこに立っている。近くには密かにせせらぐ渓流が。
一見してしまえば、他と何の代わりもない場所なのだが。
「【魔眼】」
左眼に魔力を流し込み、周囲の魔力の流れを感知する【魔眼】を発動させる。
するとほら見た事か、魔力の経路が丸見えである。
三つの岩の中心に一点。魔力の筋が集中している所がある。
「…ここだな?」
そこの落ち葉を足で払い、軽く足で地面を抉ってみせる。数回土を蹴ったところで、コツンと何か固いものが足に当たる感触があった。
まるで化石を発掘するかのような、少し高揚する気持ちを抑えつつ素手て丁寧にその何かに被さった土を避けていく。
「…これは?」
ソウカ達も俺の手元を覗き込んでくる。
掘り出された『それ』はまるで機械のようで、石のような本体にうっすらと青白く輝き赤、青の配線の様なものが繋がっていた。
『…これが最初のしかけ、のようですね』
「ふむ…」
これの見た目が石では無く、鉄のようだったら。それは俺が元いた世界の機械に似通った姿になるだろう。
「なに、それ?」
「わからん…。解析者」
『了解しました』
魔眼で見ている方の目の視界に様々なデータが写り始める。どれもこれも、理解できるようなものでは無いのだが。
『解析--完了しました。…どうやらこれは生命エネルギーを吸い、物を機能させるしかけのようです』
「…生命エネルギー?」
『はい。人や霊体なら霊力、魔族や魔物なら魔力、妖や化かすのを得意とする生き物なら妖力、神や現人神なら神力。と、それぞれの種族によって変化する力です。つまりあなた方の場合なら魔力をそのしかけに注げば、それを糧にそのしかけは機能する、という訳です』
魔力を糧に動く装置、ねえ。なんともサイコティックでサディスティックなこった。
しかし、俺が解析者から聞いたことを三人に伝えると案外皆衝撃は無さそうな様子だった。
「そういう装置はそこまで珍しくないわよ。重大な秘密を隠す金庫だったり、それに似通った鍵をかけることの出来る扉だってあるもの。ただ、そもそも魔力に関しては人間は限りなく保有量が少ないから使用用途には限界があるのだけれど」
「ほおん」
また俺のこの世界音痴が出ていた、という訳か。
「ただしこのごっつい代物が、しかけを動かすほどの動力を生み出すのにどれだけの魔力を媒体にする必要があるのか、という所ね?」
「…まあ、微量じゃすまねぇだろうな…。解析者、分かるか?」
『…おおよその量ですと、あなたの炎最上級魔法【業火】に必要とする魔力量と同等の量を必要とするでしょう』
「…。ふぇ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「どうしたの?」
「いや…必要な魔力量が馬鹿げてた」
一発で俺の魔力のほとんどを吸い尽くす魔法【業火】並の量の魔力量が必要とか…そりゃ人間に発見されない訳だ。
「一応魔力回復薬は持ってきてるんだけど…出来れば残しておきたいんだよな」
装備品を整える過程で、小さな小瓶に入った数本の魔力回復薬を買っていた。…従来なら魔力回復薬なんて使う奴はいないから相当高く付いたけどな。
ダンジョン内に潜ってもしばらくは魔法無しで戦って時間経過で回復をするしか無さそうだ。
「…よし、行くぞ」
俺は掘り出した装置に片手で触れる。そして、指先を伝わせて魔力を注ぎ込む。
「…色がっ」
青白く光っていたそのしかけは魔力を受け取ると徐々に徐々に、薄ピンク色にへと変化を始めた。
どつやら注がれた魔力量によって色が変化するようである。
「く、う…」
額に滲む油汗をもう片方の腕で拭う。
やがて薄ピンク色の光は更に赤身を負い、真っ赤な光へと変化した。
「っ!見て!」
アイビーが指を刺した方向に視線を運ぶ。するとそこには、一本の太い木の幹に円状になって広がりつつある赤色の『もや』のようなものができていた。
「後ちょっとみたいだなっ」
やがて、魔力を注ぎ込んでいるとカチリ、と何かがはまったような感覚があった。それと同時に円状の赤いモヤは大きく畝り、スポットライトの様に白く眩しい光を放ち始めた。
「…ふぅ」
それを確認して、俺は装置から手を離した。
それと同時に酷い倦怠感に襲われる。日頃の経験で魔力量は以前より増え、特大の魔法を放ったくらいではぶっ倒れる事は無くなったのだが、それでも急激な魔力の消費は疲労感が凄い。こんな状態でしばらくはやり過ごさなきゃあならないんだからキツイものである。
「大丈夫?」
「んん、結構キツいかも。めちゃくちゃダルい」
下手に見栄を張れば、あとあと彼女らに迷惑をかけることになるかもしれない。きちんと素直に自分の状態を伝えることにする。
「じゃあダンジョン内でもサポートに回ってもらって、回復したら前線に戻ったら?」
「そうする」
ソウカの提案に俺を含め、一同賛同の意を示した。短剣でサポートする、というのも中々難しい話だが、それでも前線でぶっ倒れるよりかはマシになりそうだな。
「それじゃあ、行く?」
「準備できるてるわ」「私もです」「俺も、大丈夫」
ソウカがゆっくりと木の幹に張り付いたゲートに向けて足を運ぶ。
「入ったらまず解析者に中の状況を確認してもらう。探索、進行はそっからだ」
「了解」
歩きながら、最終確認をする。それに対して目線だけ動かして返答するソウカ。
「何があるのかもわからない、死ぬかもしれない。大丈夫か?」
「もちろん、何を今更」
アイビーは肩を竦め、嘲笑する。
「帰って来れる確証はないが、大丈夫か?」
「そんな確証をいちいち求めてたら、冒険者なんてやってられませんよ」
やってやります、と一言添えスカーナは意気込む。
「各々装備は?」
俺は腰に刺した短剣を握り締める。
「大丈夫よ」
ソウカは剣をぽんぽんと叩き、数匹の蛇を体に這わせた。
「準備万端、何も問題はないわ」
アイビーは弓の弦のしなりを確かめ、矢筒に手をやって矢の羽に手を触れる。
「ばっちしです」
スカーナは錫杖を振り、装飾の鈴を数回鳴らして見せた。
「それじゃあ」
「行くわよ」「行こうか」「行きましょう」「行きますよ」
俺達はソウカを先頭に、ゲートに足を踏み入れる。
ソウカの姿が消え、それに続いてアイビーの姿も消えた。
-っ……-
「…?」
「…。どうかしましたか?」
どうやら俺も結構緊張しているらしい。気が緩んでいるよりは良いが、緊張のあまりに行動にメリハリがでなくなることもある。メンタルバランスもしっかりとな。
「…いや、別に」
「そう、ですか」
俺は苦笑を浮かべつつ、スカーナと共にゲートの中に体をうごかした。
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「警察に…?」
『ああ…詳しい説明はこちらでするよ。急で悪いけど雪ちゃんも含めて準備して来て貰える?迎えはいつものスーパーの駐車場に寄越してる。行けばどれかわかると思うから』
「…わか、りました。支度して向かいますね」
携帯の通話終了ボタンをタッチし、一息着く。私達は警察に一時的に保護される、らしい。新さんの言う限りでは一週間以内には家に帰れるらしいけど、詳しい詳細は何もわからない。
けれど着信元は新さん本人だし、とりあえずは彼女の指示と判断を仰ぐことにしよう。
「雪ぃ?」
「…はーい?」
「少し出かけないと行けくなっちゃったから、準備出来る?とりあえず着替えだけ済ましちゃえば大丈夫」
「うんーー」
西日に当たってウトウトしていた雪は起き上がり、テキパキと自分の着替えを始める。
私もちゃっちゃと着替えを済ませ、二人の最低限の着替えと生活必需品をバックに詰め込んで玄関へ向かった。
「準備は大丈夫?」
「ばっちり!」
「じゃ、行こっか」
雪に靴を履かせ、それに続いて私も靴を履く。扉を開けて外に出て鍵を閉める。
「あ、雪。連れてくの?」
「うん、だって一人にしてたらかわいそうだもん」
雪の体を這う白蛇こと『』。確かに数日家を開ける訳だから連れていった方が良いが…。警察に着いても事情は説明しよう。
「よし、じゃあスーパーまで…」
そう言ってアパートの階段を降りようとした時、携帯が音楽を鳴らして着信を伝えた。…見知らぬ番号だ。
「…。はいもしもし」
セールスのフリーダイヤルの番号だったら取らないつもりだったが、普通の携帯電話からの着信だったので渋りながらも応答ボタンをタッチする。
『あ、もしもし。荒幡さん?』
「…はい、そうですが。何か御用ですか?」
『さっきまでスーパーで待ち合わせって事になってたけど、中々込み合ってきちゃったから場所を変えたくてさ。そっちの家まで行くよ』
「あ、分かりました。ありがとうございます」
…やけに警察関係の人にしては口調が軽いような気もするが、どこぞの休日の真昼間から飲んだくれている警察官もいるわけだし、別に問題は無いか。
『もうあと五分かからないと思うから、待っててもらえる?』
「了解です」
『それじゃ』
プツン、と足早に向こうが通話を切った。
…なんかどっかで聞いたことある気がするんだよなあ。あの声。
「気のせいか…」
「おねーちゃん?行かないの?」
私が携帯をポケットにしまっていると、雪が私の服の袖を引いた。
「ん、ああ。お迎えに来てくれるみたいだから待ってようか」
「うんー!」
そうして白蛇と戯れ始める雪。全くもって眼福である。新さんもこれを職場近くで見られるのだから幸せに違いないだろう。
なんて物思いに耽っていたら車の音を耳が聞きつけた。五分とは早いものである。
「雪、お迎え来たよ」
「あ、うん!」
雪の手を引き、アパートの階段を駆け降りる。
階段の下で止まっている黒塗りの車の前のドアが空き、深々と帽子を被った男の人が出てくる。
「焦らないでいいですよー」
「わざわざすみません!」
全身真っ黒の服、そして真っ黒の帽子。警察関係者にしては何やら秘密捜査でもしているかのような服装だけど。
「すみません、ありがとうござ……ッ!?」
ほんの出来心だった。
帽子を深々と被る彼の顔を確認しようと、ほんの少しだけ体を前に傾け目線だけをその帽子の下へ向けた時だった。
「ッ!?」
見ても見なくても後悔していたかもしれない。
でも、私は出来れば見たくは無かった。
「急がなくていいからな、楓ぇ」
その帽子に隠れた歪んだ、笑顔を見て私の体は凍りついたように動かなくなった。
「んっぐぅ!?」
逃げようとした矢先、白いハンカチのようなもので鼻と口を覆う。
強烈な薬品の匂いが鼻を刺激する。
「…ぁ」
その瞬間、まるで空気が抜けるかのようにして全身の力が抜ける。
膝の力が抜け、黒帽子の男に寄りかかってしまう。
「もう、俺が来たから大丈夫だ、よ」
ヒヒッ、と狡猾な罠で獲物を仕留めた時に出るような甲高い、聞くに耐えられない笑い声が聞こえる。
「おかえり、僕の楓」
「…」
視点が合わなくなり、意識がどんどん朦朧としてくる。
辛うじて、ぼやける視界に雪に、逃げろって伝えないといけないのに…
いけ、な…いと
…な…
と…
…。